第3話

文字数 6,911文字

  *

 朝彦は、黒々としたシルエットを見せる丸鳥居の前で、ようやく心を決めた。
 やはり、ここをくぐるわけにはいかない。自分が消えてしまったら、家族は崩壊する。妻と小さな息子だけを置いて行けない。
 そうは言うものの、ただ単に怖いからなのではないか、9歳の息子だけ遠い世界に追いやって自分だけはぬくぬくと元の世界に居残っている卑怯者なのではないかという後ろめたさを感じずには、いられなかった。
 こんなに自分が小さく見えたことは、かつて無い。これまでは、自信満々に生きてきたのだが。だから、俊の至らないところが一々目について、苛立ちながら、正しい道を示してきたつもりだった。
 でも、息子から見れば、唯々鬱陶しく疎ましい存在でしかなかっただろう。
 朝彦は唇をかんだ。
 自分の感情を抑えていれば、安易に暴力をふるったりしていなければ、こんなことにはならなかったのに。
 だが、ここで暗くなっていても何も解決しない。朝彦は、携帯電話を取り出し、妻の番号をダイアルした。
「あ、俺だけど、俊、帰ってないよな。」
「帰ってるわけないでしょ。今まで何やってたん。探してなかったの。」鋭い声が詰問して来た。
 朝彦はため息を押し殺し、暗く沈んだ調子で、手を尽くして探したがまだ見つかっていないこと、交番には子供を保護したら電話をくれるよう頼んでいることを説明した。
 電話の向こうからは、朝彦を断罪するばかりで、何一つ自分では力になろうとはしてくれない人間の声が響いていたが、朝彦の耳には右から左へ抜けて行った。
 無感動な声で返事をしながら、朝彦は、「はいはい。何かあったら電話するから。」と言って、相手の同意なく電話を切った。
 ため息をついていると、静かに、雨が降り始めた。夜のしじまに森の葉群れをたたく音が、朝彦の孤独をいや増していった。

