第11話

文字数 12,418文字


 ※

「そこに椅子がある。座りなさい」
 ウェインは腰かけたまま、直立不動の姿勢をとる木村に着席を促す。
 木村は「いえ、失礼になりますので」と動こうとしない。
 ウェインは肘置きを掴み、ふらつく体を支え、立ち上がる。折り畳んだパイプ椅子を広げる。
「訓練は終わった。私と君の間に上下関係はない。座りなさい」と言ってから、「命令口調だな」と自嘲気味に笑う。
 〈……部屋、暗いわよ。カーテン開けたら?〉
 カーテンの端を掴み開けようとして、手の甲に光が当たり、……閉め直す。
「……部屋が暗いなら明かりをつけてくれ」
 椅子に腰かけ、背もたれに体を預ける。眠れていないせいか、体がだるい。不調でも欠かしたことがなかった毎日のトレーニングも、日の光が煩わしく、ここしばらく休みがちだ。
「……いえ、大丈夫です。……では、失礼します」
 木村は椅子に腰かける。
「……あの、……明日、ここを発つとお聞きしまして……」
 声が遠くから聞こえる。
「……ああ……」ウェインは短く答えた。
 瞼が重い。目を半分閉じ、己の呼吸音に耳を澄ます。
「……教官、具合が悪いのではないですか?」
 ウェインは瞼を開き、ふっと笑う。
「心配ない。少し、疲れているだけだ。……私もそろそろ年だな」と微笑って見せても、木村はにこりともせず、真剣な表情でこちらを窺う。木村の視線が居心地悪く、話をふる。
「……私に何か用があったのではないか」
 木村がパッと姿勢を正し、しどろもどろに答える。
「はいっ。……あの、その……」
 突然立ち上がり、
「今まで、熱心にご指導くださり、有り難うございました。教官のご指導のおかげで無事、訓練を終えることができました。本当に有り難うございます」と頭を深々と下げる。
 ウェインは木村を見上げ、口元を緩める。
「礼はいらない。君達を指導するのが私の仕事だった。……木村こそ辛い訓練をよく耐えた。君の誠実さは訓練にも表れていた。他の者に遅れながらも黙々とこなし、やり遂げていた。訓練に臨む姿は誰よりも真摯だった。……今までご苦労だった」
 ウェインは笑みを浮かべ、木村を労う。
「……いやでは、ありませんでした。体力的にきつくて、やっていることも暴力的で、ぼくが生きてきた世界とは違いすぎて逃げたくなることもありました。……でも、最後までやり遂げられたのは、教官がいたからです。教官が、教官達が、ぼく達のことを真剣に考え、熱心に指導してくれたから。本当に感謝しています」
 木村は付け加える。
「社長室で言ったことを訂正したくて……。訓練に馴染んでいく自分を嫌いになることはあったけれど、教官を嫌だと思ったことは一度もありません。……嘘っぽく聞こえるかもしれませんが、本心です。……心から、感謝しています」
 気恥ずかしいほど、真っ直ぐだ。……こんなに清々しい気持ちになったのはいつ以来だろう。黒くごつごつした塊が蓄積し、息苦しくさえあった内部に一陣の風が吹いた気がした。木村の誠実な人柄に笑みがこぼれ、感情を素直に言葉にできた。
「……ありがとう。私も一教官として、君達を指導できたことを誇りに思う」
 木村はためらいがちに聞く。
「……教官は、ここを出たら、どうされるおつもりですか?」
「私か? 私はアース登録の兵士だからな。会社が行けと命じたところに行く。おそらく、次はシリアかイラク、もしくはアフガンあたりだろう。あの地域は今混乱しているからな」
 ──……それまでに体を元の状態に戻しておかないと……。
 現地に入れば体調が悪いだなんだのと言っていられない。日が沈んだ後にグラウンドで体を鍛えているが、全然足りない。体力も、筋肉も落ちている。アメリカに帰ったら早々に訓練を始めなければ……。
