そこのあなた、三年次編入の方ですよね? 次のオリエンテーションは三号教室ですよ。そっちは一号教室です。
いえ、私は編入生ではなく新入生なので、こちらの教室で合っているはずですが……
四月一日午前十時、ここ創世大学では、入学式を終えた学生たちが次々と自分の教室へ足を運んでいた。文学部、法学部、社会学部、経済学部……名門私立大学だけあって、各学部の建物へ移動していく新入生は数千人規模に及んでいる。そんな中、わずか三十名程度の学生だけが入っていく場所、「神学部」という異色の空間で、二人の人間が対峙していた。
あっ、失礼しました。社会人入学の方だったんですね。それなら、二階の五号教室でオリエンテーションを受けてください。もうそろそろ始まります。
お姉さんらしい眼鏡をかけた三つ編みの女性がニコリと笑う。彼女の名前は縄文弥生、二年生にして神学部の自治を任されている学生会長だ。体育館で式が始まる前から新入生の誘導を手伝っていたため、おおかたの一年生は最初に知ることになった先輩だ。
あなたは確か、学生会長の縄文弥生さんでしたね。私の名前は松野馳夫、三年次編入でも社会人入学でもない、正真正銘十八歳で入学してきた新入生です。どうぞよろしく。
会長が狼狽えるのも無理はない。白髪の混じった銀色の髪、口元に蓄えたダンディーな髭、体はスラッとしているが、年齢はどう見ても六十を超えている紳士風のおじさんという出で立ち……それが松野馳夫の姿だったからだ。
いえいえ、このとおり老け顔なのは否定できませんが、高校からストレートで上がってきたのは事実です。
そう言って、松野はさっき配布されたばかりの学生カードを見せる。その年の年号から始まる八桁の番号は、確かに彼が高校からストレートで入ってきたことを示していた。もしも編入や社会人入学で入ってきたなら、他の数字で始まっているはずだからだ。つまり、これが本当の数字でなかったとしたら、彼が願書を提出するときから入学に至るまでの間、大学相手に年齢を詐称してきたことになる。
容姿も声も十八歳にはとても思えないですけれど……本当に私より一つ歳下なんですか?
ええ、昔から初対面の方にいつも驚かれますが、あなたより歳下なのは間違いありませんよ。
答えながら、松野は胸ポケットから数枚の写真を取り出した。そこには、中高の制服やランドセルを背負った彼の姿が写っている。しかし、どれも全く似合っていない。まるで背丈や体格だけ加工した合成写真を見ているようだ。小さい頃から老け顔だということを説明するために持ち歩いている写真だが、今のところ、松野がこれで信じてもらえたことはない。
すみません、悪ふざけならよしてください。あなたも牧師を目指している人ですよね? もし、年齢詐称で入学してきた学生なら、同じ伝道者コースの人間としてほっとくわけにはいきませんよ?
ほう……信じてもらえませんか? 私も年相応に見られたいのはやまやまですが、持って生まれた容姿はそう簡単に変えることができないものです。
容姿もそうですけれど、若者とは思えない紳士的な口調も、ゆったりとした落ち着いた動作も、いかにもお屋敷の執事をしているおじさんっぽくて、十八歳という説得力がありません。そんな分かりやすい嘘をついたまま、あなたは牧師を目指されるんですか?
ニコリとした可愛らしい笑みを崩さないまま、彼女は嵐のような重い空気を纏い始める。一学年三十名前後しかいない神学部の中でも、さらに三分の一にも満たない伝道者コース……そこで神学を習得しようとする彼女は、同じ使命へ遣わされようとする者に容赦はしない。神の救いを宣べ伝える者が、あからさまな嘘をつく者であっては困るのだ。将来、教会で欺瞞に満ちた活動をするかもしれない相手に対して、神学部の学生会長がほっとくわけがないのである。
困りましたね。私は真面目に神学を勉強しに来たのですが……どうしても信じてもらえませんか?
