第7話

文字数 11,830文字

  *

 心軽く、朝彦は、カバンの中から携帯電話を取り出し、妻あてのメールを打ち始めた。
「俊はいずれ戻って来るから、心配するな。」
 そこまで書いて、はたと手を止めた。
「いずれ戻って来る」の「いずれ」っていつだよ?五山の送り火の日にしか、例の鳥居、元の時代への出入り口は、開かないのだから、まる1年待たなければならないのじゃないか?
 朝彦は、後ろの石段に、仰向けに寝そべり、呆然と、夜空を見上げた。速い速度で動く灰色の雲の雲間から、いくつか星の光が垣間見えていた。
 絶望、その一。こんなこと、妻には言えない。
 絶望、その二。一年もの間、正気を保って待ってはおられまい。遠い夏の日に、鳥居の向こうに消えた俊が、本当に、自分の下に帰って来るという保証もなく、「違う時間や場所に戻ってしまうのではないか?」とか、「来年ではなく、再来年やその先までかかるのではないか?」とか、きりのない心配に煩悶しながら毎日を過ごしていたら、きっと精神に異常をきたしてしまうだろう。
 だが、戻って来るはずなのだから、いつか会えるはずなのだから、今は落ち込む時ではないはずだ。朝彦は無理して自分に言い聞かせた。
 よし、朝までは、ここにいて、それから電車に乗って家に帰ろう。仕事にも行こう。俊が帰ってくるまで、自分もやるべきことをやるのだ。
 朝彦は、携帯電話をカバンに戻した。これは、通勤にも使っている厚手のナイロン製の黒いリュックだが、最前の豪雨で水浸しになったので、携帯電話は、内側の、めったに開けることのないポケットの中に移していた。
 そこに、電話機を入れようとして、朝彦は、封筒らしいものに手が触れるのを感じた。
 取り出してみて、「あー、これは。」と声を上げた。
 神楽岡山頂の暗がりの中でも、それが何であるかは、すぐ分かった。
 朝彦は、両手を、かなり湿気たハンカチで何度も拭ってから、封筒の中にある紙片を丁寧に取り出した。
 それは、日本酒が入っていた紙製の箱をハサミで切り取ったもので、そこにクレヨンで、たどたどしい筆跡のメッセージが書かれていた。半ば消えかけている個所もあるものの、朝彦は、一字一句正確に記憶していたので、読むのに苦労はなかった。
「てんさいパパ さとしより」
 それは、俊が、母方の(つまり妻の母親である)祖母に、はじめて平仮名を教えてもらった時(3、4歳だったろうか?)に書いた、生まれて初めての手紙だった。
 この手紙を、お守りとして、朝彦はカバンの内ポケットに大切にしまいこんでいたのだが、長い間忘れてしまっていた。
「あー、こんな時もあったんだなあ。」
 涙で曇る眼で、小さな紙片を見て微笑みながら、朝彦は呟いた。
 ちいさな俊が、はじめて手紙を書こうとして、その相手として思い浮かんだのは、父親の朝彦だったのだ。そして、「てんさい」という最大限の賛辞を贈るほど大好きだったのだ。
 いつから、この良い関係が崩れてしまったのだろう。
「やっぱり、遊び相手になるのを止めてしまった時からかなあ。」
 朝彦は呟いた。
 出世したいがため、論文を書くための時間が欲しかった。子供の相手をしている余裕がなかったのだ。
 でも、一度でも、こちらから「一緒に遊ぼうか。」と声を掛けていれば、どれほどその後が変わっていたことだろう。それをしようとしなかった自分は、なんと薄情で、そう、恩知らずな人間だったのだろうか。