 手は動く、足も動く。だるさを無視し、ふらつく体を酷使し、訓練に没頭すれば、この鬱屈した気分もなくなる。
 今までも、気分が塞ぐ度に己を奮い立たせてきた。休暇に入り、緊張が解けた。体のだるさはそのせいだ。仕事に入ればまた動ける。心配はいらない。
 木村は硬い表情で押し黙る。しきりに視線を動かし、膝に置いた拳を握りしめる。渦巻く感情を必死に抑えているように、ウェインには見えた。
 ──……まただ……。
 また、暗く沈んだ感情が頭をもたげる。
 誰とも話したくなかった。静かに明日の出発を待ちたかった。誰にも気づかれずここを発ちたかった。こんなふうに人と会うのは億劫だった。不可解な人間に会うと精神がひどく消耗する。
 特に、この木村という人間はよく分からない。弱々しいかと思えば訓練をやり遂げ、シミュレーションでは目を見張る活躍をする。真剣に訓練に臨む姿勢に好感を抱いていれば「訓練期間が終わったら辞めるつもりでした」と泣き、やはり気弱なのかと思えばこうして一人で部屋にやってくる。そして感謝の言葉を一通り告げた後、黙りこむ。
 こういう人間を一人知っている。とらえどころがなく、一人で抱え込み、苦悩し、周囲の気持ちなどおかまいなしに自殺した、……かつての親友。
 忘れようとしても忘れられない。社長室で「少年を殺した」と涙を流す木村がゾッとするほど親友に似ていた。
 〈この戦争は間違っている、そうは思わないの? ウェイン〉
 記憶の断片だ。彼女が夢に現れて以来、記憶が頻繁に蘇る。決まってあの夜の光景だ。
 〈この戦争は間違っている。イラクの人達は私達を歓迎なんてしていない。いつまでこんな無意味な争いを続けなくちゃいけないの〉
 〈ジュディ。私達はイラクに平和をもたらすために戦っているんだ。後もう少しの辛抱だ〉
 〈それはいつ? 明日? 明後日? それとも十年後? それまで私達はずっと戦い続けるの? 私はずっと殺し続けなくちゃいけないの?〉
 泣きはらす親友が疎ましかった。共に生きて帰ろう、と誓い別れた親友は、戦場から戻ってきた途端、別人のように感情を露わに軍を否定した。
 仲間は今も不眠不休で戦っているというのに、たくさんの仲間が死んだというのに、安全な場所で「戦争は間違っている」、「無意味だわ」と泣き叫ぶ親友が憎らしかった。
 血は繋がらなくとも姉妹のように育った、何よりも大切だと感じていた。疑うことを知らず、道端に咲いた小さな花にも立ち止まる優しい女性だった。愚痴や恨み言を聞いたことがない。
 将来の夢を穏やかに語っていた彼女は、戦場から戻った後、泣きわめき、自室に閉じこもり、全てを否定した。国も、軍も、自分自身さえ……。
「辞めようとは、思わないんですか?」
 記憶が弾け飛ぶ。鋭い音を立てて粉々に砕け、細かな破片となって散る。首に刃を突き立てられた。皮膚が粟立ち、息を呑む。
 今、確かに、親友の声を聞いた、──はっきりと。
 目の前にいる人間を凝視する。彼女の髪は、栗色だ。目は茶色で、肌はもっと白く、指はもっと細く長かった。彼女は女で目の前にいるのは男、全然違う。しかし、紡がれた言葉はかつて己に投げかけられた問いだった。
 〈辞めようとは思わないの? 私達がしていることは人殺しよ〉
「これからも、危険な仕事を続けるんですか。死ぬかもしれないのに、……人を、人を殺してしまうかもしれないのに」
 頭の奥で何かが破裂した。血が逆流し、激痛を伴い膨れあがる。
「教官がシミュレーションに加わったのは自分が参加したいからではなく、ぼく達を心配してくれたからですよね? 訓練の時も、シミュレーションの時も教官はいつも何かに追いつめられているように見えました。教官は戦うのが好きではないんですよね? なのにどうしてこの仕事を続けているんですか」
 今まで必死に抑えていたモノが、心の奥底に閉じ込めていたモノが溢れ出す。腐臭を放つ黒い煙となって全身から噴き出す。
