第3話

文字数 19,201文字

 社長室は二階の一番奥、一階一番奥の階段を使えばすぐにおっさんの部屋の前だ。ノックして即おっさんに辞表を渡し、そのまま階段を駆け下りる。何度もイメージトレーニングした。いよいよ行動に移す番だ。
 階段を駆け上がるつもりが、身体が痛すぎて無理だった。手すりにつかまり、階段を一段ずつ上る。
 ──……早く、しないと……。
 気ばかりが焦る。おっさんの部屋にようやくたどり着き、気がせくまま扉をノックする。扉に貼られた白い紙が目に入り、文面にぎょっとした。
 『私、リー・イーシンはしばらく留守にします。困ったことがあったら指導教官のウェインに相談してね』
「ま、まじかーっ」
 部屋の扉を何度もノックし「おい、おっさん、ウソだろ」とノブをガチャガチャ回す。返事はないし扉も一向に開かない。
「ウソだろー。嘘って言ってくれ」
 廊下の向こう側、誰かが階段を上がってくる。足音が次第に大きくなる。喉から心臓が飛び出そうだった。
「おっさん、どこ行ったんだ。おっさん、開けろ、開けてくれ」
 扉をドンドンと叩く。
 足音が二階の廊下に響く。
 宮前は心の中で、うおおおー、と叫びながら全身の筋肉が悲鳴をあげるのも構わず転がるように階段を駆け下りた。

 宮前は部屋に戻った途端、床に突っ伏した。
「どうしたんだ、教官に見つかったのか?」
 首を振るしかできない。我慢に我慢を重ね抑えつけていた感情が涙となり、鼻水となって流れ出す。
「宮前? ……お前、泣いて、いるのか……?」
 祐一がベッドから起き上がり、気の毒がって慰めてくれた。疲れているだろうにアイロン掛けを手伝ってくれる。
 宮前は男泣きした。
「……祐一って、優しいな。ごめんよ。……俺が適当なこと言ってお前を引きこんだのに……」
「……その話は、いいよ」
 祐一が制服の上着にアイロンをかけながら言う。
「……おれ、俺、こんなひどいところだとは思わなかったんだ。なんとかなるって。おっさんは気持ち悪かったけど、給料はいいし、食費も宿代もかからないし、下着もひげそりもくれるし。話聞いていたらここしかないってとびついちゃったんだ……」
「いいから手を動かせよ。寝る時間なくなるぞ」
「俺、フリーターだろ。バイトいくつもかけもちするの、正直しんどくて。金もたまらないし、月給二十四万円の誘惑に負けたんだ……」
 涙を流し、鼻水を垂らし、宮前は泣いた。
「……なあ、宮前。今辞めても給料は出ない、失業保険もつかない。貯えができるまでもう少し頑張ってみたらどうだ。ぼくも、たまにはこうやって手伝ってやるからさ」
 宮前は答えられなかった。
 今辞めても不利なのはわかっている。アパートを借りられないし、住所がなければ就職もままならない。日雇いの仕事をしたって先は見えている。……でも、無理なものは無理なんだ。
 ベッドに入っても気持ちはちっとも晴れず、寝つけなかった。

 翌朝、鏡を見たら瞼が腫れていた。目も充血している。どんなに嫌でも一日は始まり、体は自動的に動く。
 朝のストレッチをこなし、掃除や身支度をしているとなぜか周りの奴らが自分のことで手一杯のはずなのに手を貸してくれたり、順番を譲ってくれたりする。
「大丈夫か?」と肩に手を置かれた時は泣きそうになった。
 人の優しさが身に沁みる。俺は一人じゃない、と思えた。

