第9話 実戦神学の使い手現る?

文字数 5,250文字

ふぅ……危ないところでした。入学早々、聖書学の授業に遅刻するところでしたよ。
おや、寝坊っすか松野さん? まあ、二日連続で先輩たちと戦ったら、さすがに疲れるでしょうけど……
朝から息を切らせて教室に駆け込んできた松野に対し、京子はクイクイっと手招いて、自分の隣に座るようジェスチャーする。入学して最初の授業だけあって、まだサボろうとする学生はいないのか、他に空きはないようだ。
隣……よろしいのですか?
良いっすよ、見てのとおり満席に近い状態っすから。去年単位を落とした再履修者が相当いるみたいっすね。
京子の言うとおり、教室の後ろは入学式では見なかった上級生らしき学生でほぼ埋め尽くされている。創世大学神学部は、「この科目で単位を取らないと、後々複数の科目を履修できない」……という授業が数多く存在する。伝道者コースは特にその割合が高く、一年生から舐めてかかると、次の年で痛い目に遭ってしまうのだ。
ぱっと見、上級生が十数人程度見えますが……去年の授業で半分近くも落とされたということですか?

二年連続、三年連続で授業を休みすぎた……って先輩が多いみたいっすね。普通は一学年に一人か二人、朝に弱い人が単位を落とす程度みたいっすよ。ただ、噂だとここ数年、同じ先生の授業を受けるために、わざと単位を落とす学生が続出しているとか……あくまで噂ですけどね。

京子がちらっと目を向けた先には、金髪でちょっとつり目の上級生が座っている。整った顔立ちで、見た目は大人っぽく見える女子大生だが、さっきからそわそわして何度も時計を見直している様子は、テレビの前で好きなアニメ番組が始まるのを待つ子どものようだ。
(あの異端者……今日こそ……今日こそギャフンと言わせてやる!)
何やら不穏なつぶやきも聞こえるが、机の上で律儀に文房具を揃え、聖書とノートをピシッと開いて待機しているところを見ると、勉強熱心で真面目な先輩なのだろう。Yシャツにジーパンというラフな格好なのに、どこかお嬢様っぽい気品を感じさせる人物だ。
彼女なんて、とっくに単位が取れてる三年生なのに、毎年この授業へ出てくる変わり者だそうで……そしてなぜか、毎回講義の最初に先生とバトって叩きのめされているという、ちょっとした有名人らしいです。
さすが、宗教問題に切り込むジャーナリストの卵である。入学して間もないにもかかわらず、二学年上の先輩についてもしっかりと情報を把握済みだ。
この授業の先生は好かれているのか嫌われているのか、どうもよく分かりませんね……あの先輩もただならぬ力を持っているように感じますが、繰り返し『旧約聖書入門』に出席しているということは、やはり聖書学の使い手なのでしょうか?
詳しくはまだ調査中ですけど、どうも実戦神学の使い手みたいですね。そっちの分野では、この学校でトップクラスの人間らしいっす。名前は上野メグミ、二十歳、フィンランドの宣教師が建てた単立教会出身のクリスチャン。聖書学、教会史、組織神学の授業も上位の成績を修めているマルチタイプの神学生だとか……

実戦神学……名前のとおり、宣教における実戦的な分野を研究する学問だ。礼拝説教や牧会カウンセリング、キリスト教福祉をはじめとする幅広い事象を取り扱い、創世大学神学部においてかなりの人気を誇る分野である。だが、本気でこの分野を修めるためには、各神学の基本をきちんと把握する必要があり、論文を書く上で最もハードルの高い研究分野と言っても過言ではないのだ。

なるほど、彼女が実戦神学の使い手ですか……聖書学の会長や組織神学の成田先輩が得意とする技も、ある程度使いこなせるということですね。
実戦神学の使い手は、ぞれぞれの分野を専攻している人間に比べたら威力が劣ってしまうとはいえ、全ての神学領域から技を繰り出せますからね。加えて、相手の先生は若くして神学部の学部長を務める男……旧約を専攻とする聖書学の使い手で、海外の著名な神学者とも渡り合う実力者です。下手に巻き込まれると、うちらも無事じゃ済まないかもしれないっすね。
彼女が説明する間にも、「今日こそは……今日こそは……」と呟いているメグミを中心に、どこかで感じたことのある緊張感が漂い始める。間違いない、講師が入ってきた瞬間に戦う気である。松野の頰をツーっと冷たい汗が流れていく。
これはまた、一波乱ありそうな予感がします……
やっぱそう思います? さっきカメラ取りに行き直して正解でしたね。