「……だから、……なんだ……」
 わななき、震える声を押し殺し、目の前に立ち塞がる者をねめつける。視界がぼやけ、体がカタカタと震える。
「……人殺しと、なじるか。……汚いと、蔑むか? 狂気の世界で必死に戦った。子どもを殺したと、女を殺したと、責めるのか? あの戦争は間違いだったと、犬死にだったと、死んでいった仲間を否定するのか? 兵士だったお前が、勝手に己の命を終わらせたお前がッ」
 十二年前にぶつけるはずだった言葉は親友の死という形で封印され、長い年月の間に変質し、異臭を放ち、腐敗し、溜まり続けた。それが今、怒りとなって、恨みとなって、憎悪となって噴き出す。目の前にいる人物の顔は白くぼやけ、人の形をした白い影にしか見えない。影が揺れながら何かを囁いたが、聞き取れない。
 近づく白い影に胸を反らし立ち上がる。椅子が音を立てて倒れる。
「戦争はなくならない。兵士は戦い続ける。私は彼らが一人でも生きて帰って来られるように全力を尽くす。この体が動く限り彼らと共に戦う。私の命は彼らと共にある。裏切り者のお前が口を出すなッ」
 拳を握り、声を限りに怒鳴った。
 熱いものが頬を滑り、床に落ちる。両の目から止めどなく流れ落ちるものを呆然と見つめる。頬を手の甲で拭う、……濡れていた。
 ──……なんだ……。……私は、……泣いているのか……。
 頬を拭い、目を擦っても、溢れるものを止められない。手を濡らし、床を濡らす。
 ……無様だ、と思った。他人に弱みを見せている己が、なんの関係もない相手に親友の姿を重ね当たり散らしている己が無様で、消し去りたかった。涙は止まらない。こみ上げる嗚咽を押し殺し、かろうじて言葉を紡いだ。
「……たのむ……。……ひとりに、……してくれ……」
 扉が閉じ、人の気配が消えた。

 イーシンは、ウェインの部屋から出てきた木村に声をかけた。
「ウェインもいろいろあったのよ。許してやってね……」
 少しだけ顔をあげた木村の目は赤くなっていた。宮前と高木に支えられ、階段を降りていく木村を見届け、イーシンはウェインの扉をノックした。返事はない、構わず扉を開ける。
 部屋は薄暗く、カーテンは引いたままだ。ウェインは椅子に体を折るように腰かけ、両手で顔を覆っている。
 イーシンはカーテンを開けた。窓から入る光がウェインの背中を照らす。
「恥ずかしいわねー、廊下まで丸聞こえよ。……木村君、泣いていたわよ」
 ウェインは大きく肩を震わせた。嗚咽し、指の跡が残るほど強く両手で顔を覆う。
「…………い……。……すま、ない……」
 しゃくりあげ、声を殺し、泣く。指の隙間から透明の液体が流れ腕を伝う。
 イーシンは窓際に立ち、ウェインを見る。
 ……正直、どうしていいか分からなかった。
 ウェインは感情的になることはあっても泣くことはなかった。少なくともビジネスパートナーとして付き合いが始まったこの五年間、一度も泣き崩れるウェインを見たことがない。
 こういう状態の人間を何度も目にしてきた。
 会話中に突然視線を彷徨わせ、涙を流す。呼びかけても返事をせず、肩を揺すっても虚ろな表情で何時間も反応しない。そうかと思えば、何事もなかったかのように話し出し、じっとしているのは苦痛とばかりにひたすら働く。少しの物音にも敏感で、車のクラクションに生け垣に飛び込む、発砲するといった過剰な行動に出る。自室にこもり、人との接触を避け、社会との繋がりを拒絶する。他人の些細な言動が許せず、感情の起伏が激しい。……PTSDの症状だ。PTSDにかかる帰還兵士は四人に一人とも、三人に一人とも言われている。
 今までのウェインの言動も一種の兆候だったのだろうか……。性格的なものと、ワーカホリック(仕事中毒)なのだと思っていた。ウェインに限って……、とも。
