第8話 不服従

文字数 3,347文字

 演武が終わると、下っ端の者たちには他にやることがある。

 うんざりした気分で、オレは集合に応じる。
 そして始まった。この中で一番年長の弟子、伊沢清五郎さんを先頭に、みんな一列になって調練場の隅をぐるぐる走るんだ。
 銃を撃つ先輩たちの邪魔にならぬよう、遠慮しながら静かにやる。たったそれだけなのに、体力のないオレはすぐに息が切れてくる。

 まずは五十周。これだけでも結構きつい。
 オレも碩次郎兄ちも運動はあんまり得意じゃなかった。剣術道場にもしばらく通わせてもらったけど、実は二人とも、ものにできなかったんだよな。
 
 走って体を温めた後は、いよいよ振り棒鍛錬に移る。
 これが重いんだ。赤樫(あかがし)の木でできた、握るのも大変なほど太くてしっかりした棒で、長さは三尺ほど、重さは一貫目(約3.75キロ)もある。
 で、素振りが五百回。もう死んじゃうよ。

 ああ、嫌だ、嫌だ。体が重い。
 何でオレたちばっかり、こんな目に遭わなきゃならないんだろう。師範は筋力をつけるのが大事だって言うけどさ、本当にそうなら弥三郎兄ち達だってやらなきゃいけないはずじゃないか。下っ端だけがやらされるなんて、まったく平仄(ひょうそく)が合わないぜ。

 考え事をしながら、だらだらとやり過ごしていたら、背後に父が立っていたことに気づかなかった。
「おい」
 大音声がして、我に返る。オレはびくっと背筋を伸ばした。

 恐る恐る振り向いたら、まさに師範、高島四郎兵衛(しろべえ)がそこにいた。
「何じゃその姿勢は。糾之丞(ただのじょう)。やる気がないなら、帰れ!」
 オレは小さく息を呑み、黙って下を向いた。

 一瞬にして世界が敵に回り、みるみる自分の体が小さくしぼんでいくようだった。自分に非があったっていう自覚はあった。だからこそ、これ以上いたたまれない状況もなかった。

 だらしない息子を前にして、父はまるで閻魔大王だった。誰であっても怠惰な者には一切の容赦はしないとばかり、父は大音声で怒鳴りつけてくる。
「本気で学ぼうとしとる奴の迷惑じゃけん、帰れ!」

 ここまで激しく、父が弟子を叱るのは珍しいことだった。オレが実の子だから、あえて厳しくしてるんだろう。
 とにかく衆人環視の中、オレは羞恥のどん底に突き落とされた。

 ふと違和感を覚えた。オレ、確かに考え事をしてたけど、そこまで悪いことをしたか? ダラダラやってる奴なんて、他にもたくさんいるじゃないか。
 同じことをしても他の弟子だったら、父はもう少し控え目な注意の仕方にとどめただろう。とりわけ弥三郎兄ちだったら、間違いなく見逃してやっただろう。

 そんな外面ばかり良い父を、改めて許せないと思った。
 みんなには「いい親父さんがいて、糾之丞がうらやましい」みたいな見当違いのことを言われたりするけど、実情を知らないからそんな風に言えるんだ。オレだってどうせ砲術を習うなら、赤の他人に教わりたかったよ。

 悔しかった。
 何か一言でも、この胸にわだかまる反発心を伝えたいと思った。だけど肝心な時に限って、うまい言葉は何一つ出てきてはくれないもんだ。オレの口は情けなくも、堅く結ばれるばかりだった。

 父はそんなオレにとどめを刺すように言う。
「帰れと申しておる。聞こえんのか」
 視界の隅で碩次郎兄ちを含め、他の弟子たちが息を詰めてオレを見つめてる。
 まさに針を刺すような視線。凍り付くような恥辱ってやつだ。

 もう拒絶感ではちきれそうだった。この世の中、オレの味方をしてくれる者なんて一人もいないんだ。お前なんか一瞬たりとも生きる価値がないって、みんなそう思ってんだろ!

