第7話

文字数 17,787文字


 *

「シミュレーションの最終案が決まったわ」
 イーシンはウェインを社長室に呼び、報告する。
「最終案通りなら高度な技術は要求されない。どの建造物に敵が潜伏しているか、敵の人数といった詳しい内容は私も知らない。アメリカさんのみぞ知るってとこね。セットの設営はほぼ完成しているそうよ。シミュレーションの前に二日間の共同訓練をアメリカ軍と自衛隊、アースで行うことになったけれど、これは自衛隊とアメリカ軍の連携強化が主で、私達はおまけってところね。
 シミュレーションは修了テストでもあるの。テストで求められるのは新隊員としての体力、技能、知識。それと仲間と意思疎通ができるコミュニケーション能力。要するに英語力ってことね。ここはアースに譲歩してくれたようね、日本語でも構わないそうよ」
 イーシンは少し間を置き、言う。
「明日からキャンプだけど仕上がりは順調? 訓練生の士気はどうかしら?」
 ウェインが口を開く。
「訓練は全員真面目に取り組んでいる。士気も上がっている。が、本番になってみないと分からない」
 キャンプはシミュレーションであがらないための予行演習であり、一夜二日がかりで行われる。
「キャンプ六日後にアメリカ軍、自衛隊、アースの共同訓練があり、共同訓練三日目にシミュレーション、つまり修了テストを行うわ。テスト前にけが人や、ましてや死人は出さないで。修了テストに必要なのは頭数。隊も組めない人数じゃ今までの二の舞だわ。人数さえいればテストが上手くいかなくても救済策は講じられるの」
「彼ら次第だ。特別厳しい訓練はさせていない。私は善処するとしか言えない」
「それは兵士として、でしょう? あの子達は兵士じゃないの。孵るかどうかわからない自衛隊員の卵なの」
「……私は州兵になって五ヶ月で命令が下りた。兵士になる可能性がわずかでもあるなら指導には最善を尽くす」
 イーシンは背もたれに体を預ける。
 期待していなかったけれど、予想通りの返事に全身の力が抜けた。言っても無意味と思いながらも口にする。
「あの子達は修了テストに受かっても自衛隊で更に訓練を積むか、よほど成績が良い場合はアース社員と海外の訓練場で実績を積みながら後一年半訓練をするの。すぐには戦地に出ない。だから力を入れすぎないで、……と言っても貴方には通じないんでしょうね」
 説得するのが馬鹿らしくなり、最後は独り言のようになってしまう。
「……まあ、いいわ。頑張ってきてちょうだい」と手をひらひら振る。戻っていいわよ、という合図だ。
 ウェインは動かない。俯き加減で柄にもなくしおれた様子だ。
「……社長……」
 ──……社長……? ……ああ、私のことね。
 ウェインはふざけているふうではなく、沈鬱な面持ちで続ける。
「……私は、部下として、兵士としてもあるまじき振る舞いを、社長にしてきました。今までの非礼を謝罪させて下さい」と頭を深々と下げる。
 なんの冗談よ、気持ち悪いわね、とは言えない雰囲気だ。
 昔のウェインも社長であるイーシンに対し礼を尽くしていた。真面目にくそがつくほどに。それがいつの間にか対等というよりはぞんざいになり、それに慣れてしまっていたから突然態度を変えられても何か企んでいるのではないかと疑ってしまう。
「私の任期はあとわずかです。修了テストが終わったらここを去ります。……それまで、もう少しだけ、待って下さい」
 ──……今更辞められても困るわよ。
 これまで散々命令を無視されてきた。少しばかり殊勝に出られたからって素直に喜べるほど人間はできていない。それに、下手に出ていても “命令はきけない、自分のやり方を通すから任期が終わるまで我慢してくれ”と言っているのだ。「はい、そうですか」と頷けるわけがない。
 イーシンは無言で手をひらひらさせた。
「……失礼します……」
 ウェインは一礼し、扉を閉めた。

