第10話 砲弾のように

文字数 4,739文字

「まあ、きれいに書けてはおるが」
 どっこいしょ、と言って半酔は立ち上がる。
「個性というものはな、さまざまな葛藤の上に手に入れるものだ。性根の据わっておらぬ者や、小ずるい者には、とてもその境地は表現できぬ」

 叱咤するような口調じゃなかったから、何を指摘されたのかオレにはよく分からなかった。だけどその言葉の芯の部分に、反省を促すような何かがあったのは確かだ。
 
 半酔はすたすたと歩いて、部屋の隅にある自分の書道具を取りに行っている。
 オレはもちろん不満だった。
 性根が据わってないってオレのこと? このオレ様ほど友達に恐れられてる者もいないのに、あんたは何を知ってるっていうんだ。
 だいたい、きれいって言ったよな。きれいでどこが悪いんだ。順庵先生だったらベタ褒めしてくれるのに。

 半酔は折りたたみ式の文机を出し、その上に道具を並べる。
 そして、水滴を傾けながら、ふいに言ったんだ。
「お前、何か心に鬱屈を抱えておるだろう」

 なぜかはっとした。真実を言い当てる能力というものが、この人には備わっていると感じた。
 胸の内を見透かされるのが怖くてオレは目を反らしたが、半酔は畳みかけるように聞いてきた。
「何がそんなに怖い? 親か、芸事の師匠か」

 何と答えたら良いものか、オレは迷った。まさか、幼少時に受けた虐待のことまで見抜かれたわけじゃないだろう。
 かなりの沈黙の後、ようやく顔を上げたら、半酔はもうオレのことなんか見ていなかった。ただ悠然と墨を摺っている。
「年齢に見合わぬ技術はある。しかしこの書体には、自信のなさが感じられるのう。馬鹿にされたくなくて、虚勢を張っているように見える」

 的確だった。
 否定のしようもなくて、じくじくした痛みが胃の腑に落ちていく。確かにオレ、世の中がすごく怖くて、見下されるのは耐えられなくて、強い自分を演じてる。書に親しむ時だって同じだ。オレってすごいだろうと言いたくて、相手に勝つために、技を見せつけるために作品を書いてる。

「次はわしが書いてみよう」
 半酔は腕まくりしてそう言ったが、まだ水滴から水を継ぎ足してる。焦りを押しとどめるような、ゆったりとした動作だった。この分だと帰りは日が暮れてからになりそうだ。

 だが半酔が穂先に墨を含ませたその瞬間、弛緩していたその場の空気がさっと変わった。
 得体の知れない何かが立ち現れる前触れに他ならなかった。四方から気が集中し、筆に命が宿っていく。

 そしてオレは奇跡を見た。

 突き抜けるような、勢いのある線が生まれていく。
 はねが、はらいが、まるで生きた人間のように躍動している。みなぎるような力がある。
 それでいて姿はどこまでも端正だった。こんなにも美しい文字を見たことはなかった。大して時間をかけたわけでもないのに、文字の間隔、余白の分量までもが計算され尽くしている。

 紙の上に全身全霊の気迫が満ちている。ただの作品じゃない、とはたぶんこういうことを言うんだろう。
 厳しい印象の、研ぎ澄まされた文字。一見、それだけの単純なものに見える。だけどよく見れば陰影も、そして甘さも華やかさも兼ね備えていて、複雑だった。洗練っていうのは、こういうのを指すんじゃないだろうか。
 そしてこの洗練は、基礎がしっかりできていてこその境地だった。やろうと思ってやれるもんじゃない。

 ふと顔を上げ、オレは自分の千字文を見た。何でオレ、あんなものが自信作だなんて思ったんだろう。まるで話にならない。恥ずかしい。出すんじゃなかった。

 肩で呼吸をしながら、オレは再び半酔を見る。この人は今、何を書いているんだろう。
 どこかで見たことのある漢詩だった。だけどどこで見たのか思い出せない。

 詩の内容に即しているのか、気品にあふれ、でも勢いのある字だ。
 でも、この物悲しさは何だろう? はらいの部分にかすれと、微細なぶれがあるから、それが悲しみを感じさせるんだろうか。とにかくここには人生の闇がある。