 グラウンドに集合し、鬼教官から連絡事項が伝えられる。
「リー・イーシン社長はしばらく不在だ。なにか相談ごとがあれば私のところに来なさい」
 ──……知ってる。俺はそれで泣いたんだ。
 思い出したらまた泣けてくる。
 ウェイン教官が宮前の前に立ち、じっと見る。気のせいではなく目のあたりを見ている。
「目が赤いな」
 宮前は赤くなった白目が見えないよう目を細める。
「瞼も腫れている」
 二度、三度瞬きをする。
「昨夜、社長室の前が騒がしかった」
 ││……部屋に、いたんですか?
 宮前は背筋をぴんと伸ばし、長身のウェイン教官の頭上に視線をさまよわせる。
「訓練、きついか?」
 ──……やっぱりばれてる。
「辞めたければ辞めていいんだぞ?」
 ──い、いいんですか? はいっ、辞めさせて下さい。是非、辞めさせて下さい、今すぐ辞めさせて下さいっ。お願いしますっ。
 鬼教官への不信感がブレーキをかける。
 ──待てっ、騙されるな。ここで「はい」なんて言ってみろ。途端に鬼の形相になって「根性が足らん」としごきまくるに違いない。鬼教官の悪だくみに引っかかるな。
 生まれつき楽天家の自分が口を挟む。
 ──いや、待て。もしかしたら最初で最後のチャンスかもしれん。憐れな俺に飛び込んできた最後のチャンスかも……。
 誘惑と恐怖の間で揺れ動く。罠か、チャンスか。
 ──……ああ、どっちなんだ!
 宮前はぎゅうっと目を閉じた。
 ウェイン教官は宮前から離れ定位置に戻り、腰に手を当て動かなくなる。宮前にも分かるほど大きく肩で息を吐き、顔を上げる。
「……私が説明することではないが、イーシンは都合のいいことしか言わないから……。『人材派遣会社アース』は海外に人材を派遣する業務とは別に『民間軍事請負会社』という側面があり、退役軍人の新たな雇用先になっている。アースと契約している社員は一般人ももちろんいるが、元軍人や元民間兵といった兵士として実績と経験を積んでいる者が全体の四分の一を占める」
 ──……はっ? なにそれ?
 どよめきが起こる。
「元軍人が一般社会に適応するのは難しい。高校を卒業する頃から社会に出ることなく人を殺傷する技術を叩きこまれ、戦場では銃やミサイルを撃っているんだ。何も言わず、何も考えず、ただ与えられた命令に従い、任務遂行のために全力を尽くす。そんな軍人が退職し、新たに仕事を探しても受け入れてくれる会社は少ない。『民間軍事請負会社アース』に雇われた兵士の仕事は、国外で活動する企業や個人の護衛、内戦や紛争状態にある地域での後方支援活動、政府軍の役割を一部担うこともある」
 一同がざわつく。隣にいる祐一と目が合った。祐一は血の気を失い、ウェイン教官の方を見、宮前を見、そしてまたウェイン教官の方を見る。明らかにうろたえている。
「イーシンはトラック運転手、調理師、ごみ清掃員……、他にも業種を選べると言っていたが、どれも政情が不安定な国で活動することが前提になっている。治安が安定している国ならわざわざ本国から派遣しなくても現地で人材を調達すればいい。その方が人件費は安くつく。なにより現地住民にも喜ばれる。彼らは紛争が起きるまでは普通に働いていた、仕事を求めているんだ。
 そして兵士として活動しようと、派遣員として現地で働こうと武装勢力の標的になる。政府軍や民間兵ならそれなりの装備をしている。覚悟もできている。
 が、派遣員は違う。食料や水の調達もままならず、十分な装備もなく、知識も情報も乏しいうえ軍という集団に守ってもらえない分、被害に遭うリスクは高い。戦闘に巻き込まれても軍は戦闘中だ、守ってはくれない。自力で逃げのびるしかない。仕かけ爆弾や不発弾を浴び負傷しても、毒ガスを吸っても、放射性物質で被爆しても保険会社から治療費を削られ、提携病院の診察は八ヶ月待ちと、契約通り補償されないこともある」
「あ、あ、あの……」
 宮前は手を上げた。皆が振り向く。
「質問して、いいですか?」
「……許可する」
「あの、安全な場所で戦闘とか関係なく、純粋に現地の人のために働くお仕事はないんですか。ほら、道路を造るとか、病院や学校を補修するとか……」
「復興支援や人道支援を行っている場所は休戦状態が続いているだけでいつ戦闘が起こってもおかしくない。日本がかつてイラクで人道復興支援をしていた時期、自衛隊宿営地に迫撃砲やロケット弾が十四回撃ちこまれた。テロリストや武装集団にとって外国人は皆敵であり、異教徒であり、自国を侵略する者にしか映らない。その援助を受ける住民は裏切り者として襲撃される。教育を受ける代わりに神の教えを叩きこまれている奴らだ。法や常識は通用しない。そして学校だろうと病院だろうと人が集まる場所は格好の標的となる。怒りと憎悪が渦巻いている状態だ、時に一般市民でさえ敵になる」
 宮前は言葉を失った。
「日本ではどう位置づけられているか知らないが、大部分の国は自衛隊は日本の軍隊であると認識している。……君たちが着ている戦闘服はイーシンが士気を上げるために特別に手配した物だ。アース登録の兵士は戦闘服を着ない。君たちはここを出たら自衛隊に入るつもりかもしれない。その前に一度、軍事訓練を受け、戦闘服を着て海外で活動する意味を考えることだ」
 ――あんたらがやらせているんじゃねえか。って、おっさんまた騙しやがったな。
 と思うのと同時、大変なところに来てしまったと動揺した。他の奴らも青くなっている、きっと同じ気持ちだろう。
「……私は州兵だった。アメリカ国内で災害や暴動が起こった時、市民と秩序を守るため対応するのが仕事だ。戦争が起これば戦地へ駆り出されることは知っていたが私の任期中には起こらないだろうと考えていた。しかし、アメリカ同時多発テロが起こり、イラク戦争が始まった。州兵になって五ヶ月後に派遣命令が下り、五ヶ月間の軍事訓練を受け、イラクへ行った。その時下された任務は『物資輸送するトラックの護衛』、戦闘には直接関わらない『後方支援』と聞かされていた。だが、敵の爆撃を受け五人の死傷者を出した。皆、十九、二十歳の女性だった」
 ウェイン教官は一度長く息を吐いてから、続けた。
「どこに行くかは雇用主、もしくは上層部が決める。戦争をするかしないかも政府が決める。行けと言われれば行くしかない。そして命令遂行のために最大限の力を尽くす、それが兵士であり軍人だ。人を殺したくて軍に入る者はいない。皆、国の平和と家族の安全のために自分の力を使いたいと望んで、もしくはそれしか生活する方法がないから入るんだ。
 私はアメリカで生まれたからアメリカ国籍を持っていたが、両親は豊かな生活を求めてアメリカに渡った移民だった。移民は犯罪者扱いされるのが常で、同じ仕事量をこなしても足元を見られ賃金を値切られ、何かトラブルを起こせば強制送還させられる。国を追い出されても帰る場所はないのに、だ。私も移民の子どもとよく虐められたよ。私だって他の者と同じ、国を愛する一アメリカ国民だと証明したくて州兵になった。
 私の友人は大学の学費援助を目当てに入隊した。約束された金額は出ず、結局中途退学をし、派兵先から戻った一ヶ月後に自殺した。二十一歳だった」
 ウェイン教官は話し過ぎたと後悔するように、首をぐるりと回した。
「他に行くあてがあるなら辞めておけ。戦地から帰ってきても鬱病やPTSDにかかり元の生活に戻れない兵士は多い。ドラッグのようなものだ。一度経験したら破滅だ。……あれは、人間のすることじゃない……」
 最後の言葉は独り言のようだった。
 ──……じゃあ、なんで教官はここで働いているんですか?
 とは聞けなかった。
 皆押し黙り、沈黙を破るようにウェイン教官の号令がかかる。
「話は終わりだ。今から訓練を始める」