「今日の晩飯、豪華だったなあ。伊勢海老のスープ、サラダ、ステーキ、温野菜、デザートはチーズケーキ、ノンアルコールの食前酒もついていたぜ。……最後の晩餐ってやつかな」
 靴の手入れをしながら呟く宮前を、祐一が「縁起でもない」とたしなめる。
 宮前は投げやりにへっと笑った。
「今日のあの鬼教官の説明聞いただろ? なにさせられるか分かったもんじゃねえ。実戦に忠実にとか言って俺達に撃ち合いさせるかもしれん」
「……そこまでは、……しないと思う」
 祐一が自信なさ気に鬼教官をかばうのも、宮前が投げやりになるのにもちゃんとした理由がある。
「明日から二日間のキャンプに行く。準備に万全を期すこと」
 訓練修了後、ウェイン教官からそう言い渡され、全員が携行品を雨などで濡れないようビニール袋に入れ、決められた手順でリュックに詰めている最中に、あの鬼教官はこうのたまった。
「キャンプは実戦を想定し実弾を使う。一瞬の気の緩みが味方への誤射につながる。心して臨むように」と。
 ──……ほんっと、性格悪いったらよ。最悪も最悪、極悪だぜ。あの極悪教官をのさばらせておくなんておっさんも同罪だ。
 豪勢な食事を前に落ち着かない宮前達に、おっさんはにこやかに両手を組む。
「みなさん、明日はキャンプです。準備は万端かしら? キャンプから帰ってきたら六日後に共同訓練と修了テストがあります。スケジュールがハードだけれど、感覚を覚えているうちにテストに臨んだ方がいい結果を残せると思うの。キャンプさえ乗り切れば、テストは半日で終わるし、なんたって口うるさい教官達がいない分、のびのびできるわよ。明日からのキャンプに備え、皆さんに精をつけてもらおうと奮発しました。……それでは、右手と左手を合わせてー、いただきます」
 ──……けっ、なにが、右手と左手を合わせてー、いただきます、だ。
 おっさんの言う通りになった試しがない。おっさんが冗舌であればあるほどとんでもない目に遭いそうな予感がする。
 頑丈な体が恨めしい。腹痛でもおきれば、……腹痛だと仮病と疑われるかもしれん、高熱でも出てくれたらキャンプに行かなくてすむ。キャンプを休めるなら腕にちょいっと切り傷をつけ重傷のふりをしても構わない。
 訓練に慣れ、慢性筋肉痛を我慢できても、あの鬼教官だけはいまだに馴染めない。多分、一生無理だ。あの目で睨まれると冷や汗が出る、怒鳴られるとすくみあがる。きっと生まれる前は蛇と蛙、猫とネズミだったに違いない。もちろん鬼教官が前者で、俺が後者だ。天敵と言っていい。
 その鬼教官と、鬼教官だけじゃない、鬼教官のコピーみたいな教官達と山奥のどこかで二日間一緒に過ごし、しごき抜かれるかと思うとベッドに横になり五年でも十年でも眠りにつきたくなる。目覚めたら全て終わっていました、めでたしめでたし。……だったらどんなにいいか。
 食い物に罪はない、夕食のステーキをほおばり、しっかり味わう。おっさんと鬼教官は夕食をさっさとすませ、食堂を出て行った。
 ──……撃っていいなら、あの二人を後ろから一発ずつ……。
 靴を銃に見立て、左右にゆっくり動かす。
「……宮前はテスト終わったらどうするんだ」
「ぎゃっ」
 突然話しかけられ、靴を放り投げてしまった。教官に見つかったかと思った。全身じっとり汗ばんで鼓動が胸を押し上げる。
 ──……し、心臓、痛い……。
 祐一は靴を脇に置き、とつとつと話す。
「……修了テストが終わったら、どこに行くか決めなきゃいけないだろ。宮前はどうするのかなって、思って……」
 胸をさすりながら靴を拾う。
「……なんも、考えてなかった。毎日訓練をこなすのにいっぱいいっぱいだったもんなあ」
 改めて考えると、……何も思い浮かばない。
 今日は何やらされるのかとビクビクし、早く一日が終わってくれと太陽を仰ぎ見ながら訓練をこなし、鬼教官の視線と怒鳴り声に心身を擦り減らす日々、……辛い思い出ばっかりだ。
 カロリーと栄養を計算されているとはいえパック詰めされたレーション(戦闘糧食)を腹いっぱい食わされても胃袋に綿を詰め込んでいるようで味気ない。
 おっさんには騙され、鬼教官にはしごかれ、ボロボロの体を引きずりなんとかやってこられた理由は、給料や待遇云々より、一番に同僚が気のいい奴ばかりだったからだ。
 分刻みの生活、過酷な訓練、厳しい上下関係……、苦楽を共に乗り越えてきた連帯意識からか、強い絆を感じた。特に祐一には世話になった。このままここにいて愚痴を言い、慰め合い、励まし合って皆とやっていけたらなと思う。……けれど、修了テストが終わったら祐一とも別れなければならない。
 答えが出ず、宮前は祐一に聞き返す。
「……祐一はどうするんだ?」
 祐一は暗い表情で答える。
「……ぼくは、……明日からのキャンプ、やりきれるか、……自信ない。途中で、脱落すると思う。……テストだって……」
 語尾が消える。
「卑下、しすぎじゃねぇ? 五ヶ月間しごきに耐えてきたんだ。その時になったらそれなりに動けるんじゃねぇの?」
 祐一は弱々しく首を横に振った。
「……訓練について行くのだって精一杯なんだ。一日が終わったらへとへとで、宮前みたいにはしゃぐ気になれない。休日もだるくて一度横になったら動けないんだ。……ぼくは、皆の足を引っ張る気がする。ぼくのミスで皆を大変な目に遭わせる気がする」と膝を抱える。
「俺だって自信があるかって聞かれたら、ないよ。キャンプなんてしたくないし、テストだってできればやりたくない。生まれてこの方、テストでいい点取った試しねえしな。訓練だって、走ったり、地面這ったり、崖登らされたり……、嫌でしょうがなかった。けどよぉ、なんていうか、いつの間にか居心地良くなっているっていうか、ここを離れたくないっていうか、さ。……俺さぁ、ここに来るまで、どうやって楽に生きるかばかり考えてた。汗水流して働いたって給料は変わらん、待遇は変わらん、やりがいもない。それがさ、自分でも変わったと思う。きつい訓練に耐え、体も鍛えられ、自信もついてきた。俺もやればできるじゃん、って。祐一は体力に自信ないとか弱音吐いていたけど、今は立派なもんよ。ここに入った時と比べて二回り以上、体大きくなってるぞ。訓練の成果が現れているんだ。祐一も自信持てよ」
 祐一は膝を抱えた腕に顔を埋め、首を横に振る。
「……ぼくは、訓練が嫌だった。人形を突くのも、銃を撃つのも、手榴弾を投げるのも、たまらなく嫌だったんだ。なのに、今は何も感じない。全弾命中して、教官に褒められて喜んでいる。……このままでいいのかなって、……どうしようもなく不安になる。宮前みたいに軽く考えられたら……。こんな気持ちじゃキャンプに集中できない。テストに受かっても、落ちると思うけど、……喜べない」
 腕に顔を押しつけ、声を震わせる。
 宮前は戸惑った。いつも口うるさい祐一が弱音を吐いている。何か、何か言わないと、と焦る。
「……祐一は変わってないよ。そうやって悩むところが祐一らしいっていうか。小さいことにこだわるのがいいっていうか。その、うまく言えないけど、人が気にかけないような細かいことを考えるのがお前のいいところなんだよ。大体、お前が俺みたいにちゃらんぽらんになってどうするんだ。後が大変だぞ?」
 祐一は顔を上げない。
 ──……ああ、俺は何を言っているんだ……。もっと他に慰めようがあるだろ……。
 肝心な時に祐一が元気になれるような、祐一の心に響くような言葉を思いつけない自分が情けない。
 膝を抱える指が震えている。
「……せっかく、ここまで頑張ってきたんだから派遣社員でもいい、ぼくにできることがあるならやってみたい。……でも、一人で海外に出て仕事するなんて、……怖い。……ここにいたい。皆と離れたくない。けど、宮前も高木も、皆がここを出て行くのに、ぼく一人取り残されるのも嫌なんだ」
 顔を押しつけた腕が濡れている。
 ……いつも励まし、手を貸してくれた祐一が泣いている。他愛ない俺の不満や愚痴を聞きながら、一人、不安や弱音を内に閉じ込めずっと耐えてきたんだろうか。本当はもっと早く悩みを打ち明けたかったんじゃないだろうか。一方的に愚痴るだけ愚痴って祐一と分かり合えている気になっていた己が恥ずかしく、もっと祐一の相談に乗ってやればよかったと後悔した。
 宮前は膝を抱えうずくまる祐一の髪を眺める。
「……心配するなって。ここを離れて派遣社員や自衛隊員になっても同じような仕事していればまたいつか出会うさ。例え他の仕事に就いても、このきつい訓練を一緒に乗り越えてきたんだ、簡単に切れる仲じゃないだろ? 少なくとも俺はそう思ってる。……俺もこの先どうなるか分からんけど、二人とも今までなんとか食らいついてきたんだ。……あともう少し、一緒に頑張ろうぜ」
 祐一は腕から顔を浮かし、赤くなった目で笑った。
「あんなに辞めたがっていた宮前に励まされるなんて、……変な気分……」
「……んだよ」
 頬が熱くなり、わざと口をひん曲げる。
 祐一は泣き笑いの顔で「……まだ、何も決められないけど、キャンプとテスト、……頑張るよ」と言った。
 宮前は祐一を元気づけたくて、照れ隠しもあり、
「おう」と力強く頷いた。

