第1話

文字数 26,353文字

 二〇一五年 九月十九日 『安全保障関連法』 成立
 主に、「日本の平和と安全」に関する活動と「世界の平和と安全」に関する活動が可能になる。
「日本の平和と安全」に関する活動
 一.尖閣諸島など離島の不法占拠に対し迅速に自衛隊を出動できる。日本の防衛に関わる米軍・豪軍などを共同訓練中でも自衛隊が防護。在外邦人を避難させる他国艦を護衛。(自衛隊法 改正)
 一.日本の防衛のために活動する米軍などの他国軍に対して、地球上のどこでも補給や輸送などの後方支援ができる。朝鮮半島有事で自衛隊が米軍を後方支援する。国連決議の必要なし、国会の事後承認を認める。恒久法として制定。(重要影響事態法)
 一.(従来の個別的自衛権に加え、)米国などを攻撃してきた第三国に対し、日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があり、なおかつ武力を使う以外に適当な手段がない場合に限り、必要最小限度の反撃を行う。シーレーンでの機雷掃海。(武力攻撃事態法 改正)

「世界の平和と安全」に関する活動
 一.国際社会の平和と安全などの目的を掲げて戦争(対テロ戦争)している他国軍を自衛隊が後方支援できる。現に戦闘行為を行っている現場以外で燃料の補給や弾薬の提供が可能。国連総会や国連安全保障理事会による派遣容認の決議がない場合、非難決議などでも自衛隊の派遣が可能。国会での事前承認を義務づける。恒久法として制定。(国際平和支援法)
 一.国連が統括する活動(PKO)以外にも、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)などの国連関連機関や欧州連合(EU)など多国間の条約によって設立された国際機関が要請する「国際連携平和安全活動」(人道復興支援活動)でも自衛隊を派遣できる。住民保護等の治安維持活動(巡回パトロール、検問、暴動対処、包囲・捜索)の他、離れた場所にいる他国軍や民間人を駆けつけ警護する。任務遂行の武器使用基準を緩める。(国連平和維持活動(PKO)協力法 改正)
 (朝日新聞 要約)

 二〇一六年 三月二十九日 施行

 *

 『安全保障関連法』 施行から五ヶ月後──。
 宮前等は搬送された商品を箱から棚に移していた。
 国道を道一本奥に入ったコンビニは客の入りが少なく、バイトの身分で店の売り上げを気にするのも変だが、このところずっと店長の機嫌が悪いというレベルを通り越して最悪なのはもしかしたら店が倒産寸前だからじゃないかと心配している。
「宮前君、並べ終えたら話がある」
 商品を棚に並べる手を止め「なんですか」と聞いても「後で話す。終ったら来なさい」と店長は店の奥へ引っ込む。
 一緒に商品を陳列しているカオリちゃんがひそひそ声で聞く。
「なにかあったんですか」
 宮前は首を横にふった、「ううん」と。
「それにしちゃあ店長の機嫌が……」とカオリちゃんは店長が消えた店の奥をそっと見てから、宮前を心配そうに見上げる。
 宮前はもう一度首を横にふった。本当に身に覚えがない。店長が怒っているのは確かだ、お小言はいつも店の奥でと決まっている。
 商品を陳列し終えエプロンで汗ばんだ手を拭き、カオリちゃんの励ましの視線を受けながら渋々事務室へ行く。
 事務室は小窓が一つ、節電と称し照明を落としている。コロッケやカラアゲをあげるフライヤー、冷蔵冷凍庫、ロッカー、着替え室……、清涼飲料水を裏から並べる通路の傍には買い物カゴを積み上げている。こんな暗くて狭い所で従業員を叱るなんて根性が悪いとしか言いようがない。
「なんですか」
 店長は事務机に寄りかかり足を踏みならしていた。
「君、仕事中に成人雑誌を立ち読みしていたそうじゃないか。見たっていう人がいてね。『従業員の教育がなっとらん』とお叱りを受けたよ」
「なんで俺って決めつけるんですか? 他にもバイトはいっぱいいるでしょう」
「二日前の午後二時からのシフトは君とカオリ君の二人だ。カオリ君が成人雑誌を立ち読みするわけはないから君しかいないんだよ」
 店長は額と眉間を皺だらけにして宮前に弁解する余地を与えない。
「それにお客が列になっているのに店の外でガラの悪そうな連中と話をしていたそうだね。『お宅の店員はどうなってるんだ』って別のお客様から苦情をいただいたよ。私は恥ずかしくって、情けなくって。君は一体全体どういうつもりで働いているんだね。トイレもそう。さっき見たけど床が濡れていたよ。お客さんが転んで怪我でもしたらバイト代から治療費払ってもらうからね」
 宮前は慌てて口を挟む。
「ちょちょ、ちょっと待って下さい、一気に言わないで下さいよ。立ち読みは、雑誌を並べていた時に、偶然、たまたま、毎週購読している雑誌が目に入ったんでちょろっとページをめくっただけです。店の外で立ち話したのも、三年、四年、いや五年ぶりかな……、昔の友人と偶然出くわしてほんの五分くらい話をしただけです。トイレの床はもう一回拭いておきます。それでいいですか?」
 店長は皺くちゃだらけの額に更に二本皺を増やし言った。
「……君は、『すみませんでした』の一言が言えんのかね。言い訳ばっかりじゃないか」
「いや、だから俺さぼってませんから……」
 店長は猿のように顔を真っ赤にして叫んだ。
「もういい。明日からこないでくれ。くびだ、くび!」

 宮前は広場のベンチに腰かけ盛大に噴きあがる噴水を見ていた。
「けっ、なにがくびだくび、だ。気安く切ってんじゃねえよ。俺の話も聞けっての」
 封筒に入った諭吉三枚を取り出し、「しけてんなぁ。これでどうやって生活しろってんだよ。……あああ、むかつく」と空に向かって吠える。
 よちよち歩きの子どもに噴水の水をかけていた母親が振り返り、こちらを不審げに窺う。
 構わずお金をポケットに突っ込み、取り忘れがあったら大変だ、封筒を透かし見、中に何も残っていないことを確かめてから封筒をビリビリに破く。ぐしゃっと丸め、
「あの猿面、いつかぼこぼこにしてやる」とごみ箱にシュートする。
 紙クズは銀色の縁にあたって大きく跳ね返り、ころころと地面に転がる。紙クズにまでおちょくられているようでむかつく。拾って大きく振りかぶり、「でやっ」とごみ箱の底に投げつけた。
「あそぶー。あそびたいー」
「用事を思い出したの。帰るわよ」
 噴水で遊んでいた親子だ。母親は泣いて手足をばたつかせる子どもを無理やりベビーカーに座らせ、一度こちらをさっと見て足早に園内を出て行く。
 ……不審者と思われたらしい。
 先月の家賃を滞納している。早く金を工面しないとアパートを追い出される。三万じゃ全然足りない。
「どうするんだ俺」
 誰かに日雇いでもいいから仕事を紹介してもらうか。いや、さすが俺のダチだけあって皆フリーターだ。うまい話があったら紹介なんかしないで自分が行く。今からバイト探しかぁ。見つかるかなぁ。また就活かよ。これで何回目だ、俺。
 前のバイトは今時珍しい有人のガソリンスタンドだった。経営が立ち行かなくなったとリストラされ今は無人のガソリンスタンドに変わっている。その前はファミレスで、給料はそこそこだったけれどいくら働いても賃金は増えず、っていうか新人の女の子の方が高かったりして、やってられんとこっちから辞めた。ファミレスの前は……と、……昔のことはどうでもいい、とにかく仕事を探さないと。
 履歴書、まだ余っていたかな。スーツ、押し入れに入れっ放しだ。靴は、底が剥がれていたな。考えれば考えるほど暗くなる。
 落としたら一文無しだ、いや千円くらいはあるか……、ズボンのポケットに穴が開いていないか確かめ諭吉三枚を入れ、空中で弧を描く水を眺めた。