 ──……こんなこと思ってはいけないんだろうけど、シミュレーションの後で良かった。
 シミュレーション中にアドバイザーがPTSDを発症したら目も当てられない。
「……夢を見るんだ。シミュレーションが終わってから……」
 シミュレーションに参加し、戦場を疑似体験したのをきっかけに発症したとも考えられる。
 中東地域、市街地戦、現地住民による襲撃、シミュレーションは子どもによる自爆テロだった、犠牲になったボランティアスタッフ……、キーワードが報告書にあったボランティア襲撃事件に酷似している。
 ウェインは管轄地域の責任者として事件の報告は受けただろうし、ボランティアスタッフの遺体を確認していても不思議はない。シミュレーションでその時のことを思い出したか……。木村との会話でフラッシュバックを起こしたのか……。
 PTSDはふとしたことをきっかけに何年もしてから突然発症することがある。
 イーシンは胸ポケットから手帳を取り出し、携帯画面に出た連絡先を書きとめ、机に置いた。
「アメリカに帰ったらここに電話しなさい。その凝り固まった頭の中をほぐしてくれるわ」
 メンタルクリニックの連絡先だった。
「PTSDや鬱病を専門的に診てくれるわ。情緒不安定になった社員にはいつもここを紹介しているの。……治療は早い方がいいわ。PTSDや鬱の兆候でなくても一度診てもらいなさい」
 ウェインは答えない。
「……診断が出ても出なくても必ず私に報告して。本社にはウェイン・ボルダーは長期有給休暇を取っていると言っておくから」
 精神疾患の既往歴がある兵士は「傷あり」と見なされ、次に入る仕事は格下げされる。給料や待遇が下がるのを嫌い、病院に行かない兵士もいる。時限爆弾を抱えながら戦場に向かうようなものだ。
「……一時的なものなら、それはそれでいいわ。とにかく病院で一度診てもらいなさい。その状態で仕事を続ければ間違いなく、自分だけでなく、戦友まで巻き添えにするわよ。貴方が一番嫌がっていることよ」
 ウェインは声を殺し、泣いていた。

 *

「祐一、喉かわかねぇ? なんか買ってきてやろうか?」
「……いらない」
「天気いいぞ。散歩いかねぇ?」
「いい」
「……そうか」
 さっきからこんな調子だ。
 昨日、部屋を飛び出した祐一を高木と二人で追い、階段二階の踊り場でおっさんにばったり会い、おっさんのぶったまげる顔が見たくて、教官と祐一のやり取りを盗み聞きしたいのもあり、おっさんに祐一の秘密をばらしかけた時、怒鳴り声が聞こえた。声が鬼教官のもので、祐一がいる鬼教官の部屋から聞こえてきたと分かり、扉に駆け寄ろうとしたらおっさんに止められた。
 憔悴しきり、立っているのもやっとだというような祐一を、高木と一緒に支え部屋へ連れ帰った。
 何があったのか、何を話して鬼教官が怒鳴ったのか、祐一は理由も経緯も話さず、ただ、「ぼくが悪いんだ。ぼくが失礼なことを言った……」と目元を擦り、鼻をすする。
 慰めたくても何を言えばいいのか分からず、意味もなく部屋の中を動き回り、話しかける。もちろん、応答はない。……それが昨日までの話だ。
 今日はだいぶ落ち着いたのか、話しかければ返事はしてくれるようになった。祐一は机に向かい本を開き、窓の外を見る。教官がいつ出発するか、気になるのだろう。出発時間は分からない、窓から駐車場は見えない。しきりに窓の外を気にする祐一がいじらしい。
 ──……信者っていうより、犬だな。忠犬ポチだ。
 扉を叩く音がした。
「高木だ」
 今日は高木と祐一、宮前の三人でお別れ会の会場となる店の下見を兼ね食事に行くことになっている。それは表向きの理由で、本当は元気がない祐一に気分転換させるためだ。