 朝彦は、唇を噛んだ。
「このままでいいはずがない。」

  *

 山一つ向こうの刑務所を脱走した男は、翌日になっても、まだ見つかっていないようだったが、俊と朝彦は、秘密基地を完成させるために神楽岡にやって来た。
 朝彦は、「潜伏するんやったら、こんなちっぽけな小山を選ばへんはずや。大文字山のある東山から比叡山を通って北山、西山まで京都盆地の周りは山だらけなんやから。」と言った。
「そうやな。心配ないかもな。」俊も同調したが、昨日、警察官たちが、わざわざ捜索しに来ていたことが、少し気がかりだった。
 今日の目標は、崖下からそそり立つ巨樹への通路をつくり、樹上に見張り台を作ることだったが、それ以前に、昨日作った小屋がまだ残っているかを確かめる必要があった。
「おー、ちゃんと有る。」
 現場に到着して、朝彦が安堵の声を上げた。
「よかった。撤去されてなかったね。」俊も笑顔。
「多分やけど、犯人が、ここからずっと離れたところで目撃されたから、警察もここをマークするの止めたんとちゃうかなあ。壊さなくて正解やったな。」朝彦が理屈っぽく分析した。
 まずは、異状のないことを確かめようと、小屋の中に入りかけた二人は、顔を曇らせた。
 入口の段ボール製の扉が、半開きになっている。昨日帰る時には、きっちりと閉めたはずなのに。
 そして、扉を開けて中に入ってみると、汗臭い臭いがこもっていた。 
 二人は顔を見合わせた。
「誰かここに来たんやろか。」俊の声は蚊の鳴くようで。
「そうやな。」朝彦の顔にも不安がありあり。
 その時、小屋の外で、小枝が折れたような物音がして、少年たちを飛び上がらせた。
 出入り口の扉の外を見ると、大きな人影が目に入った。
 筋肉が漲る逞しい上半身に白い袖なしの下着だけを着て、下半身は緑色の作業服のようなものを穿いた、坊主頭の、まだ10代かも知れないくらい若い男が険しい目付きでこちらを見ている。
「何やっとんねん。」嫌な感じのする声が、その口から発せられた。心優しい人間ではないことは、この第一声ではっきりと分かった。
「何やっとんねん。」もう一度、男は聞いた。
「家作ってるんやけど。」朝彦がかすれた声で答えた。
「俺の家や。」男は、当然至極といった態度で言った。
「違う。俺たちが作ったんや。」怒気をはらんだ朝彦の物言いに、俊は、相手を怒らせるのではないか、とハラハラした。
 案の定、そいつは、恐ろしい形相になって、「とっとと消えんと、ぶん殴るぞ。」と大声を出した。
 朝彦は、相手をじっと見返しながらも、のろのろと腰を上げたので、俊も遅れまいと、その後について小屋の外へ出た。
「そうや、ガキは言われたとおりにしたらええんじゃ。」居丈高な男の態度に、俊は嘲弄を感じ取ったが、何もできず、男の横を通り過ぎて、そのまま後ろを振り返らず、歩き続けるのみ。
 尻尾を巻いて逃走する犬のようで惨めだった。
 脅かされて、苦心して作ったマイホームを明け渡すなんて、男ではないという気がした。
 そういう気持ちがあったためか、俊は朝彦に向かって、「あの人、脱走した人やで。」と、声を潜めてはいるが、その実、聞えよがしに言った。
「そうか。俺のこと知ってんのか。じゃあ、生かして帰すわけにはいかんな。」と言う声が背後で聞こえ、少年たちを凍り付かせた。
 振り返ると、男は、細い目をさらに細め、「まとめて死んでもらおうか。」とゆっくり近付いて来る。
