第5話 二人だけの秘密

文字数 2,164文字

ワインをたくさん飲んだせいか、それから何時に店を出たのか、どの道をどのように歩いたのかよく覚えていない。夢見心地とは、まさにこういう状態をいうのだろう。

気がついたら、外観を植樹に囲まれた白い五階建てビルの前に佇んでいた。植木の四方に照明が隠されており、下から虹色の光が照らされている。
「ここは男同士でも大丈夫なとこだから」
小宮が言って一歩前に進み、自動ドアになっている狭い入口を通る。どうしてそんな情報を知っているのだろう。キスしただけでうろたえて泣きじゃくる、あの純粋な青年ととても同一人物とは思えなかった。

白を基調とした部屋は、大きなダブルベッドと浴室だけが目立つ、簡素な造りとなっていた。浴室は壁が透明になっていて、ベッドから中が覗き見えるようになっている。俺はふと過去に見た、小宮と一緒にシャワーを浴びる夢を思い出していた。あの夢が、これから現実になるのかも知れないのだ。脳内は半分眠っているのに、心臓だけは爆発しそうな勢いで激しく鼓動している。下半身も(うず)きだす。心身がバランスを崩し、完全におかしな状態になっていると感じた。
「一緒にお風呂入ろ」
そう言って浴槽に湯を入れる小宮は、とても落ち着いて見えた。
「もうこんなことやめよう」
大人ぶって止めようとする俺の本心を見透かしたように、小宮は微笑んだ。
「きれいごと言うのやめなよ。ゲームは始まっているんだからさ」
止めようとしたのは、これ以上続けると本当にどうにかなりそう、狂ってしまいそうだったからだ。小宮はそんな俺の着ている全てのものを剥ぎ取りながら一緒に湯船に浸かると、余計に狂いそうな背徳のキスをした。

「して」しまってから一週間が経った。
最初のうちは浮かれたまま、一つひとつの行為を思い出すたびにやけたりしていたものの、時間が経ち平常心を取り戻していくと、だんだん恐ろしくなってきた。
どうも俺は、食事と仕事を餌に肉体関係を暗に強要した卑劣な男、ということにされてはいないだろうか。あの時の小宮の妙に冷静で職業的な態度も気になった。まるで、商売と割り切る娼婦のようではなかったか。だとしたら俺は、卑怯な客として扱われたに過ぎず、小宮から愛情など少しも受け取っていないどころか、逆に悪い印象を与えてしまったことになる。

当日の翌朝、先に目が覚めた俺は向き合った姿勢でずっと小宮の寝顔を見つめていた。乱れた前髪を触っていたら目を開きやさしく微笑み、
「このことは、他のみんなには内緒だよ。二人だけの秘密」
はにかんで俺の胸に顔をうずめてきた。あの言葉や態度も演技だったのか。そういえば、別れ際プライベートな連絡先を教えたにも拘らず、メッセージがひとつもない。俺は次に小宮に会った時態度を見てから、身の(しょ)し方を決めることにした。そっけないならそっけなく。いつもどおりならいつもどおりで。肝心なのは小宮の言う通り、人前では何事もなかったかのように振舞うことだ。

驚いたことに、それからひと月近くも小宮と会わなかった。法事のため実家がある関西に帰省しなければならなくなり、それが収録予定日と重なったためだ。実家にいるあいだずっと携帯電話を気にしていたが、やはり小宮からの連絡はなかった。小宮は俺と顔を合わせて気まずくならずに済み、安堵していることだろう。これが現実だ。話がしたかったが、これ以上印象が悪くなることを恐れ、俺はただひたすらこの現実に耐えた。

けれど理想は、やはりあの子犬が飼いたい。いま住んでいるこんな狭いワンルームではなくて、子犬用の部屋がある広いマンションにまず引っ越す。そこにはいつも、動画と同じくエプロンを身につけおいしい料理を作ってくれる子犬がいて、笑顔でなついてくる。そして一緒に夕食を食べた後は、俺が眠るベッドに潜りこんできて、可愛く甘えてくるのだ。俺はそんな子犬を抱きながら、幸せな夜を過ごす。朝起きたら、子犬は朝食に『ふわとろオムレツ』を作ってくれる。それから仲良く一緒に朝の散歩に出かけるのだ。
自分でも笑えるくらい、完璧な妄想だった。アホか、俺は。そう独りごちながらも、寝転がり天井を見上げる目は真剣だった。
子犬が欲しい。どうしても、あの理想の子犬を手に入れたい。

翌月、楽屋で見かけた小宮はなぜか金髪から黒髪に髪色を変えていた。ひょっとしてこの子は、気分を変えたい時に髪の色も変えるのではないか。
「よう」
「お久しぶりです」
すれ違いざまに、お互い簡単に挨拶しただけ。周りの者たちは、このぎこちない空気を感じ取っているのだろうか。本当は、「連絡くれなかったね」と、さりげなく文句を言ってやりたかった。しかし「スマホが調子悪かったから」とかなんとか、わかりやすい言い訳をされそうだ。
一晩寝て、関係が近くなったのか遠くなったのかわからない。話がしにくくなったし、一緒にどこかに出かけづらくなった。髪の色を気分で変えるように、子犬の気まぐれを根気よく待つしかない。そんなことを考えながら、キッチンスタジオで調理を始める小宮をぼんやりと眺めていた。

煮て、焼かれて、茹でられて。最初はこっちが子犬を調理してやるつもりが、好き勝手に料理されているのは自分だった。目の前の小宮は大鍋で煮込み料理を作っている。煮沸(しゃふつ)した鍋の中でじっくり煮込まれ、弄ばれているのは俺のほうだった。

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