 宮前はアイロン掛けをしながら朝の説明を思い出していた。何気に口に出す。
「他に行くあてがあるなら辞めておけ、って言われてもなぁ。行くあてがないからここにいるんだよな」
 祐一は手を止め、体が痛むのだろう、顔をしかめながらアイロンを置きぽつりと呟く。
「……ウェインさんって、いいよな」
「はっ? ……誰?」
 ──上井んさん、植井んさん、上員さん……。
「訓練生が辞めたら教官としての立場が悪くなるだろうに……。毎日暑い中、声を張り上げて三十人以上をしごくのだって並大抵じゃできないよ」
「なあなあ、教官に質問した俺ってすごくねえ?」
 自分を指さしアピールしても祐一の目には入っていないようで、祐一はアイロン台に広げた制服をたたむでもなく続ける。
「……なんていうのかさ、冷たい人って思っていたけれど、責任感が強くて誠実な人なんだよな」
 ──……なんだ、どうしたんだ。疲れすぎて頭がぶっ壊れたのか?
 正気に戻れと祐一の鼻の先で両手をパンと叩く、──必殺、猫だましだ。
「……なんだよ……」
「祐一、冷静になれ。鬼教官の意外な一面を見たから思い違いをしているだけだ。ここを出て周りを見ろ。もっと小柄で可愛くて、おしゃれで優しい女の子はいっぱいいるぞ」
 祐一は怪訝な顔つきだ。宮前は祐一の鼻先に指を突きつけ、断言する。
「友人として言う。あの鬼教官だけはやめておけ。近づいたら蹴り食らわされて頭かち割られるか、奇跡的に付き合えても尻に敷かれて最後はぺらっぺらっの座布団みたいになって部屋を放り出されるだけだ」
 祐一の頬が紅潮する。
「お前ってサルだな」
「サ、サル?」
「そんな、男とか女とかじゃないよ。上司として尊敬できるってことだよ。前にいた会社の社長は外面よくて内じゃ社員に当たり散らしていたんだ。社員が倒れても知らん顔だった。だからかな、余計グッときた」
「……苦労したんだな、祐一……」
「……それほどでも、ないけど。……六か月間、やり通せるか自信ないけど、もう少し頑張ってみようかな」と口元をほころばせる祐一に、だから止めとけってと言おうとしたが無駄な気がした。