 その顔には単なる怒りだけではない、もっと嫌なものが現れ始めていた。
「お前ら運がええなあ。俺みたいな、人殺しに捕まって。」ポキポキと指を鳴らし、二の腕の盛り上がりを殊更に誇示しながら、男は、のったりと笑った。
「殺人犯ではないって、お父さんが言ってたけど。」後ずさりしながら、朝彦が、反論した。
 陰惨な、慄(ぞ)っとする笑みが、脱獄囚の顔に浮かんだ。
「そや。俺が捕まったんは婦女暴行や。殺人の方は、まだバレてへんねや。」
 そう言ってから、彼は薄気味悪い笑い声をあげ、一人悦に入る様子。
「めっちゃ笑えるわ。警察のアホらが俺のダチの方が殺人犯やと思い違えよったから、俺は喜んでそいつらが聞きたいと思ってるような証言をしたったわ。“あいつが、やったって言ってました。”ってな。」
 一人、大笑いする声が、林の中に響いた。
「それで、そのアホなダチは、アホなサツとアホな裁判官に殺人犯ってことにされてしもうて、今も刑務所の中や。」
 男は、しばらくの間、俊たちに追従笑いを求めるかのように、不快な笑顔を見せ続けていたが、突如、真顔になった。
「これで分かったか。俺の怖さが。お前らチビを捻り殺すくらい屁とも思わん男やで、俺は。」
 そう言うと、暗く鋭い目でこちらを見ながら、近寄って来る。
「逃げるぞ。」
 朝彦が叫ぶと、俊の腕を引っ張って走り出した。
「はは。逃げれると思ってんのか。」脱獄囚は、喜悦ともとれる笑い声をあげて、後ろを追いかけてきた。 
 朝彦は、すぐに右側に進路を変えた。そちらは小さな灌木がびっしりと密に生い茂っていたが、俊と朝彦なら、何とか走り抜けられるくらいの隙間があった。
 太さは1センチから5センチくらいの細い枝が、7つも8つも地中で枝分かれして、まっすぐに生え出している。こういうのが、ほとんど間隔を空けずに生えているのだ。さらには、孟宗竹のような細いけれど、強靭な茂みもある。
 少年たちは、そういう密生地帯を選んで、疾走する。そのため、ずっと足が速いはずの追跡者は、通り抜け難い茂みを避け、遠回りして追いかけなければならなくなった。
「こっちには、地の利があるからな。」後ろを振り返り振り返りしながら、朝彦は言ったが、その声は引きつっていた。
 しばらく灌木の隙間をジグザグに全力で走り続けているうちに、信じ難いことだが、後ろから追いかけて来る足音が聞こえなくなった。
 二人は緊張が緩んで、それ以上に疲れ切って、生い茂った灌木の間に座り込んだ。
「何とか撒けたかな?追いかけにくいところを選んで逃げて来たからな。」誇らし気な朝彦。
 のどかな鳥の鳴き声だけが聞こえ、俊も安心して、「うん。何も聞こえて来えへんな。」と言って、両手を後ろの地面について、安堵の息を吐いた。
 その時、まったく予想していなかった方角、二人が逃げのびようとしていた麓の方、10メートルくらいのところに、いきなり、脱獄囚の頭が現れたので、心臓が停まりそうになった。
「見つけたでえ。」粘っこい口調で、余裕しゃくしゃくと彼はこちらへやって来る。
「くそ。」少年2人は、必死に走り出した。
 今度も、まっすぐは進まず、出来るだけ相手が追いかけにくいように、そして、逃げる自分たちの姿を見つけにくい様に、木の密なところや、地形の高低を巧みに選びながら、出来る限りの速さで走った。
 5、6分あるいはそれ以上走っただろうか。今度こそ、敵を撒くことが出来たように思え、二人は再び立ち止った。
