第12話 東洋

文字数 3,928文字

 クロウリーは、セイロンから成田へ向かうジャンボジェット機のスイートで、ワインを嗜んでいた。チーズとクラッカー、赤ワイン、それに暇つぶしになる書籍があれば、クロウリーは幸せなのであった。飛行機は何度も乗ったが、今回は今までになくご機嫌だった。自らの道、魔術の道を行く決意をしたことが、彼の精神に清々しい自由の感覚をもたらしているようだった。窓外の海原と蒼天を見つめながら、彼はイプシシマスへの意志を固めていた。
 横浜。クロウリーは観光ガイドを元に、唐人町と呼ばれる中華街を訪ね、”らうめん”を初めて食した。スパゲティの方が好みだと思ったが、たまには異国の料理を食すのも、刺激になって良かった。
 東京を周遊せず、成田から横浜に来たのには、理由があった。横浜に、中国の陰陽道を継承する老師がいると聞いたのだ。本場は中国なのだが、この老子は日本の帝国大学で教育を受け、英語を話せるので、クロウリーとしてはこの老子に会い、東洋魔術への造詣を深めようという狙いがあった。
 老人の名は、赤松洋介。東京帝国大学文学部を卒業後、新聞社に勤めながら、陰陽道や占星術の研究に余念が無かった。赤松は、陰陽道に関する著作を何作か出版しており、クロウリーは出版社に問い合わせて赤松の所在を突き止め、直接連絡を取った。
 赤松は、目黒の高級住宅街に、居を構えていた。五十年ほど前に建造された日本家屋で、五百坪はあろうかという敷地は、全て木の塀で囲まれていた。東側の門構えは巨大で、二本の楠の大木の幹が、門の柱となっていた。中央の表札には、控えめな大きさの筆記体で「赤松」とあった。
 クロウリーは、門に続く塀に付いている電気式のベルを押した。
三分ほど待った後、年配の女性の声がし、庭の砂の上を歩いて来る音がこだました。
「はいはい、どなたでしょう?」
クロウリーは日本語を解さないので、英語で赤松氏を訪ねに来た旨を伝えた。しかし、女性には英語は伝わらない様子だ。白人を見るのが珍しいのだろう。女性はじろじろと、クロウリーの風体を見つめながら、もどかしいやり取りが続いた。
 しばらくして、仕方なく女性は屋敷に戻って行った。クロウリーは所在無く、この豪邸の玄関で待ちぼうけながら、その見事な日本庭園に見入っていた。二、三分経った頃、玄関先に足音がし、先ほどの女性の代わりに、屋敷の主人である赤松と思しき袴姿の中年男性が姿を現した。赤松氏は、庭園の砂利道をゆっくりとクロウリーに向かって歩いてきた。クロウリーは、この男が英語を理解することを願いがら、挨拶した。
「はじめまして。イギリスから来た、アレイスター・クロウリーと申します。はるばるあなたに会いに来ました」
赤松氏は、さすがに英語にも堪能だった。かれは破顔一笑、熱心な口調で返した。
「よく、お越しくださいました。あなたの噂はかねがね伺っております。あなたの著作も、いくつか読みました。実は、私は卦を嗜んでおり、今日遠方から客が来るのは分かっておりました」赤松氏は握手を求めて手を差し出した。クロウリーも笑顔で握り返す。
 クロウリーは、赤松氏の邸宅の居間に足を踏み入れていた。その時代の日本には珍しく、豪華な洋室であったが、ところどころに東洋趣味の調度品が見られた。クロウリーは、螺鈿の細工が施された大きな机を挟んで、革張りのソファに腰掛け、赤松老と対していた。
「あなたは、遠方から、はるばる私に会いに来られた。何か理由があってのことでしょう」赤松氏は、メイドが持ってきた、鉄瓶に入った緑茶を湯呑に入れながら話し掛けた。
「あなたの言う通りです。私の著作を読まれたのならご存じだと思いますが、私は現代の西洋魔術を代表する知識人と見られています。しかし、私に言わせれば、西洋魔術はこの世の神秘の一角に過ぎません。世界には、まだまだ私の知らない精神世界があります。例えば、日本や中国に息づく東洋魔術が一例です」
「・・・私は確かに、アカデミックな教養とは別に、東洋の精神世界を学究して来た。しかし、その結果分かったのは、おそらく西洋の魔術と同一の真理じゃろう」
「その真理とは?」
「おそらくはそなたも実践しておるとおり、目に見えぬ次元の存在の使役と、防御じゃ。他にも、秘教の道を助ける白魔術も多く存在するが、そなたの領分は黒魔術だったじゃろう?」
「ええ。否定はしません。しかし、あなたのお話だと、西洋魔術も東洋魔術も、同じ存在に対して呼びかけ、働きかけているということですか?」
赤松氏は、卓上のキャビネットから葉巻を出し、やおら火を点しながら続けた。
「・・・何と言ったらよいかな、それらの存在の出自は、人間精神の広大な蓄積じゃ。そういう意味では、西洋魔術は西洋の精神世界の蓄積に働きかけ、東洋魔術は東洋の歴々とした精神世界の記憶に働きかけていると言えるかな」
「・・・ということは、あくまで記憶・知識の集積への反応であると?」
「そういう部分も確かにあるように思われる。地域・文化によって、表象が明確に他と区別されるからじゃ。・・・しかし、魔術はただのイメージでは無い。表象は宇宙の真理を語ったり、敵を殺害したり、願望を叶えたりするのじゃからな」