「お兄さん。どうしたの、しょぼい顔して」
 高音の中に低音がしっかり主張している奇妙な声に振り向く。
 声の主がウィンクする。背は高く、豊かな黒髪をふんわりとまとめ、目は二重で大きく、睫毛も長い。眉毛は細く剃り、鼻が高く、口も大きい、どこからどう見ても中年のおっさんだった。
 ──……変なのがきた。
 宮前はさっと立ち上がり歩き出す。
「ちょ、ちょっとー、無視しないでよー。目ぇ合ったわよ、ばっちりしっかり」
 おっさんが、いやおっさんの声が追いかけてくる。宮前は早足で次第に駆け足で逃げた。
「ちょっと待ってって。お金欲しくない? いい仕事があるの」
 宮前は急ブレーキをかけた、振り返る。おっさんが大きな口を引き伸ばし、にんまり笑う。
 今何が一番欲しいかと聞かれたら仕事=金だ。……でも、信用していいのか? お姉言葉のおっさんなんてどう考えても怪しい。
「やあねえ、すっごい疑いの眼差し。せっかくのハンサムが台無しよ。私困っている人を見つけるのがすんごく得意なの。特にお金に困っている人。鼻が利くのよねぇ」
 おっさんが長い指でちょんと胸をつつく。
 ──……うっ、無理。逃げよう。
 駆け出す寸前、おっさんが腕をつかむ。意外に力が強い、宮前は後ろに引き倒されそうになった。
「真面目な仕事よ。嘘じゃないから。はい、これ名刺。正真正銘本物よ。近々、説明会があるの。ホームページにも載っているからよかったら来てね」
 おっさんは宮前の胸ポケットに素早く名刺を忍ばせ、ぽんとポケットを叩いた。
 おっさんが去った後、宮前は名刺を取り出し顔に近づけ穴が開くほど見る。
「……本物かぁ、これ?」
 名刺に書かれた『人材派遣会社アース』の会社名を生活費が無くなろうと手離せないスマホで検索する。……本当にあった。ホームページの第一面にさっきのおっさんがやけに真面目くさった顔で載っている。おっさんの名前は李一星(リー・イーシン)、人材派遣会社アース社長とある。ざっと目を走らせる。
 『世界で活躍できる人材を求めています。あなたも世界を股にかけて働いてみませんか』
 主旨に人材育成及び海外派遣とある。
 給料月額二十四万~、週休一.五日、福利厚生各種完備、寮付、食事付、日用品配給、制服貸与、未経験者歓迎、語学不要。
「まじかー。宿付き飯付きで月二十四万。すっげえ、条件最高じゃん」
 ……でも、あのおっさんは胡散臭かった。社長っていうより詐欺師っぽい。お姉言葉のおっさんが社長? 臭い、臭すぎる。信じていいのか。
 説明会は三回ある、一番近いのは三日後の十時だ。
 宮前は迷った。迷いに迷い、名刺を額に押しつける。……なにも浮かばない。
「くそっ。行くだけ行ってみるか。やばそうだったらすぐ帰ればいい」
 深く考えるのは得意じゃない。思い立ったが吉日、為せばなる、やってみなくちゃわからない、だ。
 宮前は履歴書とスーツを準備するためアパートへ走った。

 宮前は早めに家を出発し会場に向かった。会場前は既に長い列ができている。
 競争率が高そうだ。説明会に出る奴が全員会社の面接を受けるとは思わないけれどライバルは少ない方がいい。自分より見劣りする奴はいないかと探す。……このくそ暑いのにネクタイ締めてスーツを着ているだけで賢そうに見える。もちろん俺だってスーツにネクタイ姿、履歴書も鞄に入れてある、準備は万端だ。
 剥がれていた靴底は接着剤でくっつけた。クリーニングに出さずに押入れに入れっ放しだったスーツはかびが生えていた。胸元の白い粉(かび)をブラシで払い水拭きしてもすぐに浮いてくる。仕方がないから青のサインペンで塗り潰した。……紺色のスーツに原色の青が浮き上がり余計目立っているような……。
 ──……気のせいだな、うん。
 軽くはたいて見ないことにする。
 もしここに就職が決まればこんなかびが生えたスーツは捨てて新しいスーツを買おう。そのためにも今日は頑張る。
 長い行列を前に宮前は拳を握り気合を入れた。
「あれ? ……あいつもしかして……」
 列の中ほどに身長低めの男が目に入る。なで肩で背筋を伸ばした立ち姿に見覚えがある。そいつがふと横を向く。大学時代の友人、木村祐一だった。
「おおっ。祐一じゃん。おーい、祐一ー。木村祐一くん」
 大きく手を振る。前の何人かがこっちを向き、祐一もこっちを見た。にもかかわらず、さっと背中を向ける。
「お、おい。祐一、俺だって。宮前だよ。宮前。大学で一緒だった。忘れたのかー」
 手をメガホン代わりに呼んでもこっちを向かない。
「お待たせしました。ゆっくり中へお進みください」
 紺色のスーツを着た女性が呼びかけ列が動き出す。
「なんだよ、あいつ。無視しやがって」
 宮前は小声で悪態をつき、流れに沿って会場に入った。

