ちなみに、いつまでも避け続けていたら私を倒すことはできないですよ。えい、どんどん竜巻を増やしちゃいます。
茶目っ気たっぷりに言ってくるが、なかなかのパワハラである。ただでさえ動き回る竜巻がさらに増え、しかも一つ一つがどんどん大きくなっていくという鬼畜な事態に、さすがに松野も息が上がる。しかし、涼しい顔をしてはいるが、息があがっているのは弥生も同じだった。蜂蜜飴で一時的に身体能力を上げているとはいえ、これだけ多くの風を一度に発生させたのだ。もちろん、飴だっていつまでも口の中にあるわけではない。
そちらもあまり時間がないようですね。胸の高さまで大きくなった竜巻も、これ以上は維持するのがやっとでしょう。でなければとっくに、天井にある学生カードを奪い取っているはずです。
ばれちゃいましたか……でも、松野さんもさっきから竜巻を避けるタイミングがギリギリですよ。そこまですれすれだと、あと少しで捕まえられそうですね。
実はこの時、弥生自身もギリギリのタイミングを迎えようとしていた。それは、新しく飴を口に含むタイミングである。あと数十秒もすれば、蜂蜜飴は溶けてなくなってしまうだろう。その時がくれば当然、無理して発生させている竜巻も全て霧散してしまう。松野が発生させる雷は離れていれば問題ないが、触れられたらショックを受けるのは間違いない。そして万が一、あの電気で髪の毛をボサボサにされたりでもしたら、別の意味で相当なショックを与えられてしまう。弥生もそれなりに人目を気にする女の子なのだ。
強がってはいますが、会長もそろそろ飴の効力がなくなる頃では? 早く新しいキャンディーを用意したらどうです?
松野の言葉に、弥生は初めて苦笑する。気づかれている……そう、先ほどキャンディーの包み紙を出したとき、彼に見られてしまったのだ。弥生のポケットに入っているのは蜂蜜飴だけではないことを。甘いものが大好きな彼女は、常に色んな味のキャンディーを持ち歩いている。ゆえに、その中から蜂蜜飴を選び出すという作業が、どうしても時間をロスしてしまうことになる。最初に、一瞬で片が付くと思って一つだけしか蜂蜜飴を出さなかったのが失敗だった。今、ポケットの中でいちいち蜂蜜飴を探していたら、その隙に松野に近づかれてしまう。竜巻の操作は弥生のキャパシティーギリギリで行われているため、目を離す余裕すらない状態なのだ。
松野がそう呟いたとき、フッと彼の周りから竜巻が消えた。とうとう口の中の飴玉が切れたのである。急いでポケットを探る弥生、一気に距離を詰める松野……
弥生は目をつぶってポケットの中でキャンディーを掴み、包み紙を開いて口の中に放り込む。もしもこれがイチゴ味やマンゴー味のキャンディーならその場でアウトだ。松野の放電で髪の毛がボーボーになるに違いない。コンマ零点何秒かの世界で、一瞬スカートに彼の手が触れたのを感じる。しかしその瞬間、彼女の頭にヨナタンが爛々と目を輝かせるイメージが流れ込む。蜂蜜の味だ……! 弥生は叫んだ。
ギリシャ語で、「ペンテコステの風」という意味だ。明確にイメージされた家全体を揺るがすような風が、目の前に迫っていた松野の体へもろに襲いかかる。
ところが、彼女の風を受けて後方まで吹き飛ばされるはずだった松野の体は、次の瞬間には見失われていた。
振り返ると、今度は松野が弥生の背後に立っていたのだ。そう、風をまともに受けたかに見えた彼は、過去の残像……視覚を置き去りにしたのである。
あまりの速さに弥生は驚愕せずにはいられない。さっきまでの松野だったら、彼女の風を躱したところで、左右どちらかに身をひねるしかなかったはずだ。とても自分の背後に回るスピードを持っていたとは思えない。
見ると、松野の右手には小さな黄色い包み紙が握られていた。彼女が口に含んだのと同じ、蜂蜜飴の包み紙である。そう、彼は正真正銘、旧約を専攻しようとする神学生……新約の専攻である弥生以上に、サムエル記を何度も読み込み、ヨナタンの身に起きた奇跡を強烈にイメージすることができるのだ。その力は、普段の二倍どころか、四倍から五倍まで身体能力を高めることができる。
まさか、さっきスカートに触れたのは、放電でショックを与えるためじゃなくて、ポケットから飴玉を奪うために?
ええ、竜巻をすれすれで躱す際に生じた静電気で、あなたのポケットから飴を引き寄せ、急いで口の中に入れたのです。引き寄せるのが蜂蜜飴であるという保証はどこにもありませんでしたけどね……どうやら神様は、あなたにも私にも、ヨナタンの身に起きた奇跡を起こしてくださったようです。
そう、松野が弥生の竜巻をギリギリで躱していたのは余裕がなくなってきたからではない。風による摩擦で生じた静電気を自らに帯電させ、より強力なパワーを溜めていたのだ。体に残った雷の力と、蜂蜜飴によって強化された身体能力が松野を満たす。ところが、松野が瞬きした瞬間、再び弥生の姿がなくなっていたのだ。
身体能力が五倍に上がった松野の感覚でもとらえられないほどの速さ、明らかにおかしい。いや、気づいてみれば彼女の姿が見えないどころか、さっきまであった教室の扉や階段、窓ガラスさえなくなっている。
ここですよ、松野さん。たぶん見えないと思いますけど。
今度はすぐ真横から彼女の声が聞こえてくる。松野はサッと振り向くが、そこには白い壁があるだけだ。しかし、神学部の校舎は白い壁ではなかったはず……その時、彼はようやく気づいたのだ。これは弥生の姿が見えないのではない。視界全体が白く覆われているのだ!
