第11話 柳暗花明

文字数 4,882文字

 明倫館から帰る道中、オレと助十郎は団子を食べている。

 と言ってもむしゃぶりついてるのはオレだけで、助十郎は一口も食べてない。緋毛氈(ひもうせん)を敷いた腰かけで、こいつは串を手にしたまま、さっきから弾丸のようにまくし立ててるんだ。
「……そいでな、魚売りの娘は、ほんとに可愛らしか子ぉやったんじゃ。父親に促されて出て行く時、後ろ髪を引かれるように、こう、流し目でおいの方を振り返ってな」

 大人しいとばかり思っていた助十郎だが、気安くなるにつれ、まるで違う一面を見せ始めた。特に若い女の話になると、呆れるほどの勢いでしゃべりまくる。助十郎の美女談義は次々に繰り出される弾丸のようだ。お前は二十連発斉発(せいはつ)銃か。

 助十郎はなかなか惚れっぽい奴みたいで、さっきはお茶を運んできた団子屋の娘にも見とれてた。
 いやいや嘘じゃないぜ? オレはしかと見た。

 黙って串にかぶりつき、オレは行きかう人々に目をやるばかり。どいつもこいつも、女以外に興味はないのか。お前ら、そんなくだらん生きざまでいいと思ってんのか。

 助十郎より先に食べ終えたオレは、喉の奥に茶を流し込んだ。
 が、その手を止めたのは、少し先を行く集団に目が吸い寄せられたからだ。

 あれは弥三郎兄ちじゃないか?

 見間違いじゃない。飛び抜けて背の高い弥三郎兄ちが、取り巻きを三人ほど従えて数(けん)先を歩いてる。目の前の往来に人は多かったが、彼ら四人の姿は周囲から浮き立ったようにはっきりと見えた。

「え、あれが糾之丞の兄ちゃん?」
 助十郎も声を落としつつ、戸惑ったように視線のみを遠くへ送る。
「碩次郎さんとは、だいぶ雰囲気が違うね」
 助十郎の声にも少々侮蔑がこもっていたのは、やはり弥三郎兄ちから不穏なものを感じたからだろう。

 そう。優等生の碩次郎兄ちがオレの同母兄だってことは、みんなが知ってる。でも異母兄の弥三郎兄ちはあまりに別格だし、オレも碩次郎兄ちも家庭のことはあまり人に話してない。オレたちがあの高島弥三郎と同じ屋敷に同居してるってことは意外に知られてないんだ。

 その弥三郎兄ちはといえば、相変わらずだった。子分の一人に自分の荷物を持たせてふんぞり返ってるよ。
 だけど、いつもの居丈高な態度とは、何か違っているような気がする。

 オレはさっと立ち上がった。
 勘違いかもしれない。でも弥三郎兄ちが仲間と話すために半分ほど振り向いた時、その顔が見えたんだ。
 いつになく、おどおどとした視線。どこが、とははっきりと言えないけど、不自然な感じがした。あれは良からぬことを考えている人間の仕草だ。

 急いで勘定を済ませ、オレは前を睨みつつ歩き出す。助十郎は迷った様子で付いてきたが、やっぱり怯えたように声を掛けてきた。
「やめんね。後ば付けるなんて、良くなかよ」
「気の進まんなら来んでよかよ、助十郎」
 弥三郎兄ち達を見失わぬよう、オレは視線を張り付けたまま答えた。確かにこれは高島家の問題だ。助十郎を巻き込まない方が良いかもしれない。

 しかし助十郎はかえって覚悟を決めたのか、いつになく勇ましい声を上げたのだった。
「ええい、一蓮托生や。行くよ」

 オレたち二人は前方に睨みを利かせながら、人込みをすり抜けていく。
 できれば弥三郎兄ちの行動を探りたかった。あの驕慢で、オレたち下の三人を差別するしか能のない男の、意外な弱点を押さえられないか。

 気付かれない程度に距離を置き、しばらくは尾行を続ける。だが、まったく別のあることに気づいてオレは足を止めかけた。
 ここは、丸山に通じる道じゃないか。

 これはやめた方がいいかなと思った。子供がそんな「悪所」に入り込んでいるのを見られたら、きっとお役人様に捕まり、こっぴどく叱られる。助十郎が一緒なら、なおさらまずいだろう。