 宮前は会場入り口に置かれた出席者名簿に名前を書き、パンフレットを手に取る。会場は百二十人ほどが入る広さで、ホワイトボードと教壇を前に椅子が等間隔に並べられていた。
 真ん中辺りに腰を下ろす。皆、生真面目にパンフレットを開いている。祐一がいた。祐一は最前列の右から三番目の席に座っている。
 ──……なんか緊張してきたなあ。
 ほんの少しネクタイを緩める。
 受付の女性が前に立ちマイクの調整をする。
「後五分で会社説明会が始まりますので、そのままお待ちください」と一礼し退室する。
 会場内は静まり返り、緊張をほぐすためか、咳払いが二度、三度聞こえる。宮前はパイプ椅子に浅く腰かけ背筋を伸ばし、両手を軽く握り膝の上に置いて待つ。昨日本屋で立ち読みした転職マ〇ジンに書いてあった座り方だ。
「まぁー。今日はこんなにたくさん来ていただいて、嬉しいわぁ」
 場違いな裏声が響き、体が傾く。この調子外れな声は……、やっぱり。現れたスーツ姿の男は、公園で会ったおっさんだった。
「みなさん、こんにちは。今日はお暑い中、弊社の説明会にお越しいただき有り難うございます。あら、そんなに緊張しなくていいのよ。楽にして楽に」
 おっさんは満面の笑みで両手指をタコの足のようにくねらせる。指の動きを見ていたら気分が悪くなってきた。
 ──ううっ、やっぱり俺無理かも……。
 隣の奴も青くなっている。
 ──……だよな。やっぱり来たのが間違いだった。パンフレットは貰ったし、後は家で考えよう。
 先ほどまでの意気込みは急降下、足元の荷物を掴みいつ抜けだそうかタイミングをはかる。
「では、自己紹介をします。私はリー・イーシン、人材派遣会社アースの……」
 会場の外で硬い靴音がする。早いリズムを刻み近づいてくる。扉の外でピタリと止まる。軽いノックの後、扉を開けて入って来た人物に、宮前は仰天した。
 緑や深緑、黄土色などの模様で埋め尽くされた、いわゆる迷彩服で身を包んだその人物は緑のスカーフを首に巻き、黒いブーツを履いていた。金髪をきつく後ろ手に束ね、灰色の目で会場を見渡す。
 宮前はぽかんとした。
 ──……コスプレ? にしては似合いすぎている。
 パッと見一七〇センチ以上ある身長、服の上からでも分かるがっしりした体格、鋭い眼光、……もしかして、本物? え? でも、派遣会社って言ってたよな?
 頭がこんがらがって宮前は周囲に目を泳がせた。他の奴らもあほ面かまし見入っている。おっさんが一際高い声を出し、迷彩服姿の金髪に近寄る。
「あっらー、どうしたのウェイン。今日は説明会だから休んでいていいのよ。それになーに、そのいかつい格好。みなさんびっくりするじゃない」
「仕事着だ」
 裏声を出すおっさんと違い、迷彩服姿の金髪が発した声はぶっきらぼうではあるものの女性だけが持つ高く滑らかなものだった。じゃあ、服を押し上げる厚い胸も筋肉じゃなくて、筋肉もあるんだろうけど本物の女の胸?
 おっさんは金髪女性の視界を遮るように至近距離で真正面に立ち、両手を左右にふり、一.五倍速度の早口でしゃべる。
「今から説明会が始まるの。悪いけど話があるなら後にしてね」
 金髪女性がおっさんを邪魔だと言うように片手で押しのける。
「腰抜けしか集まらないからどういう説明をしているのか知りたくて来た」
「……もしかして、説明聞くつもり?」
 会場を見渡す金髪女性が顔の角度はそのままに目だけでおっさんを威嚇する、……ように宮前には見えた。
「不都合でも?」
 おっさんが満面の笑みをはりつける。
「ちっとも。私は誠心誠意、嘘偽りない説明しかしないから聞いても面白くないわよ」
 おっさんの額を汗が伝っていくのを宮前は見逃さなかった。おっさんは白いハンカチで額を拭き、口の両端を大きく引き上げる。
「みなさん、改めて自己紹介をしますねー。私は人材派遣会社アース日本支社代表取締役リー・イーシン。こちらの美しい金髪女性はウェイン・ボルダー、我が社で指導教官兼指導責任者を務めています。怖そうに見えて本当は優しいから安心してね」
 祐一が手を上げる。
「すみません。さっき仕事着とおっしゃっていましたが、それ戦闘服ですよね? 御社の仕事内容と関係があるのでしょうか?」
 多分みんなが一番聞きたかったことを祐一が的確に質問してくれた。
「……それは、これから分かりやすく説明させていただくわ」
 おっさんが引きつった笑みで答える。警察に包囲されてなお必死に逃げる算段を立てている詐欺師のようだと宮前は思った。
 ウェイン・ボルダーと紹介された金髪女性はこちらを一瞥すると、壁際に立つ。
「開始時間を五分過ぎている。私は気にせず説明を始めてくれ」
「分かっているわよ」
 おっさんが苦虫を噛みつぶしたような顔でパンフレットをパラパラと開く。どっちが男でどっちが女か分からない。
 金髪女性は壁際に立ち、腕を組み、目を閉じる。眠っているようであり耳をそば立てているようでもある。
 宮前は説明が始まっても金髪女性が気になり、斜め前方に座る祐一も金髪女性の方ばかり見ていた。
「『アース』は世界中に優秀な人材を派遣している人材派遣会社で、本社はアメリカにあります。欧米を中心に六十社以上の支社があります。グローバル化が進んでいる今、日本にも進出することになり、約五年前日本で事業を開始したの。つまり我が社が日本第一号店ってこと。仕事は何でもあるの。トラック運転手、調理師、宅配人、清掃員、警備員、建設業……、個人個人の適性を生かしたお仕事を紹介します。
 詳しい業務内容は、災害や紛争が起きた国に入り現地で復興支援や人道支援をしている自衛隊さん達をサポートすること。難しそうに聞こえるけど要するに自衛隊の指揮の下、現地住民に交じって道路修復や建築に必要な資材を運んだり、がれきを撤去したり、支援物資を現地住民に配ったりすればいいの。健康でやる気があれば誰でもできる仕事よ。お給料はもちろん、労災、失業保険などの福利厚生も充実しているわ。海外に行く渡航費や諸経費は我が社が負担するからお金の心配はいらない。現地で仕事中に怪我や病気になった場合は世界各地にあるアースの提携病院で治療を受けられる、もちろん医療費は全額無料、安心して働けるわ」
 目尻を垂らし笑うおっさんとは対照的に参加者は浮かない顔だ。宮前もその気になれない。
 ──……海外で仕事って、ハードル高いなぁ。
「……あら、反応が薄いわね」
「すみません」
 祐一が手を上げる。
「海外で働くにしても、私は、その、語学はできませんし、これといった資格も持っていません……」
 祐一は学生時代もそうだったけれど学級委員長タイプでみんなの意見を酌むのが上手い。本人にその意図がなくても代表して発表してくれる貴重な存在だった。出世街道まっしぐらと思っていた祐一が派遣会社の説明会にいること自体不思議でしょうがないが今は質問の答えの方が気になる。
「あら、いいのよ。そんなこと」
 おっさんはにこやかに受けた。
「語学は日常会話、ううん、挨拶ができればいいの。同じ仕事を何ヶ月もしていたら最低限必要な単語は嫌でも覚えられるわ。不安なら現地で通訳を調達できるわよ。その費用ももちろん出すわ」
「語学は必要だ。現地の人間と意思疎通ができなければいらぬ誤解を生み、それが活動の支障となる。通訳を雇えるのは専門性が高い仕事に就いている者だけで、それ以外は自己負担だ」
 金髪女性の声が会場内に通る。
「私が話しているんだから黙ってて」
 おっさんが金髪女性をキッと睨む。すぐに笑顔に戻り、裏声を出す。
「……そうねえ、語学はないよりはある方がいいわね。うん、そうそう。現地に入る前に三日間、現地の簡単な言語や習慣について講習を受けてもらうわ。それとは別に資格を取りたいなら資格試験を受ける費用は出すし、講習を受ける場合は就業時間を調整するわ」
「六ヶ月間の訓練があることは説明しなくていいのか」
「黙っててって言ってるでしょっ」
 おっさんが金きり声をあげ、会場内が静まり返る。おっさんはごまかすように手で口を覆い、笑う。
「あら、私ったら。今から言おうと思ってたのよ。そうそう、訓練ね、訓練」
 明らかに不機嫌になって、口の中でぶつぶつ言い、またあいそを振りまく。さっきから表情がころころ変わる。気味が悪いな、と宮前は思った。人当たりが良さそうなふりをして皮を剥いだら実は違っていた、みたいな……。
「ここまでがアースの派遣社員の説明。ここからが本題」
 おっさんは誇らしげに胸を張る。
「実はね、我が社アースと日本政府が組んだプロジェクトがあってね。約六か月間の特別な訓練を受けると、希望者全員、特別公務員という形で国が雇ってくれるの。非正規の仕事さえ奪い合うこの不景気に、高収入、高待遇、リストラなしの公務員になれるのよ。どう? すごいでしょう? ここが他の派遣会社とアースが大きく違う点。そうそう、これが証明書」
 おっさんは慌ただしく一枚の紙をかかげ、
「これ、この角印は日本国の印鑑。この紙きれ一枚もらうのに膨大な申請書を書かされたうえ何度も東京に呼び出されて説明させられたの……」
 わざとらしく大きなため息をつく。紙を下ろし説明を続ける。
「特別公務員になっても仕事内容は派遣社員とほとんど同じ。ただ派遣社員と違って日本の国旗を背負って海外で働くわけだから最低限、自分の身を守る力はつけておいた方がいいということで六か月間の訓練が必要なの。ほら、海外って強盗やスリが多いでしょう? ……だ、か、ら。
 まあ、訓練って言っても体力トレーニングと射撃が主かしら。訓練中は原則会社の寮に入ってもらうことになっているわ。宿泊費、食費はもちろんタダ。食堂があるからそこで食べてね。制服や下着は配給制、歯ブラシやかみそりなどの日用品も現物支給するからお金はかからない。雑誌や軽食は売店でいつでも購入できる。
 それと、五ヶ月間の訓練の後、六か月目に修了テストを受けてもらいます。テストといっても振り落とすためのものじゃなく個人の適性をみるためで、試験結果と本人の希望とを合わせて、アースの派遣社員になるか、日本国の特別公務員になるか、選択してもらう。ここだけの話、なるならやっぱり公務員がいいわよー。派遣社員は一年ごとに契約更新があるし、うちみたいな民間会社は国が保証するほどの待遇はできない。公務員は給料も待遇も破格、家族の老後も保証してくれるんだから。
 そうそう、修了テストは国への報告用を兼ねているから、それと我が社の宣伝用にも使いたいからハリウッドばりのセットとエキストラを雇って大々的にする予定よ。皆さんはアクション映画好きかしら? 映画のヒーローになったつもりで思いっきり暴れてくれたらいいの。面白いわよー。訓練は退屈かもしれないけど、体は鍛えられるし、銃はバンバン撃てる。戦闘服も着られるのよ。こんなの普通の会社じゃ絶対できないから。その上お給料は訓練中もちゃんと出る。お堅い自衛隊で鍛えるより我が社は和気あいあい、楽しく訓練できるわ。筋肉ムキムキになって女の子にもモテモテ、海外に行ったら現地の美女をお嫁さんにできるかも?」
 おっさんが前列に座る参加者に一人ずつ「どう? どう?」と手を伸ばす。
「はは」と乾いた笑いをもらす奴、頬を赤らめ手を横に振る奴、小さく笑ってすます奴……、反応はまちまちだ。
「もし我が社に入ってくれたら、あのちょっと強面の女性指導官ウェイン・ボルダーがあなた達を手取り足取り優しく指導してくれるわ」
 宮前はウェイン・ボルダーと呼ばれた金髪女性をちらりと見る。
 金髪女性は目を合わせたら氷づけになって砕けるんじゃないかと思うほど殺気立っている。おっさんは素知らぬふうに出席者に笑顔を振りまく。
「彼女は正真正銘、百戦錬磨の元軍人よ。腕は確かだから六ヶ月後には全員たくましくなっていると思うわ」
「元軍人は正しいが、ニ回の作戦に参加しただけで百戦もしていない」
「もうー。例えよ、たとえ。それだけ腕が立つってこと。いいから黙ってて」
 おっさんがウザったく手を振り、会場の皆には笑顔を向ける。
「我が社に入社希望の方はパンフレットのこの番号に電話してね。改めて健康診断と面接の案内をさせていただくわ。面接で落とすことはまずないから安心して。それではまた、会えることを願っています。今日はお忙しいなか、説明会にご出席いただき、有り難うございました」
 おっさんの説明が終わる頃、金髪女性はいなくなっていた。