ええ、たとえ歳上であっても、ここまで明確に嘘をつく人が牧師になっていくのは見てられません。ちょっとお灸を据えてあげますね。
そう言うと、次の瞬間彼女の姿は消えていた。否、いつの間にか松野の背後に回っていたのである。彼女の狙いは学生カード、これを奪えば学内の施設を使うことは愚か、神学部の学生であると証明することもできなくなるのだ。
しかし、松野は一切慌てることなく、スッとカードを袖にしまう。間を置かず、弥生は彼の両腕を取り、ダンスを踊るようにクルッと二人で弧を描いた。すると、竜巻に巻き込まれたかのように、二人の体は勢いよく回転する。慣性の法則で袖の中からカードが飛び出ようとしたその時、松野は自らバランスを崩し、地面へクルリと一回転した。巻き込まれるのを防ぐため、咄嗟に両腕を離した弥生はハッとする。いつの間にか、松野の学生カードは神学部の天井へ突き刺さっていたのだ。
自らカードを手放すことで簡単には奪われない位置に移動させる……頭の回転も身のこなしも相当速い方なんですね、松野さん。
そうでしょう……この動き、私が快活な十八歳だと信じてもらえましたかな?
確かに只者ではないみたいですね。でも、六百歳で箱舟を作って洪水を乗り切ったノアがいるくらいですから、これくらいで若いという証明にはなりません。
笑顔でとんでもないところと比べますね。やれやれ、困った会長さんだ。
松野が構えなおす一方、弥生はロングスカートのポケットに手を入れ、色とりどりの飴玉を取り出した。その中から、黄色い包み紙のキャンディーを選び、残りはまたポケットに入れなおす。
女の子は甘いものがなきゃ本気が出せないんですよ。特に、悪い子をお仕置きするときにはこれを舐めるのが一番です。
弥生はとびきりの笑顔を見せて、黄色い包み紙を開ける。一瞬、レモンキャンディーかと思ったが、そうではない。レモンよりオレンジに近い琥珀色……そう、蜂蜜飴である。彼女はそれを手に取ると、おもむろに口の中へ放り込んだ。その瞬間、眼鏡ごしに彼女の両目が爛々と輝き始めたのが分かる。
聞いたことがあります……サウル王の息子ヨナタンは敵地へ侵入した際、そこで見つけた蜂蜜を一舐めただけで目を輝かせ、その地の敵を一掃したとか……もしや、あなたも?
はい、旧約を専攻している人に比べればたいしたことないですが、私も聖書学を専門に勉強している身……ヨナタンの話を思い浮かべて蜂蜜飴を舐めている間は、身体能力を二倍ほど上げることができるんです。
そう言う間に、彼女を中心に台風でも巻き起こったかのように激しい風が吹き始める。ロングスカートがふわりと広がり、見る見るうちに彼女の力が増していくのが分かった。
なるほど……ということは、あなたは新約専攻の聖書学の使い手。その素早い身のこなしは、ペンテコステの風をイメージして作り出したものだったのですね。
ペンテコステ……それは、神の子イエス・キリストが天に挙げられた十日後に、弟子たちへ聖霊が送られた出来事である。この日が教会の誕生日とも言われ、弟子たちに聖霊が降った際には、激しい風と炎のような舌が分かれ分かれに現れ、彼ら一人一人の上にとどまったと言われている。
よく分かりましたね。初見で私の動きがペンテコステの風をイメージしたものだと見抜いたのは松野さんが初めてです。加えて、蜂蜜飴の力でさっきの二倍になった私の速さ、ついてこれますか?