 ちょっと前、オレもまた子分を引き連れて歩いていたときのことだが、仲間とワイワイ丸山の噂話に興じたことがあった。
「座敷に太夫(たゆう)を揚げてよう。ぱあっとやろうぜ」
 あれは遊び人を真似たごっこ遊びだった。そんな風に言う「悪い」お兄さんたちがかっこいいと思ってたからな。

 当然だが、オレたちに丸山で遊ぶ金なんてあるわけがなかった。あの時はただ同じような少年たちと徒党を組んでしゃがみ込み、間抜けな大人たちを笑うのが楽しかった。そうすれば世の規範から解き放たれて、自分たちはどんな風にでも生きられるような気がしたんだ。

 とまあそんなわけで、オレが実際にそういう町に足を踏み入れたことは一度もなかった。いざ本当に丸山へ向かうとなると、それだけで心の臓がバクバク言って、足がすくむようだ。

 ぼんやりしてると、弥三郎兄ちの集団はどんどん先へと行ってしまう。ままよと思って、オレは再び歩き出した。けっきょく助十郎を巻き込む形で、オレは暗黒街へと足を向ける。

 だけど丸山の大門まで来たとき、別にどうということはないと分かった。目抜き通りには多くの人が行き交ってるし、子供も多く混じってるじゃないか。
「すごか人出やなあ」
「本当やなあ。祭でも始まるごたー」
 珍しいものでも見るような気分で、オレと助十郎は門をくぐる。何だかワクワクしてきた。門の脇には見張りの役人がいたが、仲間との談笑に夢中になってて、こっちに気を止める気配はなかった。

 オレたちはキョロキョロしながら、丸山の目抜き通りへと足を踏み入れた。目立つ大店のほか、ごく普通の店もあれば、間口の狭い小さな店もある。紅柄格子があって、中の部屋を見渡せるようになっているのは、遊女たちを見せるためのものなんだろうか。

 だけど、そこに見とれてたら、つい弥三郎兄ちたちを見失ってしまった。

「ありゃ、こっちかな?」
 オレと助十郎はうろうろしながら、彼らが消えて行ったと思われる裏通りに回り込んだ。
 そこではっとした。表通りと違って、人通りの少ないその路地は、見るからに不気味で寂れた町だったから。

 幼少期に暮らしていた裏店の光景が、ちらちらと脳裏によみがえる。
 足元には、同じような悪臭漂う下水溝があった。誰かが説明してくれたわけでもないのに、ここの醜悪さは手に取るように分かった。表通りでは売れなくなった遊女がこっちに流れ着くんだろう。

 やばい。
 やばいやばい、やばいぞ、ここは!

 助十郎は暴力と金の匂いに気づいたがどうか分からないけど、オレは一刻も早くここから離れたくて、彼の袖を引っ張るようにして表通りに戻った。
「え、兄ちゃんば探さなくて良かの?」
 助十郎は戸惑ったように言ったけど、オレにはもうどうでも良かった。

 人込みに戻ると、そこに漂う健全な空気にほっとする。今しがた見た地獄を忘れさせてくれるような、華やかで美しい店が立ち並んでるじゃないか。
 いいなあ、ここ。
 オレは素直にそう思った。浮世の悩みなど、吹き飛ばしてくれる楽しい町だ。こういうのを柳暗花明(りゅうあんかめい)っていうんだろうなあ。

 できることなら夜の丸山の光景を見てみたいけど、釘本さんは許してくれないだろう。
 ちぇっ。門限なんかなければいいのに。

 だけど、いつの間にか夕刻が近づいているようだった。辺りは早くも薄暗くなってきて、近くの店では若い衆が店先の灯をともしにやって来た。

 早く帰らねばまずい刻限になりつつあった。
 だけど次々に光が放たれ、通りが昼間のように明るくなっていくのを目にすると、その光景のあまりの見事さに、オレたちは動けなくなった。足に根が生えたかのように立ち尽くし、オレたちはうっとりとその桃源郷に見入ってた。どこからか三味線の音も流れてくる。

 何とも幻想的な光景だった。自分たちがここへ来た理由なんて、もうすっかり忘れてた。こんなにもきらびやかな町があるのか。目もくらむような絢爛豪華さだ。

 先ほどの紅柄格子の中に女たちが現れた。
 通りを行き交う人々は、ものすごい勢いでその店先に群がっていく。浅ましい姿だとは思うのに、それさえ今のオレには輝かしい光芒の中にあるようだった。