ちゃっかり机の下にカメラを抱えつつ、京子はキラリと目を光らせる。どうやら、松野を隣に座らせたのは、何かあったときのために盾となる人間を横に置いて、決定的瞬間をカメラに収めるためのようだ。どこまでも抜け目のないジャーナリストである。

おやおや、一限目から事件を期待するなんて、なかなかあなたも人が悪い。それにしても、メグミ先輩が毎年講師とバトっている理由が気になりますね。いったいどんな……

その時だった。授業開始のチャイムが鳴るのと共に、寸分違わず同じタイミングで教室の戸を開け、講師の先生が現れる。
初めまして、新入生の諸君……さっそくですが、皆さんに一つ注意があります。

劇場に現れた役者のように、一言でこちらの注意を惹きつける……そんな存在感のある声が教室にピリピリとこだまする。つま先から襟元までピシッと整った細身のスーツ、眼鏡の奥に光る知的でちょっとキツイ感じの目。歩き方、話し方、こちらを見据える視線の一つ一つまで、全てが洗練されているという印象だ。さっきまでガヤガヤしていた教室の雰囲気が、一瞬で緊張に満ちたものとなる。

私の名前は佐渡一夜、度々人からドSと言われますが、決してサディストではありません。ただし、この授業で課題をやってこない者、予習を怠り続ける学生には、名前のとおりサディスティックに振る舞う可能性があります。ドMでない者はきちんと課題、予習をやってくるように。

微笑を浮かべながら言い放つ一夜に、誰一人何の反応もできない。冗談っぽく言っているが、全然冗談ではないことを骨の髄まで感じさせる……そんな雰囲気を持った先生なのだ。
あれは間違いなくドSですね……静かに笑いながら人をしごくタイプっすよ。

ボソッと呟いた京子の言葉に、松野も確かに……と頷かざるを得ない。微笑を浮かべてはいるが、彼の纏う雰囲気はそんな穏やかなものではない。その目に一目見つめられただけで、おしゃべりやスマホを弄っていた学生たちも、皆大人しくなってしまう。松野の背後でメグミから放たれていた緊張感までもが、一夜の放つプレッシャーに相殺されて、一瞬で消え失せていた。

何というプレッシャー……並の人間では彼に戦いを挑もうなんて思えません。さながら、獅子の洞窟に投げ込まれても、一切噛まれることのなかったダニエルのようです。
いや……問題はここからっすよ、松野さん。
京子が囁いたのと同時に、「さて……」と教卓に手を置いた先生は、自らの放つプレッシャーをふいに緩め、挑戦的な口調で呼びかける。
私の授業では、必ず最初に質問の時間をとっています。前回の授業に関すること、キリスト教界の時事的な問題に関わること、皆さんが普段から疑問に思っていること……何でもかまいません。授業を潰す目的以外なら、どんな質問も受け付けましょう。もちろん、私が紹介する学説への反論でもかまいません。他の授業や去年の授業で引っかかったことを聞いてもかまいません。新入生の皆さんには、何度もこの授業を履修している「ベテラン」の先輩方がお手本を見せてくれるでしょう。

授業の終わりではなく始めに設けられた質問タイム……慣れない新入生たちに「えっ?」という戸惑いが広がる一方、後ろに座っていた上野メグミは「待ってました」とばかりに立ち上がる。

一夜先生……去年最後の授業で、あなたは私たちに「聖書には差別を容認し、助長するような記述があると認めるべきだ」とおっしゃいましたよね?  「自分は聖書を唯一絶対の誤りなき言葉とは考えない」とも……
ええ、確かに言いました。私は聖書から倫理を導き出すべきではないし、むしろ聖書を倫理的に問うべきだと思っています。

そうですか……先生の発言は、もはや聖書を「神の言葉」と捉えない、異端的な考えに聞こえます。「正しいこと」を聖書から導き出すのを止めて、自分自身の考えから聖書を「正しく」批判する。それって、聖書の地位を低くして自分を「神」の位置に持ってくるカルトの教祖と同じじゃありませんか? 今年も同じことを後輩たちに教えるって言うなら……