 説明会を終え、ごった返す人波に宮前は祐一を探す。
 エレベーターの前は混雑し、しばらく順番は来そうにない。宮前は階段を駆け下り建物を飛び出した。自転車が体すれすれを通り過ぎる。
「あっぶねぇなぁ、気をつけろ」
 自転車に乗った奴が一度振り返り「てめえこそ気をつけろ」と捨てゼリフを吐いて行った。
「むかつくなあ、くそったれ」
 自転車ヤローが走り抜ける歩道の向こうに祐一の姿を見つける。ありったけの声で叫ぶ。
「祐一ー、おーい」
 祐一は振り返り、宮前と目が合い、走り出した。
「おっ、おい、待てよ。俺だよ、宮前だよ」
 宮前は上着を脱ぎ、鞄を脇に抱えネクタイを外す。手を振り、地面を蹴りあげ懸命に追いかける。
 元陸上部、足には自信がある、俺が本気を出せばあっという間に追いつく、……と思ったのは勘違いで、なかなか追いつけない。というより引き離されていく。息切れし、汗が流れ、手足がばらばらに出る……。しまいには祐一が立ち止まり待っていてくれた。祐一に追いついた時には息も絶え絶えだった。
「……なん……で、にげ……るん……だよ」
 両膝に手をつき肩で息をする。
「……逃げてない」
 祐一はにこりともしない。
「……お前、さっき無視、しただろ。……列に並んでいた時、……お前に、声かけたんだぞ……」
 まだ呼吸が荒い。
 ──……運動不足かもしれん。
「会社説明会に来ているのにあんなところで大声で名前呼ばれたら迷惑だろ。人事の人に目をつけられて落とされたんじゃ割に合わない」
「……さよでっか」
 思い出した。こいつってほんと面白くない奴だったんだよな。学生時代は授業なんてそっちのけでバイク乗りまわしていたから単位落としまくって留年しかけた。
 それで優等生の祐一に頼み込んでノートを貸してもらった。章や段落もなく書かれていた祐一のノートは覚えるのにも読むのにもてこずったけれど要点をつかむには便利だった。要するに何度も出てくるところや長い説明をつけている箇所はテストに出る確率大だからそこに的を絞ってカンペを作ればいい。予想は当たり、祐一のノートを借りられた教科は単位取得に必要な最低ラインの六十点を取ることができ、無事大学を卒業できた。それもこれも祐一のおかげ、宮前にとって祐一は恩人だ。だから久しぶりに会った時は嬉しくて声をかけたのに祐一の反応はこの上なく冷たい。
 ──せっかく会えたんだからもっと喜べよ……。
「近くに公園があるからそこで話をしないか」
「……ああ……」
 金があれば「そこの店でコーヒーでもどうだ。おごるぞ」と見栄を張れるんだが、あいにく金欠病の俺にそんな余裕はない。祐一も嫌とは言わなかった。
 宮前は祐一と公園のベンチに腰かけ、自販機で買ったコーヒーを手に話をした。
「祐一は、さっきの会社行くんだろ?」
 返事がない。
「祐一って授業終った後も教授に質問しててさ、勉強できる奴ってイメージがあるんだけど、仕事は今どうなってんの?」
 祐一は沈んだ顔で話す。
「……新卒で入った会社がいわゆるブラック企業だったんだ。でも会社に勤めるなんて初めてだったからこれが普通なのかなって……。石の上にも三年って諺があるだろ。とにかく三年間は頑張ろうって無理しすぎて……。過労で働けなくなって、会社から自主退職を迫られ……、……言われるまま辞めた。今は求職中……」
「へえ、お前も大変だったんだなあ。俺は時間給の仕事を転々として、三日前まで働いていたコンビニは身に覚えがないことで責められて解雇されたとこ」
 祐一は相槌を打ってくれるわけでもなく無言でコーヒーを飲む。
 ──……んだよ、感じ悪いなあ。しばらく会わないうちに性格悪くなったんじゃね?
 宮前は仏頂面で聞いた。
「さっきの会社受けるんだろ?」
 祐一はコーヒーを膝に置き、ぽつりと言う。
「……どうしようかなと思ってる」
「なんでぇ? 条件半端なくいいじゃん。給料は二十四万、各種保険完備、食費も宿代もタダ。服も日用品も支給してくれるんだぜ? 今時こんな高待遇な会社ないって。それに六か月後には憧れの公務員だぜ? 俺は行く」
 宮前は立ち上がりコーヒーの缶を握りしめる。……固いスチール缶は握り潰せなかった。
「……お前、相変わらず考えなしなんだな」
 見上げる目が遠い。呆れた、を通り越して、呆れ果てたって感じだ。
「……なんだよ、おかしなところあったか?」
「なにもかもおかしいよ。あのリー・イーシンさん? あの人見るからに怪しいし、説明も要点がぼやけてはっきりしない。名前だって……」
「名前がなんだよ」
「リー・イーシンって『私は今日から女性として生きます』ってカミングアウトして一躍有名になった中国人俳優の名前だろ。本名かどうか分からない」
「うたぐり深いな。大丈夫だよ。国のお墨付きだっていう紙見せてくれたじゃん。ブラック企業に引っかかったからって今度もそうとは限らないだろ」
「……ぼくは体力に自信がない。訓練について行けないと思う。英語ができる訳でもないし資格だってない……」
「そんなの俺も一緒だって。体力は、まあ高校時代陸上部に入っていたからいけるにしても、英語なんてさっぱりだし資格は大型バイクの免許なら持ってる。バイクは事故って廃車になったけど」
 宮前は「だはは……」と笑い飛ばす。
「大丈夫だって。ちまちま考えない方がうまく行くって。俺を見ろ、なんとかなっているだろ」
 祐一は冷めた目で一瞥してから、静かに言った。
「……もう一社受けているんだ。その結果が明日中には届くはずだからそれを見て決めるよ」
「ふうん。早く決めないと定員いっぱいで取ってくれなくなるぞ。じゃあ先に行って待ってる。……っとと、……縁があったらまた会おう」
 祐一が睨むから慌てて言い直した。