 気に入らないのは、かなり山頂側に戻って来てしまっていることだったが、少年たちは、弛緩した笑顔を見せ、無事を喜び合った。
「早く家に帰ってグリーンティーを飲もうぜ。氷をたっぷり入れて。」と朝彦。
「あと、スモモも食べたいな。よく冷えたやつ。」俊も応じた。
 そうやって、しばらく息が整うまで地べたにへたり込んでいたが、しばらくして、近くで枝がポキッと折れる音と、ガサガサと茂みを掻き分けるような音が聞こえた。
 音のした方向は、二人のいる場所から20メートルくらいは上りになっていて、そこから下りに転じているようで、相手の姿は見えなかったが、敵が近くに迫っていることは、明らかだった。
「チクショウ!」朝彦は、小声で吐き捨てて、音の方から遠ざかる方へ、そろそろと逃げ始めたが、「あたっ。」地面から浮いた細い根に足を取られて、派手に声を上げて転んでしまった。
 たちまち、斜面を駆け上がってきた犯罪者が、眼を剥き、「オラアー。」と奇声を発しながら、飛び出してきた。
 俊は、朝彦を助け起こし、再び走り始めた。
「こっちや。」ねん挫した足首の痛みをこらえて走りながら、朝彦は急な斜面を下り始めた。そちらの方向には、背の高い山草のようなものがびっしりと生えていて、大きな濃緑の葉のために上から見ると、その下にあるものが全然見えない。
 しかし、かなりの急斜面なので、俊は途中で足を滑らせて、したたかに地面に尻餅をつき、その勢いでズルズルと滑落し始めた。とっさにつかんだ草にぶら下がって静止したが、今度は朝彦が「うあっ」と悲鳴とともに足を滑らせ、すごい勢いで落ちて来た。
 そのまま自分に向かってくるので、俊は目をつぶったが、激突の衝撃はなく、眼を開けると、朝彦も両手で草に掴まって、俊のすぐ上にぶら下がっていた。
 上を見上げた俊と朝彦の目が合い、無言のまま、二人は頷いた。
「ワアーー。」
 大声で気合を入れて、俊はダイブし、斜面を滑り台のように滑り始めた。少し間をおいてから、朝彦も、大声を上げて滑り降りはじめた。
 スピードが出過ぎると、草をつかんでブレーキをかけながら、あっという間に急斜面を滑りきると、泥だらけの少年たちは、休む間もなく走った。
 後ろを振り返ると、斜面にびっしりと生えた大きな草の一部が揺れていて、追手の動きを教えていた。滑り降りてはいないようなので、斜面を下りきるまでには、ある程度、時間がかかりそうだった。
 その間に姿をくらませてしまおうと、少年たちは必死に走った。
 けれども、何度目かに振り返った時、かなり遠くだが、黒い影がチラチラと視界に入った。
「くそ、見つかったか。」
 そこからは、また、土地の凹凸の大きい所や、植生の密な所を選んで逃げたが、見えなくなったと、一瞬安心しても、第六感ででも感知するのか、必ず、敵は姿を見せるのだった。
 この執拗さは、確かな殺意、根絶の意思に他ならないように思えた。
 そして、とうとうよく知った場所にやって来た。
 そこは、少年たちの秘密基地、憧れのマイホームから見下ろしていた崖下の土地で、今や、逆に、秘密基地は、遥か遠く見上げる位置にあった。
 この急な崖は、半円形に神楽岡をえぐって、くぼ地を作っており、まずいことに、その出口は、彼らが逃げてきた方向、つまり、気の狂った殺人鬼が追いかけて来る方向にしか開いていないのだった。