「ご飯を食べるだけなら祐一君も来るんじゃないかな」と高木が提案した。店はお酒を各種取り揃えているから、高木は単に飲みたいから誘ったんじゃないかと、宮前は疑っている。
「早いなー。飲む気満々だな」
 宮前は扉を開け、……凍りついた。金髪を肩まで垂らし、明るい黄緑色のセーターに白のジーンズというラフな格好の、鬼教官だった。
 敬礼するのも忘れ、立ちすくむ。
「……木村は、いるか」
 鬼教官が静かな声で問うても声が出ず、鬼教官に道を譲るように壁際に避ける。
 鬼教官は伏し目がちに一歩進み、黙って立つ。祐一は背中を向け、本を読み続けている。
「おおおお、おい、祐一……」
 宮前はもつれる舌で祐一を呼んだ。
「もう出る時間? ちょっと待って、あと少しで読み終わるんだ」
 宮前は血の気が引く思いで祐一の背中を見つめた。
 鬼教官は、角を折られ自信を無くした鬼みたいに威勢も怒気も感じられず、静かに立っている。
 ──……なんだ、どうしちゃったんだ、教官。
 宮前は鬼教官の横顔を何度も盗み見た。
「お待たせ。で、どこだっけ、お店」
 立ち上がり、振り向いた祐一が停止する。真顔で教官をじっと見、宮前を見、もう一度教官を見て、斜め下を向く。頭の回線が繋がったようだ、跳ね上がり敬礼する。
「しっ、失礼しましたっ。申し訳ありません、高木かと思って。でも金髪で、顔も違うなって、……すみませんっ」
 祐一は血相変えて謝る。
「……今から、出かけるのか?」
「はいっ。あ、いえ、どちらでもいいです」
 敬礼の姿勢で意味不明な受け答えをする。
「……私はもう、ここを発たなければならない。その前に少し、時間をくれないか」
「はいっ、もちろんです」
 祐一が大きな声で即答する。
「……ありがとう……」
 安心したようにわずかに目を細める鬼教官に、祐一は手を振り、足をあげ、ぎこちない歩き方でついて行く。
 宮前は超常現象を目の当たりにしている気分で二人の背中を見送った。

 ウェインは後ろからついてくる木村を気にしながら、ゆっくり歩く。寮を出、柔らかな日差しを浴びる。何日ぶりかの外だ。もっと強く、刺すような日射しを想像していた。日中でもカーテンを閉めきり避けていた日の光は、……頼りないほど弱く、どこか優しい。
 しばらく歩き、枝葉を広げた常緑樹の下で立ち止まる。
 誰もいないグラウンドは風が渡り、木々のざわめきと水が流れる音に包まれている。あちらこちらの山から鳥のさえずりが聞こえる。
 ウェインは太い幹を軽く叩き、振り向いた。
「……昨日は、……すまなかった……。許してくれ」
「ぼくが悪いんです。ぼくが失礼なことを言ってしまったんです。ぼくの方こそ申し訳ありませんでした……」
 木村の言葉を遮る。
「いや、木村は悪くない。私が感情的に当たり散らしてしまった……。本当に、すまない……。……どうか、許してほしい」
 木村が俯き加減で、言いにくそうに言葉を切りながら言う。
「……あの、実は、……途中から、ぼくじゃなく、誰かに言っているんだろな、と気づいて、その、冷たいようですが、……あまり、ショックじゃなかったんです。……申し訳ありません……」
 木村は下を向いたまま謝る。
「…………よかった……」
 ──……よかった。
 心から安堵する。感情的になって人を傷つけるのは、人を傷つけて後悔するのは、もう、たくさんだった。
「……君が……、私の……親友に見えたんだ……」
「えっ?」
 木村が顔をあげる。ウェインは訂正した。
「外見が、じゃない。……親友は……髪は栗色で、瞳は明るい茶色、……それに、女だ」
「……はい……」
 どう反応していいのか分からないといった複雑な表情だ。
「名前はジュディス。私はジュディと呼んでいた。十二年前、彼女に同じことを聞かれた。『辞めようとは思わないの?』とな」
「す、すみません……」
 木村が青くなり、頭を下げる。ウェインは木村に「頭を上げてくれ」と頼んだ。