 リー・イーシンは別室に移動し、事務机で片肘を突き、出席者名簿を一枚一枚めくる。アースに入ってくれそうな人間にあたりをつけていた。
 説明会に乱入したウェインはというと、気難しい顔で観葉植物の葉を弄り、窓際で腕を組み何度も深いため息をつく。
「麦茶ならそこの冷蔵庫に入っているわよ。座って飲んだら? 目の前で動き回られたんじゃ気が散って仕事ができないわ」
 ウェインは組んだ腕をほどき、イーシンが座っている机に手を置く。
「あれほど、いい加減な説明をしているとは、思わなかった。根性なししか来ないはずだ」
 一言ずつ、噛みしめるように言う。
 イーシンはちらっと見て、また名簿をめくる。
「嫌なら聞かなきゃいいじゃない。だいたいあなた休暇中でしょう。どうして来るのよ。それもそんな色気も素っ気もない格好で。みんなびっくりしてたわよ。服持っていないの? 必要経費でドレスを新調してあげましょうか?」
 ウェインが怒気をはらんだ声で問い質す。
「……誰が、手取り足取り、優しく教えるって? イーシンは私に娼婦の真似ごとをさせたいのか?」
 イーシンが驚いたとばかりに顔をあげる。
「まさか。あなたが相手じゃクマでも逃げ出すわ」
 にっこり笑う。
「私の苦労も分かってほしいわ。私が必死でかき集めた人員を貴方ったら片っ端から落としていくんですもの。前期残った訓練生はたったの八人。少なすぎてシミュレーションをするどころじゃなかったから簡単な体力技能テストに切りかえたのよ。『合』を貰って自衛隊に入った子達は部隊内で虐めにあったとか、上司に嫌がらせを受けたとかで数ヶ月も経たずに辞めて行ったそう。自衛隊幹部からお話があったわ。判定で『否』だった子達はただの派遣社員として海外じゃなく日本国内で活動している。平和な日本で働いてもらってもねぇ。うちは海外派遣会社だっていうのに……。そうそう、訓練中に足を骨折した子から電話がかかってきたわ。『教官の指導にはついて行けません。医療費要らないんで辞めさせて下さい』ってね。声が潤んでいたから泣いていたんじゃないかしら。毎年毎年飽きもせず同じことの繰り返し。もっと優しく指導できないの? 虐め倒すのが趣味なら職場じゃなくプライベートでしてほしいわ」
 名簿を机に置き、ウェインを見上げる。
「……リー社長が」
「うわっ、ビックリ」
 イーシンはのけ反る、反動で椅子の背もたれが軋んだ。
「ヤメテよ、急に。いつも偉そうに名前で呼んでいるくせに。見て、鳥肌立っちゃったじゃない。なんなの、いったい。二人の時はイーシンでいいわよ。好きな俳優の名前なの。彼に憧れているのよ。凛として、優雅で、気品があって……」
 ウェインが小さく首を振り、机から手を離す。
「……イーシンがまともな奴を入れないから脱落者が増えるんだ。私は特別厳しくしたつもりはない。あの説明で入ってくるんだ、その程度の奴しかこない」
 イーシンは鳥肌でぼつぼつになった腕をさすりながら言う。
「言っときますけど、できない部下をできるように育てるのが指導者の役割でしょう? このプロジェクトは国から補助金を貰っているの。今年で五年目、最終報告しなくちゃいけないの。五年間で一人の人材も育たなかったんじゃ補助金打ち切りなの。つまりこれが最後のチャンス。補助金無くなったらアメリカ本社からも『何やってたんだ』ってお叱りを受けるわ。最悪、解雇よ。そうなったら私達はお仕事がなくなるの。ホームレスになるのよ、この日本で、外国人が。分かる? でもプロジェクトがうまくいったら晴れて堂々とこの国で『民間軍事請負会社アース』として営業できるよう日本政府が取りはからってくれるの。補助金を貰えるうえ税制控除の優遇措置を受けられるし、装備品も簡単に手に入る。定期的に自衛隊と共同訓練だってできるのよ。資金が潤えば施設だって拡大できるしスタッフだって増やせるの」
 ウェインはうんざりした様子で会話を切った。
「私は経営のことにはノータッチだ。全てイーシンに任せる。私は誰が入ってこようと指導方法を変えない。できそこないの兵士を送り込んで部隊が全滅するような事態になれば私は三度撃ち殺されても死にきれない」
 イーシンは両手を上下に振りウェインをなだめる。
「聞いて、ウェイン。兵士じゃないのよ。軍人でもない。自衛隊員よ。自衛隊は軍隊じゃないの。世界第四位の軍事費算出国であり世界トップクラスの陸上自衛隊を抱えていても戦闘は行わない。自衛隊の活動内容は現地での給水活動、道路や学校の修復。NGOボランティアや現地住民、派遣社員でもやっていることよ。『安全保障関連法』ができたから後方支援する機会は増えるでしょうけれど、日本政府が『派遣地域は自衛隊の安全を考慮し、慎重に選ぶ』と言っているし、万一何かあっても『部隊長の判断で中断、もしくは即時撤退する』と言っているの。海外派遣が嫌なら無理強いはしないとも言っているわ。だから貴方が力を入れて鍛える必要はないの」
「兵士でなくとも現地で活動していれば標的になる。一発で撃ち殺されればいいが生きたまま焼き殺されるかもしれない。手足を一本ずつ切り落とされたら、敵が仕掛けたトラップにかかり隊が巻き込まれたらどうする? あらゆる危険を想定しそれに備え訓練することに異論があるなら私を辞めさせればいい」
 ウェインは胸を反らし言い放つ。
 イーシンはため息をつく。あんまり真っ直ぐに盾突かれると意地悪を言いたくなる。
「……熱意は分かるけれど、かつてのトップは貴方達兵士のことをそれほど大事に思ってくれていたのかしら?」
 上目遣いにちらっと見る。ウェインの目元がぴくりと震える。
「……どういう、意味だ……」
「深い意味はないわ。気にしないで」と手をひらひらさせる。
 ウェインは憎々しげに睨みつけ、踵を返し部屋を出て行った。

 イーシンは頬杖をつきぼやく。
「……兵士として優秀なのは確かなんだけど、融通が利かないったら……」
 ──初めて会った頃はあんなに可愛かったのに、いつから反抗的になったのかしら。
 リー社長、ウェイン・ボルダーです。よろしくお願いします。
 初めて対面した時、緊張した面持ちで敬礼し不動の姿勢を崩さないウェインが微笑ましく、言ってしまったのが運の尽きだった。
「もう、リー社長なんて、堅苦しいわねー。ビジネスパートナーなんだから対等で行きましょう。イーシンって呼んでちょうだい。私のファーストネームよ」
 ウェインは眉一つ動かさず、ただ語尾に躊躇いの色を混ぜて聞いたのだ、「……それは、命令ですか」と。
 イーシンは笑いを堪えながら、「そうよ。め、い、れ、い。私もウェインと呼ばせてもらうわね。アース日本支社のために二人で頑張りましょう」と握手した。
 しばらくは無愛想に話をしていても「リー社長の……」「イーシンよ」と訂正すると言葉に詰まるところが可愛らしくて、呼び間違える度にからかっていた。
 規律に厳しい軍隊に入っていたウェインにとって上司をファーストネームで呼ぶなんて針穴を狙撃するより難しいことだったかもしれないから、これは当分楽しめるわねー、とひそかに笑っていた。
 ……それが、さすが過酷な現場で作戦を遂行してきただけあって適応力も高かったらしく、いつの間にか当然のように呼び捨てにし言葉遣いも態度もぞんざいになった。
 ──……ちょっと、甘やかしすぎたかしら。
 後悔しても後の祭り、ウェインにその気はないのだろうが口ごたえもするようになった。
 どんよりとした気持ちで椅子の背もたれに体を預ける。
 胸ポケットの携帯が鳴り、笑顔を作り裏声で出る。
「はぁい、人材派遣会社アースのリー・イーシンです。……え、入社希望? まあぁ、有難うー。大歓迎よ。嬉しいー。あ、はい、みやまえひとし君ね。神宮の宮に、前後の前、それに等しいの等。もう是非是非、お待ちしているわ。では〇月〇日〇時から〇〇会議所で健康診断と簡単な面接をするから来てね。その時に履歴書も持って来てちょうだい。……ううん、落ちることはまずないから遊びに来るつもりで来て。うん、そうそう。では、また会いましょう」
 イーシンは電話を切り、
「やったー。まず一人ゲットね」
 メモ書きした紙を掲げ、キスをした。

 *

 宮前は意気揚々、着替えや愛読書の雑誌、それと百円均一で買ったトランプなんかをバッグに詰め込む。
 心臓バクバクもので挑んだ面接はあっという間にすんだ。
 かび臭い部屋、貧しい食事、風呂は水代節約で三日に一回、なら多い方……。そんな暮らしでも風邪一つひかない丈夫な体だ、健康診断なんて屁でもない。問題は面接だ。ペーパーだろうが面接だろうが試験と名が付く物には身構えてしまう性分だ。
 たったの五分や十分、それさえクリアできれば入社は現実になる。髪ははねていないか、剃り残しはないか、ネクタイは汚れていないか、スーツのかびは目立たないか……くまなくチェックし、面接に臨んだ。
 面接官はおっさん一人、隣で黒髪に銀縁眼鏡の女性が履歴書を見ながらノート型パソコンにせわしなく打ち込んでいた。おそらく名前や経歴、それに面接内容を記録しているんだろうと思うと緊張した。
 名前と年齢、前の職業を聞かれた後は、おっさんから「うちの会社がどれほど働きやすくて待遇がいいか」について説明を受け、終了。翌日、めでたく「採用」の通知をもらった。
 そしていよいよ出発の日。
 このかび臭いオンボロアパートはさっき解約した。一ヶ月分しか滞納していないと思っていたのに二ヶ月分の家賃を請求され、敷金と残り少ない有り金から差し引かれ、すっからかんになってしまった。……ま、次の仕事で巻き返せばいい。なんせ一ヶ月で二十四万、住むところもあって食費もタダ、パンツもひげそりも貰え、六か月後には特別公務員ときたもんだ。
 ──……特別って響きがいいよなー。普通の公務員より給料がいいってことだよな? なんせ特別だもんよ。
 笑いがこみあげる。
 気分は上々、やっと運が向いてきた。
 思えばぱっとしない人生だった。給食と体育の時間だけが楽しみで通った小学校、勉強に遅れを感じ始めた中学時代、授業についていけず居眠りばかりしていた高校生活。夢はなく、なりたい職業もなく、結論先延ばしのために入った三流大学。卒業しても正社員にありつけず時間給の仕事を掛け持ちし、財布の中身を数えながらカップ麺にするか塩茹でパスタにするか悩む日々……。
 店長にはいびられ、先輩には虐められ、後輩にまでからかわれ、……あ、カオリちゃんは優しかったな。告白したかったけれど、その前に店長に辞めさせられた。縁がなかったと諦めよう。
 ……真剣に考えたら生きているのが馬鹿らしくなってくる。
 しかし、それも今日で終わり。耐えに耐え、忍びに忍んでためてきた幸運が、今まさに我が身に降り注ごうとしている。
「よっしゃ、できた」
 荷造りを終えた旅行バッグを肩にかけ、三年間世話になったオンボロアパートを出た。