  *

 アサヒコの家の夕食は、あまり楽しいものではなかった。
 アサヒコの母の講釈によれば、それは「自然食」というもので、食品添加物のない、健康的で体に良い食事なのだそうだが、そのために味が極度に犠牲にされてしまっているとしか思えなかった。
 100パーセント玄米のご飯は、硬くて噛むのにすごく時間がかかるし、みそ汁は、調味料は体に悪いという理由で、通常の4分の1くらいしか味噌を使っていないので、水道水のカルキっぽい味がした。おかずは、ひじきという黒くて細いものがいっぱい入ったのと、ほうれん草を何かの汁に浸したものの二つしかないが、どちらも味がしないというか、正確に言うと、不味い味しかしない。
 アサヒコは、毎日こんな食事をしているのか、と可哀そうになる。
 鑑別所の仕事から帰ってきたアサヒコの父は、とっつきにくい感じで、俊を見て、やはり、一瞬、我が子が戻って来たのかと感動を露わにしたけれど、別人だと分かると、すぐに興味を失ったのか、ほとんど俊には話しかけては来ず、自分が職場のテニス大会でどれだけ活躍したかという事ばかり話していた。
 母親は、さっきからずっと、タカシの生きていた時のエピソードを、まるで、俊がその当人であるかのように語りかけてくるので、少々居心地が悪い。
「タカシが好きやったツクシの卵とじを作ってあげたかったけど、今は夏やしねえ。」としきりに残念がっているのだが、ツクシというものを食べたことのない俊には、それが残念な事なのか喜ぶべきことなのか分からなかった。
 でも、ふと、あっちの世界に残して来た父が、子どもの頃、家族で土筆採りをしてみんなで皮をむいて食べたツクシ料理がすごい美味しかったと思い出話をしていた記憶がよみがえってきたので、食べてみたい気もした。
 もっとも、「パパ」からその話しを聞いた時には、道端に生えている雑草みたいなものをおいしいと思って食べてたなんて、昔の人たちは貧しかったんだなあ、と思ったのだけれど。
 家族といる時のアサヒコは大概黙っていたが、唐突に、「サトシ、好きなプロ野球チームは?」と聞いてきた。
「うーん、ないかな。」
「へえ、珍しいなあ。俺は近鉄。だからご飯を食べたらラジオで応援するねん。」
 声を弾ませるアサヒコを、母親が、厳しい目でにらんだ。
「何言ってるの。今日は、明日の「おはよう会」のために黙想をする日でしょ。」
「ああ、そうか・・・」暗い顔でアサヒコはうつ向いた。
 その瞬間、俊は電流が走ったような衝撃を覚えた。
 いきなり、パズルのすべてのピースが合わさり、すべてを覚ったのだ。
 このアサヒコは、何10年も前の自分の父親、朝彦なのだ、と。
 いくつもの事が符合するのだ。
 まず、出町柳に住んでいたこと。(聞いたことがある。)
 名前が同じアサヒコであること。(漢字はもはや聞くまでもない。)
 鑑別所に勤めている父親(つまり祖父)。(確かそうだったはず。)
 死んだ弟。(仲良かった頃の父によく聞かされた。大好きな弟だったと。)
 そして、極め付きが、「おはよう会」気違いの母。(何度も聞いたことがある。)
「おはよう会」というのは、新興宗教団体の名前で、毎朝、日の出前から礼拝をおこない、週に何回か黙想の時間もあると聞いていた。「パパ」は、「毎日、寝不足で辛かった。嫌でしょうがなかった。」と言っていたっけ。そして、これに入れ込み過ぎたために母は突然倒れ、亡くなってしまったのだと。
 これだけの一致が偶然であるはずはない。昔の父に会うために、自分は何者かに(あるいは何らかの力に)タイムスリップさせられたのだ。多分、自分が父を激しく憎んだ罰として。
 俊の顔に現れた異様な表情を見て、
「どうかしたん?」朝彦の母、つまり俊の祖母は、顔を覗き込み、
「そうや、家に電話しなあかんね。」と立ち上がり、その日何度目かの電話を伏見稲荷の俊宅にかけた。
 だが、今回もつながらなかった。
「おかしいなあ。電話壊れてるんやろか。」祖母は黒電話をもとに戻し、「遅なってしもたな。早よ帰ってもらわんと。アサヒコ、自転車で三条駅まで送って上げ。それから、これ、電車代。」と言って、100円玉をアサヒコに握らせた。
「うん、行ってくるわ。サトシ、行こか。」
 アサヒコは、立ち上がったが、その表情は、残念そう、あるいは寂しそうに見えた。
 祖父母(と言っても、祖母は、元いた時代では、もう亡くなっていたので、会ったことはなく、祖父も、自分が知っている姿とはずいぶん違って見えたが、ごつごつした顔の輪郭は、見覚えがあった)は、玄関まで見送りに出て、母親の方は、俊の手を握って、万感の思いを込め、「また、遊びに来てな。」と言った。その眼には、涙が光っている。
「はい。」
 俊は答えたが、内心、これから、どうすればいいか、伏見稲荷に行ったところで、身内に迎え入れてもらえる可能性はほとんどないのではないか、という心配でいっぱいだった。
 なんとか、アサヒコの家に留まれないかと思うのだが、言い出すことが出来ない。
 アサヒコが、スーパーカーのように開閉するライトを付けたスポーティーな、少年向けの自転車にまたがり、ペダルに足をのせて、「後ろに乗り。」と促した。
「え、2人乗りは禁止やろ。捕まるで。」
 それを聞いて、アサヒコの両親とアサヒコは声を出して笑った。
「大げさやな。自転車の2人乗りくらいで捕まるかいな。」
 この当時は、2人乗りへの対応が、格段に甘いものだったのか?半信半疑で、後ろの荷台にまたがると、アサヒコは力強くペダルを踏みこんで自転車をスタートさせた。
「元気でね。またね。」
 涙を浮かべる祖母に手を振ると、その姿は夜の暗がりの中へどんどん小さくなって行った。
 生れて始めての2人乗りは、ちょっと恐ろしかった。前が見えないから、全然安心できないし、両手で荷台をしっかりつかんでいないと、後ろへ転落してしまいそうなのだ。
 その不安とは別に、このまま、京阪電車に乗って伏見稲荷に行ったら、どうなるのだろうという、さらなる不安が、胸の中で膨れ上がりつつあった。
 見覚えのない暗い街並みには、自分の知る何ものも見つけることが出来ず、キツネの石像が見下ろす稲荷大社の広い境内に迷い込んで、闇の中にそそり立つ千本鳥居の下をさ迷い歩く自分の姿を想像して、俊は身震いした。
 鴨川沿いの土手道を走らせていたアサヒコが、「もうすぐ三条駅やで。」と言った時、俊は意を決して、「アサ君、自転車を停めて。」と頼んだ。
「なんや、どうしたん。」俊の声の差し迫った調子に驚いて、アサヒコは自転車を停め、肩越しに後ろを振り返った。
 俊は、父に連れられて送り火を見に行ってから、不思議な形の鳥居をくぐって今の時代へタイムスリップして来るまでの出来事を話して聞かせた。そして、これから伏見稲荷まで行っても自分を知っている家族はいないであろうことも。
 アサヒコはしばらく黙っていたが、「サトシがタカシに似てなかったら絶対信じなかったと思うけど、でも、ホンマなんやろうな。サトシは、タカシがずっと未来に生まれ変わった姿なんやな。だから未来から会いに来てくれたんやな。よう来てくれた。」と深い思いのこもった声で言った。
 俊は、「生まれ変わり」と言う突飛な解釈に驚いたが、否定することもできなかった。
 わずか1歳しか年の変わらない(これまでの会話でそれは分かっていた。アサヒコの方が1つ年上だ。)少年に、自分は君の未来の子供なんだと言われても、信じる気になれないだろうし、それを言う事で、アサヒコとの友達関係が崩れてしまうのが怖かった。これまでに、これほど気が合って、一緒にいるのが楽しい少年に会ったことはなかったので。それに、2人が親子であることを示す確たる証拠を示せるわけでもなかったから。それは、あくまで、俊の想像でしかない。
「生まれ変わりかどうか分からへんけど、そうかもしれへんな。」あいまいに俊は答えた。
「よし、一緒に家に帰ろうぜ。」
 アサヒコは、顔をほころばせて自転車をUターンさせ、元来た道を今までよりはるかに速いスピードで走り始めた。
「アサ君、もっとゆっくり走って、怖い怖い。」俊は叫んだ。
「なんや、怖がりやな。」
 アサヒコは、足の回転速度を落とし、「お父ちゃんとお母ちゃんには、なんて説明しようかな。未来から来たって言っても信じないやろうし。そうや、お前の父さんと母さんは、サラ金業者に追われてて、サトシを置いて逃亡したことにしよう。それやったら、よくあることやし。」と笑って言った。
「サラキンギョウシャって何?」
「え、知らんの?あ、そうか。未来には、もうそういうもんは、ないんやな。うん、それはいいことや。サラ金っていうのは、サラリーマン金融の略でな、高金利で金貸して、返せなくなったら、ヤクザみたいなおっさんらが、毎日、家に押しかけてきて、「はよ金返さんかい」って怒鳴ったり、「返せへんねやったら自殺して保険金で支払えや」って脅したりとかしよるんや。それを苦にして、一家心中することもよくあるらしい。」
「ふうん、消費者金融みたいなもん?」
「何それ?聞いたことないけど、もしかしたら、未来ではそんな名前になってるんかな。」アサヒコは一人頷いて、「まあ、説明は俺に任せといて。サトシは、それに、「うん、そうそう」って調子を合わせてくれたらええわ。」と宣言した。