「……今まで、誰にも話さなかった。偶然にも彼女と同じ言葉を君が私に投げかけたのは、罪を告白する時が来たということだろう。身勝手な頼みだとは分かっている。……どうか、聞いてほしい……」
 木村は顔を上げた。
「聞きます」
 ウェインはわずかに口元を緩め、遠い過去を手繰るように視線を山々へ向けた。
「……彼女に『兵士を辞めないの?』と聞かれた時、私ははっきりと『辞めるつもりはない』と答えた。……失望したんだろうな。ジュディはその夜、多量の睡眠薬とアルコールを飲んで自殺したよ」
 木村が青ざめる。
「医師は、衝動的な行動が招いた不幸な事故だ、と言っていた。……だが、追いつめたのは、私だ……」
 ウェインは長い息を吐いた。
「彼女は兵士だった。国のために力を尽くそう、共に生きて帰ろう、と誓い合った。その彼女がせっかく生きて戻ってきたのに、残される者の気持ちも考えず自分の手で命を終わらせた。……言いたいことだけ言って、私に弁解の余地を与えず勝手に死んだと、ずっと恨んでいた」
 言葉を切る。心が強く否定した、──「違う」と。
 ……長い間、戦場に身を置き、秒刻みの生活を続け、目を逸らしてきたものはなんだったのか……。
 生温かい風に、道端の花に、食器の傷に……遠い過去がよぎっても、もう済んだことだと、思い返すことはないと、記憶の断片として処理したはずだった。
 それが、木村の『一言』で錯覚だったと、思い知らされた。
 疎み、葬り去ったはずの感情は変わらず在り続けた、己自身の中に……。
 ……あの時の記憶を、感情を受け止めなければ……。例えどれほど歪で、醜くても。卑怯で、弱々しくあろうとも……。
 一度は手離し、捨てたものを、手繰り寄せる。
 奥底深く沈めたものが少しずつ浮かび上がり、形を成していく。あるがままを受け止め、心で感じる。
 懐かしさとともに、『想い』がよみがえる。
 ……本当は、ずっと後悔していた。嘘でも「辞める」と言えば彼女は死ななかったのかと。なぜ、優しい言葉をかけられなかったのかと。己を責めて生きるのは辛くて、死んだ彼女のせいにした。全て終わったことだと、悔やんでも取り戻せない過去だと、忘れようとした。
「……たくさんの、仲間が、同僚が死んだ。身構えることも、抵抗することもできず、唐突に死んでいった。約束を守り、苛酷な戦場から生きて還ってきてくれたジュディに、ありがとうと、言いたかった。『戻ってきてくれて、ありがとう』と。……なのに、……私は、彼女を責めてしまった。苦しみを聞いてやれず、怒りをぶつけ、彼女を追いつめてしまった。……ずっと、謝りたかった。『ごめんなさい』と……」
 空が眩しく、目を細める。
「……兵士を辞めるなんて、考えたこともなかった。私は国のために、死んでいった仲間たちのために戦うんだと。争いを一刻も早く終わらせるために戦い続けるんだと、信じていた。ジュディが死んでもその気持ちは変わらなかった。…………木村は、人を殺すくらいなら自分が死んだ方がましだと言ったな」
「……あれは……」
「私も、子どもの頃は、例え強盗だろうと一人の人間、撃つなんてできないと思っていた。兵士になっていつの間にか、人を殺すことに抵抗を感じなくなっていた。慣れてしまっていたんだ。それに気づかされた……」
 ウェインは言葉を切り、足元に視線を落とす。何が言いたかったのか、分からなくなった。
 長い沈黙の後、再び口を開く。
「……イーシンがな、頭の中を一度診てもらえと言うんだ」
 こめかみを指でコンコンと叩き、微かに苦笑する。真顔になる。
「……これからどうするか、休暇を取って、考えようと思う……」
「教官は、汚くありません。軽蔑なんかしていません。……ぼくは教官を、尊敬しています」
 木村が顔を真っ赤にして言う。自然と笑みがこぼれる。