 *

「はーい、皆さん、おはようございます。昨日はよく眠れたかしら? 今日からキャンプです。私がこのかっこいい軍用トラックで皆さんをお送りしますねー」
 緊張の面持ちで整列している訓練生に、イーシンは手を伸ばし敷地入口付近に停めた兵員輸送用トラックを示す。
 訓練生が驚きと安堵が入り混じる笑顔を浮かべ、「はいっ」と元気よく返事をする。目を輝かせイーシンとトラックを交互に見つめる。
 ──……迷彩柄の幌がついたトラックにそんなに乗りたかったなんて、可愛いわねー。言ってくれたらもっと早く乗せてあげたのに。
 純朴な反応にイーシンは笑顔で応えた。仏頂面のウェインと訓練生を見比べ、にんまりする。
 ──へそ曲がりの誰かさんとはえらい違いね。ホッペにチュウしたいくらい。
 トラック三台に分かれ、イーシンが運転するトラックの荷台に訓練生が乗る。
 ほとんどの教官とスタッフは三日前からバトルキャンプの設営に出ている。今も準備が着々と進められているはずだ。
 訓練生達は荷台に乗り込む間もはにかんだ笑顔をイーシンに向ける。
 ──そんなに喜んでくれるなんて、私も嬉しいわー。
 うんうん頷き、イーシンは車を走らせた。
 途中で休憩をはさみ車で走ることウン時間、イーシンは車を停めた。
「はーい、着いたわよー。皆さん、降りてー」
 イーシンはきょとんとした。
 威勢よく降りてきた訓練生達の様子がおかしい。
 落ちこぼれの宮前だけでなく、他の訓練生も口をあんぐり開け、高い木立を仰ぎ見る。誰もがキョロキョロと森林を見回し、時折顔を見合わせ、そわそわと歩き回る。崖にこわごわといった様子で近づき、轟音を立てる川をそっと覗く。
 ──……山の中がそんなに珍しいかしら? 
 施設だって山の中、別にどうってことない風景だ。
 ウェインが集合をかける。整列した訓練生達によく通る声で命令する。
「今から三十分の休憩を取る。その後、キャンプ地まで十四時間かけ夜通し歩いて行く。到着時間は明日の朝五時、〇五〇〇。それから二時間の仮眠をとり、軍事訓練に移る。では、休憩」
「はい」
 納得してというより、条件反射的に出た返事は、明らかにうわずっていた。
 地べたに座りこみ、百メートル頭上から鳥が糞を落としても入りそうなくらい大きな口を開け、感情が抜け落ちた目で空を仰ぐ訓練生達をイーシンは一生忘れないと思った。
 イーシンはぴんときた。
 イーシンが“施設からスタート地点まで”のつもりで発した 「車で送る」の言葉を、訓練生達は“施設からキャンプ場まで”と解釈したのだ。
 ──あっらー、どうりでやたら嬉しそうだったわけね。
 おかしいとは思ったのだ。キャンプといえば大抵の者が緊張と重圧で吐きそうな顔をしているのに訓練生達ときたら近くの山にピクニックに行くような緊張感の欠片もないあどけない(といえば聞こえはいいが馬鹿っぽい)顔で周囲の山々を見渡しながらレーション(戦闘糧食)をほおばっていたのだから。
 ──……私の言い方がまずかったかしら……。
 “イーシンがいつも甘やかして訓練の邪魔をするから誤解が生じるんだ”とウェインに叱られそうだ。
 埴輪と化した訓練生達に笑顔を振りまき、
「皆さん、頑張ってねー。帰りは、か、な、ら、ず、キャンプ地まで迎えに行くからー」と手を小さく振り、そそくさと車に乗り込んだ。
 バックミラーで後方を覗くと、縋りつくような、絶望に満ちた目がいくつもこちらを見つめていた。
 ──ああっ、もう、ごめんなさーい。
 後ろ髪をぐいぐい引かれながらイーシンは車を走らせた。

