第4話

文字数 11,893文字

  *

 神楽岡の頂上、今は人気ない稲荷神社。
 静かに降り始めた雨は、次第に勢いを増し、とうとう滝のように、降り注ぐようになった。夏とは思えないほど冷たい風が吹き付け、空に高く低く雷鳴が轟いた。
 もし、俊が、違う世界へ行ったのではなく、そのように見せかけて、巧妙に姿を消したのだとしたら?
 そういう可能性は、全く考えないわけではなかった。だからこそ、老夫婦と一緒に探し回ったり、派出所を尋ねたりしたのだ。
 こうして、大嵐の下にいると、その1パーセントか2パーセントの可能性が、無視しえないものとして、急速に膨張しだした。
 もし、この雨の下、夜遅くに、9歳の息子が、泣きながら、あてどなく彷徨っているとしたら。
 耐えられないことだ。
 朝彦は、豪雨の中、走り出した。一刻も早く見つけてやらなければ。
 とにかく、この山というか岡の中、どんな細い道も含めて、走り回った。上り下りのきつさから、呼吸も心臓の鼓動も激しくなったが、どうしようもない焦燥に突き動かされる朝彦には、ほとんど、意識されなかった。
 だが、どれだけ探しても息子の姿が見つかるはずもなかった。
 とうとう、走るのを止めて歩き始めた朝彦の脳裏に、2年かそれ以上前の、俊との関係に影を落としたに違いない出来事が甦って来た。
 家族4人での石垣島への旅行でのこと。朝食のバイキングで、料理を自分の皿に満載して席に向かっていた息子が、何かに気を取られていたのか、その皿を、タイル張りの床に取り落とし、広いレストラン全体に響き渡る派手な音を立てて、皿が砕け散った。
 すぐ後ろを歩いていた朝彦は、かっとなって、これまた大きな声で「何やってんね、あほ。」と思い切り頭を張り飛ばした。泣き出す俊。それを叱りつけて、床に散乱した食べ物を拾い集めるように命じる朝彦。怯えて床にしゃがんだ俊の涙が、タイルの床に滴り落ちた。
 すぐにホテルの従業員が駆け寄って来て、「片付けますから。」と言うので、懲罰は短時間に終わったわけだが、俊は席についても、まだ泣いていた。
 その日の夕刻から、沖縄地方は、台風が上陸し、外へ出ることの出来なくなった森川一家は、昨日よりずっと早い時間に就寝することになった。
 窓の外からは、悲鳴のような風の音がかすかに聞こえ、時々、特大の雨粒がガラスに打ち付けた。外を覗くと、庭園の芝生の周囲に植えられた大きなヤシの木立が、強風を受けて、横倒しになりそうなくらい横に傾いで揺れていた。
 妻や子は、それでも、すぐに寝息を立て始めたのだが、朝彦は、なかなか寝付けなかった。朝食会場での出来事が、ずっと、頭の中で再生され続けていた。父親に強く叩かれ、叱責されて泣いていた息子の姿を思い出すと不憫で仕方がなく、心が痛んだ。朝彦は涙が頬を伝って、枕に滑り落ちていくのを感じた。
 そうやって、嵐の音に耳を澄ましながら、何時間も眠れぬ時を過ごしたのだった。
 そんなにも後悔したのに、翌朝、子どもと顔を合わせても、何一つ詫びたりはしなかった。そういうことが自然に出て来たりはしないような、いびつな関係が出来上がってしまっていたのだろう。
 いや、そう言えば、こんなことがあった。明くる日、台風一過後の良く晴れた天気の中、森川一家は、川平湾という、海の美しさで知られる観光地に行ったのだが、そこの砂浜で、朝彦は、素晴らしく立派な貝殻を見つけた。クモガイと言う20センチくらいの大きさの白っぽい色の貝だった。