 今度は、表通りの人だかりの中からおおっと歓声が上がった。
 そちらを見ると、巨大な傘がまず目に飛び込んできた。お付きの男女に囲まれて、差しかけられた傘の下には、ひときわ背が高く、きらびやかに着飾った女がいた。数えきれないほどの(こうがい)を髪に差し、黒塗りの三枚歯の下駄を履いている。背が高く見えたのは、あの下駄のせいだ。

 重たそうなその恰好のまま、女は格調高い足さばきで歩を進めていく。

 オレも助十郎も、呼吸すら忘れてそれに見入った。あまりのまぶしさに、あまりの神々しさに声も出なかった。
 さっきまで大騒ぎしていた人々も、固唾を飲んでその道中を見守ってる。行列自体の豪華さもさりながら、やはり中央にいる女の美しさに圧倒されるようだった。
 濃い化粧をしていても肌の透明感が分かるし、何よりキリっとしたあの目に力がある。真冬の渓流を思わせるような、厳しさを持った輝きだ。

 なるほど最高位の太夫になれるのは、並大抵の女じゃなさそうだった。うちの妹の登和とか、高島家の女中たちとは完全に別の生き物としか言いようがない。

 噂に聞いてた太夫の道中がこれだった。初めて見たけど、想像してたのとは全然違ってた。少なくともあの太夫に崩れた雰囲気はないし、健康的で、まっすぐな美しさを感じさせるじゃないか。

 だけどオレは見ていられないとも思った。通りの灯が太夫の肌を照らし出し、多くの男たちが目をギラギラさせてなぶるように見つめている。あれほどに無垢な美しい肌を、あんな風に汚さないで欲しかった。
 なのに一方で、自分もそこから目が離せなかった。人間はどうして、はかないものが朽ちていく様子を見たいと思ってしまうんだろう。

 オレの中にもそんな残酷さが眠ってるような気がして怖かった。正体の分からない何かが体の奥底から込み上げてきて、武者震いが起こりかける。それを抑え込みたくて、オレは自分の二の腕を抱きしめた。

 だけど、その時だ。
 一陣の風が鼻先を通り抜ける。その先から太夫の秀麗な目が、人垣を越えてまっすぐにオレを捕らえた。
 嘘じゃない。ほんとに目が合ったんだ。
 全身に鳥肌が立った。みぞおちの真ん中に、二十(もんめ)玉を食らったような衝撃だ。
 オレは天上から届く、一筋の光明の中にいた。この世に、これほど美しい瞬間があったんだ。

「……見た?」
 大夫が過ぎ去ってから、助十郎が聞いてきた。見てないわけがないのに、愚かな質問だ。
 だけどオレにはそれを指摘する余裕すらなくて、ああ、と曖昧に答えただけ。オレの魂はまだ夢の中をさまよってた。

「楊貴妃も、あんなだったのかな」
 助十郎がまた聞いてきた時、オレはやっと太夫の魔力から解放された。震えが止まり、声もちゃんと出るみたいだ。
「あ……ああ。そうかもな」
 いや、楊貴妃だってあんなにきれいじゃなかっただろうと、オレはこっそり首を振る。
 あれは生身の人間じゃない。きっと天上で琵琶をかき鳴らす弁財天が、間違って地上に降りてきちゃったんだ。

 だけど呑気な助十郎のこと。帰り道でまたこんなことを言い出した。
「……あのな、さっきあの太夫がな、顔ばこっちに向けて、おいのことば見たんじゃ。おいのことば、好きになったんじゃなかろうか」

 何言ってんだお前。
 オレは呆れて助十郎を見返したが、この時胸に去来したのは、青びょうたんのようなこの友人を蔑む気持ちじゃなくて、ただ気の毒だという感情だった。

 それは違うぜ、助十郎。気持ちは分かるが、あの太夫はお前じゃなくてこのオレを見たんだ。オレのことを好きになったんだからな。
 事実を告げるのは残酷だから、言わないでおいてやる。そう、友人の夢を壊さぬ程度には、オレも優しい人間なんだ。

 二人とも、夜の匂いに完全に酩酊していた。
 門限はとっくに過ぎてた。また釘本さんに怒られるなあ、などと思っていたのは確かだけど、あまりに夢見心地だったんで、オレはこの後どこで助十郎と別れたのかさえ覚えてない。
 ただ、炸裂弾のように衝撃的な美の世界はここにもあるんだって、この夜に思い知ったんだ。

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