 ──殺す、ぶっ飛ばす、はっ倒す、ぶちのめす、蹴っ飛ばす、ぶん殴る、絞め殺す……、おっさん、今度こそ、絶対に許さん!
 宮前はおっさんへの恨みつらみを心の中で吐きまくり、前進する。肩にかけた銃を触りおっさんに何発風穴開けてやろうかと妄想する。
 ──……何が「トラックで送って行く」だ。
 おっさんの口車に乗せられ何度も痛い目に遭っている、俺も懲りればいいのに、あれでも鬼教官の上司だ、もしかしたら……と甘い夢を見てしまった。
 おっさんを罵倒していたのはほんの小一時間。後は黙々と歩いた。

 日は沈み、暗闇が訪れる。
 外気はピンと張りつめ、吐く息が白い靄となり漆黒の空へ溶けていく。葉を落とした木々は空に向かい枝を伸ばし、切るような風が吹き渡る。枯葉や木の実は腐り、溶けて、ぬかるみと化す。
 巨大な月が蒼天を照らし、白い光がリング状に広がる。梟の声が暗い森に渡る。
 月が眩しいと感じるのも、梟の鳴く声を聞くのも生まれて初めてだ。
 ──……どこなんだよ、ここは。
 月夜に見とれる余裕はない、列から外れれば間違いなく遭難だ。
 宮前は前途を阻む枝をナイフで払い、進んだ。

 夜は濃く、深くなり、梟の声は聞こえない。
 ──……いま……、なんじだ……。
 時間を確かめたくても、肩から先がやけに重く腕時計を見る気になれない。
 頻繁に襲う猛烈な眠気と闘い、ひたすら枝を払い、凍ったぬかるみを踏み進む。
 しんしんと冷える寒さに軍手をはめた手はかじかみ、足は感覚がなく、節々が痛む。体の芯まで凍えてきた。
 吹き荒ぶ風に首をすくめ、肩に力を入れ耐え忍ぶ。歯がカチカチと鳴る音を聞くうち、瞼が重くなってきた。視界が暗くなり、ふらふらと揺れ、ふわふわと軽くなる。体中の痛みが和らぎ、すーっと沈んでいく。口の端に温かい物が垂れる……。
 頭に強い衝撃を受け目が覚めた。
 太い枝がすぐ目の前で揺れていた。頭をぶつけたらしい。
 “……いってぇー”と口の中で呟き、声を出す元気がない、のっそりと枝をくぐる。
 睡魔に襲われているのは自分だけではないようだ。樹にぶつかる者、すっ転ぶ者、一人が足を取られるとドミノ倒しの要領で後ろの奴も一人、二人と転ぶ。斜面を転がる者もいた。幸い、木に引っかかり崖下への転落は免れたらしい、鬼教官が怒鳴りつけ引っぱり上げている。
 目は半分、いや五分の一しか開かない。……眠くて……。
 夢と現実を行き来し、自分がどこにいるのか、何をしているのか思い出せない。寝ても覚めても足は動いている、という感じだ。腕や脚に何かがぶつかる度に現実に引き戻され、すぐさま夢の世界へ引きずり込まれる。
「到着、全員止まれ」
 その声を聞き、目が覚めた。まだ暗く、月は皓々と夜空を照らす。
「今から二時間の休憩を取る。〇七〇〇起床、〇八〇〇より訓練を開始する。解散」
 解散の号令にテント張りに取りかかる。
 早くしないと眠る時間がない。はやる気持ちを抑え、寒さと疲労で震える手をなんとか動かしテントを張る。銃を抱いて寝袋に体を滑り込ませ、まどろむ間もなく暗がりに堕ちた。

 〇七三〇、ウェイン教官の説明が始まる。
「攻撃目標である建物はここから三キロの地点にある。二グループに分かれ攻撃目標手前のA地点、B地点へ進軍する。途中、トラップ、敵役の襲撃がある。それらをくぐり抜け、GPSと無線機でお互いの位置を確認しながら決められた時間に各地点へ集まれ。各地点に着いたら待機し、合図が出たらA地点のグループは擁護射撃に、B地点のグループは作戦行動に移れ。作戦行動グループは市街地に入ったら四人一組で行動すること。お互いの意思伝達はヘッドセットに装着した無線機で行う。
 敵の銃撃を受けたら体の各所に取り付けたセンサーが反応し、左胸に着けた装置に『死亡』、『重傷』の判定が出る。赤が出たら『死亡』だ。死んだら動くな。訓練が終わるまでその場にいろ」
「はいっ」
「装備品の確認をしろ」
「はいっ、装備品、確認します」
 ウェイン教官の指示に従い、「ヘッドセット(ヘッドフォンタイプの無線機)確認しました」、「スピーカーとマイク確認しました」、「GPS確認しました」と復唱しながら確認作業をする。
「では、グループを決める」
 ウェイン教官が紙を読み上げる。
「擁護射撃グループは高木将吾を先頭に、木村祐一、ニシオカカズマ、……」
 高木のはきはきした返事の後に、祐一の切羽詰まった声が続く。
 ──……高木は先頭かぁ。やっぱりてな感じ。俺も擁護射撃がいいな。
 緊張と期待で高鳴る鼓動を持て余し、自分の名前が呼ばれるのを待つ。
「以上が擁護射撃グループだ。作戦行動グループはナカモトテツヤを先頭に、フジユウキ、…………宮前等、ウェイン・ボルダー、以上とする」
「はぁっ? はいっ」
 反射的に返事をしたものの、内心は尋常でないほど動揺していた。
 ──きょ、教官と俺が、一緒……? ていうか、教官は全員敵役に回るんじゃないのか。
 ウェイン教官を除き、擁護射撃グループ、作戦行動グループに教官の名前はない。てっきり教官達は指令か敵役に回るものだと思っていた。よりによってウェイン教官が訓練生と交ざるなんて……。それも俺と同じ作戦行動グループ……。
 ──……衝撃的すぎて、何も言えん。
 祐一と目が合う。心なしか祐一が気の毒そうにこちらを見ている。……お前が教官と組みたかったんじゃねえの? 変わってやるよ。
 胸の前で指を動かし、こっちへ来い、替われ、と合図する。
 祐一はぷいっとそっぽを向く。
 ──ああっ、くっそぉー。なんでいつも俺なんだ……。
 ウェイン教官の説明が続く。
「戦場では常にチームで行動する。仲間同士の連携が生死を決める。仲間の命を自分が預かっていると思え。自分の命は仲間に預けるんだ。一緒に組む相手の顔を見ろ。そいつらが自分の命を託す者だ」
 それぞれが顔を確認し、ウェイン教官に注目する中、宮前は教官と目が合い、逸らしてしまった。
 ──……いかん、いつもの癖が……。
 ウェイン教官が声を張り上げる。
「これは練習じゃない。本番だ。一瞬の油断が全員の命に関わる。集中しろ。いいなっ」
「はいっ」
 一同、力のこもった返事をする。
「いいか、任務を遂行することだけに全神経を傾けろ。そのための仲間だ。迷うな、恐れるな。全力を尽くせ。やり尽くせ」
 迷いを吹き飛ばし、腹の底を衝く力強い声だ。ウェイン教官の檄に全員が叫ぶ。
「はいっ」
 宮前も叫んでいた。
「では、各自所定の位置にて待て。解散」
「はいっ」
 全員が敬礼し、所定の位置へ走る。待機の姿勢を取り、号令を待つ。
「宮前っ」
「は、はい」
 ウェイン教官は腰を下ろし宮前の肩に手を置く。宮前は面食らった。
「私は宮前等を全力でサポートする。宮前は任務を遂行することだけを考えろ。失敗を恐れるな。結果は考えるな、最善を尽くせ。いいなっ」
 肩に置いた手に力がこもる。
「はいっ」
「よしっ」
 宮前の肩を強く叩き、立ち上がる。
「行くぞっ」
「はいっ」
 全身が熱くなる。訳もなく汗が噴き出す。肺が膨らみ、鼓動が速くなるのを感じる。重責と緊張感が肌を切る。それでも決めた、やってやる、と。
「宮前、行きます」
 銃を手に、訓練へ突入した。