 *

 今日は休日だ。長かった。途方もなく長かった。今日この日をどれほど待ちわびたか。
 朝ご飯の時間は決まっているから早起きしたけれど、それでも一時間はゆっくり眠れた。点呼はない、訓練はない。
 ──俺は自由だぁ。
 宮前はベッドに寝転がり最新号の成人雑誌を読み耽っていた。
「可愛いなぁ。この子。目がぱっちりで垂れ目で、胸が大きくて。見てみ。俺こういう子タイプなんだよ」
 見開きのグラビアアイドルの写真を、壁にもたれ小難しい本を読んでいる祐一に見せる。
「へんなもん見せんな。セクハラで訴えるぞ」と邪険にあしらわれる。
「んだよ、せっかくこういう可愛い子がいるってのを教えてやってんのに。あの鬼教官のどこがいいんだか」
「違うって言ってるだろ」
 小声で言ったつもりがしっかり聞こえていたらしい、祐一に怒鳴られ雑誌で顔を隠す。
 誰かが扉をノックし、宮前は祐一と顔を見合わせる。ここに来てこのかた、部屋を訪れる者はいない。来客の見当がつかず、宮前と祐一はお互いに“お前?”と目で尋ね合う。また扉がノックされた。
「祐一、出て。俺、全身筋肉痛で動けない」
「ぼくだって体中痛いよ」と言いながらも、祐一は読みかけの本を床に伏せ、立ち上がる。
 扉を開けても祐一は動かず、扉が死角になって訪問者は見えない。
 宮前は雑誌をめくりながら「誰なん?」と聞く。祐一は棒読みでその名を言った。
「……ウェイン、ボルダー教官……」
「げえぇ」
 宮前は慌ててベッドから飛び出し、足を縁に引っかけ派手に転んだ。顔を上げたら、本当に鬼教官、いや、ウェイン教官がいた。休日だというのに戦闘服を着て宮前を見下ろしている。
「でえでえでえぇ」
 意味不明の叫び声をあげ、慌てて立ち上がり、敬礼する。
「おはようございますっ、教官」
 ウェイン教官は頷き、部屋を見回す。
 宮前は直立の姿勢で、目の前にいるのが本物かどうか、目を極限まで見開き、教官を上から下までじっくり観察する。筋肉がついた立派な体躯、きつく縛った金髪、油断なく動く灰色の目……、間違いなく本物だ。祐一も壁際で直立の姿勢を取っている。
「抜き打ち検査だ。そのままの姿勢で待て」
 ──ええっ、よりによって休日にですか?
 宮前はベッドの上に無造作に置いた雑誌に目を遣った。
 ──やばいっ、見つかりませんように。
 という願いは虚しく、ウェイン教官は雑誌を手に取り、ぱらぱらとめくる。
「ああっ、それは。そこにあったというか。俺の、いえ私のですけど、私のじゃないというか……」
 ウェイン教官は眉一つ動かさず雑誌をベッドの上に戻す。
「ドラッグでもタバコでもアルコールでもないなら問題ない」と今度は机の引き出しをチェックする。一段目、二段目を開けたところでウェイン教官の手が止まる。
「これは?」と封筒を取り出す。
「でぇっ」
 それは出し損ねた辞表だった。目で祐一に救いを求めるものの、祐一はバカヤローとばかりに睨みつけている。……視線が、痛い。
 ウェイン教官は封筒を開け便箋を取り出す。
 万事休す、宮前は泣きたくなった。
「これは私が受け取らなくていいのか?」
「……漢字、読めるんですか?」
 ウェイン教官はさらりと言う。
「多少はな。特にこの形の字が書かれた封筒はイーシンからよくお小言つきで見せてもらった。……仕事を辞めさせてくれと書いてある。……名前は、みや、まえ、か」
 宮前をちらりと見、封筒を軽く振る。兎をいたぶるライオンのようだ。
「受け取っておこうか?」
 再度、ウェイン教官が聞く。
「い、いえ、それはまだ出すつもりはありません。書いてみただけです」
 宮前は直立不動で答えた。
「訓練に慣れてきましたので、もう少し頑張ってみようかと思っているところです」口が勝手に心にもないことを言う。
「そうか? なら、戻しておく」
 ウェイン教官は封筒を引き出しにしまった。ウェイン教官は部屋の中を一通り調べた後、宮前の胸を軽く叩き、
「靴の並べ方が悪い。罰として廊下で腕立て伏せ三百回しておけ」と言い残し出て行った。
 祐一が扉を閉め、宮前はへなへなと座り込んだ。祐一が顔色悪く左胸を押さえ、宮前に詰め寄る。
「お前、なんで辞表を捨てとかないんだよ」
「おっさんが帰ってきたらソッコーで渡そうと思ってたんだ」
「だったらあんな調子のいいこと言うなよ。あれじゃあまだ辞めませんって言ってるようなもんじゃないか」
「……それは今、猛烈に後悔してる」
 宮前はふらふらと立ち上がり、引き出しから辞表を取り出し、数瞬名残惜しく見つめてから、「てやっ」と破いた。ぐしゃぐしゃにしてゴミ箱に捨てる。
 祐一は気を取り直したように壁際に座り、本を開く。
「廊下で腕立て伏せ三百回しとけよ」
「するよ」
 宮前は言い捨て、部屋を出た。
 腕立て三百回をし戻ってきた宮前は、床にへたり込んだ。頭を抱え呻く。
「……もう、最悪。上司に辞表見つかるわ、エロ本見られるわ。俺、死にたい……」
「自業自得だろ」
 身も蓋もないことを言う。
「冷たいな。もっと優しい言葉かけてくれたっていいだろ」
「あほすぎてかけようがないよ」
「んだとお」
 その時、またノックの音がした。
 祐一と宮前は口を閉じる。祐一は恐る恐る「はい」と返事をし、扉をそっと開ける。
「俺、一〇五の高木。さっきの抜き打ち、まいったよ」と男は扉から顔をのぞかせる。
「あっ、優等生」と宮前は指さす。
 祐一は長身で筋肉質な男を部屋に入れた。部屋が急に狭くなる。
「俺、高木将吾」、「ぼくは木村祐一」、「俺は宮前等」
 自己紹介をし、それぞれ床に腰を下ろす。
「宮前君、さっき廊下で腕立て伏せしてたでしょ? 俺と一緒だと思って部屋のぞきに来たんだ」
「宮前でいいよ。俺も高木って呼び捨てにしていい?」
「ああ、いいよ」
「高木はどうして腕立て伏せやらされたの?」
「うん。パンツ一丁で寝そべっていたら、だらしなさすぎるってさ」と頬をぽりぽりと掻く。
「そりゃ、駄目だ」宮前が手を叩いて笑う。
「人のこと笑えないだろ」と祐一が突っこむ。
 高木が胡坐をかき提案する。
「ねえ、どっか飲みに行かない? さっきのことがあったんじゃ寮にいても落ち着かないしさ」
「金がないんだ。高木、金貸して。後で返すから」
「なんだ、持ってないんだ。祐一君は?」
 なぜか祐一は君づけだ。祐一は手を左右にふった。
「ぼくも持ってない」
「……みんな金欠か。おごってもらおうと思ったのに」
 高木がでかい体をそらせる。
「高木って図々しんだな」
「お前が言うなって」祐一が突っ込む。
「給料日まで我慢するか」高木は独り言のように呟く。
「給料日までここにいるつもりか?」宮前が聞いた。
「そりゃ、今辞めたってどこにも行けんでしょうが。ただ働きなんて御免だ。しっかり勤めて、貰うもんは貰わないと」
「ちゃっかりしてるなぁ。……そういや高木っていつも先頭走っているよな。がたいもしっかりしているし。俺は無理。もう毎日ついて行くので精いっぱい」
「俺だっていっぱいいっぱいだよ。小中高、大学で剣道していたから体力にはそこそこ自信あったけど、きついよ、ここ。でも辞めたら俺ホームレス確実なんだよね。実家の酒屋継ぐのが嫌で家を出てきたものの収入が不安定でさ、ファミレスやネカフェを泊まり歩いていたもん」
 恥ずかしそうに笑う高木に宮前は身を乗り出す。
「そうなの? 俺も前はフリーターだった。祐一はブラック企業だったんだよな」
「……ああ」
「ここにいる奴らってだいたいそんなもんでしょ? 俺と同室の青山もバイト掛け持ちの二十八歳独身だし。みんな、社会的弱者っていうの? ここを出たら行き場所ないってやつ。要するに逃げ場がないんだよね」
 祐一が同意するように深く頷く。
「……しらん、かった」
 宮前は今初めて知った事実にぽかんとし、祐一と高木を交互に見つめる。
 高木は重い空気を振り払うように明るく笑う。
「いいじゃん。ここにいたら風呂に入れるし、三度の飯にはありつける。給料だって二十四万。訓練はきついけど、ほら、俺、体が張ってきたんだ。筋肉がつき始めてるんだよ。体を鍛えられるし、結構気に入ってる。訓練期間が過ぎたら自衛隊に入るつもりだ」
 高木は自信に満ちた表情で言いきる。
「……自衛隊って……。鬼、じゃなくて、ウェイン教官が『入る前によく考えろ』みたいなこと言ってなかったか?」
 高木は照れくさそうに笑った。
「……俺、以前から自衛隊に興味あったんだ。せっかくチャンスがあるんだから諦めたくない。それに教官が話していたのはアメリカ軍だよ。俺が入りたいのは自衛隊。自衛隊は人助けはしても戦争はしたことがないんだ」
 どこか自慢げだ。
 ──……よっぽど自衛隊が好きなんだろな。
「……自衛隊だって敵に攻撃されたら戦うしかないんじゃないかな」
 祐一が水を差す。
「人の夢にいちゃもんつけんなって。高木、ごめんな。こいつ心配性なんだ。いろいろ難しく考えるのが癖なんだ」
「いいよ。俺は大事な人を守るためなら戦いもありだと思ってる」
 高木は笑顔で言い切る。
「宮前と祐一君も俺と一緒に自衛隊目指そうよ」
 ──……こいつ、結構なれなれしいんだな。
 落ちこぼれをからかってやろうとか、その気にさせてずっこけさせてやろうとかいう悪意は感じない。子どものように、いや、犬のように純粋な目だ。
「俺は無理。ここを出たら普通の仕事を探す。祐一もだよな、な?」
「……うん。ぼくも自衛隊なんてとても……」と言葉を濁す。
「そう言わず前向きに考えようよ。皆で同じ目標に向かって頑張った方が楽しいよ」
 高木はおかまいなしだ。
「無理無理」
 宮前は全否定し、祐一は苦笑し手を横に振る。
「別棟にジムがあるんだって。覗きに行かない?」
 ──休日も体鍛えるつもりか? どんだけ元気なんだ……。
 宮前は「体中、筋肉痛で動けん」と断り、祐一も「ごめん、ぼくもやめとく」と謝っていた。
 高木が帰った後、祐一は黙って本を開いていた。本の頁はいつまでたっても変わらなかった。