 大きな突起がいくつも付いているのだが、これが7本あるものは、幸福をもたらすお守りとして珍重されるのだと、つい2日ほど前に地元のガイドに聞いていた。
 朝彦が拾い上げたそれは、まさに7本角のそれで、形も細長くてとても優美だった。
 早速、朝彦は、それを俊に手渡し、「上げるよ。」と言った。
 俊は、「わあ、幸運の7本角の貝や。」と言って嬉しそうにしたので、朝彦は少し罪滅ぼしが出来たような気がして、気が軽くなったのだった。
 雨に打たれながら、朝彦はため息をついた。ほかにも、俊を過剰に厳しく叱ったり体罰を加えた事例がいくつも思い出されたが、一度もそれを謝罪したり、何かフォローしようとした例(ためし)がないのだった。

 *

 起こされたのは、夏だというのに、まだ薄暗い午前4時だった。
 朝彦が、しきりに、俊の体を揺さぶって、「俊、起きろよ。「おはよう会」に行く時間やぞ。」と言っていた。
 こんな暗いうちから起きろなんて鬼じゃないか?俊は腹が立って、背中を丸め、寝ているふりをした。
「俊、俊。」
 最初は押しつけがましかったその声に、だんだんと不安と遠慮が混じりだした。
 半覚醒の状態で俊は考えた。アサ君は、きっと俊に裏切られるのではないか、と心配しているのだ。自分が見込んだほどのいい友達ではないのじゃないか、いつもと同じように母親と2人きりで、嫌でしょうがない朝の礼拝に行かなければならないのじゃないか、と。
 アサ君は、俊に一緒に来てほしいのだ。
 俊は、眠り続けたいという誘惑をなんとか振り切って、起き出た。生まれてこの方、これほど意志の力を必要としたことはなかった気がした。
「おう。起きたか。早よ着替え。」朝彦は、安堵を隠さなかった。
 台所の方は電気がついていたので、枕元に置いてあった朝彦のお古のポロシャツと半ズボンを身に着けて、そちらに行くと、昨日よりも厳しい表情をした祖母が、「お茶を飲み。朝ごはんは帰ってから食べさせてあげるからな。」と、麦茶の入ったコップを渡した。
 もしかして、これだけ?問いかけるように、俊が朝彦を見ると、朝彦は済まなそうに頷いた。
 げっそりした思いでお茶を飲み干し、祖母に促されて、家の外へ出た。「おはよう会」の会場までは、車で行くのだという。
 官舎の横の草地に停められた古びた軽自動車に乗り込んで向かった先は、京都駅近くのホテルだった。車は、近くの駐車場に停めた。
 会場の大きな部屋には、それほど人は集まっていなかったが、例外なく「タカシ君?」「生きていたの?」と声をかけてくるのに閉口した。祖母が、いろいろと説明するが、上手とは言い難かったので、周囲は、よく呑み込めず、俊にも何かと質問してくる。俊は困惑して、朝彦を見やった。
 朝彦が、この子は遠い親戚で血がつながっているからよく似ているのだと、得意の作り話をして、なんとか信徒たちの質問攻勢を抑えてくれた。
 その時、入口から、満面に笑みを浮かべたスーツ姿の中年の男が入ってきた。
「支部長様よ。支部長様に挨拶しないと。」祖母が、大慌てで2人の子供の手を引っ張って、その男の前に引き出した。
「支部長様、我が家に新しい子どもが、」
 言いかけた言葉が終わらないうちに、「支部長」は、「おお。タカシ君やないか。どうして・・・」と驚愕を露わにした。
「この子は、タカシじゃなくて、俊という子なんです。」祖母は、彼が家に来たいきさつを説明した。先よりも、だいぶうまくなっている。