「やばい。追いつめられるよ。」荒い息で俊が言った。
 焦燥を露わにして、朝彦も頷いた。
 遂に、少年たちは、立ち止った。もうこれ以上、進めなくなったのだ。この先はとても登れないような急斜面で、一番緩やかなところでも80度はありそうだ。しかも、小石混じりで、脆く崩れやすそうなのである。
 振り返ると、もう10メートルくらいの距離まで詰められていたが、脱獄囚は、勝利を確信したのか、立ち止まって、「やっと捕まえたぞ。くそガキどもが。手間かけやがって。」と憎々し気に言った。
 小学生ごときに何度も出し抜かれて撒かれかけた怒りのためか、もはや笑みはなく、ただむき出しの獣性しか感じ取れなかった。
 ここで自分たちは、いたぶり殺されるのか?少年たちは、何か逃げる手段がみつからないかと周囲を見回した。
「あれを登ろう。ついて来て。」
 朝彦は、崖の上から逆さ向きに倒れ落ちて、根元の方は上に引っかかったまま残っている黒松の倒木を指さした。
 この倒木によって、ここから崖上までが60度くらいの角度で結ばれている。
 朝彦は、尖った葉をたくさんつけた小枝をつかんで体を引き上げながら黒松を登って行った。倒れてからそれほど経っていないらしく、尖った葉は緑色だし、松ぼっくりも黒々としている。そして、ツーンと鼻を刺激する、強烈な松脂のにおいがした。
 俊は、こんな危険なのはもちろんのこと、木登り自体、今までほとんど経験がなかったが、殺人犯への恐怖のため、躊躇なく登り始めた。小枝をつかんで闇雲に登って行くと、幹にたどり着いたので、そこから松の幹に特有の、亀の甲羅のような、樹皮の凹凸を手掛かり・足掛かりにして、登って行ったが、4メートルくらいの高さまで来ただけで、もう下を向くことが出来ず、足がすくんだ。
 倒木の下まで来た追跡者は、「逃げても無駄や。どこまでも追いかけてくぞ。」と、怒鳴ると、助走をつけてジャンプし、忽ち、俊から僅か2メートルちょっとの距離まで到達した。そのまま、太い幹に取り付き、樹皮の隙間に手とつま先を差し込むだけで、体を幹に持たせかけることもせず、するすると猿のように登って来る。恐るべき腕力と脚力だ。
 どう見ても、すぐに追いつかれてしまいそうに見えた。
 だが、二人との間に、折れた大きな枝が幹に覆いかぶさっているところがあり、そこで敵の進撃速度がだいぶ鈍った。 
 小さな少年たちは、それほど苦労なく通り抜けられたのだが、大人には難しいらしく、密に茂った松の葉を掻き分けて、「痛てー。くそっ。」と罵しる声がする。
 その間に、少年たちの方は、より上の方、山で言えば8合目くらいにまで上がっていたが、俊は、腕が既に限界に達しつつあり、落下の恐怖のために心拍数が上昇して、ほとんど身動きできなくなっていた。
 一方、追跡者は、松の葉の障害物を潜り抜けて、凶暴な顔を表し、再び猿のようにスルスルと幹をよじ登りだした。
 あと数秒もすれば追いつかれ、殺されてしまう。
 絶望的な気持ちになった、その瞬間、男がつかんだ樹皮が、メキッと音を立てて剥がれ、「ウアッ。」という悲鳴とともに、男は7、8メートル下の地面まで垂直に落下した。
 ゴツンと何かが割れるような気味悪い低い音がした。
 松の幹に縋り付いて、見下ろす俊と朝彦。
 男は、地面に横たわったまま動かない。いや、手足だけわずかに動きが見え、うめき声のような音がわずかに耳に入った。
 かなりの重傷を負ったのだろうか?
