第2話

文字数 8,098文字

  *

 視界が真っ白になって、俊は、自分が視力を失ったのかと思った。石の鳥居の輪の中を飛び越えた途端に、何も見えなくなったのだ。
 反射的に、立ち停まり、目をつぶる。それでもまだ眩しい。
 なんだか分からないが、体のまわりがものすごく熱い。
 そして、とてつもなく騒々しい音が、耳に飛び込んできた。何だ、これは?そうだ。蝉の声だ。
「ここは、どこ・・・?」
 俊は、目を開けて見た。
 徐々に明るさに慣れて来るにつれて、今が昼間で、夏の盛りの青い空に、もくもくと大きな雲が湧く晴れた日で、自分がさっきまでいたのと同じ神社の境内にいることが分かった。
 見回すと、境内には人気がなく、父親の姿もなかった。
 鳥居を潜り抜けた結果、一瞬にして昼になってしまったようだ。
「それなら、この鳥居を反対側に抜ければ元に戻れるんやないか?」俊は、起こった事態についてあれこれ考えることはせず、手っ取り早く解決しようと、鳥居を西に向かって通り抜けた。
 何も変わらない。
 今度は、東から西に通り抜けたが、相変わらずの真夏の陽射しに蝉時雨。
「何やこれ。戻れないやないか。」俊は猛烈に腹が立ってきた。これは、あの意地悪な「くそパパ」が仕組んだことに違いないと考えたからだ。
「元に戻せよ。くそーっ。」 
 俊は、この場にいない父親に向かって呪詛を浴びせたが、静かな境内に虚しく響き渡っただけだった。
 でも、今居るのが知っている場所で、随分と心が軽かった。
 知っている場所なら、家に帰るのは、訳はない。山を下りて、出町柳駅まで(鴨川の方向へ)歩いて、そこから京阪で10分ちょっと乗ったら、家の近くの伏見稲荷駅まで行けるのだ。ポケットを探ると、100円玉が2枚と10円玉が3枚入っていた。伏見稲荷までなら十分だ。
 よっし、帰ろう。平気な顔して家に帰って、横暴で威張りくさりーのでヒステリーきちがいのくそパパの鼻を明かしてやろう。
 俊は、陽気に、朱塗りの鳥居が並ぶ参道を歩いて行って、この小山を東西に分かつ峠のところまで出ると、迷わず、西側に下る道を降りていく。小さな頃から何度も来ているので、大体の方角は分かるのだ。
 森の木立が屋根を作って涼しい道を下って行くと、すぐに坂は尽き、砂利の参道を突っ切ると、大きな鳥居を抜けて、京都大学のキャンパスが見えるところへ出てきた。
「あれ?」
 ここで初めて、俊は、自分が、思っていたよりもずっと「ヤバい」状況に陥っていることに気が付き始めた。
 大学構内にある建物が、行きに見た時と違う。ひと言でいえば、古臭く、昔っぽいのだ。
 正門から中に入って、時計台の前に立つと、さらに違いがはっきりしてきた。
 あの大きなクスノキ。来る時には、周囲に直径10メートルくらいの円形の段が作られ、その周りに木製のベンチが設けられていたのに、今はそんなベンチはないし、周囲に広がる松の木立も、元あった場所からずれている気がする上に、ぐっと細くまばらになっている。
 そして、行き交う学生たちの服装や髪型も見慣れないものだった。どこが、どう違うのか、ファッションに興味のない小学3年生には、はっきりとは分からないが、少なくとも、女子学生
の、やたらと縮れてのたくった髪型は見たことがないものだった。それに、学生たちの表情やしゃべり方も、何か違う。
 これらが意味するものとは?
