第6話 驟雨 

文字数 2,194文字

子犬の気まぐれは、案外すぐにやってきた。

「話があるんだけど」
自宅にいる時、突然アプリのアカウントにそんなメッセージが届き、俺は目を疑った。
話ってなんや。「あなたの犬になります」か?
浮かれて悪乗りしている場合ではない。落ち着け、と自分に言い聞かせ今いる場所を尋ねると、自宅マンションの近くまで来ているという。その時、頭上で雷の音が聞こえたかと思うと、激しい驟雨(しゅうう)が轟音と共に襲ってきた。大きな雨粒が、窓や外壁を次々叩きつけてくる。にわか雨なので、おそらく傘など持っていないはずだ。

『濡れてしまうから、とりあえずうちまで来い』
『襲われるから、いやだ』

そんなやりとりをいくつかした後、結局困った子犬は自宅の玄関までやってきた。灰色のパーカーを着ていて、帽子を目深(まぶか)に被っている。帽子や前髪の端から、雨粒が(したた)り落ちていた。俺はパーカーの帽子を下ろし、髪の毛を白いタオルで拭いてやる。時折手に当たる髪や肌が冷たい。体温で温めたくなって、思わず立ちすくむ子犬を引き寄せ抱きしめた。
「一回だけ、って言ったはずじゃん」
早とちりしたのか、そう言って俺の両手を素早く振りほどく。嫌われて当然、俺はつくづく狡猾(こうかつ)な男だ。雨が降ったなら、迎えに行くなり雨宿り出来る場所を教えてあげるなり、避ける方法はいくらでもあったはずなのに。結局、ずぶ濡れの子犬をうまく部屋までおびき寄せることに成功したのだ。

「まあ、いいから座れ。何か話したいことがあるんやろ?」
温かい飲み物のほうがいいと思って、俺は小鍋で湯を沸かす。肩にタオルをかけ座る小宮の前に、「ほい」とマグカップに入ったインスタントのカフェオレを差し出した。両手でカップを持つ小宮の濡れた髪を拭くように、タオルの先で頭を撫でてやる。横目で俺を見る小宮の冷たい目つきが、「その手には乗らないよ」と言っていた。温かい飲み物と湯気が小宮の心をほぐしたのか、飲み終える頃にはだいぶ落ち着いてきたように見えた。俺も、小宮が座る(そば)に腰掛ける。
「僕、もう芸能界を辞めることにした」
俺は「は? 」と身を前に乗り出したが、驚きのあまりか、実際には言葉にならなかった。
「芸能界を辞める。今日はそのことを言いに来たんだ。だから、動画の仕事ももう辞める」
しばらく、静かな雨音だけが部屋の中で響いた。
「何を血迷うてるんや。辞めてその先どうするつもりなん」
「さあ? 地元に帰ってホストでもするかな。芸能界の怖さも汚さも、厳しさもよくわかったし」
言葉と一緒に息を吐きながら、ゆっくりベッドにもたれかかる。
「ホストの世界だって、似たようなもん思うけどな。所属事務所は、なんて言うてはるん?」
小宮は体を起こし、両膝を抱いて下を向いた。
「まだマネージャーにしか相談してないけど…別になんとも思わないだろ。イケメン俳優なんて、()いて捨てるほどいるし。俺、いまいちパッとしないし」
小宮は「僕」と「俺」と一人称を使い分ける時がある。おそらく「俺」を使う時は、心からの本音を言っている時だ。
「弱気になるなよ。まだ二十歳(はたち)なんやし、これからやろ」
一体、何があったのだろう。余程嫌気がさす出来事があったのか、これまで溜めていた不安や不満が許容量を越えたのか。
「なんでそんなん俺に相談してくれたんや」
小宮は少し目を上に向け唇を尖らせて、
「なんでだろう。友達には話しにくいし、やっぱりオジサンだと話しやすいのかな。前にも言ったと思うけど、一緒にいると安心するっていうか…」

ほんまは、俺のことが好きなんやろ? だったら芸能人なんかさっさと辞めて、大人しく俺の飼い犬になれや。

そう心中で思いながら、そっと小宮の唇に自分の唇を近づけようとする。
「今日は、しないよ」
身ひとつぶん体を横にずらし、小宮はキスをかわした。
「前にも言った通り一回だけ。これからも絶対にしない」
凛とした口調と表情で言い放つ。
「だったら、もう帰れ」と思ったが、窓を見遣(みや)るとまだ雨は降り続いている。「シャワーを浴びたい」と小宮が言うので風呂に入らせることにした。ここはひとまず慰めるため大人になり、御主人様の言いなりに「待て」の状態になる。どっちが犬だかわかりはしない。

濡れたパーカーを洗濯機に入れ、俺は風呂を終えた小宮に自分のパジャマを着せた。身幅もウェストサイズも大きすぎて合わないが、他に着せるものがない。入浴したら気分が良くなったのか表情が少し明るくなったので、深い事情を聞くのは避け、しばらくたわいもない話をした。そのうち疲れがでたのか、小宮は胡坐をかいた俺の膝に頭を乗せたまま寝てしまった。「一緒にいると安心する」と言ってくれたのは、本当なのかも知れない。

ベッドに移動させようと抱き上げた時、閉じた瞼から涙が一筋頬を伝い、下に落ちるのを見た。無邪気そうに見えてもこの子はこの子なりにいろいろ問題を抱え、葛藤し、傷ついている。涙の跡を軽く唇で拭ったが、やはり今夜はこれ以上心と体に触れておくのはやめておこう、と思えた。誘惑に勝てる自信がないため、小宮をベッドに寝かせ、俺はテーブルを壁に立てスペースの空いた絨毯に寝る。

朝目が覚めたら、意外に長く降り続いていた雨はすっかり上がっていた。小宮は俺の妄想どおり朝食に『ふわとろオムレツ』を作ってくれ…なかった。さっさと洗濯後乾かしていたパーカーに着替え、「またね」と何事もなかったかのように出て行ってしまった。

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