第8話 子犬キッチン

文字数 2,570文字

「話がある」
思いつめた俺は、翌日小宮にメッセージを送ってみた。深夜零時に、いつもの収録スタジオで待ち合わせをすることになった。深夜のキッチンスタジオは日中の明るい活気が嘘のように、暗く静まり返って不気味なくらいだ。眠っていたスタジオを起こすように、俺はキッチンの照明だけスイッチを入れた。辺りは目が覚めたように明るくなる。浄水器の水を飲んでいる時、水滴のついた硝子コップの底に人影が映っているのが見えた。

小宮だった。上下白のシャツとズボンに、水色のカーディガンを羽織っている。
「どうしたの? こんな時間に。ちょうどドラマの撮影が終わって帰るところだったから」
本当に来てくれるとは思わなかった。自分が呼び出しておいて言葉が浮かばず、俺はごくりと残りの水を飲んだ。
「こんなところじゃ、なんだからさ。これから一緒に飲みに行こうよ」
ズボンのポケットに両手を突っ込み、小宮は勝手に歩き出そうとする。
「仕事」俺の一言に、前を歩く小宮の足が止まった。
「撮影って、仕事辞めるんやなかったんか」
小宮は振り返り、「蒸し返すなよ」と言わんばかりの不機嫌な顔を下に向けた。
「いろいろ考えたんだけど、やっぱりすぐには辞められないよ。責任もあるし。契約期間だってまだ残っているんだし」
そう言って、「話って何? そのこと?」嘲笑するかのような表情で、俺を見た。仕事で悩んでいるのは、どうも本当のことらしい。

「嫌なら、仕事なんか辞めろや」
俺はもう狂った。狂ってしもうた。狂って、本当の気持ちをすべてぶちまけることにした。
「辞めて、俺だけのものになってくれへんか」
小宮はぽかんとした表情を見せた後、悪びれもせず横を向き、不躾(ぶしつけ)に吹き出した。
「は? 何それ、笑えるんだけど。一回寝たくらいで、何を勘違いしてるんだか。しかもオジサンだし」
笑われるのは覚悟していたので、別に動じない。が、俺の負けだった。恋愛は、本気で惚れたほうが負け。この時ほどそれを実感した時は、これまで生きてきてなかった。
「僕は、誰のものにもならないよ。ただ僕と寝たいだけなんでしょ? 絶対しないけど」
俺は敗北感を味わったまま、黙って俯いていた。
「どうしても僕を抱きたくて自分だけのものにしたい、って言うなら…」
小宮は勝ち誇った顔をやや上向けて言った。
「俺の犬になれ。これは命令だ」
俺は、小宮の話す一人称が『僕』から『俺』に変わっていることに気がついた。
「犬…? 」意味はわかっていたが、下から見上げて聞いた。これまで散々、自分の中で呪文のように唱え続けてきたこの言葉。
「犬って、なんや」
「俺のために金を稼ぎ、俺のために物を買い、俺のためになんでも命令を聞き、ただ俺のためだけに奴隷となり生きる」
小宮はいつもの愛くるしい笑顔で、やさしく微笑んだ。
「それが犬だよ」
「恐ろしい男やな。きみは」

人のことは言えない。そう思うと同時に、笑いと怒り、溜めていた鬱憤が沸々(ふつふつ)と体の奥底から沸き上がってくるのを感じた。俺は小宮の胸ぐらを掴むと、勢いよくシンクの上に押し倒した。上に乗っていた食器や調理器具などキッチン用品が全て床に滑り落ち、激しい物音をたてる。
「調子に乗るなよ。糞餓鬼」
俺はこの瞬間、愛は容易に憎しみへと転じることを知った。年こそとっているが、腕力ならこの細身の若者に勝つ自信がある。実際、小宮の頭を右手で強く調理台に押さえつけ、ねじ伏せておくことは、たやすかった。
「四つん這いになれ。犬のように」
抵抗して暴れる小宮の両手を縛るため、俺は来ていたカーディガンを剥ぎ取り、それを使って両手を水栓に縛り上げた。その姿勢のまま、穿いていたズボンと下着を一気にずり下ろす。両足は足を使い開かせ、踏んで押さえつけた。小宮の上半身を両手で掴み、剥き出しになった部分から容赦なく突き刺し、激しく何度も突き上げる。小宮は体が揺れるたび小さく苦しそうな声を上げるだけで、「やめて」とも「いやだ」とも言わなかった。狂った獣になった俺は体の芯まで熱い弾丸を撃ち続け、暴力と欲望の限りを浴びせ続ける。やがて攻撃が終わりを迎え、体を離すと白濁した体液が露わになった小宮の内腿から垂れ落ちた。

冷めた目で小宮を見ると、顔の右側を調理台に押しつけられたまま静かに泣いていた。歯を食いしばり、必死に屈辱に耐え、声を押し殺している。その可憐な姿を見ていると、なんだかもう少し(いじ)めたくなってきた。
シンク下の引き出し収納棚から、一本の調理用品を取り出す。
「今度うちの会社から新発売する、高性能セラミック包丁」
小宮の目の前に差し出し、凍りつくその表情を眺める。
「発売前に一度、切れ味を確かめてみたいんや」
小宮は動けない姿勢のまま、瞳だけ動かし俺を見て、強がった笑みを口元に見せた。
「いいから殺せよ」
左目から一筋涙がこぼれ落ち、声は泣き声になっている。
「俺はもう死んでも構わない。いいからこのまま殺せ」
俺は言われた通り、右手に持った包丁を思いきり後ろに振り上げた。




子犬が飼いたい。
とびきり可愛くて従順な、自分にだけなつく子犬。

どうして人は自分の思いどおりに、自分の人生は思いどおりにならないのだろう。ただ可愛くて、従順な子犬が欲しいだけなのに。
小宮は結局、体調不良を理由に契約更新を辞退することになった。俺が包丁で刺して傷を負わせたわけではない。心の傷は知らない。表面上は怪我でも病気でもなく、動画の仕事を辞めた。

俺が包丁で切ったのは、小宮の両手を縛っていた水色のカーディガンだった。切り裂いた時、互いに解放された音、二人の縁が切れた音がしたように感じた。「じゃあな」とだけ言い残し、俺はその場を立ち去った。それが最期だった。
俺も自分の犯罪行為を自覚し戒めるため、仕事を辞めた。いまも無職で、ぼんやりテレビを見つめる日々。すると画面の中に、時折小宮の姿を見かける。芸能活動を続けているのを見て安心するということは、俺の中にもわずかに良心が残っているのだろう。

「子犬が飼いたい」と他人に話すと、大抵の人間は「トイプードル? ポメラニアン? 」と犬種の話題をふってくる。でも、そうではない。俺は小宮が愛くるしい笑顔で言った言葉を思い出す。
「俺のために金を稼ぎ、俺のために物を買い、俺のためになんでも命令を聞き、ただ俺のためだけに奴隷となり生きる」

それが犬だよ。




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