第8話 秘密の首領

文字数 4,396文字

 それっきりだった。クロウリーは、それ以後一切会合に参加することなく、ロンドンのマンションの自室で、メキシコ遠征旅行をどのように実行するか考えた。まずは、故郷の家族に連絡を取り、しばらくメキシコ漫遊旅行に出る、と伝えた。理由は観光だ。彼はポンドをメキシコ・ティソに換金し、南米行の客船に乗船した。
 約半月後、彼はメキシコシティの地を踏んでいた。当時メキシコはゴールド・ラッシュに沸き、北米や日本など、世界中から移民が集まっていた。この巨大都市から、『ドクター・ティソン』なる人物を探すのはちと骨が折れそうだ。クロウリーは、首都の医師協会に赴くことにした。
 メキシコシティの中心街のビルディングに、医師協会があった。英語で『ドクター・ティソン』について尋ねたが、長い間待たされた末、そのような医師は登録されていない、とのことだった。クロウリーは途方に暮れた。やはり情報が少なすぎる。彼はとりあえずメキシコシティの観光を楽しみながら、次の手を考えることにした。
 次の日は朝早く起き、ホテルの朝食バイキングを嗜んだ後、『チャプルテペック城』に行くことにした。良く晴れた日で、城の中は日差しが照りつけ、クロウリーはスペインの陽気を思い出した。緑が美しい中庭のベンチに腰掛け、今後のことを考えた。・・・そもそも、『ドクター・ティソン』なる名前だけで、人物を探そうというのが無茶なのかもしれない。クロウリーは、ティソンを探すとともに、魔術研究をさらに深めることに決めた。もちろん、観光も。メキシコの文化は、西欧社会出身のクロウリーにとっても、非常に興味深いものがあった。それはマヤ文明に代表される太古の文明の流れを汲む。マヤ文明には、現在の科学をもってしても解き明かせない技術が多くあった。仮にティソンなる人物に会えなかったとしても、このメキシコでは、マヤ文明から秘密の知識を得るつもりだった。
 一週間ほどメキシコ・シティを周遊したのち、マヤの古代遺跡に足を運んでみることにした。まずは最も観光客が多く訪れる、チェチェン・イツァを訪問することにした。チェチェン・イツァは、二十一世紀の今となっては、大勢の観光客が世界中から集まる南米随一の古代都市だが、クロウリーが生きていた十九世紀には、まだヨーロッパの一部の金持ち達が旅行に訪れるばかりで、さほどインフラも整っていなかった。
 クロウリーが訪れた日は快晴で、かの有名なククルカンの神殿に昇り、周囲の森を見渡した。ククルカンの周囲には、鬱蒼とした森が広がっており、空はどんよりとした灰色だった。インカ文明は、キリスト教や仏教、イスラム教とも違う、独自の宗教圏・文明圏であり、その由来は不確かであった。しかし、その建築物の遺構からは、極めて高度な技術が存在したことは明白であった。人間が、猿から進化し、このような高度な文明を産むようになるとは。長期間に及ぶ試行錯誤と、時折訪れるインスピレーションの積み重ねの成果か。クロウリーが魔術に使用している、キリスト教の悪魔や天使たちも、この地にはそぐわないように思われる。この地には、この地に根付いた、独自の神々がいたに違いない。彼らはかつて崇拝され、遺跡にその痕跡が残っていた。古代の文明は滅び、神々の力も無くなったか。やはり崇拝する人がいてこその神なのか。クロウリーは物思いにふけりながら、キリスト教に駆逐されたこの地の神々の怨念を思って悪寒を覚えずにはいられなかった。
 彼はチェチェン・イツァを後にし、他にも興味がある遺跡を数か所訪れた後、メキシコシティのホテルに戻った。彼はここでも図書館に赴き、主要な英訳文献を通して魔術研究を深めた。二週間後にもはや、メキシコでの用件は達せられたと判断し、クロウリーは今後どうするかを考えた。彼の目的は魔術研究であり、自らの精神的・霊的な進化ではあるが、もはや人にその師匠を求めようとは思わなかった。魔術クラブにも興味は無い。彼の現在の熱望は、『ドクター・ティソン』こと『秘密の首領』に接触し、師事することだった。しかし、その情報はあまりにも少なかった。思案した挙句、彼はアストラル界(※一)を探索することで、『秘密の首領』を探し出すことにした。
 その夜、彼はホテルの寝室で、アストラル界に参入する儀式を執り行った。具体的な式具は持参していないため、想像で補うしかない。彼はベットに横たわると、身体をリラックスさせ、呼吸を整えた。そして、心を無に近くすることに成功すると、心の中で、アストラル界に波長を合わせるための呪文を唱えだした。
「ファー・ラー・オーン、ファー・ラー・オーン、ファー・ラー・オーン・・・・」
 古代エジプト語を唱和している内に、身体の周波数が変わっていくのを感じた。耳の奥でキーン・・・と微かな金属音のような音が響き、体中のプラーナ(※二)が頭頂部の方に引っ張られて行くのを感じた。クロウリーは、頭頂部からプラーナが流れ過ぎて消耗するのを防ぎながら、周波数を高めることに留意し続けた。周波数が十分に高まり、眠気が襲ってきたところで、彼は立ち上がった。
 彼のエーテル体(※三)が頭部の松果体から瞬時に抜け出し、彼はふわふわと空中に漂っているのを感じた。下には自分の肉体がベットに横たわっている。彼はそのまま浮遊し、自分の部屋から抜け出した。アッシャー界(物質界)を漂っていても意味が無いので、彼は思念を注力し、『ルックス・エ・テネブリエ』というまだ見ぬマスターの名前に精神を集中した。