 宮前は集合場所で大学時代の友人を見つけ肩を叩いた。
「よっ。やっぱりお前も来たんか」
 祐一は不満の一つでも言いたげに口をすぼめ宮前を上目遣いで睨む。
「なんだよ。もう一社の方、落ちたんだろ? 落ちて正解だよ。絶対こっちがいいって」
「でかい声で言うなよ。恥ずかしいだろ」
 祐一の足元にあるキャリアバッグが居心地悪そうにちょこんと佇む。
「試験会場で会わなかったから心配してたんだぞ」と祐一の肩を軽く叩く。
「……滑り込みで受けさせてもらったんだ……」
「なんだよ、またぐだぐだ考えてたわけ? 心配ないって。絶対こっちで正解だよ。俺が言うんだから間違いない。これから同じ職場で働くんだ。よろしくな」
 笑顔で励ましてやっても祐一の顔色は冴えなかった。

 リムジンバスが到着し乗降口が開く。スーツ姿の男性が現れ、封筒を手に乗降口の傍に控える。その後、なぜかアロハシャツを着たおっさんがはちきれんばかりの笑みを湛え、軽快な足取りで降りてきた。
「みなさん、お待たせー。ここから社員寮へはバスでお連れします。戻ることはありませんので忘れ物はないようにして下さいね」
 おっさんが両手を組み、ちょこんと首を傾ける。
 ──相変わらず気持ち悪いな……。
「いよいよだなー。なんかツアー旅行みたいでワクワクする」
「ほんとに宮前って気楽でいいな」
 祐一は苛立たしげに突っ込む。
 おっさんがにこやかに言う。
「ちょっと時間がかかるけど我慢してね。サービスエリアで一回休憩をとるわね。おトイレはバスの中にあるから」
 歌でも歌い出しそうなおっさんに「どれくらいかかるんですか」と聞きそびれ、不安がる祐一と目が合った。

 午前八時三十分きっかりにバスは出発した。
「今からDVD流すからカーテン閉めてねー」
 半強制的にカーテンを閉めさせられ、おっさんお薦めという中国の恋愛映画が流れる。バス内の時計が十二時ぴったりになったところで幕の内弁当を配られ、数年前に流行った「アンと嵐の女王」とかいうディズニー映画、アクション映画が際限なく流れる。
 ──この年齢でディズニー映画見せられてもなあ……。
 彼女がいるわけでも子どもがいるわけでもない。弁当食いながら野郎と一緒に見ても虚しいだけだ。
 その間もバスは走り続ける。映画に飽きたから眠ることにした。

 バスの振動で目が覚める。舗装されていない坂道を走っているようで、がたがたと足元から突き上げるような振動と激しい横揺れに酔いそうになる。傾斜が急で体が背もたれに押さえつけられる。
 ──……どこ、走ってんだよ……。
 カーテンを開けようと手を伸ばした時、バスが停まった。
「お疲れ様ー。着いたわよー」
 時計を見ると夕方五時を過ぎていた。八時間以上、バスに乗っていたことになる。
 バスを降り、真っ先に口をついた言葉は、「……ここ、どこ?」だった。
 宮前はその場で三百六十度回り、天を仰いだ。
 山頂にかかる太陽は黄金に輝き、西の空を眩い金色に染める。上空に広がる分厚い雲は赤金に縁どられ、東の低い空へ向かうほど金色から赤紫、そして紫紺へと変わる。それがなんとも不気味だった。
 漆黒に近い東の夜空に白い星が瞬き、冷たい風が吹き渡る。
 黒く広大な原っぱ、空まで届きそうな木々が柳のようにしなり、川が近くにあるらしく、豊かな水流の、というより叩きつけるような激流の音が聞こえる。
 四方を取り囲む山、山、山の連なり……。
「……ここは、……どこだ……」
 隣にいる祐一に聞いたけれど、祐一は呆然と立ち尽くす。宮前も答えを待たず、ふらふらと水の音がする方へ歩いた。
 足元は山影になり暗い。白く浮き上がる葉っぱを引っこ抜いてみる。草ではなく芝だった。今は枯れて萎びているが元は青い芝生が植えてあったのだろう。
 暗闇に紛れるように三階建ての黒い建物が見えた。大きな流木を縦に割り、表面にやすりをかけ滑らかにしたような看板に『海外派遣会社アース社員寮』と黒墨で書かれている。
 激流の音がすぐそばで聞こえる。
 建物から離れ、恐る恐る水の方へ近づくと直角に切り立った崖の下に川が流れていた。川幅は八十メートルくらい、水飛沫をたて豪雨のような音が途切れることなく鳴り響く。
 手に持つ枯れた芝を落としてみる。白く光る芝が左右に舞い、激流に呑み込まれた。水飛沫が顔面にかかる。誤って落ちようものなら、そのまま三途の川まで押し流されてしまいそうだ。
「ごめんねー、こんなど田舎で。訓練できるくらいの広さを確保するには土地が安い山間部しか見つからなかったの」
 高い声が遠くから聞こえる。
「この辺りはゴルフ場だったんだけど赤字経営で閉店するって聞いて、買い取って訓練場に造り替えたの。右隣の山の上にも訓練場があって、そこも前は放牧地だったんだけどやっぱり採算が合わないから手放すっていうんで、牧場主に土地を貸してもらっているの。空気はきれい、景色は抜群、広さも充分、なにより周囲にひとっ子一人いないから騒音を気にしなくていい。のびのび訓練できるわよー。訓練場は全部で五つあります。訓練期間中に一通り使うから、それまでのお楽しみにしてね」
 おっさんが軽い調子で締めくくる。
「寮の中を案内するわ。さあ、入って、入って」
 宮前は背中に冷たい水飛沫を浴び、おっさんに促されるまま列の後ろについて行く。一度、呆然と空を見上げる祐一を振り返り、中へ入った。

「どう、きれいでしょう? ここを買い取った時に改装したの」
 おっさんの説明を聞きながら施設内をまわる。外壁とは対照的に中は天井や壁、廊下も白で統一され、建てたばかりと言われても信じるくらいシミ一つない。玄関口から奥まで廊下が伸び、廊下左側にずらっと相部屋が並ぶ。突き当りを左に曲がったところまで訓練生の部屋があるそうだ。
 廊下右側に大テーブルが八つ並んだ食堂があり、廊下からでもオープンキッチンが一望できる。一度に百二十人が食事を取れ、食堂の大窓から天幕付きのテラスへは自由に出入りができ、雨天と夜以外はテラスで食事をするという。
 売店には雑誌や漫画、新聞、おにぎりやサンドイッチ、簡単な惣菜、果物、お菓子に飲み物、他に文房具などの雑貨が何でも揃い、切手やはがきも買える。カウンターではドリップコーヒーやフライドチキン、ポテトを注文できる。売店というよりコンビニに近い。他に欲しい物は売店に置いてあるパソコンで取り寄せできるという。
 壁一面の掲示板に、派遣会社アースの広報紙がイラストやカラー入りで貼られていた。おっさんを二頭身にしたキャラクターが「食事のレパートリーの豊富さと味と量を五段階評価したら十点満点です」とアピールし、五段階じゃないのかよと突っ込む、シェフへのインタビュー記事も載せてある。
 レクリエーションルームには大型テレビがあるだの、カラオケがあるだの、要するに施設の説明だ。施設内の見取り図が白黒で印刷され、こまごまと黒のペンで何やら書きこまれている。その隣に、これまた白黒で印刷された表が貼られていたが、面倒くさくて読まずに通り過ぎた。
 突き当たり曲がって右に男性用の浴室とトイレがあり、その奥に二階と三階へ続く階段がある。
「玄関入ってすぐ右側にあった階段からも二階と三階へ行けます」とおっさんが見取り図を使って説明してくれた。
 二階は社長室兼社長の個室、教官達の個室、スタッフの相部屋、事務室、研修室、会議室等があり、三階はゲストルームや空き部屋、物置があるくらいで今は特に使われていないそうだ。
 おっさんの説明では、入社希望者が増えれば二階の部屋を訓練生用に空ける手筈になっているそうで、将来的には女性でも気軽に入社できるよう女性専用の寮も設けるとの話だった。
「部屋割りをそこの掲示板に貼ってあるから各自部屋を確認して入ってね。訓練期間中は四人部屋なの。定員割れしているからスペースに余裕があるはず。不満でも訓練が終わるまでは我慢してちょうだい」
 おっさんが愛想よく笑い、そして一拍おいてから意味ありげに言う。
「夜の研修でも話すけど、勝手に出歩かないようにね。特に夜は真っ暗だから足を踏み外して川へ転落とか、道に迷って遭難しても助けようがないから」
 さっきの轟音奏でる激流を思い出し、宮前は身震いする。
「夕食は六時半から。それまでは部屋でゆっくりくつろいでちょうだいね」
 おっさんは軽い足取りで階段を上って行った。