 「タイムスリップ」という言葉が心に浮かんだが、すぐに打ち消した。そんなことは、漫画の中だけで起こることのはず。きっと、これには、何か自分にはわからない理由があるに違いない。俊は、そう自分に言い聞かせ、足早に、キャンパス内を通り過ぎると、やはり見慣れない銀行やパチンコ屋がある百万遍の交差点から、西方向に(それはキャンパスとの位置関係ですぐに分かった)歩いて行った。途中で見る街並み、行きかう人々すべてに違和感があったが、出町柳駅に着きさえすれば、きっと自分がいるべき元の場所へと帰ることが出来るはずだ。
 そう信じてやって来たのだが。
 鴨川まで戻って来たのに、あるはずの地下駅への入り口が通りの北側にも南側にもない。何度も来ているので、入口のある場所くらいは覚えている。でも、それが存在しないのだ。
 出町柳駅は、消失していた。
「嘘や。こんなことあるはずがない。」
 俊は、ふらふらと横断歩道を渡り、気が付くと、鴨川にかかる橋の上へ出ていた。
 暑い。アスファルトの路面から、ギラギラした照り返しと、モワっとした熱気が襲いかかって来る。
 眩暈がして、欄干に手をついたが、「アチっ」とすぐに手を離した。
 鉄製の欄干は、ものすごく高温になっていた。
 欄干に触れないようにして、川をのぞいてみると、水深の浅いせせらぎが穏やかに流れていて、気分だけは少し涼しくなったように思えたが、両側の河川敷は、記憶では、よく整備されていて、ランニングする人や自転車で疾走する人がよく見られたのに、今目に入るのは草ぼうぼうの藪だらけで、蛇がいっぱいいそうな感じがする。
 顔を上げて、東の方向を見ると、夏空に輪郭を際立たせた大文字山が目に入って来た。
 俊は、急に堪えられないほどの孤独感が胸に広がっていくのを感じた。
 ここが、自分が知っているのとは別の京都なのだとしたら?自分を知っている人は、世界に誰一人としていないのだろうか?
 それとも、この川沿いをずっと南まで歩いて伏見稲荷まで戻れば、そこには、もっと若かった頃のパパやママやあるいはお祖母ちゃんがいたりするのだろうか?
 でも、いたとしても、俊を見ても分からないのではないだろうか?
「何で、こんなことになってしまったんや。」俊は、パニックになりそうなのを堪えながら、考えた。
 原因は、はっきりしている。あのヘンな鳥居をくぐったからだ。
 だとすると、ここは、「あの世」なのか?大文字の送り火は、お盆に家族の下に帰ってきた祖先の霊をあの世に送り返すための道しるべだったはず。だったら、その日にだけ開く別世界への入り口というのは、あの世につながっていなければ、おかしい。
 俊は、周囲を見回した。
 橋の上を行きかう車に乗っている人たちは、みんな既に死んだ人なのか?
「でも、それにしては、ここは暑すぎる気がするなあ。」
 俊は汗を掌で拭った。あの世って、こんなにギラギラと生命感に満ちてはいないんではないだろうか。周りの風景が昔っぽいことを除けば、何も変わらないじゃないか?
 橋の向こうから、親切そうなおばちゃん(と俊には見えた)が、こちらに歩いて来る。
「あのー。」
 勇をふるって俊は話しかけた。
「ここは、京都ですか?」
 当然、聞かれた方は、びっくりした顔をした。
「そうやけど、どうしたん?迷子になったん?」
「いえ、違うんですけど、時間が分からなくて。」
「時間?」
「今は、何年ですか?」
 ちょっとの間、俊の顔を、いぶかしそうに見て、「おばちゃん」は、
「何年て、昭和何年ってこと?昭和56年やけど。」と答えた。
 とんでもない昔だ。昭和が何年まであったのか、学校で習ったことを覚えていないのが悔やまれるが、25年以上前なのは、確実だと思えた。
 俊の曇った表情を見て、「僕、大丈夫?おうちに帰れる?」と心配そうな「おばちゃん」。
「あ、大丈夫です。」ついそう答えてしまう。
「ほんまに大丈夫?交番まで連れて行こうか?」
 俊は首を振った。
「そう。じゃあね。」
 立ち去るのを見送って、途端に後悔があふれ出す。自分が置かれている状況を正直に話すべきだったのでは?そうすれば、力になってくれただろうに。天涯孤独の自分には助けてくれる人が必要なのだ。