「へええ。しかし、そっくりやなあ。」支部長は、俊をじっくり観察し、俊を落ち着かなくさせた。「森川さん、きっとこれは、我々には分からない精妙なる天の配剤、天の意思やわ。この子をタカシ君やと思って大事にしてあげなさい。」
 祖母は、「ありがとうございます。そういたします。」とやたらと恭しく礼を言った。
 支部長に、「サトシ君、これから、頑張って「おはよう会」に来(き)いや。」と頭をなでられて、俊が、「はい。」と本心とは裏腹の回答をすると、支部長は、満面の笑みを花開かせたあと、満足至極と言った様子で頷いて、ほかの会員の方へと歩み去った。
 待つこと暫し、「おはよう会」が始まった。椅子に掛けているので正座しなくてよいのはありがたかったが、俊にとっては、ただ時間が過ぎ去るのを待つだけの時間だった。演壇の上では、さっきの支部長やその他の満面に笑みを湛えた人たちが、社会をよくすることだとか、より良い生き方とかの話をしていたが、そんなことよりも、ぐっすりと眠れて、朝ごはんをしっかり食べられることのほうが、彼には重要だった。
 眠さに耐えかねて、舟をこぎ始めると、朝彦が横から激しく突っついて、起こすのだった。ここでは、子どもといえども、背筋を伸ばして、礼拝に参加しなければならないのだ。
 
 何時間にも思えた儀式が終わって、家に帰って来ると、俊はどっと疲れを感じた。
 朝ごはんは、瓶に入った牛乳を2人で分けて飲み、トーストしたパンにジャムを塗って食べた。
 このパンがまた普通ではなく、栄養素たっぷりというライ麦パンなのだったが、キチキチに身が詰まっていて噛みにくいし、饐えたような酸っぱいにおいがして、少しも美味しくなかった。
 俊は、食べ慣れた平凡な白い食パンが、恋しくて仕方なかった。
 食卓の上の置き時計は、まだ7時より前の時間を指している。
「学校がある時は、これから登校しなあかんねん。」朝彦が母親に聞こえないように小声で言った。今は、8月の朔(つい)日(たち)で、夏休みの期間中なので、学校に行く必要はない。
「たいへんやなあ。」俊は、心底、同情した。
「だけど、今日は遊べるな。」朝彦はにんまりと笑った。
 やがて、祖父も起きてきて、同じような朝食を摂り、制服に着替えて、仕事に出て行った。
 その間、ずっとピリピリした緊張感が漂っていて、誰も口を利かなかった。
「お父さんは、怖い人なん?」祖父を見送った後、俊は朝彦に尋ねた。
「怖い時もあるけど、そんなには、怒らへんかな。でも、小さい時は、よく怒られた。近所の人の車に石をぶつけて、傷つけたりしたら、偉い剣幕でな。怖かったわあ。」
 朝彦が、あたかも、理由もなく不当に怒られたかのような言い方をするのを聞いて、俊は噴き出した。「そら、そんなことしたら怒られるやろ。」
 これが、本当に、あの怒りん坊の父と同一人物なのだろうか、と不思議に思う。
 朝彦は、「他人の車に傷つけたことない?」と聞く。
「ないよ。そんなこと、するはずがない。」
「そうかあ。俺は、何度もあるけどなあ。」朝彦は感心した様子。「それと、小さい頃は、よくこたつの布団の上にみそ汁をこぼしてしまって、すごい怒られたわ。なんか、足払いで思い切りこかされたりして。」
「足払いはひどいけど、でも、布団にみそ汁こぼしたらあかんやろ。」
 俊はあきれて言った。
 そのうちに、外で賑やかな蝉の合唱が聞こえ始め、窓の外も明るくなって、夏らしくなってきた。
「宿題しいや。」という祖母の声を聞き流して、二人は、早速遊び始めた。