 水は流れ、鳥はさえずる、──遠く、──近く──、近く、──遠く──。
 川は見えず、鳥の姿もない。夜とは対照的に朝は濃い霧が立ち込めている。一歩前へ踏み出す足の先すらミルクを薄めたような霧に隠され、木々も地形も視認できず、当然全滅を防ぐためと二十メートル先を歩く仲間の姿も見えない。
 かたまって移動すると敵に見つかりやすい。離れていれば例え地雷を踏んでも、敵の銃撃を受けても、死ぬのは一人││。他の者は異変を察知しルートを変更できる。そして生き残った者だけが作戦に参加できる。
 視界ゼロの状態で潜む敵を、仕かけられたトラップをいち早く見つけるのは簡単じゃない。せめて音で聞き分けようと耳を澄ましても、鳥のさえずりが、川のせせらぎが聴覚を奪う。
 風が吹き、霧が乱れ、木々がざわめく。敵がすぐそばにいるのではないかと、銃を持つ手に力を入れる。
 足の下で小枝がパキパキと音を立てる。草が足を撫で、枝が肩を突く。からかわれている気がした。
 宮前は肩にかけたGPSを頼りに、ぬかるみに足を突っ込み慎重に進む。数メートル先が全く見えず、このまま白い深みにはまりそうな不安に息が荒くなる。己の呼吸音さえ白い霧に吸い取られているようだった。
 さっきの意気込みはなりをひそめ、代わって強くなる恐怖心に己を見失いかけながら、ひたすら目的地を目指した。

 足先三十センチメートル前方に何かが細く光る。
 立ち止まり、目を凝らす。
 針金が進行方向を阻むように左右の幹に巻かれ、左側の木の根元に手榴弾がくくりつけられていた。
 ──……罠だ。
 宮前は針金をひっかけないよう大きくまたぎ、足を置く寸前、地面のわずかな盛り上がりを見つけ、とっさに後ろの爪先で地面を蹴った。ぬかるみに突っ込み泥をかぶる。
 上体を起こし、泥だらけの手で顏や胸の泥を擦り落とす。手を伸ばし、盛り上がった土を指ですくってみる、地雷が埋められていた。訓練だから信管は抜いてある、はず。
 地雷を踏むか、足を針金に引っかけ手榴弾(模擬)のピンが外れた時点で司令部から『死亡』を言い渡され、作戦から外される。
 辺りを窺う。人の気配は、ない。
 ──……罠にかかれば作戦に出なくていい。
 誘惑がよぎったのは一瞬。誰にも会っていない。祐一もここをクリアしたのだろう。
 祐一と約束した、──一緒に頑張ろうと。自分だけこんなところで脱落するわけにはいかない。
 体が鍛えられるにつれ、過酷な訓練を乗り越えるにつれ、確かな手応えを感じていた──俺は強くなっている、と。
 自分の力を試してみたい、皆と一緒に戦いたい。一人、こんなところで終わりたくない。
 ││……時間をロスした。
 宮前は立ち上がり、先を急いだ。

 谷があるらしい、斜め下方向から霧が流れ出す。上へ、上へ、ゆっくり昇っていく。広がり、薄まった霧の向こう、木立の合間から白い球体が透ける。太陽だ。水色の空も見えた。
 この霧さえ晴れれば視界は良好なはず。
 時間までに集合地点へ行かないと作戦に加われない。敵を警戒し、トラップがないか探りながら立ち込める霧の中を進んでいる。昨夜は不眠不休で山野を歩き続け、二時間も眠っていない。だからなのか、……反応が遅れた。
 何かが顎をかすめ、首にかかり、しまっ……、後方へ引っ張られた。
 ぐぅっ、鋭い痛みと圧迫が首にかかる。爪を立て、指を入れ、巻きつく物を引きはがす。ごふっ、指ごと締め上げられる。指が千切れる、喉が裂ける。締まり続ける細い糸を爪で引っかき、もがく。
 呼吸を止められ両目に血液が集まり眼球が飛び出しそうな圧痛に舌を出し、喉仏が潰れそうな痛みに喉を引くつかせる。
 ありったけの力で後方を蹴りあげた。堅い感触に足が跳ね返り、バランスを崩す、──プロテクターだ。
 首への圧力が更に増す。耳のすぐ後ろでギリッ、ギリッと締め上げる音がした。
 頭の芯がすっと冷えていく。痛みは遠のき、吐き気もなくなり、力が抜けていく。
 ……遠のく意識の中、かすかに銃声を聞いた。