 *

 イーシンは扉の貼り紙を剥がし、蒸し風呂状態になった部屋の窓を開け放す。
「帰って来たのか。てっきり夜逃げしたのかと思ったぞ」
 社長である自分に小憎らしい口をきくのはただ一人、イーシンは重要書類を金庫にしまいながら言う。
「表の貼り紙見なかった? しばらく留守にするって書いていたでしょう?」
「言動がいい加減だから信用していいものかどうか迷っていた」
 イーシンは金庫に鍵をかけ、「あらー」と上機嫌でふり返り、とびっきりの笑顔をウェインに向ける。
「命令をちっとも聞かない部下と、出来の悪い訓練生、経営状態崖っ淵の会社を抱えていても逃げたりはしないわよ。はい、これ、お、み、や、げ。皆で食べて。ゲンちゃん饅頭、中にチョコとあんこが入っているんだって」
 菓子箱を押しつけ、「食べられるのか?」と不審げに箱をひっくり返すウェインの服をつまむ。
「今日、休みじゃなかった? 飽きもせず戦闘服なんか着ちゃって。誰もいないグラウンドで一人寂しく訓練でもしていたのかしら?」
 皮肉には慣れているらしい、ウェインは眉一つ動かさず答える。
「抜き打ち検査をしていた」
 イーシンは大仰に驚いて見せる。
「まああー、仕事熱心な。周りにいる人は大変ねぇ。……まさか、私が留守中に訓練生辞めてないでしょうね?」
 きっと表情を引きしめ、問い詰める。
「今のところは、な」
 ウェインが珍しく愉快そうに笑う。
「私はそれが心配で飛んで帰ってきたのよ。まったく、安心して留守も任せられないわ。ま、いいわ。それより聞いて。いい話があるの」
 イーシンはウェインの両肩に手を置き、ダンスに誘うように部屋の中央に導く。いつもは憎ったらしい聞かん気が強い部下も今は愛おしく思える。イーシンはうっとり笑う。
「……なんだ、気持ち悪いな」
 いつも仏頂面のウェインが怯んだ様子でイーシンの両手を外す。
「あのね、あのね、アメリカ軍がわたし達の修了テストであるシミュレーションに支援を約束して下さったの。エキストラやセットの費用も全面的に援助してくれるだけでなく、訓練に使う実弾や銃器まで提供して下さるって。すごい? すごいでしょう。信じられないでしょう?」
 イーシンは両手を組み、熱く語る。
「アメリカが?」
「アメリカだけじゃないの。日本の自衛隊も何人かシミュレーションに派遣して下さるって。それで昨日までその打ち合わせに行ってたのよ。アメリカ軍幹部と自衛隊幹部を交えてね」
「……なぜ、アメリカ軍と自衛隊が一民間企業に支援を?」
「そりゃあ、やっぱり」
 イーシンはうなじに手を当て、腰をくいっとひねる。
「私の美貌に魅せられて、じゃない?」
「私は真面目に話をしているんだ」
 ウェインが怒鳴る。
「冗談よ、そんなに怖い顔しないでよ。そりゃあ、アメリカさんも日本もこのプロジェクトに期待しているからでしょう。この事業が上手くいって自衛隊員が増えれば日本は兵力不足を補え、新隊員を育てる手間を省ける。基礎は積んでいるから育てやすいでしょうし、徴兵制も回避できる。アメリカは自衛隊に後方支援を任せて自国兵士のリスクを減らせる。我が社も潤う。一石三鳥ってとこかしら。だから、分かってる? 訓練生を一人も脱落させることなく無事六ヶ月後のシミュレーションに全員が揃うように優しく指導してよね」
「それは……」
「無理とは言わせないわ。訓練生が多少へぼくてもセットが豪華だったらいくらでもごまかせるのよ。映画でもそうでしょう? 派手な演出があったら俳優の演技力なんて大して気にならないものよ。でも人がいなくちゃ話にならないの。人よ、人。頭数がいるの。分かった?」
 ウェインは重いため息をつく。
「……その手の考え方に私が承諾できると思うのか……」
「できなくてもしてちょうだいっ」
 イーシンはカッとなり、まくしたてる。
「アメリカ軍や自衛隊がプロジェクトの成功に力を貸してくれると言っているのよ、反抗するのも大概にして。防衛省だってプロジェクトが成功すれば『民間軍事請負会社アース』として受け入れると約束してくれているの。
 アメリカは戦争に疲れている。太平洋地域の安定を同盟国である日本に担ってほしいと思っている、同盟国として対等な立場で世界の平和に貢献してほしいと日本に期待しているのよ。日本政府だって、学校や道路を修復して現地住民に感謝されるより、弾薬や燃料を他国軍に供給する方がよっぽど国際協調をアピールできるでしょうから国防のためにも後方支援に重点を移すわよ。首相が『積極的平和主義』、『地球儀を俯瞰する外交』を謳うのはそういう思惑があるからでしょう?
 日本は中東から天然資源や石油資源を輸入している。先進国の一員として、中東の平和と安定のために戦っている各国軍隊の後方支援をするぐらいの義務はあるはずよ。自衛隊という世界トップレベルの軍備と士気練度ともに文句なしの優秀な部隊を持っているんだからいつまでも他国軍に守ってもらうお荷物じゃかなわないの。今までは憲法九条を口実に逃げ回っていたけれど、それも解釈改憲で有名無実になったわけだし、これからはバリバリ働いてもらわなくちゃ。
 自衛隊が海外で後方支援している最中に日本国内で爆弾テロが起きたらどうするの? 日本は地震大国でもあるのよ? 大地震が起きたら? 津波が起こったら? 火山が爆発したら? そんな時に自衛隊員が足りませんじゃお話にならないでしょう? アースは自衛隊が安心して海外で活動できるよう、人材を絶え間なく派遣する役割を求められているの。
 これはわが社だけの問題じゃなく、日米の軍事同盟を巻き込んだ一大プロジェクトなのよ」
 昂りを抑えきれないイーシンに、ウェインは静かに言う。
「……私は、政治的な話に口を挟む立場にない。ただ……」
 イーシンが人差し指を立て、「言わなくても分かってる」と体をくるりと回し、“お手上げ”というように両手をあげ、椅子に座る。
「私は与えられた任務を全うするだけだ、……でしょう?」
 ウェインは答えない。目を伏せ、肩を落とす。
 イーシンは頬杖をつく。すっかり、白けてしまった。
「……私の仲間は、後方支援中に亡くなった。前線でも後方でも危険は同じ。私が戦場で学んだことだ」
「はいはい、そうね。その通りね。……結局、私達って水と油なのよね。……貴方、私のこと上司と思っていないでしょう? 雇用関係にあるのはアメリカ本社の社長であって私ではないものね。軍人としての経歴も階級も私なんかより貴方の方がずっと上だし、下っぱ風情の命令なんてとても聞けないわよね? だからそんなに逆らうんでしょう?」
 頬杖をついたままウェインを見る。
「……アメリカ本社と結んだ契約内容は、私が持つスキルを日本の自衛隊員育成に役立てること。イーシンの命令は契約に反する」
「……もういいわ。お開きにしましょう。出張から帰ってきたばかりで疲れているの。これ以上不毛な討論をする気はないわ」
 イーシンは右手の平を上に向け、扉の方へついと伸ばす。どうぞお帰り下さいというジェスチャーだ。
「……イーシンには私を解雇する権限がある。私に言えるのはそれだけだ」
 ウェインは小さな音を立て、扉を閉めた。