 朝彦は、小さな四角い缶に入った「貴重なコレクション」というものを持ち出して来た。そこには、色とりどりの、小さな、紙でできた円いものがどっさりと入っていた。
「これは、何?」
「牛乳キャップやんか。知らんの?」
「給食で瓶の牛乳が出て来るけど、キャップはプラスチックのものやで。」
「へえ。すごいな。それは、コレクションとかしてるん?」朝彦は興味津々な顔。
「誰もコレクションとかしてへんなあ。こんなにきれいと違うし。」
 俊は、缶の中の紙製牛乳キャップを手に取って、じっくりと見た。
 それは、いかにも親しみの持てる円さと、優美なそりをもっており、そこに美しい色で、あるいは白抜きで精巧に細かな文字が印刷されているのが、とても魅力的に見え、コレクションしたくなる気持ちがよく分かった。
「よし。俺のお気に入りのキャップを見せたるわ。」そう言って、朝彦は、キャップの山の中から、いくつかを選り出し始めた。
 一番のお気に入りと言うのは、少し暗めの赤色で印字された「雪印ファミリア牛乳」と言うもので、文字の大きさが太いバージョンと細いバージョンがあるらしく、細い方がより貴重らしかった。
「なんかええやろ。」
「そうやな。高級感があるな。ふつうの牛乳より高いんやろな。」
「そら、そうや。ただの「牛乳」とか「コーヒー」とかより、「濃厚牛乳」とか「ラクトコーヒー」の方が高いし、それだけキャップも手に入れにくいんや。ほかにもフルーツ牛乳とかな。」
 そう言って、朝彦は、その実例を見せてくれた。オレンジ色のものコーヒー色のもの、爽やかな青色のものなど多種多様で、見ていて飽きない。
「これは、大きいんやね。」俊は、黄色や緑という鮮やかな彩色の、通常の2倍くらいのサイズのキャップを取り上げた。
「あ、それはヨーグルトやからな。「毎日ヨーグルト」。それもお気に入りや。」と朝彦。
 それにしても、この時代の人たちは、よくよく牛乳好きだったんだなあ、と俊は感心した。朝彦が教えてくれたところによると、各家庭はたいがい牛乳を取っていて、軽トラックで牛乳屋が、毎朝、各戸の牛乳専用ポストに、瓶入りの牛乳を配達してくれるのだという。
「そう言えば、朝早くに、ガチャガチャいう音がいろんなところから聞こえたけど、あれは牛乳を配ってたんか。」と俊は言った。
「そうそう。それで、友達とかも、いろいろと違う牛乳を家で取ってたりするから、うまくしたら、珍しいものも譲ってもらえることもあるんや。まあ、たいていは勝負をして勝たないと、いいものは手に入れられへんねけどな。」
「勝負?」
「うん。今から、それをやってみよう。」そう言って、朝彦は、牛乳キャップ争奪メンコの方法を説明しだした。
 彼が言うには、メンコには「ぷー」と「ぽん」の2方法があり、「ぷー」は唇から発射する息の風圧で、「ぽん」は掌をポンと打ち合わせる時の風圧で相手の牛乳キャップをひっくり返したら勝ちという競技なのだという。そして、勝負に勝てば、相手のキャップをもらえるのだ。
「普通は「ぽん」でやるから、今日もそれでいいか?」
「やったことないから、どっちでもいいよ。」
 好きなキャップを選ぶように言われて、俊は、一番美しいと思った、藍色の「雪印牛乳」を選んだ。
「あ、それ、俺も好き。全然、珍しくないけど、色合いと、なんかカチッとした感じがいいよな。」
「うん。雪の結晶のマークも大きく入ってるし。」
「じゃあ、俺は、いつものこれで行こう。」と朝彦は、「中野牛乳」というオレンジ色のキャップを取り出した。
「これもレアなん?」
「れあ?」
「珍しいってこと。」