 集中し続けていると、やがて砂漠のような流動体に佇む寺院が見えてきた。寺院はイスラム風の建築で、建物の周囲には南方の植物や泉のようなヴィジョンがあった。ここは人跡未踏のアストラル界の寺院なのか。彼はゆっくりと寺院の入り口に近づいた。寺院の周囲には、薔薇のような華やかな植物のヴィジョンがあり、ふくよかな芳香が辺りに立ち込めていた。アストラル界といっても、現世の記憶を基に構築されるヴィジョンなので、一見すると、現世と見分けが付かなかった。入り口はオーク材で出来た分厚い扉で、羊の頭を象った蝶番があり、これをノックした。
「入りたまえ」中から、良く通る男性の声がした。クロウリーが扉を開けると、そこは南と東の二方向に大きな窓がある、開放的な部屋であり、居間のようだった。木製の安楽椅子には、白い絹の衣装を纏った男性が腰掛け、こちらを穏やかな瞳で見つめていた。すべてを見透かしているようでありながら、慈愛のこもった視線だ。クロウリーは安心し、この危険極まりないアストラル界で、現世では味わったことのないような安心感を得た。
「私の名は、ルックス・エ・テネブリエ。君が来ることは以前から知っていた。私は現世では、ドクター・ティソンなる人物に扮しているが、今は夜間なので、こうやってこの世界で君と対話できるわけだ」男は穏やかな声で話しかけた。
「おお、秘密の首領よ。私はあなたを探してメキシコまで旅をしてきました。あなたに遭い見えることになり、光栄です」クロウリーは、顔を紅潮させて答えた。
「そなたの願望は分かっておる。そなたは悠久の知識を求めておる。ただ、そなたにはいまだ重大な欠点がある故、秘法を伝授することはできぬ。欠点を克服したなら、今一度私に会いに来るがよい」ルックス大師はこう言い捨てた。
「・・・もちろん、私は多くの欠点がある凡人にすぎませんが・・・。私が克服すべき欠点を教えて下さい」
「・・・それはそなたが一番よく分かっておるはずじゃ。そなたが欠点を克服するためのヒントを授けよう」
「ありがとうございます」クロウリーは首を少し下げて答えた。
「・・・そなたは、この時代の人間としては多くの場所を巡ってきたが、まだ探求すべき場所がある。インドネシアに向かうがよい。その地で、そなたはある試練に遭遇する。その試練を乗り越えたら、再び戻ってくるがよい」
「・・・インドネシアのどこに向かえばいいのでしょうか?そして何をすれば?」クロウリーは途方に暮れて尋ねた。
「ジャカルタに向かうがよい。そこのイスティクラル・モスクという巨大なモスクに行き、昼の礼拝に参加するのだ。そうすれば、一人の男性がそなたを訪ねるじゃろう」
「・・・それで、何が始まるのですか?」
「そのあとは、自然にゆだねるがよい。おぬしが試練に勝利することを願っているぞ…」
そう言うと、ルックス大師の肉体は、霞が消え去るように徐々に消えていった。
クロウリーは、しばし途方にくれながら、この幽玄の空間にある小さな書斎に佇んでいた。それは、白壁の十畳ほどの部屋で、木製の実用的な調度品で統一された心地よい空間だった。
 部屋の東側の壁に、大きなオーク材で出来た机があり、そこにさっきまで、超人と思しき人物が座っていた。壁には書棚があり、多くの書物が置かれていた。クロウリーはいくつか手に取って見てみたが、英語で書かれている書物は少なかった。ほとんどはアラビア語の書物であり、十八世紀以前の羊皮紙の書物も多くあった。英語で書かれている書物には、ヨーロッパの紀行物や、歴史ものがある程度だった。それは、どの場所にも瞬時に移動できる大師が読むものとしては意外な気がした。
 クロウリーは、もはやこの部屋ではすることが無くなったので、部屋の外に出た。見上げると、空はオレンジ色に染まっていたが、夕焼けという感じでは無かった。ここはアストラル界であり、物質界のような時間の流れは存在しないはずだった。クロウリーは肉体に戻ることにした。静かに目を閉じ、ホテルの寝室に横たわっているはずの自分の肉体に意識の波長を合わせた。
 間もなく、鈴の音のような静かな振動と共に、アストラル体である自分が、時空を超えて移動するのが感じられた。・・・・微かな、波のような衝撃と律動を感じながら、クロウリーは、ホテルのベットに横たわっているのを感じた。少し疲労を感じたが、記憶は間違いのないものだった。ルックス・エ・テネブリエ、かの偉大なる魔術師であり大師であるお方に遭い見えたのだ。その指示は簡潔ではっきりとしていた。インドネシアに向かうとしよう。
≪続く≫

【註解】
※一 アストラル界…神智学用語。和名は星幽界。感情や情念が実在である霊的世界。
※二 プラーナ…気、精気、活力。
※三 エーテル体…19世紀後半にブラヴァツキー夫人が著した『シークレットドクトリン』によると、人間を構成する七つの物質(そのうち三つは未顕現)のうちの一つ。それらは肉体・エーテル体・アストラル体・メンタル体であり、エーテル体は肉体を生かし、活力を与えるための生気のチャンネルや循環システムを内包する霊的身体である。
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登場人物紹介

【アレイスター・クロウリー】

イギリスのオカルティスト、儀式魔術師、著述家、登山家。オカルト団体を主宰し、その奔放な言論活動と生活スタイルで当時の大衆紙から激しいバッシングを浴びた。スピリチュアル哲学のセレマ思想を提唱し『法の書』を執筆したことで知られる。その波乱の生涯の中で数多くの著作を残しており、多方面に影響を与えた。

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