「でも、しょうがないだろ。」
 別の自分が反論した。自分でも、事態がまだ信じられず、整理できていないのだから。
 彼は、橋の上から、まっすぐ下流へとゆったり流れていく鴨川を望んだ。
「これからどうしよう。」
 じわりじわりと涙が湧き出して来た。
「とにかく伏見稲荷に行ってみようか。」
 ようやく、そう心を決め、橋を東岸の方へ歩き出したが、伏見稲荷で見出すかもしれないものを考えると、むしろ、それを知るのが怖いような、行きたくないような気もして、足取りは重かった。
 その時、横手から、
「タカシ?タカシか?」
という甲高い声が耳に入って、そのあまりに切迫した調子に、うつ向いていた顔を上げて見ると、声の主は自分より一つ二つ年上と思われる少年で、まっすぐこちらを見て、俊が未だかつて人の顔に認めたことがないほどの感動を露わにしている。
「え?」
 俊は戸惑って見返したが、何故か、初めて会ったこの少年に懐かしさや親しみを感じるのが不思議だった。
「タカシと違うん?」
 少年は、不安を感じたようにおずおずと質問した。
「違うけど。」
「そうなん?自分、名前は?」
「サトシ。」
「ふうん、似てるな。」少年は、しげしげとこちらの顔を見詰め、「顔もそっくりやけど、名前も似てる。」と半ば自分に言い聞かせるように言った。
「タカシって誰の事?」
「俺の死んだ弟や。」
 予想もしなかった答えに、
「そうなん。」俊は同情を感じて、少年の目を見返した。自分が心を開いているのを感じ、相手も開いているのを感じる。
「そんなに似てるの?」
「ああ、そっくり。あ、でも、よく見ると、ちょっと違ったかな。」
 少年の顔に翳が差す。
「鼻はもう少しぺしゃっとしていたような気がする。」
「そう・・・」
「そやな。すごい似ているけど、やっぱり、違うかな。そら、そうや。タカシはもう生きていないんやから。」
 急激に元気をなくして、うつ向く少年。
 そのまま、二人は、次の言葉が見つからず、ただ見合っていた。
「じゃあ。」とぎこちなく微笑んで、立ち去ろうとする少年を、俊は、
「あの、名前なんて言うの。」と呼び止めた。
「俺?俺はモリカワアサヒコ。」
 俊は、目を見開いた。
「俺も森川。それに俺の父さんも朝彦って名前やねん。」
「へえー。」
 アサヒコと名乗る少年も何か感じるところがあったらしく、再びしげしげとこちらを見て、
「やっぱり、俺と自分、何か関係あんのかなあ。」と俊の手を取った。
「家に来いよ。タカシの写真見せるし。それに、俺の母さん、絶対喜びそうな気がする。」
「うん。行くよ。」
 俊は、喜んで、招待を受けた。さっきまで天涯孤独だったのに、こんなよい友達が出来たことが嬉しくてしょうがなかった。
 それに、この出会いで分かったことがある。少年は、俊が死んだ弟に似ている、と言った。死後の世界で、人が死ぬってことはないだろう。だから、多分、ここは、自分が生きていた世界と地続きの、過去の京都なのだ。
 アサヒコの家は、そこから少し上流に上がったところにある少年鑑別所に隣接した古い木造の職員住宅(アサヒコは、「官舎」と呼んだ)の中の1軒だった。宿舎の敷地内は、舗装されておらず、あちこちに雑草や野生と思われる花が茂っていて、そこだけ、田舎に来たような感じがした。
 「官舎」の正面には、木の格子の入った磨りガラスの引き戸が真ん中にあり、左側に小窓がある。こちらは、なんとなく便所だという気がした。上部に青い回転式の帽子を付けた煙突状のものが付き出しているのと、酸っぱいような、刺激のある臭いがかすかにしてくるので。
 アサヒコが扉をガラガラと開けると、狭くて地味な玄関間が現れ、左に便所らしい扉と右手に台所らしき部屋が見え、さらに奥に二部屋があるだけの小さな家だった。
 きちんと靴をそろえて床に上がったアサヒコは、扉のところで立ち尽くす俊に、「早よ入りや。」と声をかけた。
 それを聞いて、右手の部屋から、「誰か来たん?」と女の人の声がした。朝彦のお母さんだろう。