 ぶるぶると全身を震わせながら、オレは父を睨み上げる。
 この人はなぜ、オレにばっかり厳しく当たるんだろう。もちろん碩次郎兄ちも叱られる時があるけど、兄ちは学問ができるから大した打撃にならない。一番こたえてるのはこのオレだ。

 いや、答えは分かってる。オレのことを憎んでるからだろう。
 母の遺言で、父は仕方なくオレたちを引き取ったものの、人間、優しい気持ちでいられるのは最初だけだ。時間が経つにつれ、やっぱりとんだお荷物だと分かったんだ。

 今は邪魔な息子を、自分から遠ざけようとしている。優等生ならまだしも、できない奴なんてとっとと出て行けって言いたいんだ。出て行って、どこかで野垂れ死のうが何だろうが、勝手にしろっていうんだろう。

 なぜか忘れていた実母、おいとの顔が鮮烈によみがえってきた。
 母はこういう身勝手な父に踏みにじられて、貧しい暮らしの中で死んでいった。逆らったら自分が生きていけなかったからだ。

「父上は立派なお方じゃけん。すばらしかお人じゃけん」
 あれはまさに神か仏かというほどの崇拝ぶりだったと思う。彼女は子供たちにも、盲目的に父に従うよう強いた。服従こそが正しい選択なんだって、自分にもそう言い聞かせていたんじゃないだろうか。

 だけど、そんな母の臨終の場に、そして葬儀の場にも父はいなかった。あれほど健気に仕えた母に対する仕打ちがそれだったわけだ。
 母はもちろん、高島家のお墓には入れてもらえない。三人も子供を産んで、ただ見捨てられて死んでいって、郊外の寺にひっそりと葬られたんだ。

 可哀想な母ちゃん。
 オレの視界がぼやけ、ゆるんできた。
 一人の女が、生涯にわたって抱えた痛み。それが全部オレに乗り移ってくるようだった。ちぎれるようなこの悲しみを、この闇を、自分もずっと背負っていくんだって思った。

 自分でも信じられないほど、大粒の涙がぽたりぽたりと地面に落ちて行った。父はもちろん、他の弟子たちも呆れたように黙ってオレを見つめてる。
 そうだよな。十五歳にもなった男が、幼児のように人前で泣くなんて。惨めだし、みっともないって自分でも分かってる。

 一刻も早くここから逃げ出したかった。
 碩次郎兄ちが異変に気付いたらしく、慌ててオレの方に駆け寄ってくる。
「おい、タダ……」
 兄ちに捕まりたくなかった。捕まったら、この前石橋家でやらされたのと同じように、無理やり頭を下げさせられるだろう。それだけは絶対に御免だ。謝るぐらいなら今ここで死んでやる。

 オレのことなんか、放っておいて欲しかった。思った通り、兄ちはオレの着物の袖を捕まえてきたけど、こっちはその手をすぐに振りほどく。
 そしてありったけの声で、うおおおおと叫んで、オレは調練場を抜け出したんだ。

 振り向きもせず、ひたすら走った。

 砲術なんか、クソだ。何が古式ゆかしい荻野流だ。
 父が師範だから、高島という家に食わせてもらってるから、オレは砲術をやらねばならないとされてきた。家の体面を守るために、父は自分の息子たちが率先して荻野流を学んでる形にしたかったんだろう。
 ひどい抑圧だ。どうせオレたち、学んだところで偉くなんかなれないのに。

 海沿いの崖が、遠目に見えてきた。

 母の記憶を飛び越えて、何かが体に沁み込んでくる。あの崖の下で起きた、古い時代のある事件。それは土地の記憶ってやつかもしれなかった。
 その昔、あそこで十字架に散った殉教者がいたんだ。彼ら二十六人の血と涙、今のオレと同じじゃないか。
 そう、長崎には理不尽に屈しなかった人々がいたんだ!

 いわれなき反抗が、オレの中で爆発する。
 身分によって異なる扱いも、まじないの儀式も全部クソだ。あんなものに流されてたまるか。砲術なんか今日を限りにやめてやる。
 (はりつけ)、獄門、やれるもんならやってみろ! この不服従がオレの生きざまだ。奥義やら秘伝やらに、そして権威を独り占めする人々に、いささかの敬意も払わないぞ。

 眼下に長崎の市中を捉える空き地に出て、オレはようやく足を止めた。
 港口では大砲が一門、風景の中に溶け込むように光を反射してる。
 あの青銅の、まがまがしい砲口を見ろ。火を吹く龍の口から発せられるその邪神は、冷酷に弱い者の命を奪う。

 狂い死にする勢いで、オレは歯を食いしばった。
 世の中はひどいけど、たぶんオレ自身も決して無実じゃないんだろう。胸に巣食う巨大な砲弾が、いつか周囲を傷つけ、破壊するんだろう。

 この怒りは、銃が暴発するのと変わらなかった。役に立たないどころか、自分自身をも殺しかねない。
 どこへぶつけて良いのやら、オレにはまったく分からなかった。

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