「変わった言葉使うなあ。まあ、これはこの辺では手に入らへんけど、奈良の親戚が毎日取ってるから、俺にとっては、いつでも手に入るものなんや。だから、俺はこれでいつも勝負して相手に珍しいキャップを出させるわけ。」
「いいキャップを使わないと、相手もしょうもないのしか勝負に使わないってこと?」
「そうそう。じゃ、俊から「ぽん」して。」朝彦は、自分のキャップと俊のキャップを卓袱台の上に置いた。
 俊が、二つのキャップの真ん中あたりで手を打ち合わせようとすると、朝彦が、相手のキャップの近くでやるのだと注意した。
 それで、俊は、朝彦のキャップの近くに両の掌を近付け、両側に大きく広げてから、ばちーんと衝突させた。
「痛あー。」俊は、両手をぶらぶらさせたが、キャップの方は、微動だにしていなかった。
 朝彦は笑い、「それでは、めくれへんわ。」と断ずると、くっつけた掌を卵のように丸め、俊のキャップの真近で、軽く「ぽん」と打ち合わせた。
 すると、雪印は見事にひっくり返って、白々とした裏面を、天に向けた。
「うわ、敗けた。上手やなあ。」
「これには、コツがあるんや。」朝彦は、牛乳キャップメンコの必勝法を伝授してくれた。
 まず、自分のキャップは、風圧が入り込む余地がないように、しっかりと縁を伸ばすこと。朝彦の勝負キャップ「中野牛乳」は、完全に真っ平に均されていた。
 そして、相手のキャップをめくる時は、できるだけ空気をたくさん取り込めるように、掌でまあるく容器を作り、掌を打ち合わせた一瞬に、キャップの方向へ空気を放出すること。
 教えられた方法で、色々なキャップを使いながら、俊は朝彦と勝負をした。たいがいは負けだったが、たまに勝つこともあった。
 お気に入りのひとつ「森永ホモ牛乳」を失った時には、朝彦は本気で「あー、これは、伸ばし方が甘かった。」と悔しがった。
 1時間ほど経って、牛乳キャップで遊ぶのを終えた時、俊が勝って手に入れたキャップを缶の中に戻そうとすると、「いいよ、それ、お前のやから。」と言われたが、「一緒に入れといて。」と答えると、朝彦は、ほっとしたような笑顔を見せた。
 次に何をして遊ぼうか、二人は、おもちゃ籠を覗き込んだ。
その中には、たくさんの作りかけで放置されたような模型や、厚紙などで手作りしたおもちゃが入っていた。
 中でも、最初に俊の目を引き付けたのが、今まで見たことのないカッコいいロボットのプラモデルだった。
 それも半分ほども出来ていなかったが、ガラス張りで中に人が乗っている頭部(コクピット)や直線的なボディと曲線が目立つ、たくましい脚部の対比や、藍色と灰色の落ち着いたカラーリングが、すごくクールだった。
「これ、何?」
「それは、ダグラム。知らへんの?」
「うん。知らん。いいなあ、この時代には、こんなカッコいいロボがあったんや。来てよかったあ。」
 夢中になってプラモを賞玩している俊を見て、朝彦は、声を上げて笑った。「お前の時代には、ロボットのアニメとかないの?」
「あるよ。ガンダムとか。テレビで見たことはあんまりないけど、家にガンダムのメカの図鑑があって、小さい頃、お父さんとよく見たなあ。“どれが一番カッコいい?“って選んだりして・・・」
 俊は急に黙ってしまった。
「どうしたん。」
「別に。何でもない。」俊は、硬い表情に変わって、父のことを頭から振り払おうとした。「このプラモ作ろうよ。」
「そやな。めんどくさくなって、途中までになっていたけど、作ってみようか。」