「……もし、兵士を辞めたら、今度こそ、誰かの命令ではなく、自分の考えで行動したい」
 淡い光が足元を照らす。薄緑色を帯びた光が幾重にも重なり、ゆらゆらと揺れる。見上げたら、木漏れ日が頬にあたった。柔らかで、ほのかに温かく、……心地いい。光が頬に当たるままにする。
 オリーブ色の葉を茂らせた枝がしなり、胸元近くまで垂れ下がる。風に揺れ、葉擦れの音が降り注ぐ。樹の香りに、葉の匂いに、大きな腕に抱かれているような安らぎを覚える。……あの日から十二年経っていた。
「……ぼくも、考えます。戦争をしなくてすむ方法を。ぼく一人の力で何ができるか分からないけれど、戦争をしなくても皆が平和で幸せに暮らせる方法を、教官のように苦しむ人を生まない方法を考えます。必死に考えます」
 ひたむきで偽りのない言葉だった。
 頬にわずかな熱を感じ、そっと目を伏せる。
「……ありがとう……」
 ウェインは手を差し出し、木村はためらいがちに応じる。固い握手を交わす。
 木村の後ろに親友の影を見た気がした。

「仲直りできたのね、すっきりした顔しているわよ」
 イーシンは車のドアに寄りかかり、髪をなびかせ大股で歩いてくるウェインを迎えた。
「空港まで送ってくれなくても自分で行く。忙しいんだろ?」
「いいから、乗って」
 イーシンは運転席に、ウェインは助手席に乗り込む。
 車が走り出す。
「報告書、ちっとも進まないから気分転換になっていいわ。誰も入隊しないんじゃ書きようがないったら」
「……そうか……」
 ウェインが吐息を漏らす。
「……今、笑ったわね? 笑ったでしょう?」
「笑っていない」
「ううん、笑ったわ。絶対、笑った。私、見たもの」
 ウェインがため息混じりに言い返す。
「プロジェクトが上手く行かなかったからって私に当たらないでくれ」
「貴方、あの子達に何か吹き込んだでしょう?」
「言いがかりだ」
「ほんとに? 私がいない時になにか一言でも言わなかった?」
 ウェインが黙る。
「やっぱり! 心当たりがあるんじゃない」
 イーシンはハンドルを叩き、ウェインに顔を付き出す。
「前を見ろ、危ないっ」
「そうだと思ったわよ。全員入らないなんておかしいもの。全くっ、目を離したら何するか分かったもんじゃないわ」
 ウェインがどんなに「誤解だ」と弁解してもイーシンの腹の虫は治まらない。グチグチネチネチ言い続ける。
 ウェインは相手をするのに疲れたのか、座席に体を預け、窓の外を眺める。不意に、独り言のように話し始める。
「……兵士の時は、目の前の敵を倒すことに必死だった。移民の子と蔑まれ劣等感を抱えてきた私には、成果をあげれば男性と同等に評価してくれる軍隊は唯一、私を一人の人間として受け入れてくれる場所だった。
 階級があがるにつれ前線から遠ざかり、いろんなものが見えてきた。死傷した兵士の数は毎日報告されるのに現地住民の犠牲者は公表されなかった。功績をあげても戦闘は終わらなかった。それでも、これはイラク市民を圧制から解放するための戦争なんだと、軍の言葉を信じた。
 住民に殺されたボランティアの遺体を目にした時、誰と戦っているのか分からなくなった。私が戦っている相手は本当にテロリストなのかと。本当にこの戦争はイラク市民のためなのかと、……疑いが生じた。疑問を持ちながら本国へ還される兵士の遺体を毎日見送るのかと思ったら、……嫌になった。
 結局、独裁者を倒しても治安は戻らなかった。前より酷く、陰惨になった。大義名分をふりかざし戦争に突き進んだ政府も、兵士を戦場に送り続けた軍も、無関心に通り過ぎる社会も……、信じられなくなった。……イーシンは嘘ばかりで、信用できないし。……私は、イーシンが嫌いだった」
 耳をそば立てていたイーシンは運転を誤りそうになった。慌ててハンドルを持ち直す。