 イーシンは背もたれに体を預け、天井を見上げる。
「言われなくってもアメリカ本社に代わりの人を問い合わせているところよ。これで三度目かしらね。……『かつてアメリカ軍もしくはオーストラリア軍に在籍し、中佐クラスの軍歴と実績を兼ね備えた教官が最低一名いること』がプロジェクトの条件になっているから始末におえないったら」
 ウェインの最終階級は上級曹長。二回の作戦に参加し、一〇〇〇人規模の大隊のナンバー・ツーとして軍功をあげ、勲章をもらった経歴は中佐でもおかしくない。事実、中佐への昇進は確実視されていたにも関わらず昇進を断りアースに来たと、本社社長から聞いている。
 プロジェクトの成功はアースと防衛省だけではなく、アメリカ軍と自衛隊も熱望していることだと説明すれば、元軍人のウェインは従うだろうと思っていた。……が、当てがはずれた。あそこまで頑固とは思わなかった。
「中佐クラス一人雇うより軍曹レベルを三人雇う方がよっぽど有意義だって、平和ボケ役人には分からないのかしら。……ああー、疲れた……」
 長時間車を運転し、連日軍幹部達と会議を開き、ろくに休憩も取らず帰ってきた。頭は痛い、肩は凝る、腰も痛いしお尻も痛い。
 椅子にもたれ空中に漂う埃を眺めているうち、猛烈な眠気を催す。
 イーシンは目を閉じた。

 *

「今日から射撃を加える。山頂まで行進し、実弾を使った射撃訓練をする」
 ──実弾? やっと銃が撃てる。
 毎日、防弾チョッキとヘルメットを身に着け、実弾の入っていない銃を手にグラウンドや隣の山の頂上を走らされていた。もちろん走っている間も「銃を掲げ方向転換」、「腰を下ろしダッシュ」、「ほふく前進」と拷問のような指令が飛ぶ。撃てなければただの鉄の塊、鉄の棒、鉄クズ……、持っていても全然嬉しくない。というか、いらん。無用の長物だった銃がようやく使えると思うとわくわくする。……山頂まで歩かなければもっといい。
「あっついわねー。本当に歩いて行くの?」
 場の雰囲気にそぐわない間のびした声に、宮前は目を動かし、許可なく振り向いたら怒鳴られる、声のする方を見る。
 おっさんだ。いつものスーツ姿じゃない、緑っぽいのに目を奪われる。
 ──……へっ?
 防弾チョッキやヘルメットは着用していないものの、おっさんが着ている服は紛れもなく戦闘服だった。左手にライフルを提げている。
 ──おお、おっさん?
 隣の祐一を横目で見ると、祐一も大きくなった目でおっさんを見ている。
「防弾チョッキとヘルメットはどうした?」
「冗談でしょう? こんな暑い中そんなもの着けていたら汗もができちゃう。私、敏感肌なの。それにこの髪型だって整えるのに四十分近くかかっているのよ。くせ毛を直すの大変なんだから」
 鬼教官が明らかに怒っている。おっさんは訓練生ににっこり笑いかける。
「人手不足でね。できるだけ効率よく訓練したいから、皆さんが銃の扱いに慣れるまで私も指導係になって手ほどきをさせてもらうわね。私はこう見えて銃が得意なの。特に敵と撃ち合う射撃より、何にも知らない相手を遠くから狙い撃ちにする狙撃がね」
 遠くの空で、鳥がさえずる。
 反応が無いのに拍子抜けしたのか、おっさんはごまかすように手をひらひら振る。
「やだー、冗談よ。本気にした?」
 宮前は、多分誰もがおっさんの飛び入り参加を喜んでいた。鬼教官がいなければ万歳三唱して小躍りしたいくらいに。少なくともおっさんがいれば訓練がエスカレートすることはない、だろう。
「車で行きましょう。トラックなら全員乗るわよ」
 ──く、車っ? 
「トラックで移動してどうする。訓練にならない」
「こんな暑い中あんな重装備で歩かせて熱中症にでもなったらどうするの? 山頂に着いても使い物にならないわよ」
 ──おっさん、もう一押し。あんたに俺の、いや俺達の命運がかかっているんだ。頑張ってくれ。おっさんっ。
 宮前は鬼教官とおっさんの会話に耳をそばだて、祐一も二人の会話に集中しているみたいでおっさんと鬼教官の方へ肩が傾いている。他の奴らも明らかにおっさんに熱い視線を送っていた。
「訓練の邪魔をする気なら来なくていい」
 おっさんは長ーいため息をつき、 “参りました”というふうに軽く両手をあげる。
「強情なんだから」
 ──おっさん、諦めないでくれ。あんたが立場的に上だろ? 鬼教官に意見できるのはおっさん一人だけなんだ。俺達を助けてくれ。頼む、拝む、この通り!
 心の叫びが聞こえたのか、おっさんは肩をすくめ、困ったように笑う。
「一度言い出したら聞かないのよねぇ」
 ──……おっさん諦めないでくれっ。頑張ってくれ! 頼む!
 おっさんはポケットから車のキーを取り出し、
「じゃあ、私は車で先に行ってるわ。皆さん、無理せずゆっくり来てね」と手の中でちゃらちゃら鳴らし、行ってしまった。
 ──……行かないでくれ。戻ってきてくれ。おっさぁぁーん。あああああぁー……。
 がくりと、頭を垂れる。
「宮前っ、姿勢を崩すなっ」
 鬼教官の叱責が飛ぶ。
 宮前は、多分そこにいる誰もが、落胆のため息を漏らした。