「うん。あんな、タカシにすごい似た子に会ってな、それで、家に連れて来たんや。」とアサヒコが、こちらから中は全部見えない台所らしい部屋の中に向かって答える。
「タカシって?」声がしたと思うとすぐに、声の主が玄関の間に出てきた。
 くるくるとパーマをかけた髪の毛をして、押しの強そうな顔つきをした人だった。
 俊を一目見るなり、その人は表情を一変させ(それは、最初アサヒコの顔に見たのと同様な異様な感動を迸らせた表情だった)、
「タカシ?タカシなん?」と靴下のまま三和土に降りてきて、いきなり抱きしめてきた。
「また、会えるなんて。」
と言われても、こちらは当惑するばかり。
「お母ちゃん、この子はタカシちゃうねん。サトシって名前やねん。」
とアサヒコが説明すると、
「ああ、そうやったん。そうやな、タカシが生きているわけないもんね。ごめんな。」
 アサヒコの母は、涙を拭いながら、体を離したが、手はまだ肩にかけたまましげしげと見詰めて、
「でも似てるわ。それにサトシ君?名前も似てるんやねえ。どこに住んでるの?」
「伏見稲荷です。」
「へえ、そんな遠いところに?」
 アサヒコの母は驚いた顔をした。この時代には電車が出町柳まで来ていないから、遠く感じられるのだろう。父親とここまで電車で来た時は15分程度で来られたのだが。
「そんなところから、どうやって来たん?」
 聞かれた俊は困った。「電車で。」と答えても、信じてもらえるはずがない。この時代には京阪電車はまだなかった可能性すらある(と彼には思えた)のだから。
「えーと、歩いて。」苦し紛れに口から出まかせ。
 当然、アサヒコ母は、「信じられない」という顔をし、暑くなかったかとか、どういう道で来たのかとか、色々聞いて来て、俊は答えに窮してしまう。
 アサヒコの母が、腑に落ちない様子なので、俊は焦ったが、「そうや。暑い中ずっと歩いて来たんやったな。冷たいもの出してあげなな。」と、台所の奥の方へ行ってくれたので、ほっとした。
 冷蔵庫の上に、鮮やかな水色の水玉模様で装われた紙箱があって、アサヒコ母は、それを、古びてシミがいっぱいついた木のテーブルの上に置いて、中から大きな瓶を大切そうに取り出すと、ガラスのコップ2つに、白い色をしたねっとりした液体を注ぎ、そこに冷凍庫から取り出したブロック氷をたくさん入れ、さらに水道の水を足してから、箸でかき回して、
「はい、どうぞ。」
と子ども2人に手渡した。
 アサヒコがそれを受け取ってすぐに喉を鳴らして飲み始めたので、俊も、「ありがとう。」と受け取って、口を近付けると、甘い爽やかな香りがして、ゆっくりと飲み込むと、甘さの中に酸っぱさも混じったような不思議な味わいで、すぐに彼もごくごくと一気に飲み切ってしまった。
「すごい、おいしい。」
「カルピス飲んだことないん?」とアサヒコが聞いた。
「カルピス?飲んだことない。あ、でも、カルピスソーダは何度か飲んだことあるかな。」
 今度は、アサヒコと母の方が、驚いた。
「へえ、伏見稲荷にはカルピスソーダっていうのがあるの?」
 俊は、「しまった」と思った。「いえ、どこで飲んだかは忘れたけど。」ごまかしながら、この時代にないもののことは口に出さないように気を付けなければと思った。2人とも親切そうではあるけど、全然別の時代から来たと知ったら気味悪がられるかもしれない。
 だが、すぐに、彼の着ている服(上はTシャツで、下はポケットがたくさんついた短パンだった)が、注目を集めてしまった。
 母親の方は「かっこいい服やねえ。未来の服みたい。」と言い、息子の方は「そう。俺もさっきから、変わった服やなって思ってたんや。」と言った。アサヒコは、裾の部分がほとんどない、本当の「半ズボン」を穿いていた。多分、この時代の子供は、それが普通だったのだろうと思われた。 
 俊は再び答えに窮し、あいまいにほほ笑むしかなかったが、アサヒコの母は、「じゃあ、2人で遊んどき。お母ちゃんは晩御飯の用意するから。」と言ったので、アサヒコは嬉しそうに頷き、俊はホッとした。
 色々質問されると困るという事もあるが、アサヒコの母は、なんだか押しが強いというか威圧されるところがあって、落ち着けない感じがしていたから。