 朝彦も賛成し、接着剤やカッターを持ってきて、机の上に、プラモ工房を開設した。
 俊はプラモデルと言うものがあることはもちろん知っていたが、自分で作るのは初めてなので、朝彦に教えてもらいながら、たどたどしい手つきで、カッターで部品を切り離したり、切り離した部品に残っているプラスチックの突起をきれいに削り落としたり、ツーンとした臭いのする接着剤で、部品どうしを貼り合わせたりして、手伝いをした。
 1人でやっていたら、細々とした作業の連続に音を上げていたに違いないが、2人でやると、不思議と飽きることがなく、切り離し箇所をカッターに力を込めて切り落とした時の感触や、透明な接着剤のシンナー臭さえも、すべてが新鮮で、楽しく感じるのだった。
 これまで、友達と遊ぶ時と言えば、たいてい携帯ゲーム機で、確かにそれも夢中になるけれど、今、1つ年上の、こちらもそれほど手つきが器用とは言いかねる〈友達〉と協力して進める作業には、ゲーム機では得られない喜びがあった。
「楽しいねえ。」と俊がニコニコして言った。
「そうやな。」朝彦も言った。
 そうやって小1時間くらい没頭して取り組んで、ダグラムは立派に完成した。
 朝彦が、「俊のおかげやなあ。俊がいなかったら、ずっと作りかけのまま放ったらかしになってたはずやもん。」と言ってくれたのが、俊には嬉しかった。
 二人は、出来上がったプラモデルに取らせるポーズを試行錯誤して、最終的に、前腕部に取り付けられた速射砲を目標に向けて狙い定めた力強いポーズに固定して、棚の上に据え付けると、「カッコいいなあ。」と飽かずに眺めた。

「次に何作る?」
 俊が言うと、朝彦は、ちょっと驚いた顔をしたが、「おう。そうやな。今日は、どんどん作れそうな気がするぞ。」と同意して、二人は、おもちゃ類が乱雑につめこまれた籠を覗き込んだ。
「作りかけのものが多いねえ。」俊が言う。朝彦が自分で作ろうとしていたらしい、迷路やらモノレールみたいものやら、戦車や戦闘機らしいもの等々。
「ああ、何か分からへんけど、途中で気力がなくなってしまうねん。」
「そうなん?」
 俊は、父も俊のために作ろうとしたものが、たいがい未完成だったことを思い出した。夏休みの宿題用に船を作ってくれたことがあったが、中途半端な出来で、帆を付けても全く前に進まなかった。   
 小さい時には、「パパ」は何でも出来る万能の天才だと思っていたが、小学生になった頃には、その輝きはあらかた失せ、最近では、鬱陶しさばかりが募っていた。
 でも、今、横に居る少年となら、何でも作れそうな気がする。
「これ、全部作ろうよ。二人でやったら、絶対できる。」
「そやな。よし、じゃあ、迷路から作ろうか。」
 朝彦も乗って来て、大きな紙製の箱の内側に、小さく切った厚紙で、細かにルートを作ろうとしたらしい(と言うのは、スタートからちょっと行ったあたりで終わっていたからだが)ものを取り出した。
「迷路って知ってるやろ。」
「うん。知ってる。わざと迷うように道がたくさん作ってあって、ほとんどは、行き止まりになってたりするんやろ。」
「うん。それを、この箱の中に作ってな、パチンコ玉を転がして、ゴールまで行かせるねん。だけど、途中に穴があって、そこから落ちたら、最初からやり直しやねん。それに、迷路の道の上を越えて行く橋とか、ぐるぐる回る螺旋の山とかも作ろうって思ってるねん。」
「すごいな。めっちゃ面白そう。」
 俊は、早く作ってみたくてたまらなくなった。こんなすごいことを思いつくアサ君は天才ではないだろうか?