 ひゅうぅー、と冷たい空気が喉を通る。みぞおちまで達し、咳き込んだ。胸を押さえ、激しく咳き込む。喉がかすれ、胸に刺しこむ痛みを感じながらも、地面に伏し咳をした。
 肩を上下させ、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。喘息のようなかすれた音はするものの、呼吸はだいぶ落ち着いてきた。
 首に触れてみる。巻きついている物は、ない。圧迫もない。首はちゃんと繋がっている。左胸の装置には『死亡』も『重傷』も表示されていない。
 ──…………?
 膝を付いたままバッと体を反転させる。
 敵役が手袋をはめた手に釣糸のような半透明の糸を巻き立っていた。光沢がある糸が垂れ下がり、きらきら光る。
 ──これで首を絞めていたんだ。
 敵役の教官の左胸につけた装置に胴部損傷の表示と『死亡』の判定が出ていた。
 ぽかんと見上げる。
 ──やられていたのは俺なのになんで敵役が死亡するんだ? 
 訳が分からない。
 宮前はぎくりとした。
 敵役の背後の霧が揺らぎ、動いた。敵役から分離し、ゆっくりと宮前の方へ流れてくる。人の形をまとい、青ざめた顔が浮かび上がる、──ウェイン教官だった。
 声を失った。
 敵役の教官は苦笑し、木の根元に腰かける。ライフルを提げたウェイン教官が宮前の前に立つ。
「さっさと立て。怪我はしていないだろ。ここで脱落するつもりか?」
 宮前はぷるぷると首を横に振り、立ち上がる。首をそっと撫でる。ずきずきと痛むものの血はついていない。
 敵役の教官は地べたに座り、手を振る。“頑張れよ”と言っているようだ。
「最後尾の私に追いつかれるくらい遅れているんだ。さっさと歩け」と鬼教官に突き飛ばされた。
 ……妙に、ほっとする。
 緊迫した状況にも関わらず、訓練時と変わらない鬼教官が頼もしく、宮前自身、緊張がほぐれ力が湧いた。
「はい」
 宮前は鬼教官に追い立てられながら先を急いだ。

 影のように後ろを歩く鬼教官をちらちらと見、恐る恐る尋ねる。
「……なんで、助けてくれたんですか?」
 状況からすれば、敵の手に落ちかけた俺を鬼教官が銃撃し助けてくれた、のだろう。……でも、……なんで……?
 訓練中に質問なんかしたらぶっ飛ばされる、と思ったけれど、知りたい気持ちが勝った。鬼教官は眉一つ動かさず言う。
「仲間を助けるのに理由がいるのか? これは試験じゃない、本番だ。一人でも多く生き残り、作戦を成功させることが目的だ」
「……はい……」
 返事をしたものの、いまいち納得できない。
 敵役の教官を倒してまで訓練生の俺を助けるなんて……。日頃、俺をしごき倒している鬼教官とは思えない行動だ。……霧の中、現れた鬼教官が亡霊のようだった。
 鬼教官が「速度を上げろ」と背中をぐいぐい押す。
「敵は戦場を生き抜いてきた者たちだ。私より長く戦場にいた者もいる。彼らは久々の本番に勢いづいている。一人では勝てない。全員で勝ちに行くんだ。仲間同士の連携が生死を分ける。訓練と同じだ。……宮前も、仲間がいたからやり遂げられたことがあるだろう」
 どきりとした。図星だった。
 一人なら、こんな辛い訓練、とっくに辞めていた。祐一がいたから、高木がいたから、皆がいてくれたから、頑張れた。このキャンプも同じだ。きっと自分一人じゃ怖くて戦えない。皆がいるから、皆と一緒なら、戦える。
 空っぽだった場所にすとんと大きな塊がおさまった。
 重圧とか義務とか重苦しいものではなく、熱くたぎり、己を衝き動かす力の源が、一本の太い芯となり、土台となって、定まらなかった中心にピタリとはまった、──確かに感じる。
 恐怖は、ある。が、呑みこまれるほどじゃない。
 逃げたくない。負けたくない。勝ちたい。打ち負かしたい。強くなりたい。
 霧が晴れる。青い空が広がり、雲一つない。
 宮前は前を向き、速度をあげた。

 時間ぎりぎりで集合場所にたどり着いた。既に森に紛れ何人か集まっている。全員ではないようだ。途中で脱落したか、それとも間に合わなかったか。
 ──……祐一は、残っているかな。
 擁護射撃グループは少し離れた場所にいる。目を凝らし、周囲を探る。祐一も擁護射撃グループの奴らも見つけられなかった。作戦行動グループは擁護射撃グループの銃声で動き出す。
 前方五百メートル先に建物が三つ見える。使われなくなった温泉旅館で、五階建ての本館を中央に、左側に土産物店、右側に三階建ての別館がある。別館と本館は三階通路で繋がっているが、作戦中は木材などで塞ぎ、行き来できないとのことだった。つまり、一階出入り口を使わないと建物内に侵入できない。
 潜伏している敵を倒しながら、三つの建物から白い布を探し出し、屋上から投げたら作戦は終了する。敵の数は不明。ただ教官やスタッフが指令役と敵役に分かれていることを考えれば訓練生の方が数的には有利だ。団結すれば勝機はある。……それに、最強の鬼教官がこちらにいる。敵に回らず味方にいるだけで心強い。それも同じ作戦行動チームだ。
 銃撃戦が始まる。立て続けに銃声がし、止む気配はない。
 合図だ。
 枯草が揺れ、擬態した仲間が一人、二人と前進する。宮前も銃を構え、姿勢を低くし進んだ。