 だが、恐怖に捕らわれた少年たちは、そのまま1分以上も動かず、下を覗い続けた。
 男はうつ伏せになったままうめくばかりで、起き上がる様子もない。
 とうとう心配の方が恐怖より優勢になって来て、俊は「降りてみようか。」と相棒の顔を見やった。だいぶ、体力も回復している気がしたので。
「そうやな。」朝彦も頷く。
 一瞬たりとも脱獄囚から目を離さないようにしながら、少年たちは、少しずつ、樹を下って、地面まで下りた。
 遠巻きに、負傷者の様子を覗う。
 うつ伏せになった男の額の上あたりに、血で真っ赤な大きな傷があり、陥没しているようにも見えた。滴り落ちる血で、土や石くれが赤く染まっていた。
 うつ伏せになったまま、男は動かないが、少年たちが近くに来たのを察知したのか、
「痛い。死にそうや。」と声を発した。先ほどまでの猛々しさとは、打って変わって、まるで元気なく弱弱しい。
 少年2人はさらに近付いて、ほぼ真下に男を見下ろした。
「大丈夫?」俊が聞いた。
「大丈夫やない。頭が割れたみたいや。死ぬかもしれん。」
 情けない声に、恐怖は薄れ、哀れみに席を譲った。
「ちょっと待って。家へ帰ってお母さんに知らせるから。」と朝彦。
「頼むわ。早くしてくれ。」
 男は哀願した。
「待ってて。」朝彦は走り出す。後を追って、俊も走る。
 家に戻ると、「おはよう会」仲間の小母さんが2人来ていた。
 頭を怪我して死にかけている人がいると、俊たちが息を切らせながら訴えると、
「どこなん。早よ案内して。」と祖母も小母さんたちもすぐに靴をつっかけた。
 家を出た俊と朝彦は、また走り出そうとしたが、後から来る3人が、顔だけは慌てていても、早めに歩くくらいしかできないので、もどかしくて仕方なかった。
 神楽岡の散策路を登り始めると、上の方から、カラスの群れが盛大に鳴きかわしているのが聞こえた。
 散策路から逸れて森の中に踏み込んでいくと、大人たちの進行速度はさらに鈍くなった。
「こんなとこ歩いたことないわ。」と小母さんの1人が言い、祖母が、
「あんたら、ここで何していたん?」と息を弾ませながら、子供たちに聞いた。
「家作って遊んでたんや。」朝彦が正直に答えた。
 崖下のくぼ地に出るためには、かなり歩かなければならなかった。
 くぼ地の周りには、カラスがたくさん集まって、興奮した声を発していた。
 俊は、走り出し、朝彦も走った。
 囚人は、今は仰向けになって、饗宴の時が待ちきれないらしいカラスの群れを、不安な目で追っていた。
「お母さんたち連れてきたよ。」朝彦が言うと、
「ああ。ありがとう。」と彼は微かに笑った。
 後ろからやって来た大人たちは、頭に大きな傷を負って、流血で顔貌もよく分からなくなった男を見て、
「これは、大変や。」「すぐ救急車呼ばな。」と顔色を変えた。脱獄囚だという事には気が付いていたはずだが、それについては何も触れなかった。
 祖母は、少年たちの方を向いて、
「あんたら、神楽岡の東側の道路まで行って、公衆電話から救急車呼ぶこと出来る?」と、いささか迷いのある様子で聞いた。
「うん。呼んで来る。」朝彦が普段には見られない、しっかりした態度で答えた。
「東側ってどっちか分かる?」
「あっち。いつもここで遊んでるから分かる。」朝彦は迷いなく指さした。
「じゃあ、10円玉5枚渡すさかいな、神楽岡で人が大怪我して倒れてるからすぐ来てって言って、救急車に来てもろて。場所は、神楽岡の東側の道の公衆電話の所までって言うんやで。その後は、そこで待っとき。私も後から行くから。」
「分かった。」緊張した声で朝彦は答えると、俊と一緒に走り出した。
「番号は119やで。」祖母の声が後ろから追いかけてきた。
 まず、くぼ地を出ると、急斜面を避けて南にしばらく行ってから、東側、岡の稜線の方角へ向けて登り始めた。
「お母さん、ちゃんと来れるかな?」俊は心配して朝彦を見やった。