 2人が奥の部屋へ入って行くと、後ろから、アサヒコの母が、
「サトシ君も晩御飯食べていき、せっかく来たんやから。」
と声をかけた。
 俊は迷った。窓から入って来る陽光から、日はだいぶ傾いて来ていることが分かる。伏見稲荷の自分の家まで歩いて帰るには、長居は出来ない。でも、行ってみて自分の家は有るのか?有ったとして、パパやママや弟が住んでいるはずがあるか?20年以上前のこの世界に。もし、知っている人に会えなかったら、誰も頼れない。そう考えると、恐ろしくてたまらない。
「うん。ありがとう。」と俊は小さな声で答えた。
「そうか。じゃあ、たくさん遊べるな。」アサヒコは、本当に嬉しそうな笑顔をこちらへ向けたが、それは、ずっと前からの友達か兄弟に対するような親しみに満ちたものだった。
 彼はまず、木枠の写真スタンドに入った1枚の写真を見せてくれた。
 よそ行きの服装で、かしこまった顔をして身を寄せ合う家族。その中で一人だけ、おどけた表情で歯をむき出している、やせっぽちの少年をアサヒコは指で示した。
「似てるやろう。へんな顔してるけど。」
 これが、タカシであることは、すぐに分かった。確かに、俊と瓜二つで、アサヒコと母親が非常な感動を示したのも理解できた。
「ほんまやなあ。俺もこういうヘンな顔で写真に写ることよくある。」
と俊は言った。家族で写真を撮ろうと言われると、ついヘン顔をしてしまい、「ふざけるな。」と父から怖い声で叱られたりするのだ。怒らせると分かっていて、してしまうのだが、もっと小さな時は、普通に幸せな笑顔で写真を撮られていたような気もした。ヘン顔は弟が出来た頃からするようになったのかなあ。
「タカシのこと好きやったん?」と俊が聞くと、
「うん。いつも一緒に遊んでた。だけど・・・」
 アサヒコは言いよどんだ。
「だけど、どうしたん?」
「うん。こいつは、病気がちで弱っちくてな。」
 アサヒコは目を伏せて、言葉を探すような様子を見せた。
「俺よりずっと小さいけど、ほんまは1歳しか年は違わへんねん。それで、俺は、ちょっとバカにしてたというか、優越感持ってたというか、結構横暴やってなあ。自分がやりたくないことを命令してタカシにさせたりしてた。」
 そう言って眼元に手をやったのは、涙を拭っているのかもしれなかった。
 アサヒコの母がこちらにやって来て、「サトシ君、お家に電話するわ。晩御飯食べて行ってもらいますって。電話番号は?」と聞いた。
 俊は、表情を硬くして、黙りこくった。
「どうしたん?お家に電話がないの?」
 見当違いな質問に、俊は苦笑した。それで気が解れたのか、自分の家の電話番号を包み隠さず告げる気になった。
 十中八九、赤の他人が出るだろうが、それなら、わざわざ伏見稲荷まで行く手間が省ける。
 俊が言う番号を書き留めたアサヒコの母は、背の低い箪笥の上に載った、奇妙な電話機の受話器を手に取った。それは、本体も受話器も真っ黒な色をしていて、本体の真ん中に、穴がたくさん開いた円盤が付いている。
 アサヒコ母は、その穴に指を入れて、ジーコジーコと音を立てて、それを何度も回した。一つ一つの穴が、1とか2とか7とかの数字に対応していて、それで番号を指定する仕組みらしかった。
 俊は唾を飲み込んで、受話器から漏れてくる音に耳を澄ませた。
 だが、10回以上トゥルルルルと音がしても、相手は電話に出なかった。
「お留守みたいやねえ。」と母親は、困った顔をしたが、俊はほっとした。
 アサヒコが、「また、電話したらええやん。晩御飯食べて帰ってもらおう。」とすがるように訴えた。
「そうやねえ。」と母親は思案して、「お母さんは、お家にいてはらへんの?」と聞いた。
「うん。多分、買い物に行ってるんやと思う。」
「そう。じゃあ、また架けてみようか。」
「そやそや。後で架けたらええ。」
 アサヒコがはしゃいで、俊の肩に手を回し、部屋の奥のおもちゃ籠のところに連れて行くと、「よし。最初は野球盤をやろう。」と宣言した。
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