 帰ってきた俊を見て、朝彦(帰り道で俊が訊ねてみたら、やはりこの漢字だった)の両親は、もちろん驚いた顔をした。
 サラ金の借金苦で両親が逃げたという話には不憫がりながらも、根掘り葉掘り詳しいことを聞こうとするので、朝彦が、横から、自分が創作した話で俊の代わりに説明した。
 両親は、それを信じかけていたが、夜逃げする際になぜ息子の俊も連れて行かなかったのかということの説明が難しかった。
 朝彦は、
「逃げても、すぐ見つけられて、また逃げなんようになることが多いやろ。俊は勉強ができるから、学校に行けなくなったり、しょっちゅう転校しなあかんようになったりしたらあかんて思わはったんや。なあ、俊、いなくなる前に、お母さんに聞かれたんやったよな。“俊。俊は学校行くのが好き?”って。そんで、俊が“大好き。”って答えたら、“今の学校に通いたいよね?”って聞くから、“ええー?学校変わらなあかんの?借金取りから逃げるため?そんなん、いやや。何で親の借金のために俺が苦労せなあかんのん。”って怒ったら、お母さんは泣きながら俊を抱きしめて“そうやな。学校には仲のいい友達がいっぱいいるもんな。大丈夫、俊は転校なんかせんでもええからな。”って約束したんや。それやのに、次の朝、起きてみたら、お父さんもお母さんもいなくなってたんやて。」
 俊は、朝彦の長広舌から繰り出される、自身とは一厘のかかわりのない物語をあっけにとられて聞きながら、アサ君は作り話の天才やなあ、と感嘆していた。
 けれども、アサ君の両親は、「そやけど、子供一人残して、どうやって生活していけるって言うの?」「あまりにも無責任や。」と憤った。
 慌てて、朝彦が、「机の上に5万円が残してあったんやて。それに、晩御飯は、いつも友達の家で食べさせてもらってるんやな?お母さんが帰って来るのがいつも遅いから。」と言って、俊に同意を求めた。
「う、うん。」強ばった顔で 俊は、頷いた。
「それにしたって、こんな小さな子供を。」祖母は目に涙をため、「兄弟はいなかったん?」と聞いた。
「はい。」
「親戚の人はいるやろ?」
「はい。あ、でも、今はいません。」
「いないっていうのは、連絡が取れないという事?」
 俊は頷く。実際、今のこの世界に、20年以上後に生まれる自分のことを知っている人間はいないのは確実だった。
 横から朝彦が、「ギャンブルで山ほど借金こさえた俊のお父さんは親戚から爪はじきにされていて、電話しても切られてしもてたんやて。」と補足する。
「そうなん・・・。」祖母は、同情を示すかのように俊の肩に手を置き、祖父を見た。「しばらく家で預かろうか?」
「お前がちゃんと面倒見れるんやったら、俺は構へんで。」と祖父。
 投げやりな言い方だが、俊を見る目には温かさもあった。
「じゃあ、今から一緒に黙想しようね。」
 祖母に言われて、朝彦が、「えーっ。」と声を上げ、俊も心の中で同じ声を上げた。