「大丈夫やろう。そんなに大きな山じゃないし。」朝彦は答えたが、時々は手も使わないといけない登り斜面で、登り切った時には、すっかり息が上がっていた。
 ほんの数秒休んだ後、二人は東側の斜面を転がるように駆け下りて行った。
 森は直ぐに尽きたが、進行方向に住宅街が立ちふさがっているので、それを迂回するのに多少時間がかかった。
 道に出たら、公衆電話のボックスはすぐ見つかった。
 恐ろしく高温がこもったボックス内に2人で入って、朝彦と俊は、まず、何を言わなければならなかったのかを反芻し合った。
「どっちが電話する?」朝彦が聞くと、
「アサ君やってよ。年上やろう?」と俊は即答した。
「ちぇっ、こんな時だけ俺をお兄ちゃん扱いするなよ。」と言いつつ、朝彦は受話器を上げ、10円玉を投入し始めていた。
 電話が架かると、朝彦はたどたどしく、予定していた内容をしゃべり始めたが、なかなか話が通じない様子だった。いたずら電話だと疑われているらしい。
 だが、朝彦の切羽詰まった調子に、とうとう、向こうも納得したようだ。
「はい。ここで待ってます。」
 脂汗を滴らせた朝彦は、受話器を置いた。お釣りは出てこなかった。
 すぐに、少年たちは電話ボックスを脱出したが、外も過ごしやすい気温とは到底言えなかった。
 炎天下、日差しに目を細めながら、少年たちは外に立ち続けた。二人とも、逃げる途中で帽子を落としてしまっている。
 あちこちから響いて来るミンミン蝉の声で、体中が微振動している。
「お母さん、遅いね。」
「うん。道に迷ってるんかな」
 2人は言ったが、その後の言葉は、どちらからも出てこなかった。
 「お母さん」が疲れ切った表情で、道をこちらへ歩いて来たのは、救急車が来たのとほぼ同時だった。
 救急隊員たちは、子どもたちの案内で、例のくぼ地まで行くと、負傷者をおんぶして散策路まで担ぎ上げ、そこからは担架に載せて岡の下まで運んだが、そこは救急車を停めてある場所からは、離れた場所だった。
 一人の隊員が、救急車をこちらに回してくるために、走って行った。
 残った一人は、負傷者の作業服をじっと見て、「君、どこから来たの?」と質問した。
 男は、正直に、刑務所を逃亡して来たことを白状した。
 救急隊員は、「これから病院に向かうけど、警察にも連絡するよ。」と告げた。
 脱獄囚は、目をつぶって小さく頷いた。
 初め出くわした時とは別人のように弱気になった囚人は、少年たちに、和歌山県の田舎町に住んでいるという自分の親のことなどを話し始めた。
 そして、目に涙を湛えて、「親には何一つ喜ぶことをしてやれへんだなあ。」と嘆き、「お前ら、俺みたいになったらあかんぞ。親を悲しませるような生き方も死に方もしたらあかん。人間、まじめが一番や。」などと柄にもない説教まで始めた。
 それから、「俺みたいなアホがおったことをな、ずっと覚えといてくれよな。同じ間違いをしないようにな。」と言うと、嗚咽を漏らし始めた。
 「おはよう会」の小母さんたちももらい泣きしている。
 だが、傍にいた救急隊員が笑って、「お前、大げさやねん。命には別条ないはずや。」と言った。
「そうなんですか。」と祖母は安堵し、「よかったねえ。」と朝彦と俊の頭をくしゃくしゃと撫でた。
 救急車がやって来た。男は中に収容され、サイレンとともに救急車は、走り去った。
 すべてが終わって、俊と朝彦は、虚脱したように地面に座り込み、立ち上がることが出来なくなった。
「よく頑張ったねえ。」祖母は、しばらく2人を見下ろしていたが、「さあ、立ち上がり。毎朝のおはよう会で鍛えられてるやろう。」といつもの調子で厳しく命じた。

 ショッキングな1日だった。
 警察には事情聴取をされるし、仕事から帰ってきた祖父からは、人のいないところに行かないようにあれだけ言ったのに、なんで森に遊びに行ったのかと厳しく叱られた。
 その最中に、あの懲役囚が、殺人をしたと言っていたことを話すと、祖父は、「お前らを怖がらせようとしただけやろう。」とてんで信じようとしなかった。