 射撃場のある山頂に着く頃には足腰は弱り果て、へとへとだった。「三十分の休憩を取る」の号令と同時に宮前は座り込んだ。ヘルメットを外し、防弾チョッキを外す。靴も靴下も脱いで、足を伸ばした。休憩の間に昼食を済ませ、トイレも済ませなければならない。その後、また夕方近くまで訓練が続くのだ。
 おっさんは待ちくたびれた感じで肩を回し、屈伸し、体をほぐしている。
「もう少し後から来ればよかったわー。なんにもすることが無くて困っちゃった」
 ──ふざけるなっ。
 宮前はパン(レーション)を口の中に詰め込み、水と一緒に流し込んだ。

 訓練開始、実弾入りの弾倉を二つ渡される。
「今日の訓練の分だ。射撃場を出る時に必ず弾倉を空にして返却するように。紛失も持ち出しも絶対に認めん。無断所持が判明した時はしかるべき処置を取らせてもらう。いいな」
 厳格な口調に宮前はすぐに返事ができず、再度「いいな」と念押しされ、「はいぃっ」と悲鳴のように叫んだ。
「もう、もっと優しく言わないと。ただでさえ強面なんだから皆さんが怖がっちゃうでしょう?」
 おっさんがのんびりした調子で口を挟む。
「弾がなくなるのは安全管理上よろしくないの。もし知らない所で使われたら我が社の信用問題に関わるからね。しばらくは弾数に上限がつくけれど、射撃の腕が上達したら撃てるだけ撃たせてあげるわね」
「はいっ」
 一同、大きな声で返事をした。鬼教官が説明をする。
「始めはスコープなしで百メートル先の的を射撃する。慣れてきたらスコープをつけ的の距離を二百メートルまで離し、立位、座位、伏臥位と姿勢を変えて撃つ訓練をする。最終的には移動しながらでも的に命中できるようにしたい。指導は私とリー社長が行う。絶対に銃口は人に向けるな。携行する時は銃口を必ず上か下に向けること。では、所定の位置に並び、銃の確認から始める」
 鬼教官の指導の下、ライフルの使い方、分解・組立の仕方をおさらいする。
「銃は友達、信頼できるパートナー。恋人を慈しむつもりで大事に扱ってね」
 おっさんが気持ち悪いことを付け足した後、いよいよ演習が始まる。
 宮前は空いている列に並ぶ。射撃場といっても広い野原の百メートル先にヒト型の的を立て、流れ弾が飛んで行かないように的の後方に大きなコンクリートの壁を立てているだけ。
 グラウンドでもハンドガンで人形を撃ち、ライフルを手にダッシュやほふく前進、方向転換、いろんなことをさせられた。山頂まで登らなくてもグラウンドで十分じゃないか。疲れさせるためにわざと登らせているとしか思えない。そう思うと、ますます鬼教官が嫌いになった。
「はい、次の人」
 宮前の番になり、銃を構える。この列の指導はおっさんだ。
「ライフルは、右手、左手、肩の三点で支えるの。はい、ストックを肩に引きつけて。ハンドガード(銃身)支える、グリップ握りこまない、肩の力を抜いて。……腰入れて、脇をしめて……、銃口下がってるわよ。……そうそう」
 肩を叩かれ、腰を押され、頭を抑えられる。息がかかるくらい近くにあるおっさんの顔がいつものへらへらした笑顔じゃなく、真剣そのもので驚いた。声も裏声じゃなく低く落ち着いた声だ。添えられた手がぞくりとするほど冷たい。
「手前にある凹みをリアサイト、銃身の先に付いた凸状の部品をフロントサイトというの。この二つと的が重なったら引き金を引くのよ」
「はい」
「今、揺れているでしょう。風や力みがあると揺れが大きくなる。的が重なった瞬間に引き金を引くの。すっと、真っ直ぐ後ろに引くのよ」
「はい」
 的が真ん中で静止するのを待つ。入ったと思った瞬間に指を動かす。的の真ん中に命中した。
「いいわよ。じゃあそのまま十発撃ってみて」
 おっさんがすっと離れる。宮前は教わった通りに十発撃った。的の中に収まっているもののバラバラだ。
「二百メートル先なら五発外れているわね。力みや風でも弾道が逸れるわ。ストックを肩に引きつけ、ハンドガード(銃身)を下から支え、グリップは柔らかく持ち、引き金は真っ直ぐ引く。力んじゃダメよ。後ろの的でイメージトレーニングしながら練習して。……はい、次」
「ありがとうございます」
 後方にある自由練習用の的に並ぶ。そこである程度練習し、また指導を受けるのだ。
 ──……結構、楽しいかも。
 ここに来て初めて、そう思えた。
 宮前は銃を構えおさらいをしながらおっさんをちらっと見る。やっぱりいつもの調子よさがない。笑みがなく、背筋を伸ばし次々と訓練生を指導する姿は、戦闘服を着ているからだけじゃなく、かっこいいと思った。俺もあんな風になりたいな。
 ──……い、今なんて。
 俺は正気か、それはないだろ。おっさんだぞ? あんなのになってどうするんだ俺。しっかりしろ。
 宮前は邪念を払いとばそうと、首がちぎれるほどぶんぶん振った。

「ああー、疲れちゃったー。あー、喉が変。滅多に使わない地声出したから声が戻らないわ。髪も乱れているし……」
 おっさんは、いつも持っているのか、手鏡を取り出し前髪を整える。
「皆さん、お疲れさま。初めての射撃にしてはなかなか筋がいいわよ。この調子で頑張ってね」
 おっさんは手をひらひらと振り、
「ではまた明日。ごきげんよう」と一人さっさと車で帰ってしまった。
 もちろん、訓練生達はこれから三時間かけて徒歩で帰る。

 *

 訓練が進むに連れ、皆表情が乏しく無口になった。
 訓練時のかけ声、返事は欠かさないものの、いったん訓練を離れると雑談をするでなく、食事、入浴を済ませ、自室に戻る。
 そしてちらほらと脱退者が現れる。昨日いたのに今日はいない、今朝いたのに午後に寮を出て行く。
 ──……俺も交じりたい。走ってそのままバスに飛び乗りたい。
 教官の機嫌が悪くならないか、皆ビクビクしている。誰かが辞めたすぐ後に「俺も辞めます」なんて言える雰囲気じゃない。
「よくも騙しやがったな。こんなところ辞めてやる」とおっさんの顔に辞表を叩きつけてやる、と何度思ったことか。けれど、訓練が終わったらへとへとで、辞表を書く余力がない。ましてや、辞表を持ってまた鬼教官の隣の部屋を叩くなんて度胸はない。毎日の訓練で物理的にも精神的にも酷使されている心臓にこれ以上負担がかかったら心不全で死んでしまう。
 ──……辞表、破くんじゃなかった……。
 後悔しているうちに訓練はどんどん過密化した。