 擁護射撃グループが放つ銃弾が右側十メートルの距離で撃ち込まれる。コンクリート塀がぼこぼことえぐれ、砕けたコンクリート片が顔面に当たる。ヘルメットや防弾チョッキを着けていても被弾すれば即死だ。
 ぶわっと汗が噴き出し、後頭部がぞわぞわとする。汗ばむ手で銃を持ち直し、膝に力を入れる。引き返すつもりはなかった。
 キャンプのためにこしらえたのだろう、真新しい有刺鉄線が敷地を囲む。格子状に張り巡らし、ちょっとやそっとでは突破できそうにない。
 銃弾が撃ち込まれるコンクリート塀の脇にうずくまり、鉄線に刃先を突っ込み、体重をかけ切断し、銃身で押し広げる。サビ一つない太い鉄線は思うように曲がらず、銃身で殴りつけ、靴底で地面を掘る。
 仰向けに寝そべり、銃で顔面を守り、一人ようやく入れる穴に頭を突っ込み前進する。鉄条網が銃身にガチガチと当たり、鉄の棘が目の下をかすめ、鋭い痛みとともに生温かい物が頬を伝う。目に入ったら……、と思うと薄ら寒くなった。
 金網を突破し建物の陰に隠れる。四人ずつのチームに分かれ、鬼教官と一緒だ、物陰から物陰へとチームで移動する。
 宮前のチームは別館を目指し、別のチームは本館に向かう。閉じられた正面玄関のガラス扉を銃身で叩き割り侵入した。
 ──……暗い。
 電気は止まっているようだ、明かりはつかない。割れた玄関扉から入る光でかろうじて中の様子が窺える。埃が舞い、元は何色だったのか分からない色あせた薄い絨毯、二人並んだらいっぱいのフロントの奥にはサビた貴重品用のロッカー、開いたままのベージュのレジ……、使われなくなってだいぶ経つようだ。
 ささくれ、上部の曲線部分が折れた籐のつい立てを引き倒す。閉めきったカーテンから漏れる光が埃のたまった床を照らす。
 三人掛けの丸テーブルが三つ、見本の飲料がない自動販売機……、かつての休憩スペースだ。
 外から狙撃される危険がある。カーテンの隙間から外を警戒し、椅子を倒し、テーブルをどかし、フロントの貴重品用ロッカーもくまなくチェックする。敵はいない、爆発物はない、任務終了の鍵となる白い布も……。
「ルームクリア」
 エレベーターは動かない。銃を構え階段を駆け上がる。
 二階宿泊室は全て閉じられ、通路には非常灯はもちろん窓もない。暗視スコープを覗き、辺りを警戒する。
 人影は見当たらない。
 ごくりと唾を飲み込み、一番手前の部屋から取りかかる。ドアに銃をつきつけ、合図とともにドアを蹴る。部屋になだれ込み、誰もいない、ベッドのシーツをはがしベッドの下、テーブルの下、椅子の下……あらゆる場所をチェックする。問題なし。
「ルームクリア」
 二階全ての部屋をチェックし、残る三階をチェックすれば別館は終わりだ。
 暗視スコープなしでは十センチ先も見えない暗闇の中、思うように動けない狭い空間で敵を警戒しながら部屋を一つずつチェックする作業は極度の緊張を強いた。
 一瞬の反応の遅れが『死』につながると、身をもって知った。
 締められた首がずきずきと痛む。
 死ぬなら一瞬で死にたい。じわじわと殺されるのはごめんだ。
 冬にも関わらずじっとりと手に汗をかき、喉はからからだ。
 己の中で大きくなる恐怖に寄りかかれば発狂してしまう。銃を乱射し、「俺はここだ」と暗闇に突き進んでしまう。
 ……俺は、一人じゃない。共に闘っている仲間を危険にさらすわけにはいかない。
 鬼教官の存在が「今自分が何をすべきか」を常に意識させてくれた。
 訓練で散々しごかれた。やることは分かっている、体が覚えている。
 失敗を恐れず、全力でなすべきことをやり遂げる。
 作戦成功のためではなく、それが仲間を助けることになり、自分が生き残る術なのだ。……ようやく、鬼教官の真意を悟った。

