第9話 書家になりたい

文字数 3,897文字

 翌日からオレは、明倫館にも行かなかった。

 (かわや)に行く以外、オレは自分の部屋から一歩も出なかった。こうなったら意地だ。襖の外で誰かが呼ぶ声がしても、オレは布団を頭からかぶるだけ。

 釘本さんは一応オレに同情してくれてるんだろう。そっと足音を忍ばせて食事を運び、部屋の外に置いてくれるんだから。

 誰もいない時を見計らって、オレはその膳を部屋に引き込んでくる。暗がりの中で食していると、一応は申し訳ないっていう気分になるよ。釘本さん、困ってるだろうなあ。

「いい加減にせんね。出てこい、糾之丞(ただのじょう)
 碩次郎(せきじろう)兄ちは何度もやってきて、襖をどんどんとつついてきた。
「ちょっと叱られた程度で、何ば考えとーったい」

 言われれば言われるほど、オレは頑なになった。
 いくら兄ちの言うことだって、絶対に聞くもんか。オレはこの引きこもりによって戦ってるんだ。それなりの覚悟があるってことを示すんだ。

「糾之丞兄ち。ねえ、聞こえる?」
 登和(とわ)の声がしたのは、何日目だっただろうか。
「お客様ですけん。ここ、開けますよ」

 襖に手を掛ける音がして、寝そべっていたオレはぎょっとして身を起こした。
「駄目だ! 開けるな!」
 遅かった。襖はすっと右に動いて、そこには登和がきちんと正座していた。

「んまあ、お布団も敷きっぱなし。だらしなか」
 登和は愛想を尽かしたような顔をするが、オレだって同じだ。
 お前、誰のおかげで無事に大きくなれたと思ってんだ。オレと碩次郎兄ちがいなかったら、お前なんかとっくに死んでたんだぞ?

 だがその直後、オレはぎょっとした。登和の後ろからひょいと顔を覗かせた奴がいて、それが石橋助十郎だったんだ。

「……高島くん、こんにちは」
 向こうも落ち着かないのか、助十郎はおどおどと頭を下げる。
「病気やそうばってん、お加減はどがんな」
 けっ。何言ってやがる。仮病だって分かってるだろうに、嫌みなもんだぜ。
 おおかたこいつ、碩次郎兄ちか釘本さんに頼まれて、オレを部屋から引っ張り出しに来たんだろう。

 先日の謝罪の件だけじゃなくて、こいつは調練場の一件も知ってるんだ。何しろ石橋助十郎もまた、荻野流砲術の弟子の一人だからな。
 二度と会いたくなかったのに、こいつはどのツラ下げて来やがった。
「……何しに来たんね。おいの弱ったところば見たかったんか?」

 そう吐き捨てて、さすがにオレもちょっと悲しくなった。わざわざ見舞いに来てくれた客に、こんな言い方しかできないなんて情けないものだった。
 かといって、他に気の利いた言葉も思いつかない。オレはぷいと横を向いた。
「言うとくけど、おいはもう明倫館には行かんけんね。先生方にもそう伝えといてくれ」

 助十郎はそれには答えず、部屋に入ってくると、オレの枕元にきちんと座りなおした。
「高島くんは、明倫館の書の授業がつまらん、どこかに面白か先生のおらんかなて言うたっさね?」

 ん? とオレは目を見開いた。
「……そ、そがんこと言うとらんよ」
 慌てて否定する。いや、本当は言った。あの時は友達の前でカッコ付けたくて、つい言っちゃったんだ。
 でもこいつの前で言ったんじゃないのに、こっそり聞いてやがったんだな。ったく、どこまで嫌味な野郎だ。

 オレが本気でそんなこと言うわけないだろ? 書道の順庵先生のことは好きなんだ。ほとんどの先生がオレを問題児って決めつける中、順庵先生だけはオレのこと褒めてくれるからな。

「順庵先生の、お友達なんやばってん」
 オレの心の声が聞こえたかのように、助十郎は言う。
「戸川半酔さんてゆうてな、江戸の、有名な書家の先生ばい。今ちょうど、うちにおられるんじゃ」

 それで、と助十郎はふふっと笑いを交えて続ける。
「高島くんと、何か雰囲気が似とーったい」

 助十郎は少し舌足らずな独特の口調で語る。半酔は江戸の旗本家の出身だそうだが、書の方が相当の腕前で、今は全国各地を旅しながら、寺院の山門の扁額(へんがく)やら、庭園に置く石碑やら、次々と揮毫(きごう)を頼まれているという。長崎滞在時は、石橋家を定宿(じょうやど)としているそうだ。

「そいでな、父に、せっかくまた半酔先生が石橋家におられるんやけん、おいも教えば乞えて言われたんやばってん……」

 だが助十郎は自分の実力に自信が持てず、先生に作品を見せられない。そこで急に思い立ったという。そうだ、明倫館で一番書のうまい高島糾之丞を連れて来ようと。

「ふむ。なるほどね」
 オレは顎をしごくようにして言った。やはり褒められれば気分が良いものだ。
「ま、そがんことなら、顔だけ出してやっても良かよ」
 せっかくだし、書の達人とやらの顔を拝んでみるのも、まあ悪くはないだろう。