「えーっと、俺はと……」
 宮前は掲示板に貼られた部屋の割り当て表を左端の列から順に目でたどる。他の奴らが邪魔でしょうがない。野郎どもの頭と頭の間から目を凝らし、自分の名前を探す。
「一〇二。ぼくと一緒だよ」
 祐一がボソッと呟く。
「おお、そうか。やっぱ俺と祐一、縁があるなあ」
 宮前は浮き浮きして祐一と一緒に一〇二の部屋へ向かった。
 網戸にした大窓から涼しい風が入る。下駄箱に靴を入れ、部屋に上がる。壁の両側に二段ベッドが二つずつ、衣服をかけるクローゼットと事務机も両側に一つずつ、五百ミリリットルのペットボトルが四本入ればいっぱいになるくらいの小さな冷蔵庫が一つ、備え付けられている。
 テレビやオーディオセットはレクリエーションルームにあるらしいからこれはこれでいい感じだ。
 宮前は一番涼しそうな窓際のベッド一段目に寝そべり、全身を伸ばした。
「なんか、部活の合宿に来た感じしねえ?」
 返事はない。祐一は部屋を見回し壁際に荷物を下ろす。
 食事まで時間がある。宮前は寝転んで持って来た雑誌を読み始める。祐一がバッグから着替えを取り出し整理しながら聞く。
「……宮前。訓練ってどんなことをすると思う?」
「体力トレーニングと射撃だろ。おっさんが説明会で言ってたじゃん」
「……ゴルフ場を買い取って体力トレーニングで終わるかな? 牧草地だって借りているんだろ?」
 宮前は雑誌をめくる手を止める。
「なんだよ。おっさんが嘘ついてるっていうのか?」
「……途中で辞めたくなっても、こんな山の中じゃ逃げられないってことだよな」
「気味悪いこと言うなよ。気にしすぎだよ、気にしすぎ。そんなんだから陰気になるんだ。もっと明るくいこうぜ」
 宮前が励ましても祐一は暗い顔のままだった。

 待ちに待った夕ご飯。
「もう少し後から行こう」と渋る祐一を引っぱり、一番乗りで食堂に入る。トレイに器やお箸を載せる。
 幼児が入りそうなくらいでかいおひつが二つ並び、ほっかほかの炊き立てご飯がこんもり入っている。羽子板なみのでかいしゃもじで丼サイズの茶碗に盛り付ける。これまた丼サイズのお椀にみそ汁をなみなみと注ぎ、主食のコーナーにはビーチサンダルぐらい大きなトンカツが整然と並べられていた。
「おおおっ、すっげえー。見ろよ、祐一。このデカさ。本物かぁ、これ? マジ食えんの?」
「一つだけだぞ」
「……分かってるよ」
 ──俺がそんなに食い意地はってると思ってんのかよ。
 心の中でぶつくさ言う。
 脇役のキャベツはどうでもいい、宮前は一番手前、ではなく、一番デカそうなトンカツを選んだ。
 席にさっさと着き、祐一が来るのを待たずトンカツにかぶりつく。サクッとした歯ごたえと弾力、噛むごとに肉汁が口の中に広がり、肉の甘い匂いが喉から鼻へ抜けていく。
「うっ、まーい。まじ、うまい。すっげー」
 トンカツの断面を見てまた嬉しくなる。厚みのある肉の真ん中がほんのりピンク色で、透明の肉汁が滴る。衣ばっかり厚くて肉なんか干からびたハムみたいな安売りのトンカツとは大違いだ。ご飯はピカピカ、米粒もしっかり立って、もうサイコー。昨日までの極貧生活が地獄ならここは天国だ。
「幸せだなー。これからこんなうまい料理が毎日食べられるなんて」
 宮前はご飯をかきこむ。
「……お前って、ほんと悩みなさそうだな」
 祐一が席に着き嘆息を漏らしても宮前はどこ吹く風でトンカツにかぶりつく。
 食堂に人がぞろぞろと入り始める。おっさんがにこにこ顔で呼びかける。
「みなさーん、ご飯とおみそ汁、それにサラダはお替り自由。遠慮なく食べてね」
「すっげえ、聞いたか。お替り自由だってよ」
「ご飯とみそ汁とサラダがな」
 祐一が釘をさす。
「……分かってるよ」
「栄養、カロリー、味も満足してもらえるよう、食事には気を遣っているの。窮屈な寮生活を送ってもらうんだもの、食事くらいは美味しくなくっちゃね。夕食が終わったら研修会があります。二階研修室に集まってね」
「はいっ」
 宮前は手を上げて返事をした。
「あら、元気なお返事。ありがと」
 おっさんにウィンクされ、宮前はトンカツを呑みこんでしまった。