「表象が物質界にまで影響を及ぼす、ということですね」
「まさに、それが魔術の神髄じゃろう。長い人種の歴史に培われた、精神の貯蔵庫とも呼ぶべきものが、魔術の神髄じゃ。その貯蔵庫にアクセスするというのは、危険なことでもあろう」 
「・・・そのような危険性は、私が実践し、経験してきたことです」クロウリーは眉根を寄せて言った。
「そなたのような達人であれば、魔王クラスの召喚も行ったかも知れぬな」
「ええ。思い出すも恐怖の体験です。魔王は奸智に長け、その力は強大で、通常の防御魔術が通用しないこともしばしばです。以前魔王を召喚した時は、何とか防御できましたが、魔王は契約によって、こちらを思うがままに支配しようとしてきます。もう二度と、魔王クラスの召喚を行うつもりはないですね」クロウリーは熱い緑茶を啜りながら答えた。
「・・・そうじゃろうとも」赤松氏は、怯えるように肩を竦めながら続けた。「私は、西洋の魔王に匹敵するような強力な存在に呼びかけたことは無いが、チベットの黒魔術師達には、禁忌が無いと聞く。ところで、チベットには行ったかね?」
「いえ。一度も。行ってみたいですね。チベットは、東洋魔術の原点という見方もありますからね」
「チベットは、深遠な土地だ。ハイラーキーの中心都市があり、最も強力な黒魔術師達の拠点でもある。しかも、近代文明・外界からは隔絶されている」
「あなたは、チベットに行かれたことが?」
「あるとも。二十年くらい前のことじゃが。出会った人々の素朴さもさることながら、その景色の美しさ、空気や水の清浄さが印象深いな。もちろん、魔術師達にもあったよ」
「ハイラーキーの中心都市、シャンバラにも?」
「いや、シャンバラを認識できるほどの進化段階にワシは無い。しかし、ゲルク派の僧侶や、サキャ派の僧侶とも出会い、しばらく一緒に暮らしたよ。いずれも、知性に溢れた静かな輩だが、ゲルク派は白魔術、サキャ派は黒魔術を扱い、精神世界では激烈な闘争が繰り広げられておった」
「大変、興味深いですね」クロウリーは、巨体を乗り出して続きを促した。
「そうじゃ。彼らの戦いは、西洋のレベルを超えていた。アストラル界だけでは無く、メンタル界での戦いに戦場を移しており、したがって、僧侶たちの背後には、明確にホワイト・ロッジやブラック・ロッジが見え隠れしておった」
「具体的には?」
「ワシが会った僧侶の内、特筆すべき三人がいた。彼らは、過去世で肉体を超越しており、仮の住まいとして、僧侶の肉体に留まっているにすぎなかった」
「どうしてそのことが分かったのですか?」
「僧侶の内一人は、ゲルク派の僧侶で、彼は瞑想状態に入ると、遠隔地の風景を正確に描写したのじゃ。それも東洋ではない、ヨーロッパの地での模様をな。ワシの親族がイタリアに住んでおって、まさにワシしか知りえるはずのない事項じゃ」
「・・・だから、時空を超越している、と」
「間違いなかろう。彼は表向き、三十人ばかりの僧団を率いておったのじゃが、地域の皆に慕われ、すばらしい僧侶たちの集まりじゃった」
「良いじゃないですか」
「ところがある日、その僧侶(仮にJK師としておこう)は、ワシと二人だけの時、語ったものじゃ。その話によると、JK師の弟子は世界中に数十人おり、ヨーロッパ人も含んでいると。ただし、チベットには弟子と呼べる者はいない、と」
「じゃあ、その僧団の僧侶たちは、弟子では無いのですか?」
「そういうことになる。表向きは弟子だが、『真の弟子』では無いということじゃ」
「いったい、そのJK師は、世界中の弟子たちにいつ会いに行くのでしょう?」
「おそらく、瞑想時や睡眠時に、テレパシーによって通信するのじゃろう。そう言えば早朝、よくその老師は『瞑想する』と言って、自室に鍵をかけて閉じこもることがあったようじゃ。おそらくはアストラル界、メンタル界にて世界中の弟子達を訪問しておったのじゃろう」
赤松氏のチベット冒険譚は驚くべき、興味深いものだった。しかし、そこでも分かったことは、熾烈な精神世界の戦いは西洋同様、東洋でも、いや増して展開されているということだった。クロウリーは、本質的には東洋も西洋もそう変わらないことを知った。彼は赤松氏から、中国の卦の読み方を興味深く学び、日本を後にした。
≪続く≫
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登場人物紹介

【アレイスター・クロウリー】

イギリスのオカルティスト、儀式魔術師、著述家、登山家。オカルト団体を主宰し、その奔放な言論活動と生活スタイルで当時の大衆紙から激しいバッシングを浴びた。スピリチュアル哲学のセレマ思想を提唱し『法の書』を執筆したことで知られる。その波乱の生涯の中で数多くの著作を残しており、多方面に影響を与えた。

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