メグミの声が低くなった瞬間、彼女の座っていた机がガタガタと揺れ始め、引き出しから握りこぶしほどの大きさの石が落ちていく。否……石のように見えるが、よく見るとノートやプリントの切れ端を丸めた紙切れだ。紙切れなのだが、まるで本当の石のようにゴトンッ、ゴトンッと音を立て、彼女の足元に集まっていく。

おや、その様子……春休みの間に相当腕を上げたようですね? 久々に、メグミくんの本気を見せてもらいましょうか。
微笑みを浮かべていた一夜が真顔になり、両者が互いに構えた瞬間、メグミは集まった石に手をかざし、肺に溜まった全ての空気を吐き出すように大声で叫ぶ。
食らいなさい。ストーニング・ペナルティー!

その瞬間、彼女の足元にあった石が一斉に一夜のもとへ放たれる。石打の刑……それは、古代ユダヤ社会で最も重い罪に課せられた刑罰で、文字通り、四方八方から死ぬまで石を投げつけられるという残酷な処刑方法だ。旧約専攻の聖書学の使い手が用いれば、相手の命を奪いかねない危険な技……したがって、実戦神学の彼女が放った「ストーニング・ペナルティー」も、成田が松野に食らわせた「トラドゥットーレ」と同じくらいの威力を持つのだ。

なるほど……旧約専攻の私と正面から真っ向勝負というわけですね。石打の刑は本当の神を神とせず、別のものに従った背教者にも適用されたと言います。ようするにこれは、私の意見を「偶像礼拝と同じじゃないか?」と問いかける挑戦ということでよろしいですね?
飛んでくる大量の石を冷静に見つめながら、一夜は懐からミントスプレーの缶を出し、シュッ、シュッ、シュッと華麗に霧吹きをお見舞いする。

しかし、「異端」と「カルト」の定義を曖昧にしたまま議論を始めるのは感心しません。まずはそこを見直してから始めましょうか。

ノアの洪水!

なっ……あの技は!?
そう……つい先日、松野が成田との戦いで自らの汗を媒体に放った、基本中の基本の技である。しかし、霧吹きを媒体にした一夜の「雨」は、松野のときとは比べものにならないレベルで嵩を増し、まさに「洪水」と言える勢いで大量の石を迎え撃つ。
自身の放つプレッシャーで周りの温度を一気に冷やし、結露した水滴で霧吹きの水を洪水にまで進化させる……同じ「ノアの洪水」でも松野さんとはまるで別物っすね。これが、トップクラスの聖書学者……
ゴクリと息を飲む松野をよそに、京子はパシャパシャとシャッターを切りまくっている。この場から逃げるという選択は一切頭にないようだ。

ただの紙切れからストーニング・ペナルティーをここまで再現できるのはさすがメグミくんです。しかし、旧約専攻の私を前に、水に弱い媒体を使った以上、押し負けるのは決定的です。このまま頭を冷やしてもらいましょうか。

一夜の洪水に飲まれたストーニング・ペナルティーは、あっという間に水を吸ってグシャグシャの紙切れに戻り、水の勢いもろともにメグミに向かって跳ね返っていく。

ふん、舐めるんじゃないわ!

モーセの海割!

一方メグミは、机に並べていたシャーペンを素早く手に取って頭上に掲げ、襲いくる水の流れを目の前で真っ二つにする。ご存知、エジプトの軍隊に追われるイスラエル人を逃がすため、モーセが「葦の海」で行った奇跡である。かろうじて直撃を避けたメグミだったが、彼女に当たるはずだった攻撃は左右に別れ、近くにいた松野たちへとふりかかる。

NORH's Ark!
そのときだった。後ろに控えていた上級生が新入生の前へ躍り出て、一斉に大声で叫んだのだ。すると、みるみるうちに教室に並んでいた机が集まって壁になり、あちこちで松野たちを守る箱のようになる。「ノアの箱船」……四十日四十夜、振り続ける雨と洪水からノアの家族と動物を守ったあの箱船である。メグミから逸れた攻撃はそれらに阻まれ、何とか全員びしょ濡れは回避できたようだ。
いい? この授業の序盤はなるべく後ろの方に席を取るの。そうしないと、二人の戦いに巻き込まれて落ち着いて観戦できないから。
近くにいたら俺たちでもあっという間にびしょ濡れだ。お前たちもこんな風に自分の身を守りながら授業を受けるんだぞ。
突然アドバイスを始める先輩たちに従って、新入生たちは大人しく教室の隅に退避する。カメラを構えたまま動かない京子と、京子の左手にしっかりと捕まえられた松野以外は……
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登場人物紹介