「じゃあ、まず、落とし穴を開けようか?」
「そうやな。だけど、先に開けてしまうと、後で、道とずれてしまうかもしれんなあ。」
「設計図を作ったらいいんとちゃう?さっきのプラモも、設計図があるから、ちゃんと作れたし。」我ながら、これはナイスな提案だと思った。
「そうやな。いいこと思いつくな、俊。」
 二人は、ノートに、迷路の道筋や、穴や橋などを描いて、全体の設計図を作った。迷路の一部は、屋根を付けて、トンネルにすることにした。
 次に、箱の内側に、設計図に従って、道筋を書き込んでいく。
「これは、何の箱なん?」俊は尋ねた。
「でっかいアルバムが入っていた箱。」朝彦は答えた。
「そうか。だから、正方形の大きな箱になってるんやね。」
 そうやって、製作の準備をしているうちに、正午を越えたので、昼ごはんのために、いったん中断することになった。
「朝彦、宿題もやらなあかんで。」昼ごはんの冷麺を食べながら、祖母が言った。
「今やってる。俊と一緒に工作の宿題のために迷路作ってるねん。」
「それもいいけど、ドリルとかもやりや。」
「はいはい。」
「「はい」は1回でええ。食べ終わったら、やるんやで。」
「はーい・・・」朝彦は、元気なく答えた。
 祖母は、俊の方を見て、何か言いかけたが、すぐに思い直したのか、何も言わなかった。
 
 昼食後、ものすごく詰まらなそうに宿題をしている朝彦と離れて、俊は玄関に置かれた大きな虫かごの中のカブト虫の餌の入れ替えをしたり、朝彦の代わりに、朝顔とカブト虫の観察日誌を書いたりした。
 宿題が終わると、祖母が、「今日は暑いねえ。かき氷を作ろうか?」と提案し、朝彦は「やったー。」と歓声を上げた。
 俊にとっては、作るのも食べるのも初めての体験だ。
 冷凍庫から、プラスチック容器に水道水を入れて凍らせた氷の塊が取り出された。これをかき氷作成器に入れ、人力でハンドルをガリガリ回して、氷をみぞれ状にスライスしていく。
 俊も、「やらせて、やらせて。」とハンドル回しを志願して、氷を削る。その際の壮大なガリガリいう音や、しっかりした抵抗感は、装置の下部に置いたガラスの椀に薄い氷の切片を積み上げて行く作業の充実感を倍加させるのだった。
 力はいるが、ハンドルを回していくと、見る見る、椀の上に、かき氷の山が堆積していく。3人分の氷を盛り終えると、その上に、びっくりする程どぎついイチゴ色のシロップをかけて完成だ。
 スプーンで氷の破片をシロップに絡めながら、口に運ぶと、氷は、すっと融けて、爽やかな甘みを残して喉を滑り落ちて行き、真夏の暑さも一気にクールダウンされて、幸せな涼気に包まれるのだった。
 この家にはエアコンと言うものがないことに俊は気が付いた。冷房は、透明な緑色のプロペラの扇風機1台があるきりだ。昔の人は、冷たいものを飲んだり食べたりすることで体温を下げていたんだろうか、と俊は考え、それもいいな、と思うのだった。
 外から、「ぱーふー、ぱーふー」とのどかなラッパの音のようなものが聞こえる。
「あの音は何?」と聞くと、
「あれ?豆腐屋のラッパのこと?聞いたことないの?伏見にもいっぱい豆腐屋さんはあると思うけど。」と祖母が、黒々と濃い眉を寄せて問い返した。
 しまった。俊は焦り、とりあえず、「聞いたことはあるけど、何なんか知らんかってん。」と誤魔化した。
「そうやろ。伏見稲荷にもあるよな。リアカーを引きながら、「とーふー、とーふー」ってラッパ吹いてる豆腐屋さん。」と朝彦が急いで口を出した。
 それにしても豆腐屋がいっぱいあるとは、ちょっと想像するのが難しい世界だ。牛乳屋もたくさんあったようだし、この時代は、自分がいた時代とはずいぶん違っていたのだなあ、と俊は思った。俊の時代には、牛乳も豆腐も「スーパー」か「コンビニ」で買うのが当たり前で、他で買う方法なんて、多分ない。
 ラッパの音は少しずつ、小さくなって聞こえなくなった。幾分もの悲しく、遠いはるかなものへの憧れを惹き起こすような音色。