 助十郎とともに気圧されて黙りこくっていたら、半酔が筆を置いてこちらを見た。
「読めるか?」

 答えられなかった。すると半酔が自分で答える。
「白居易の長恨歌だ」
 ああそうかと、二人ともうなずく。それなら明倫館で読んだことがある。

 助十郎がたどたどしく読み下した。
「春、寒うして(よく)を賜ふ、華清(かせい)()……」
 そう。それは楊貴妃が玄宗皇帝の後宮で湯あみをする、なまめかしい描写だった。

 ここには、裸の美女がいる。
 オレはぎょっとした。何ていやらしい作品だ。半酔はしてやったりと思ったんだろう、ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「何も目を背けることはない。真実は往々にして、身近な所にある」

 この時おぼろながら、合点したものがある。人生の葛藤をしかと見据えるのが、書を含めた芸術の役目なんじゃないかって。
 自分にとって大切なことほど、言葉にしにくいものだった。だからこそ、全力で言葉をつむぐ意味があるんじゃないだろうか。

 あらためて半酔の作品を見て、墨と筆だけで、それも文字だけで、他人の中に一つの感覚を呼び起こせる技に気づいた。だってこの文字は、楊貴妃の艶麗さだけじゃなくて、その美しさが悲劇を招いたこともちゃんと語ってるじゃないか。

 書っていいな、と思った。オレもこんな風に、人の心を動かすような字を書いてみたいな。
 そこでオレは改まって、半酔先生の前で姿勢を正した。

「おいは、砲術家の息子やばってん、砲術家にはなりとうなかと」
「ほう」
「書家になりたかです。どうやったらなるると?」

 むむ、と半酔はいきなり言葉に窮した。
「……難しい話だな。実力さえあれば認められるというものでもない」
 本人にも思い当たる悩みがあったらしい。半酔は自分の若い頃の話をした。
 それはいかに自分が駄目人間で、家族に迷惑をかけたかっていう話だった。芸術で身を立てて行こうなんて思うな。人生を駄目にするだけだ。そんな趣旨の話だった。
「このわしも、すでに浪々の身だ。この長崎では少しばかり仕事を恵んでもらったものの、明日にはどうなるかわからぬ。若い者にはとても勧められぬわ」
 
 覚悟を問われたような気がして、オレは黙り込んだ。半酔はまだ続ける。
「家業が砲術であるのなら、お前はやはり砲術の中におのれの役割を見つけるべきではないのか。目の前のことに真剣に向き合ってこそ、本物の書に行き着くというものじゃ」
 
 やっぱりそうなのか。オレが唇を噛み締めると、半酔は逆に笑い出した。
「ま、このわしに人のことは言えんのだがのう」
 そうかもしれないが、だからといって一緒に笑うことはできなかった。砲術の修行を続けるのは、今のオレにはとてつもなく苦しいことだ。

 嫌なことから逃げようとするだけで、どうしてこんなに人生が苦しくなるんだろう。逆に好きなことを追求しようとすれば、それは(いばら)の道だ。
 胸に巣食う、父への反感。理不尽だらけの、砲術の稽古。
 そこから永遠に逃げられないのかと思ったら、絶望的な気分になった。あんまり悲しくて、呼吸もできなくなって、みるみる視界が滲んでいく。

「……おいは」
 どうにか涙はこらえたが、声が震えてしまった。半酔と助十郎はオレの変化に驚いたらしく、息を詰めてこっちを見ている。
「おいは、明日にも殺されるて思うて、生きてきた」
 
 ぐずっと鼻を鳴らしたら、もう耐えられなかった。それで堰を切ったように、オレは家庭の事情を打ち明けたんだ。
 意味も分からないまま、この身に降りかかってきた拷問の数々。お前など早く死ねなどといった暴言の数々。明倫館では、誰にも言えなかったことだ。

 何度もすすり上げながら、オレは延々と身の上話をした。
「早う死んで、天におる本当の母に会いたかて、何度も思うた。ばってん兄や妹ば置いて、自分だけ逃げるわけにはいかんけん、死ぬんだけは思いとどまった」