 黙想は、1時間近くかかり、しかも、その間は、正座なのだった。時々、祖母が(朝彦の時もあった)教団のテキストのようなものを開いて、ありがたい格言とか標語みたいなものを読み上げ、その後、黙ってその言葉の意味を深く考えるのだが、俊は足が痺れて、何かを考えるどころではなかった。
 不思議なのは、祖父はこれに参加しないことで、自分だけさっさと風呂に入り、妻の指導の下に子ども達が苦行を強いられているのを横目に、我関せずと寝転がって、週刊誌を読んでいた。
時々、無遠慮な放屁の音が聞こえてきて、朝彦と俊はクスクス笑い、それに祖母が「黙想!」と厳しい声を投げかけるのだった。
 黙想が終わると、すぐに床に布団を並べ、順番に風呂に入ったら、明日は早いのですぐに寝るようにと指示された。
「お母ちゃん、先に入って。俺、ナイター中継聞くから。」
 灯りの消された部屋で、朝彦は、小さな赤色のポータブルラジオを枕元にセットし、うつぶせに寝そべって、放送を聞き始めた。
「おお、5対3で勝ってる。ピッチャーは久保か。今日は勝てるかもしれんぞ。」
 朝彦が歓声を上げ、俊はすぐ横にくっついて一緒に応援することにした。
 自分が生まれる前に行われたプロ野球の試合を聞くというのはへんな感じがした。聞こえてくる勇ましい応援マーチは少々野暮ったく、アナウンサーの話し方も、俊の時代より堅苦しい感じがした。そもそも、今、対戦している近鉄と南海と言う球団名は、聞いたことがなかったが、野球にはあまり興味を持ってなかったので、21世紀にも存在しているか否かは確かには分からなかった。
 俊が退屈しないように、朝彦は、暗がりの中で蛍光色に煌々と光る小さな物体を二つ持ってきた。
「なに、これ?」
「エレキングの消しゴムや。ほんで、こちらがウルトラマンセブン。」
「へえ、すごいなあ。」俊は、感動して、それを貸してもらい、飽かずにその光る人形に見入った。周りがぼーっと照らし出されるくらい光を放っている。昔にも、こんなに面白いものがあったのだ。
「消しゴムって、これで字を消せるん?」
「うーん、やってみたことないけど、たぶん、消せないやろな。みんなが消しゴムって呼んでるだけで、たぶん、ゴムの人形なんやろ。」
「ふうん。」
 電気を消された小さな部屋の中で、明かりは、この人形と、扇風機のタイマーの涼し気な緑のランプと、蚊取マットのこれまた緑色の小さな表示灯だけで、それを見ていると、俊は、なんだか物寂しいような、それでいて心がゆったりと落ち着くような不思議な心地がして、こんな遠い昔にやって来たのに、安心して夜を過ごせることを、本当にありがたいことだと思うのだった。
 伏見稲荷の両親や弟のことは、とうとう思い出さなかった。
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