 ──……ちょっと、なんでそこに私が出てくるのよ。
 と言ってやりたいがウェインは遠い目で窓の外を見ている。
 ウェインが反抗的だった理由は、私がウェインの不信感を煽りまくっていたから。
 長年の謎が解けたと喜んでいいのか、悲しんでいいのか……。
 ウェインはぼんやりした口調で続ける。
「……だが、ここで働けたのは良かった。……感謝している」
 ほどいた髪が風を受け、日焼けが残る頬にかかる。
「……それは、それは。嫌いな人間が傍にいてもそう言っていただけるなら私も嬉しいわ」
 引きつる頬で無理に笑みを作る。ウェインがふり返り、不思議そうに聞く。
「……怒ったのか?」
「面と向かって嫌いと言われて気分がいいわけないでしょうっ」
 イーシンが吠える。
「前ほどじゃない。今は……」
 ウェインは小首を傾げ、ぼそりと呟く。
「……今も、嫌いだな……」
 ──急ハンドルを切って窓から振り落としてやりましょうか。
「一つ、教えておいてあげる。嫌いな人に嫌いって言っちゃいけないの。人間関係の基本よ」
 ウェインはたった今、夢から覚めたというふうに目をぱちくりし、イーシンをしげしげと見る。
「……私がイーシンを嫌っていること、とっくに気づいていると思っていた」
「ウェインッ」
 イーシンは地声で叫んだ。

 祐一と高木はおっさんとウェイン教官が乗った車が走り去るのを見送る。車がゲートを通過し、山道の向こうへ見えなくなると宮前は木々の陰から顔を出す。
「ったくよぉ、行くなら行くって、言っといてくれればいいのによぉ。店、閉まっちまうじゃんか」
 ぼやく宮前に、高木が呆れたように言う。
「宮前が『見送りに行くか』って誘ったんでしょ」
「……そりゃあ、まあ、一応世話になったわけだし。見送るくらいならいいかな、って思ってさ」
「こそこそ隠れず堂々と送り出せば良かったじゃん。教官達、気づいてないよ。俺達が見送りに来たこと」
「いいんだ、俺は。恥ずかしがり屋だから」
 祐一が「言葉の使い方、間違えてる」と笑う。
「うー、変な体勢でいたから、腰いてぇ」と宮前は腰を伸ばす。
「では、今から行きますか」
「今から行って開いてるのかよ。準備中になってたら怒るぞ」
 高木が腕時計を見て答える。
「うーん、一時間ぐらいは食べられるんじゃない?」
「祐一のおごりな」
「なんでぼくなんだよ」
「そりゃあ、お前が今一番幸せだからに決まってるじゃん、なあ?」
 祐一の肩に腕を回し、高木に視線を送る。
「へ、変なこと言うなよ」
 緩みっぱなしの顔で口を曲げても全然迫力がない。高木が笑って急かす。
「まあまあ、行きましょう。タクシー呼んであるから。話はその後で……」
「そうそう、話は後で、ゆうっくり、聞かせてもらいましょう。教官と二人きりで何を話していたか、ぼく達にも分かるように、なっ」
 宮前が意味ありげに笑う。
「宮前達が思っているのとは違うから。教官とは本当に何もないから」
 むきになる祐一をなだめながら、三人はやってきたタクシーに乗り込んだ。

 (了)

 〈参考著書〉
 『母親は兵士になった アメリカ社会の闇』高倉素也著(二〇一〇)NHK出版
 『ルポ 貧困大国アメリカ』堤未果著(二〇〇八)岩波新書
 『自衛隊のイラク派兵 隊友よ殺すな殺されるな!』小西誠、渡辺修孝、矢吹隆史著(二〇〇四)社会批評社
 『陸上自衛隊の素顔』小川和久監修(二〇〇九)小学館
 『実録 傭兵物語~WAR DOGS~』高部正樹(二〇一一)双葉社
 『サマワのいちばん暑い夏 イラクのど田舎でアホ! と叫ぶ』宮嶋茂樹(二〇〇五)祥伝社
 『最強 世界の歩兵装備図鑑』坂本明著(二〇一二)学研パブリッシング
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