 襷がけで短くなった袖を引っ張って顔の涙をぬぐい、ついでにチーンと鼻もかむ。全部吐き出したら、少しだけすっきりした気分になった。

 気付けば、半酔は透徹した目でオレを見つめていた。
「……苦労したんだな」
 うん、とオレは素直にうなずく。確かにオレ、こんなに過去を引きずってたんだな。しかもそれを初対面の人に話した。自分でもびっくりだ。

「ならばその悔しい思い、そのまま作品にぶつけてみるが良い。それが、お前を成長させるやもしれぬ」
 そう言って半酔は一度庭に目を移したが、やがて何か思いついたように再びオレを見据えた。
「お前、号は、まだないのか」
 だんだんいつもの元気を取り戻し、おれはふてぶてしい答えを返す。
「そがん気取ったもん、あるわけがなかやろ」
 
「何でも良い。つけてみるが良い。お前の場合、少し背伸びした方がいいかもしれんぞ」
 それはちょっと意外な助言だった。生意気は駄目だ、子供らしくもっと謙虚になれと言われるのかと思ったのに。

 半酔はしかし何か裏付けでもあるかのように、自信を込めて言う。
「自分の実力以上の名をつけてみるのも良いものじゃ。実力が名に追いつくよう、伸びていくことも往々にしてあるぞ」
 そんなものなんだろうか。オレは小首を傾ける。
 とにかく面白い発想の人だと思った。まさに明倫館にはいないような先生だ。
 
「良か先生やな」
 帰りがけ、オレは助十郎に言った。こんなにも吹っ切れるとは思わなかった。やはり名のある書家は違うってことか。オレの(がら)じゃないけど、会わせてくれた助十郎にはお礼を言っておこう。
「来て良かった。ありがとおな」

 助十郎は照れくさそうにううん、と首を横に振った。
「高島くんが実力者じゃけん。高島くんなら、先生のすごさがわかるって思うたんばい」
 その通りだった。あの作品が一気にオレを解き放った。明倫館も自宅もあんなに苦しい場所だったのに、今はどうでも良くなってる。

 半酔は芸術家なんてヤクザ者だ、半端者だ、みたいな言い方をしてたけど、本当にそうなんだろうか。美しい作品は、砲弾のように相手の懐に飛び込み、炸裂する。人を死の淵から救うぐらいの力を持つことだってあるはずだ。

 助十郎は、よくぞオレを誘いに来たものだと思った。
 オレが子分にしてる他の友達は、これほど親身になってオレの心配をしてはくれない。親分が力を失えば、離れていくだけだろう。だが、いじめられっ子の助十郎は違った。こいつにとって高島家に来ることには、敵陣に飛び込むような勇気が必要だったはずなのに。
 すごいな、とオレは素直に思った。こいつ、見た目によらず、すごい奴だ。

 なあ、と門を出たオレは、再び振り返って助十郎に声を掛ける。
「また来ても良かね?」

「もちろん」
 ぱっと助十郎は、顔を輝かせた。
「先生がここにいる間、何回でも来んしゃい。高島くんが遊びに来てくれたら、うちの父も喜ぶばい」

 だがすぐに、あのな、と助十郎は言いよどむ。
 少しだけ迷った様子を見せた後、助十郎は再びオレを見た。
「実は、半酔先生に高島くんば会わせて欲しかって頼んできたんは、高島先生じゃ」

 あまりに突然過ぎて、オレはしばしその言葉を理解できなかった。
「……え?」
「高島先生、自分が勧めたんでは高島くんがその気にならんって分かっとられたんじゃ。そいで、石橋家に相談に来られた。おいに頭ば下げて、高島くんを誘うてくれって仰ったんじゃ」

 オレは視線を宙に泳がせて、やがて地面に落とした。あの憎らしい父にすべてを読まれていたかと思うと、悔しさを通り越して絶望に行き着いてしまいそうだ。
 だが助十郎は反論を許さなかった。
「良か父ちゃんやな。高島くん」
 今日はもうこれで終わりって感じで、助十郎は手を振り、満面の笑みでオレを送り出したんだ。
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