【松野馳夫】MATUNO, Hashseo

神学部の新入生。伝道者コース。年齢詐称の疑いがかけられている自称十八歳。聖書学の使い手。牧師を目指している。

「いいでしょう。真正十八歳の持久力、見せて差し上げましょう!」

【縄文弥生】JYOMON, Yayoi

神学部二年生。伝道者コース。しっかりものの学生会長で、松野と同じ聖書学の使い手。ミッションスクールの聖書科教師を目指している。

「ダビデとヨナタンは絶対デキてたと思うな。松野さんはどう思う?」

【牧原茜】MAKIHARA, Akane

神学部の新入生。キリスト教文化コース。明るく天真爛漫でとてつもない力持ち。教会史の使い手。キリスト教福祉施設への就職を目指している。

「見て見て、『キリスト教綱要』片手で全巻掴めるよ!」

【成田成尾】NARITA,Nario

神学部二年生。キリスト教文化コース。学生会副会長。極度のナルシストで組織神学の使い手。神学の博士号を取って大学教員になることを目指している。

「聞きたまえ。僕の華麗なるペリコーペの朗読を!」

【加賀京子】KAGA, Kyoko

神学部の新入生。キリスト教文化コース。好奇心旺盛で調べるのが大好き。宗教哲学の使い手。宗教問題に切り込むジャーナリストを目指している。

『うちはイエス・キリストのロリコン説を推しますよーー』

【上野メグミ】KAMINO, Megumi

神学部三年生。伝道者コース。佐渡と度々ぶつかる聖書研究会所属のツンデレ、実戦神学の使い手。海外の貧困地域で働く宣教師を目指している。

「あの異端者……今日こそギャフンと言わせてやるわ!」

【佐渡一夜】SHADO, Ichiya

神学部専任講師。若くして学部長を務める聖書学の使い手。聖書の記述を批判的に読むため反感を買いやすいが、ドSっぽい発言は一部の人から人気を集めている。

「語学は筋トレと言いましたよね? そんなに私のヒブル語攻めが聞きたいですか?」

【紐田カカシ】HIMOTA, Kakashi

神学部五年生のベテラン留年生。伝道者コース。おっかない先生はだいたい彼に聞けば分かる。教会史の使い手。売れっ子vtuberを目指している。

「なっ、俺とお前の仲だろ? 頼むから今度配信一緒に出てくれよ。」

【粟井てる子】AWAI, Teruko

神学部非常勤講師。組織神学の使い手。キレやすいのにどこか憎めない姉貴っぽい先生。ズボラで適当そうなのにカリキュラムはしっかりこなす。

「私を舐めてると塩の柱にするぞ〜」

【月乃塚子】TUKINO, Tukako

神学部専任講師。学生主任を務める教会史の使い手。メイド服やゴスロリ系の服が好きで、チャペルの司会もそれで務めたことがある。自分を貫く先生。

「カルトのレポートはもう見飽きました。次そのテーマで出したら落とします。」

【松野林檎】MATUNO, Ringo

松野馳夫の姉。とある牧師のパートナー。漫画やアニメが大好きでコスプレを趣味にしている。大らかで優しい表情を崩さないが、理不尽な慣例や発言には容赦ない言葉でバッサリ斬る。

【モブの人①】

神学部周辺で活躍するモブの一人。シンプルエディタの仕様上、登場人物欄に登場させている。名前はまだない。これからもたぶんない。

【モブの人②】

モブが一人だけなのはよくない……ということで登場してくれたもう一人のモブ。モブの人①と共に色々やる。

【通行人A】

モブの人たちでフォローし切れない何かをカバーする。たぶん、通行人以外のこともする。

【通行人B】

通行人が一人でいるのはよくない……ということで現れたもう一人の通行人。彼女も通行人以外のことを色々やってくれるだろう。

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