 かき氷で体がヒンヤリとしたので、迷路製作に戻る気力が再びチャージできた。
 二人は、うちわで体を扇ぎながら、ハサミで切った厚紙を箱の底に貼り付けるという地道な作業を続けていった。厚紙の端を折り曲げて、そこを糊付け面にするのだ。計画通り、高い山も厚紙を丸めて作り、その上に螺旋の道筋を作った。
 大部分が行き止まりになる、複雑な道筋を作り終えると、次は、一部に屋根をかけてトンネルにしたり、高い橋をいくつか架けたりした。そして、最後に、カッターで落とし穴を何か所もくりぬいた。
「よっしゃ、完成や。」
 二人は、喜びあい、早速、パチンコ玉を転がして遊んでみることにした。すると、何か所か壁どうしの幅が狭くて玉がつっかえてしまう個所や、間違ったところに開けてしまった落とし穴があることが発覚した。
「ミスったなあ。ここに穴があったら、絶対にゴールまで行けへんやん。」俊は苦笑した。
「直せば、ええ。工事しよう。」朝彦は、再度、ハサミを手に取った。
「工事って、面白い言い方やね。」俊は笑った。
 間違えた穴は、厚紙で蓋をし、代わりに別の個所に穴を開けた。
 道が狭すぎる部分は、既に壁の土台がしっかりと糊で固められて剥がせないので、いったん、その部分の壁をハサミで切り取り、そこに、少しだけ外に膨らみを持たせた新たな壁を取り付けた。
「よし、工事完了。」
「工事完了~。」
 後は、糊が乾くのを待つだけ。その間に、山を緑の水彩絵の具で色付けしたり、橋を鉄骨風に色付けしたりした。
「そろそろ糊乾いたかなー。」と新たに貼り付けた厚紙を突っついてみて、大丈夫そうだと分かると、そろそろとパチンコ玉を転がして行く。
「ゴール!」
 パチンコ玉が、「ゴール」とボールペンで書いた出口から転げ出すと、俊も朝彦も歓声を上げた。
 それから、2人でパチンコ玉を転がしてみて、わざと間違った道筋に入って、穴から転げ落として笑いあったりして、その出来栄えの良さに満足した。
「すごいな。俺たち。」
「うん。一緒に作ったら、何でも出来そうな気がするね。」
 そう言って肩を組みあって、充実感に浸っていたが、これをほかの人にも楽しんでもらいたくなった。自分たちは、正しいルートが分かっているので、それを知らない人にやってもらって初めて迷路としての効果を発揮できるからだ。
「お母ちゃん、迷路出来たで。やって見て。」朝彦は、誇らし気に、それを母のところへ持って行った。
 「おはよう会」の機関誌のための書き物をしていた母親は、最初、苛立たしい様子でこちらを見たが、立派に出来上がった作品を見て、
「すごいなあ。がんばったねえ。サトちゃんのお陰やねえ。」と褒めてくれた。
「俺が考えたんやからな。」朝彦は主張して、「1回これやって見て、難しい迷路なんやで。」と促した。
 母(祖母)が挑戦してみると、なかなかゴールまでたどり着けない。落とし穴から球が転げだすと、少年2人は声を上げて笑い、「ちゃんと迷路になってるな。」と喜んだ。
「ちょっと、外で遊んで来たら。1日ずっと家の中やったやろう。」
 母に言われて、2人は外へ出て、野球をすることにした。
 官舎の敷地内にある小さな小さな空き地で、ゴムのボールでキャッチボールしたり、プラスチックのバットでバッティングしたりした。俊はあまり野球をやったことがなかったので、教えてもらいながら、やり方を覚えていく感じだった。
 空き地の向こうの家の生け垣を越えるホームランを打てた時は、嬉しくて大はしゃぎした。もっとも、その後、その家に、ボールを取らせてもらいに行く必要があったけれども。
 見上げると、いくつもの大きな雲がもくもくと聳え、夕日に照り映えて、地上の少年たちをも桃色に染めていた。
 俊は、「こんなに楽しかった日って今までなかったんやないやろか。」と心に思い、「いつまでも帰りたくない。」と思うのだった。
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