 研修室は百二十人ほどが収容できる広さで、長机と椅子が整然と並べられている。部屋ごとに座るようだ、ホワイトボードに貼られた座席表に従い祐一と隣り合って座る。
 広い部屋、チリ一つ落ちていない床、整然と並べられた机……、冷やりとした空気のせいか、妙に落ち着かず周囲を見回す。他の奴らも居心地が悪いのか、席に着いてもそわそわしている。ざっと見、四十人足らずか。定員八十名と聞いていたから、思っていたより少ない。
 扉が開き、濃紺のスーツに着替えたおっさんが入り、説明会に乗り込んできたあの金髪女性も入ってきた。と思ったら、七人の男が後に続く。一列に並んで立ち止まり、一斉にこちらを向く。
 宮前は気圧された。
 髪の色、肌の色、身長も違う男たちが表情一つ変えず、無言でこちらを見下ろす。品定めされている気がした。
 おっさん以外は全員、肩を強調し腰を絞った濃紺のスーツを着ていた。制服らしい。金色のボタンを留め、左胸に翼を広げた鷹が地球に降り立つ絵柄が鷹は黄金の糸、地球は青銀の糸で刺繍されている。勲章や腕章がついていれば軍服そのものだ。
 ──……迷彩服といいこの制服といい、コスプレマニアが多いのか?
 おっさんがとりすました顔で挨拶をする。
「皆さん、遠い所までお疲れ様でした。改めて自己紹介させていただきます。私はリー・イーシン。アース日本支社代表を務めています。会社の運営人事を担当しています。ここに並んでいる人たちは六か月間皆さんを指導してくれる教官達です。一人ずつ紹介させていただきますね。まず、こちらはウェイン・ボルダー」
 ウェイン・ボルダーと呼ばれた金髪女性が一歩前に進み出る。
「説明会で一度目にした方もいるかもしれないわね。彼女は指導教官であり指導責任者でもあります。寮生活、訓練に関わる全ての事柄は彼女に一任されています。……次は、……」
 おっさんが次々と他の教官を紹介していく。
 ──……つまり、あのウェイン・ボルダーって教官がおっさんの次に偉いってことか。
 会社でいえば副社長、ナンバー・ツーの地位だろう。
 ウェイン教官以外は全員男だ。男たちと比べれば体は細く、顔も小さく端整、肌は滑らかで髭なんてないし、おっさんと違って声も高く澄んでいる。しかし、隙のない身のこなし、鋭い眼光、引き結んだ唇のせいか、他者を圧倒する威厳を放つ。女性特有の柔らかさや優しさを削ぎ落とした硬質な印象を与える。
 教官達の紹介が終わり、ウェイン教官による説明が始まる。
 客室乗務員がアナウンスに従い非常時の脱出法を乗客に説明するように、ウェイン教官の説明にそって別の教官が実演する。
 一日のスケジュール、一週間のスケジュール、部屋での過ごし方、風呂の入り方、部屋の片づけ方、布団のたたみ方に至るまでこまごまとした決まりがあった。
「施設内では薬物はもちろん、アルコール、タバコは禁止だ。訓練の内容、同僚の情報、スケジュール、ここで知り得た情報は家族、知人、恋人であろうと絶対に漏らしてはならない。平日は携帯やスマホ、タブレット端末、パソコン、ゲーム機は使用禁止、全てこちらで保管させてもらう。外部に連絡がしたい者は施設の外にある公衆電話を使うこと。一回の使用は一人五分までとする」
 持ってきたスマホは教官達に回収され、代わりに制服、戦闘服、下着、歯ブラシ、ひげそり等が渡された。
「それと、靴は毎日磨いておくこと。砂埃一つでもついていたら罰として腕立て伏せ五百回だ。時々部屋を抜き打ちチェックする。いつ見られてもいいように常に整理整頓をしっかりやっておくように」
 ウェイン教官の説明は続く。
「君達はこれから六ヶ月間ここで訓練をする。できるだけ効率よく進められるようアースが独自に作成したプログラムに沿って訓練する。厳しいと感じることもあるだろうがしっかり頑張ってほしい。……何か質問は?」と資料を閉じる。
 宮前は隣に座っている祐一に耳打ちする。
「どんな訓練するか聞かねえの? 気になるんだろ?」
 祐一は俯き、だんまりをきめこんでいる。
 ──ちぇっ、しょうがねえなぁ。
「はい」
 宮前は手を上げた。
「部屋番号と名前は?」
「あ、一〇二の宮前です。訓練って具体的にどんなことをするんですか? スケジュールには訓練の時間は書いてますけど内容が書かれていないんで」
 祐一が辛気くさい顔をしているから代わりに聞いてやる。
「基本は担当教官が指示した通りに訓練が進められる。詳細な準備物や集合場所は当日の担当教官の部屋へ当番である訓練生が聞きに行くこと。その時はペンとメモ帳を忘れないように。また担当教官の命令は常に復唱すること。伝達ミスが仲間の生死に関わると思え。準備を特に必要とする訓練に関しては前日に話す。また話した内容とは別のプログラムをさせることもある。臨機応変に動く習慣をつけてもらいたいからだ。
 始めの三ヶ月間で兵士としての集団生活、基礎体力、そして基本的な射撃技術を身につけてもらい、次のニヶ月間で単独訓練と集団訓練等、二日間のバトルキャンプを含め、本格的な軍事訓練を行う。訓練の習得度合いを確認するために三回の技能テストを入れる。そして訓練期間最後の六ヶ月目にシミュレーション、つまり修了テストを行う」
「……ええーっと、……まだよくのみこめないんですが、訓練って体力トレーニングじゃないんですか。俺のイメージじゃ、ほら、こんなことする……」
 宮前は組んだ両手を頭の後ろに当て上体を前後に揺らす、腹筋運動のつもりだ。
「……誤解がないように付け加えるが、私が言う訓練は戦力を持った、つまり戦闘ができる人員を育てるための軍事訓練であり、一般人が体力向上を図ってするトレーニングとは異なる。トレーニングがしたいなら別棟にジムがあるから仕事の時間外にしてくれ。一日のスケジュールをこなしていたらそんな余裕はないはずだが……」
 ウェイン教官がにこりともせずに言う。
 ──……え……、え、ええっ?
「あああの、おっさんが、っと、社長が説明会で言っていたこととだいぶ話が違うみたいなんですが?」
 なに食わぬ顔で足を組み座っていたおっさんが慌てて立ち上がり、顔面に笑顔をはりつけウェイン教官を押しのける。
「はい、はい、はい。ちょっと私からも説明させていただくわねー。みなさんのお仕事は派遣社員、兵士じゃないからこれは確か。
 説明会でも話した通り仕事内容は被災地で毛布や食料品などの支援物資を配るとかテント張りとか。道路や学校の修復は土嚢や建築資材を右から左へ運ぶ。浄水・給水活動は自衛隊さんが浄水セットを積んだトラックでくみ上げた水を住民が持ってきたボトルに注水する。……後はそうねぇ、お風呂やトイレの設営とか、倒壊した家屋の撤去とか……。ね、すごく簡単。でも、同じ仕事ならもっと待遇いい方に行きたくない? 
 自衛隊さんが今、人手不足でね。人材集めに困っているの。特に貴方たちみたいな十代から三十代の若者が喉から手が出るほど欲しいのよ。それでね、我が社がある程度訓練した若手を自衛隊に派遣する仕事を請け負ったの。六か月間の訓練の後、修了テストで一定の技量を習得したと認められた人は任期制でも予備役でもない、正規の自衛隊員として国が雇ってくれるの。その場合、三ヶ月間の教育期間免除で各部隊に配属される。もちろんテスト結果が悪かった人も希望すれば入れるわ。
 自衛隊はいいわよー。国に雇われているだけあって給料も待遇も別格だし、六ヶ月間、ううん三ヶ月間派遣先で頑張れば特別昇任も特別昇給もあるの。万一の場合に備え、保険も補償も充実、定年まで働けるし、家族の老後まで保証してくれるのよ。一生の仕事にはもってこいよ。
 自衛隊に入ったからってすぐ海外で働くわけではないの。しばらくは自衛隊で訓練を受けながら国内で活動することになるし、海外派遣する時はちゃんと希望を聞いてくれる。訓練だってすごく簡単。走る、跳ぶ、撃つ……、簡単すぎてあくびが出ちゃうくらい。訓練期間中もちゃんとお給料は出るし保険だって使える。軍隊生活ってこんなものなんだー、軍事訓練ってこういう感じかぁ、って知ってもらえればそれで充分なの。気楽に、気軽に臨んでくれればいいのよ」
「リー社長、それ以上いい加減なことは……」
 ウェイン教官が不快感を露わにおっさんの肩をつかむ。おっさんが手に持った資料でウェイン教官の口を塞ぎ、冗舌に続ける。
「軍用トラック運転したくない? 装甲車にも乗れるわよ? 銃だってバンバン撃てる。大砲も打てるわよー。全然危なくないから安心して。ほんとよ? 大事な人命を預かっているのよ。貴方達に何かあったら困るのは私達会社側ですもの」
 ──……自衛隊? ……軍事訓練……?
「なあ、なんて言っているの? 俺さっぱりなんだけど……」
 と聞いても祐一は顔面蒼白で反応がない。
 ウェイン教官はうんざりした様子でおっさんの手を払いのける。
「リー社長がどう言おうと私は私のやり方で訓練を行う。口ごたえや反抗は一切認めない。命令には服従してもらう。嫌ならいつでも辞めていい」
「ちょっとっ、変なこと言わないでよ」
 慌てふためくおっさんをウェイン教官は片手で押し止める。
「私には君達を一人の兵士として育てる義務があり、私はその努力を惜しまない。不当な命令に関してはここにいるリー社長に訴えるか、告訴状をアメリカ本社に提出すればいい。他に質問がある者は?」
 宮前は座り、祐一は黙りこみ、手を上げる者はいなかった。

「なんで黙ってたんだよ。あそこは文句言っていいところじゃねえの?」
 ベッドの縁に腰かけ本を読んでいる祐一に、風呂から出てきた宮前は濡れた髪を乱暴に拭きながら不満をぶつける。
「……別に、……文句なんてない……」
「あるだろうがよ。あんなの詐欺だぞ、詐欺。話がうますぎるとは思ったんだ。特別公務員って自衛隊員のことだったんだぞ? 自衛隊に入れてもちっとも嬉しくねぇよ。軍事訓練って知ってたらぜってぇ来なかった」
 祐一は本のページをめくりながら言う。
「それらしいことは説明会の時も言っていた。宮前が都合よく聞き流していたんだろ。給料は出る、保険はきく。どんな訓練か始まってもいないのに文句なんか言えないだろ」
「お前よく落ち着いてられるなー。さっきまでどんな訓練するんだろうって青くなっていたじゃんか」
 祐一が顔をあげ睨むから、宮前は黙った。
「明日から訓練が始まるんだ。もう寝る」
 祐一は本を閉じベッドに横になる。
 背中が怒っているようだった。
 ――……んだよ、なに考えてんのか、ほんと分かんねー。

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