ふふふ、お目めに鱗がついてますよ……私がつけたものですけどね。
目に鱗……なるほど、これはキリスト教徒を迫害していたパウロの身に起きた奇跡。幻のイエスと出会い、目を見えなくされた出来事をイメージした力ですね。
目から鱗……ということわざがある。大辞林によれば、「あることがきっかけとなって、迷いからさめたり、物事の実態がわかるようになる」ことのたとえであるが、もともとは新約聖書の使徒言行録九章の記述から生まれた言葉だ。熱心なユダヤ教徒であったパウロが、当時、異端と思われていたキリスト教徒を捕まえるため、ダマスコへ出かけている最中、幻のキリストと出会って回心するという話である。そこで彼は三日間、目を見えなくされ、アナニアというキリスト者に祈ってもらって、ようやく目から鱗のようなものが落ち、見えるようになったのだ。
はい、私がゼミで研究しているのは、イエス様が天に挙げられた後、弟子たちの行動を記した使徒言行録が中心です。パウロがアナニアに手を置いて祈ってもらうまで目が見えないままだったように、松野さんも私に手を置いて祈ってもらうまで、見えるようになることはありません。よかったら、放電を解いて触れさせてください。その前にまず、年齢のことを正直に言って悔い改めてもらいますけどね。
これが新約学の力……さすが神学部の学生会長、どんな状況でも次の一手を考え続けて行動するところは、既存の聖書解釈に甘んじない探求の精神の鏡です。
関心する松野に対し、弥生はいたずらっ子な笑みを浮かべ、挑戦的な口調で呼びかける。
松野さん、旧約のイメージが新約のイメージに勝てると思ったんですか? キリスト教は、新約聖書に記されるイエス・キリストの誕生から始まった宗教……日曜日の礼拝で旧約の話をすることはほとんどないという牧師もいるくらいです。キリスト者が旧約聖書を読む意義について語れなければ、あなたが私に勝つことはできません。
教会の礼拝で旧約聖書を語る意義……そう、これが分からなければ、松野は彼女に勝つことはできない。視覚を失った松野は、聴覚と触覚に全神経を集中しながら言葉を選ぶ。
確かに、今の教会で旧約聖書の市民権が保証されているとは言い難い。「キリスト教なんだからイエス様のことを語っていればいい。それ以前の古い契約なんてたいした意味はない」……そのように考えているクリスチャンも多いでしょう。しかし旧約は、「神は私と共にいる」という出来事を繰り返し語ってきた書物です。「神なんていない」「神に見捨てられた」という叫びを正面から捉え、やがて来られる救い主の約束を記した文書……それを語ることが無意味なんて思いません。私は旧約を通して、神と自分との関係をもう一度見つめ直したいのです。
松野はそっと両手を左右に伸ばし、神学部の壁に触れる。すると、パチパチと放電している彼の輪郭が急に掴みづらくなリ始めた。思わず眼鏡をかけ直した弥生は戦慄する。彼の輪郭が歪んでいるのは眼鏡が汚れたからではない。信じられない速度で全身を振動させていたからだ。
弥生さん、私はあなたが持つ新約の光に当てて、もう一度旧約聖書を読み直したい。同じ聖書学を志す者として、信じていただけないでしょうか?
壁に手をついた松野から、その振動が神学部の天井にまで伝わっていく。視力を失った状態で建物全体を揺らす姿、その様子はまるで……
サムソン……それはイスラエルにまだ王が立てられていなかった時代、民衆を抑圧する敵と戦った最後の士師である。彼は敵に両目を抉り出され、目が見えない状態で捕まったものの、二本の柱に手をついて力を込め、建物を崩壊させたという怪力の持ち主だ。
ええ、さすがに神学部を崩壊させる力までは出せませんし、壊すわけにいきませんが、私にできることはこれくらいです。
両手を胸の前に交差させて身構える弥生に対し、松野は穏やかな笑顔を見せる。その時、天井でグラグラと揺れていた学生カードがついに離れ、彼女の足元に落ちてきた。
これが私の覚悟です。どうぞ、私が年齢を偽っていると思うなら、そのカードを煮るなり焼くなり好きにしてください。もし信じていただけるならば……あなたの手で、私に返してもらえますか?
既に壁から手を離し、降参の姿勢をとった彼は、脇を開いて両手を上に挙げている。その姿は、まるで古代における祈りの姿勢、オランスの所作を表しているようだ。現在でも、カトリックや聖公会、ルーテル教会といった伝統的な礼拝理解の教会では、司祭や牧師が儀式をする際このような姿勢をとっている。
なるほど……あなたの聖書学に対する真剣さ、特に旧約と新約を合わせて読むことへの思い、確かに私の胸に届きました。
彼の学生カードを拾い、コツコツと松野の前に進み出た弥生は、今までで一番素敵な笑みを見せる。
初対面で疑ってすみませんでした。正直、感覚的には今も松野さんが歳下とは思えませんが、でも確かに、本当のことを話していると信じます。
若干、放電の衝撃が来るのではないかと震えながらも、しっかりと彼の手を握って渡した学生カードには、オレンジ色の包み紙が添えられていた。
これはお詫びです。本当は蜂蜜飴よりみかん味の方が好きなんです。
その時、松野の目からもポロっと二つの鱗が剥がれ落ち、彼の視界が回復された。
おお、見えるようになりました。信じていただけたようで何よりです。
手を取り合って見つめ合う二人……感動の和解を他所に、廊下での竜巻や校舎全体を揺らす振動に何事かと教室から出てきた学生たちは、松野と弥生の姿を見て、「えっ、ロリコン……?」と困惑した表情を浮かべている。弥生はコホンっと咳払いして、松野からそっと手を離した。