「でも、婦女暴行で捕まった悪い奴なんやろ?」朝彦が尋ねた。
「あいつがそんなこと言ってたんか?いや、あいつがやったのは窃盗や。盗んだタイヤを売りさばくグループのリーダーをやっとったんや。」祖父は職業柄、こういう情報はよく知っているらしかった。
「ほんまに?凶悪犯やないの?」
「ああ、暴力犯罪とかは全然やってへん。ハッタリを利かせようとしただけやろ。」
 そうだったのか。俊も朝彦も拍子抜けしたように、お互いに顔を見合わせた。
 
 その夜、緊張状態が解けずに、布団に入っても眠れずにいた俊は、隣の部屋から、両親というか彼にとっては祖父母が話し合っている声を聴いてしまった。
「あの子をずっと置いておくわけにはいかへんのちゃうか?」祖父の声がする。
「そうやなあ。私も、そのことは、きちんと考えなあかんって前から思てたんや。新学期に、サトちゃんをどこの学校に行かせるか決めなあかんしね。朝彦と同じ学校に行かせるんやったら、区役所とかで手続しなあかんし、よく知らないけど、戸籍のこととか、問題になって来るやろしな。」
「そうやで。遅すぎるくらいやで。タカシが来てくれたみたいなこと言って、何もせんでいるうちに、もうお盆やないか。」
「そんなこと言うけど、あんたかって何もしてくれへんだやないの。」
 祖母の声に怒気がこもった。
「子供のことは、母親がまず動くべきやろう。」祖父はいつものとおり身勝手な事を言っている。「家出して来たんかも知れんし、しっかり話をして家庭のこととか聞き出さなあかんのちゃうか?」
「あの子が嘘言っているって言うの?そう思うんやったら、自分で聞いたらいいやないの。」
 2人の会話は夫婦げんかの様相を帯びて来て、俊は聞いているのが辛くなってきた。
「まあ、その、両親は行方不明なのは本当やとしてもやな、ほかに親族は絶対いるはずやろう。その人らと連絡を取るとか、いろいろやってからでなかったら、俊を家(うち)の子にすることは出来ひんはずやで。」
「そんな難しい事、私だけに押し付けんといて。」
「押し付けてないがな。」
 その後もひそひそ話は続いたが、祖母は気を悪くしたのか、黙り勝ちになり、祖父が言う事にあまり反応しなくなった。
 そして、「明日、おはよう会の信頼できる方たちに相談して、そこから考えてみるわ。」ボソリと言う声がした。
 それから両親は寝入ったのか、声は聞こえなくなったが、俊はますます眠れなくなった。
 そう。これからどうするか考えなければならない。
 ずっとこのままここにいるわけにはいかない。それは、言われなくても分かってる。朝彦とは離れたくないけど、生まれてからこれくらい一緒にいるのが楽しかった友達はいなかったけど、でも、自分は自分が生きる場所に帰らないといけない。もと居た21世紀の世界へ。
 そこに帰るには?あの鳥居をくぐればいいのではないか?あの神社の神主に聞けば、あの鳥居の謂れや効能と言うか能力、パワーも教えてもらえるかもしれない。もとの時代への帰り方も知ってるんじゃないだろうか。
「俊、起きてる?」朝彦の囁き声がした。
「びっくりした。アサ君も起きてたん?」
「ああ。何か、今日は色々あったし、頭がもやもやしてな。それで、俊、これからどうする?ずっとウチにいるか?」
「いや、それは・・・」俊は言い淀んだ。本当はそうしたい気持ちもある。でも、さっき祖父母の話し合っていたことを聞いてしまったら、なかなかそっちの方向では考えられない。
「帰るんか・・・?」
「うん。明日、神楽岡の山頂の神社に行って、神主さんに、どうやったらもとの世界に帰れるか聞いてみようと思うねん。」
「そうか・・・。うん。それが、ええな。俺も一緒に行くわ。」
「うん。ありがとう。」
 ここまで話したら、心が軽くなって、俊はじきに寝息を立て始めた。
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