 だけど、連れ立って石橋家に向かう道中、助十郎はオレを誘い出した本当の理由を述べた。
「実はな、おいも前に明倫館に行きとうのうなったことがあるんや」

 む、とオレは眉根を寄せる。何だか嫌な予感がしたが、途中まで来てしまってはもう引き返すこともできない。あとは黙って聞くしかなかった。

 毎朝、助十郎は腹が痛くなり、本当に通学どころではなくなり、ひたすら部屋にこもっていたという。もちろん助十郎の両親は困り果てた。
 そんな時にちょうど、戸川半酔が石橋家を訪問したのだという。半酔は腹痛を訴える助十郎に筆を持たせ、何でもいいから勝手気ままに書けと言ったそうだ。

 いったい書の稽古の中で、どんな経過をたどって助十郎が回復したのか。話を聞いてるだけじゃオレには分からない。本当はすんなりとはいかなかったのかもしれない。
 だけど現に、助十郎は再び通学できるようになっていた。

「全然威張(しこぶ)ったところがのうて、気さくな、良か先生なんや」
 自分が先を行ってるとでも思ってるのか、助十郎は得意げに言った。
「高島くんにも、効くと思うよ」
 騙された、とオレは拒絶感を露わにする。やっぱりオレを外に連れ出すのが目的だったのか。お前なんかと一緒にすんな。オレは意志が固いんだから、その程度じゃ変わらないぞ。

 いざ石橋邸に着いて、その半酔とやらを見た途端、オレはおやと思った。
 石橋家の古い隠居所を陣取って、その師匠は開け放った障子の奥にだらしなく寝そべってた。書の達人っていうから、仙人のような厳しい老人の姿を想像してたら、何か違う。もう少し若いみたいだし、昼間だってのに酒の匂いがするぞ。

「半酔先生っ」
 助十郎は臆することもなく濡れ縁に足を掛ける。半酔はいかにも気だるそうに、尻を掻きながら起き上がり、そしてじろっとオレを見た。

 年の頃は五十ぐらいだろうか。旗本家の人らしい品の良さはなくて、無頼漢っていうか、山賊みたいっていうか。とにかくぎょろっとした大きな目が不気味だし、月代も伸びてだらしない感じだ。言うなれば、不良少年の「なれの果て」だった。

 おいおい、とオレは心の中で助十郎に語り掛ける。このおっさんのどこがオレに似てるって言うんだよ。
 だいたい半酔っていうその号からして、人をコケにしてる感じだった。オレはもっと謙虚で礼儀正しい。一緒にされちゃたまらんね。

 だけど助十郎は抵抗感がないらしく、半酔に無邪気に話しかけている。
「おいの友達ば連れてきました。先生に書ば教わりたかそうばい」

 友達という言葉に、あ、と思った。
 妙なことに、それを嫌だと思わなかった。オレら、友達だったのか。そう思うだけで心のどこかに、じんわりと温かいものが染み出してくる。

 その名の通り半分酔った目をした半酔は、二人の少年を見てにんまりと笑った。
「そうか。よしよし、上がるがよい」
 まるでここの主であるかのように室内を顎で指したが、そこで改めてオレを見て、思いもよらぬ反応をした。
 いきなりぷっと肩を揺らしたんだ。
「これはまた、ふてぶてしい顔をしとるのう」

 何だよ、この先生。
 オレは余計に肩を怒らせた。人の顔を見て笑うか、普通? 同じ書の先生でも、上品な順庵先生とはほど遠いぜ。

 だけど半酔は、さっそくオレが手に持ってる巻物に目を止めたようだった。
「作品を持ってきたのか。見せてみろ」
 その不遜な態度は、田舎の若者などどうせ大したことはなかろう、お前の挑戦を受けてやるとでも言ってるようだった。

 くそっ。見てろ。
 オレはムッとしながら包み紙をほどいた。
 
 持参したのは、ごく普通の千字文だ。あえてそうしたんだ。みんなが普通に書く文章だからこそ、余計にオレの実力を分かってもらえるだろうって。
 差し出すと、半酔はじっとそれに見入った。

 天地玄黄(てんちげんこう)宇宙洪荒(うちゅうこうこう)
 日月盈昃(じつげつえいしょく)辰宿列張(しんしゅくれっちょう)……

 いろはを習い終えた初学者が、次に習う千字の詩。千の漢字が、一字の重複もなく使われていて、実に千年以上もの間、各時代の少年たちが使ってきた文字習得の教材だ。

 我ながら、よく書けてると思うんだ。はね、はらいはもちろん、転節も曲がりも完璧だ。
 しかし姿が良いだけじゃないぜ? オレは自分の書体ってもんを、すでに確立してる。

 何しろ古代の書聖、王義之(おうぎし)に近いとされる行書体は、オレの一番の得意だった。高島家には清国の商人から譲られた定武本(ていぶほん)蘭亭序(らんていじょ)があることも、この長崎では知られてる。高島糾之丞の書は、もはや少年の域を脱してるっていう評判なんだ。

 だけど、相手は有名な先生だった。黙って他人の判定に委ねているのは、何とも落ち着かない。オレはうつむきつつ、チラッチラッと半酔の顔を盗み見る。
 自信はある。この人が黙ってるのはたぶん、十五歳の少年があまりに見事な字を書くので驚いたってとこだろう。

 だが、半酔が顔を上げた時、オレは現実を思い知らされた。出てきたのは大した褒め言葉じゃなかったんだ。

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