静かに、華麗に、踊るように、松野の周りを走り始めた弥生の動きは、常人ならとても目で追える速さではない。小柄で身のこなしの軽い彼女は、まるでダンスを舞うかのように次々と技を繰り出していく。その細い指先で松野の襟を掴もうとしているかと思えば、急に空気を切って小さな風を生じさせる。咄嗟に躱した風は頭上へ逸れていき、神学部の天井に当たる。そこで松野はハッとした。彼女の狙いは天上に刺さった学生カード……自分の背丈ではジャンプしても届かない位置にあるそれを、あわよくば風で叩き落とそうとしているのだ。
さすが聖書学の使い手です。「風」は旧約においても新約においても、神の力が現れるしるしの一つ……これだけ使いこなすとは素晴らしい信仰だ。ならば、こちらも未熟ではありますが、神顕現に伴うしるしの一つで対抗しましょう。
それまで最低限の動きで弥生の技を躱していた松野は、今度は打って変わって超高速で動き始める。もちろん、今までと動きを変えたからと言って、急に弥生のように風を繰り出せるわけではない。ただし、松野と弥生との間には徹底的な違いがある。彼の服装は化学繊維が多く、摩擦による静電気が溜まりやすいのだ。
一瞬、松野にギリギリで技を躱された弥生は、思わず手を引っ込める。指先に感じたビリビリとした衝撃……間違いない、彼の体が放電したのだ。
これは静電気? ううん、小さいけれど……雷を発生させたんですね。
旧約聖書において、神が人前に現れる際にはいくつかの現象を伴うことが多い。たとえば、それは風であり、炎であり、雲であったりする。そしてまた、雷もその一つなのだ。
誰かの前でやってみたのは初めてですが、上手くいきましたね。私も聖書学を専門に学びたいと思って神学部にやってきました。特に旧約に興味がありましてね。あなたのように、新約と旧約両方のイメージを一度に使うことはできませんが、神が現れるシーンの一つなら鮮明に思い浮かべることができるのです。
信じられません……ここに入ってきたばかりで、もうそんなことができるなんて。
言葉とは裏腹に、弥生はますます朗らかな笑顔を作る。どうやら、この状況を楽しんでいるらしい。神学部において、聖書学の専攻、特に旧約を研究する者は年々数を減らしている。ここ、創世大学の神学部では、教会史や実践神学のゼミの方が圧倒的に人気だからだ。弥生は新約の専門だが、できれば旧約を専門とする相手と聖書全体について語り合いたいと思っていた。その願いを、この新入生は叶えてくれるかもしれないのだ。
ますます嘘をつかせたままでいるのはもったいないです。今すぐ悔い改めてもらいますね。
先ほどよりも距離を取りながら、弥生は松野に向かって次々と風を繰り出していく。高揚した彼女の体はクルクルとステップを踏みながら、松野の周りに小さな竜巻を作り出していく。それらの竜巻は彼女のステップに合わせて、まるで生きているかのように松野を追いかけ出したのだ。
まずい、あれに正面から巻き込まれるわけにはいきません。ここはひとまず逃げましょう!
させないですよ。ほら、四方を囲ませてもらいました。
気がつくと、小さな竜巻は神学部の廊下で松野を追い詰めるように四方向から近づいて来る。先ほどまで膝あたりだった竜巻が、もう腰あたりの高さまで渦を巻いている。どうやら、時間が経つほど大きくなっていくようだ。
これが、天から家中に響き渡ったペンテコステの風を再現したものですか。なんという凄まじさ!
驚きながらも、松野は四方から襲いかかる竜巻を絶妙なバランスで避け続ける。自分が発生させられる雷は静電気より若干強い程度のもの……弥生に距離を取られている今は役に立たない。
さすが、十八歳を名乗るだけありますね。初老の方とは思えない身のこなしです。でも、年老いた体でいつまでも私の風を躱し続けることができますか?
どうやら、まだ信じてもらえないようですね。いいでしょう、真正十八歳の持久力、見せて差し上げましょう!
いきなり始まった学生会長とのバトルに、松野自身も高揚していないと言えば嘘になった。様々な困難が待ち構えている福音伝道……その道に携わる者として、ここで躓いているわけにはいかないのだ。風と竜巻をすれすれの距離で避けながら、松野は自分の中に溜まっていく力をピリピリと感じていた。