「横暴だとは思わないのか、あの鬼教官っ」
 宮前は久しぶりに切れていた。反論はダメ、弱音も質問も駄目なら黙るしかない。とにかく給料日まで、金を貰うまではひたすら我慢するつもりだった。けれど、今日はさすがに堪忍袋の緒がブチ切れた。
「今日は防弾チョッキとライフルは置いて訓練をする」との指示に嫌な予感がした。鬼教官が楽な訓練をさせるはずがない。
 行進させられ、たどり着いた場所は、緑あふれる渓流だった。
 川幅はおよそ八十メートル、流れは緩やかで、碧く澄んだ水面に魚影が見える。川向うにそびえ立つ岩壁と岩壁の間から霧のような水飛沫が噴き上がり、小さな虹がかかる。
 鳥の歌声、深緑に染まる川面、霧雨降る清涼な空気……。レジャーならパンツ一丁で飛び込んでいるところだ。
「川に沿って登れ。滝を越えた川岸がゴールだ」と命令が出た。
 滝は見えない。清流に沿い、拳大の石が転がる川岸をひたすら進む。石ころの隙間をカニが走り、魚が跳ねる。背の高い木々が空に向かって伸び、木々から木々へ鳥がはばたく。
 川幅は狭くなり、石ころの代わりに岩が出現する。突き出た岩に水流がぶつかり白い水飛沫をあげ、心癒すせせらぎは岩を砕く激流に変わっていた。
 傾斜はきつく、岩と岩の間をよじ登ると言った方がぴったりくる。道筋をつけるために引いた一本のロープを頼りに、川岸が途絶えた場所を腰まで水に浸かり移動する。
 上流の水は骨にしみるほど冷たく、痛いと感じるほどだった。腰まであった水が胸元まで達し、しまいには足が届かなくなる。
 ロープにしがみつき立ち泳ぎ、水面下の岩壁を蹴る。水草たなびく壁面はつるつる滑り、体が浮き沈みする度に顎の下まで水が来る。
 足を交互に動かし、手で水をかき、体が浮き沈みしながら進む。
 体の芯まで凍えてきた。刺し込むような痛みが全身を襲い、心臓を摑まれたように息が詰まる。委縮する胸を、長い呼吸を意識し息を吸い込む。奥歯がガチガチと鳴り、ロープを握る指の感覚はない。
 ひょんなことで手を離したら、岩石にぶつかり白く砕ける激流に呑みこまれ、はるか下流まで押し流される。滝は見えない。
 ──……はやく、早く、進まないと……。
 感覚のない指に力を込め、必死にロープをたぐる。立ち泳ぎ、ロープをたぐり、顎の下まで水に浸かりながら前へ前へと進む。
 ようやく、岩壁のてっぺんから流れ落ちる滝の一部が見えた。
 ──あそこだ。あれを越えればゴールだ……。
 ロープをたぐり、足を動かす。苔むし水草茂る岩に片手を這わせ、つかめる物はないかと探る。手の中に収まるくらいのでっぱりに触れ、ぎゅっとつかむ。
 水中の壁を蹴り、ロープにしがみつき伝う。
 細く長い弧を描く滝にギリギリまで近づき、大きく息を吸い、滝が直下するエリアに突入する。予想外に勢いが強い。後頭部を打ち、首を叩き、顔面を水面に打ちつけた。
 ──お、溺れる。
 ロープをつかみ、でっぱりを握りしめ、壁を踏む。一気に滝を越えようと反動をつけた。途端、足はつるんと滑り、でっぱりはぽろっと取れ、ロープから手を離してしまった。
 ざぶんと川に呑み込まれる。
 もみくちゃにされ、どっちが上か下か分からず、肩を打ちつける。ごぶっと大量の水を飲んだ。全身を打ちのめされ、押し流される。水温が低くなり、閉じた瞼の裏が暗くなる。
 薄く開けた目に水底が映る。冷たく濁り、魚影どころか、光さえ届かない、暗緑色の深みへ真っ直ぐに引き込まれる。緑がかった暗闇にさしかかった時、……終わった……、と思った。
 体が突き上げられ、横殴りに押し流される。ぐんぐんと浮き、泡立ち、光帯びる水流に漂う。ゆらゆらと光る水面が見えた。必死に手足をばたつかせ、ゆらめく光へ手を伸ばす。
 水面に顔を出した時、……怒鳴られた。
「横に泳げ。下流まで流されるつもりか」
 命からがら川岸によじ登り咳込む俺にあの腐れ教官はほざいたのだ。
「窮地に立った時ほど冷静になれ。足掻いてもなんの足しにもならん。ああいう時は流れと垂直に泳ぐんだ。ここからでいい、もう一度やってみろ」と川の中を指さした。
 ──……大丈夫かの一言が言えんのか。俺は死にかけたんだぞ。
 生まれて初めて、殺意が芽生えた。
「お前も怒れよ。俺はもう少しで溺れ死ぬところだった。ライフジャケットもなくロープ一本であの急流を登らされたんだぞ。生きているのが不思議なくらいだ」
 自室に戻った途端、宮前はありったけの不満と怒りを祐一にぶちまけた。鬼教官ラブの祐一もさすがに黙っていた。
「あの教官は鬼じゃない、悪魔だ、魔女だ、魔王だ。俺達が苦しんで死ぬところを見たいんだ」
 そこまで言っても祐一は無言だった。宮前の不満は頂点に達し、思い出しては祐一に愚痴りまくった。
「絶対辞めてやる。辞表を書く」
 宮前は疲労困憊の体を鞭打ち、机にしがみつき、退職願を書き始める。一刻も早く書いておっさんの顔に叩きつけてやる。元はといえばおっさんの上手い口上に騙されたんだ。
「……待てよ、宮前」
「止めるな、絶対辞める。今日を限りに辞めてやる」
 祐一が弱々しく呟く。
「止めないよ。ぼくも、辞める。お前が先に出したらぼくが辞めづらくなるだろ。一緒に行かせてくれ」
「へっ?」
 力なく俯く祐一を宮前はしげしげと見た。
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