 階段を駆け上がり、三階フロアに足を踏み入れた途端、銃撃を受けた。姿勢を低くし壁に張りつき、銃口の先についた暗視スコープで通路の様子を探る。誰もいない。敵が潜んでいることは確かだ。鼓動が胸を押し上げ、脈打つ音が鼓膜に響く。潜む敵に聞こえはしないかと気が気ではなかった。
 銃を持つ手が震え、冷たい汗が頬を伝う。
 ヒュッと空を切り、ドンッ、と何かが落ちる。目で確認する間もなく、
「どけっ」
 突き飛ばされた。斜め後方にいた奴も壁にぶち当たる。鬼教官が飛び出し暗闇に向かって足を振りおろす。ゴッ、固い音がした直後、爆発音が耳を裂いた。空気がビリビリと振動し警告音が立て続けに三回鳴る。
 仁王立ちになった鬼教官の上体がぐらりと傾ぎ、すぐそばのドアにぶつかり、部屋の中へ消えた。
 銃撃戦になる。
 計算してか偶然か、鬼教官が倒れ込み開いたドアから光が漏れ、廊下の一部が明るくなる。
 宮前は柱に身を隠し、銃口を通路に突き出し撃つ。他の奴らも柱やドアを盾に応戦する。
 鬼教官が出てくる気配はない。……鬼教官は戦線離脱、『重傷』もしくは『死亡』したということか……。警告音は三回聞こえた。一回は教官、二回は……敵……? 敵二人が倒れたならこっちが優勢だ。
 暗闇の中、おぼろに浮かぶ敵に向かい連射する。
 敵の銃撃が止む。こちらも身動きが取れずこう着状態になる。
 窓が割れる音がした。靴音がなだれ込む。万事休す、だ。敵が増えたら勝ち目がない。息を呑み、震える腕で銃を構える。出てきた奴らを撃ちまくってやる。一人でも多く倒せば俺が『死』んでも仲間がやりやすくなる。
 “部屋の窓から侵入、擁護する”
 無線とともにドアが開き、別の作戦行動チームが応戦に加わる。
 本館から別館屋上に飛び降り、ロープを伝い部屋に侵入したと知ったのは作戦が終わってから。思いがけない援軍に活気づく。
 総攻撃を開始する。
 敵が一人、二人と倒れる。
 シューッ……。煙が噴き出し、辺りが真っ白になる。煙幕が巻かれた。相撃ちになる恐れがある。銃撃を止め、腹ばいになり移動する。煙に巻かれながらほふく前進をするには勇気がいった。敵がすぐ目の前に立っているかもしれない。敵からは丸見えで撃ってくるかもしれない。また、首が痛む。じわじわと圧迫されているように息苦しい。
 視界がゼロでも仲間の気配を感じる。恐怖に負け発砲すれば敵に居場所を知られ味方をも危険にさらす。
 宮前は耐えた。
 息を殺し、漂う白い煙の向こうに意識を集中する。目の周りに血液が集まってくる。眼球が押し出されそうな圧痛に目がちかちかする。喉がひりつく。風が動けば銃撃戦が始まりかねない緊迫感の中、煙幕の向こうをひたすら注視した。
 白い煙がひき、通路が少しずつ現れる。敵はいなくなっていた。喜ぶ間もなく残りの部屋をチェックし、本館に向かった。
 合図はなく、指示もないのに全員が動いていた。それぞれ自分勝手にではなく、仲間のサポートに、連携に適したスペースへ自然と走っている。
 風が止み、音が消え、感覚が遠ざかる。
 首の痛みが消えた。全力で走っても苦しくない。階段を二段飛ばしに駆け上がっても体の重さを感じない、どころか、飛べそうなほど軽い。
 目に見えない、滑らかで速やかな流れに足が、体が導かれる。己自身が風になり、波になり、旋律になる。己が仲間を導き、仲間が己を導く。ばらばらの個体でありながら共鳴し、共振し、連動する。高揚感も感動もなく、ただ流れるままに動いていた。──結果は、訓練生が勝利した。
 作戦成功の余韻に浸る間もなく、『重傷』者の応急処置と搬送、『死体』の収容を行う。胴部と両足損傷の『重傷』を負った鬼教官に緊急処置を施す。鬼教官の手当てをしていると思うと、緊張で上手く血圧を保持するショック・パンツを履かせられない。
「さっさとしろ。私を殺すつもりか」
 目を閉じ、横たわる鬼教官が小声で叱責する。
「……すみません……」
 宮前は謝罪した。処置に手こずっているからではない。自分を、仲間をかばわなければ教官は『重傷』にならなかった。いや、防弾チョッキとヘルメットがなければ確実に『死』んでいた。あの時最前列にいた自分がいち早く手榴弾と気づき投げ返していれば誰も欠けることなく作戦を遂行できた。……そう思うと申し訳なかった。
「謝る暇があったらさっさとしろ」
 ──……俺のいたいけな心情は鬼教官には理解できない……。
 その後の反省会では「味方同士の遺志伝達が遅れ、相撃ちになりかけた場面があった」等の意見が出、今後の課題となった。

 *

 キャンプ最終日、トラックで迎えに来たイーシンは車の窓から顔を出し明るく呼びかける。
「みんなー、生きてるー? ……って違った。元気ぃ?」
 疲労困憊、死んだ魚の目をした生気の欠片もない集団を想像していたら表情は思いのほか明るく、動きもきびきびとしていた。アドレナリンが出ている状態なのかもしれないと、撤収の準備が終わるまで見学する。
 トラックに乗り込む訓練生は誰もが二日間のキャンプを終え達成感に浸っているように晴れやかだった。
「見違えるほど逞しくなったわねー」と感嘆した。
「そりゃあ、首を絞められたり、銃弾がとぶすぐそばを走らされたり、ウェイン教官と組んで敵基地を攻めたら逞しくもなりますよ」と、いつも恨み節の宮前が満足げな表情で話したのだ。
 夕暮れを背負い、寮へ帰るトラックの荷台で、皆死んだように眠っていた。

 そしてまた、グラウンドで通常通りの風景が繰り広げられる。
 イーシンは双眼鏡で訓練場を観察する。
 以前は指示されるまま動いていた。よく言えば忠実、悪く言えば受け身だった訓練生に積極性が出てきた。技術的なものはさておき、士気が上がっているのは確かで、連係プレーも様になっている。キャンプの前と今では顔つきや動きがまるで違う。例えるなら親鳥に餌を運んでもらっていた雛が自分で歩きだし餌を捕り始めた、といった具合だ。キャンプの評価表も全員良かった。なかでも、あのどうにもならなかった宮前の成績が格段に上がっていた。ウェインと同じ作戦行動グループだったという。
 褒めて伸びる子かと思っていたけれど、逆境に立たされるほど実力を発揮するタイプなのかもしれない。
 ──……シミュレーション、ウェインと組ませたらいい結果を出すかも。
 導き出した答えに妙に合点がいき、何度も頷く。
 イーシンは双眼鏡を机に置き、金庫から最終計画案を取り出す。書類に顔を近づけ目を細め一字一字をじっくり読む。遠ざけ目を凝らし、ばっと紙を裏返す。隠語か、からくりがないかと思ったのだ。
 書類に怪しい点は見当たらない。
 ──……この案通りなら、今の状態を維持できればいい線いくかも。
 展望が開けてきた。イーシンは「むふふっ」と笑った。

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