第4話 プロテスタントは聖人を否定すると聞いたもので。

文字数 5,099文字

おっ、落ち着いて茜さん。とりあえず教室から少し離れよう?
こちらが引いてしまうほど大声で話す彼女を引っ張って、弥生は階段の影へ連れて行く。もともとテンション高めの人間なのか、茜はその間もぴょんぴょんしながら話し続け、小柄な会長はグワングワンと上下に振り回されている。

急に出てきてすみません! 私、神学部って純粋で、清らかで、汚れのない人たちが集まるところだと思ってたから、ずっと不安だったんです。でも、実際入ってみたら開幕バトってる人たちいるし、片っぽはおじさんに見えるけど十八歳だって言うし、二人でいきなりBLの話始めるし。私以外にも腐の者がいる!って分かったらホッとして涙出てきちゃうし、「神学部でBL好きって浮くだろうなあ」「大学四年間誰ともBLの話できないなんて嫌だなぁ」って思ってたからすごく嬉しくなってきて! しかも聖書の話でBLの妄想しているし、松野くんもBLの話ついてくるし、神学部ならではのBLってなんかわくわくしちゃうし、ちなみに私ってダビデよりもヨナタン推しなんですけど、十二弟子の中だと実はユダが推しメンで……

お願いだからBL、BLってそんな連呼しないで〜〜
会長の悲痛な叫びにようやく茜の口が止まる。息つく間もないマシンガントークに、松野も思わず感心してしまった。言葉遣いはめちゃくちゃなのに、あまりに滑舌が良すぎて校舎中の人たちの耳へ綺麗に届いてしまうほどだ。おそらくこの一瞬で、学部の人間ほぼ全員に牧原茜の名前は知れ渡ってしまっただろう。
いやはや、すごい情熱ですね……もしや、茜さんも聖書学を専門に学ぶ予定なのでしょうか?
ううん、私は聖書全部読むの面倒くさいから他のゼミに入ると思う。

なんて正直な……全く裏表を感じさせない様子が逆にすがすがしい。おそらく彼女は伝道者コースではなく、キリスト教文化コースの学生なのだろう。伝道者コースはその名のとおり、キリスト教の伝道者を養成する学科である。教会で洗礼を受け、牧師ないしは神父から推薦を受けた人でなければ入れない。一方、文化コースはクリスチャンでない人も入ることができ、キリスト教の思想や文化、建築や美術などを学びたいという学生のために用意された学科である。ぶっちゃけ、神学部の赤字を立て直すためにできたコースだが、毎年一人くらい、このコースから洗礼を受けて伝道者コースへ転進する学生もいる。学部の教員が勧誘することは決してないが、結果的に、このコースのおかげで、受洗する人や献身者の与えられるきっかけが広がったのは確かである。

松野くんは牧師を目指してるんだよね。私はそういうのじゃなくて、キリスト教系の福祉施設で介護とか看護の仕事をやりたいなって思ってるんだ。だから、勉強するならナイチンゲールとかマザーテレサとか、ああいう人たちのことをやると思う。研究とか講義とかは苦手だけど、人の役に立つのは好きだし、力仕事は得意だから!
そう言いながら、茜は両手で弥生の脇腹をひょいっと掴むと、いきなり宙へ持ち上げて見せた。
わわっ! 茜さん、急に持ち上げないで。
どうやら、考えるよりも先に行動してしまうタイプのようだ。まるで子猫を拾うかのように弥生を軽く持ち上げた彼女は、力を入れた様子を一切見せない。とんでもない怪力だ。

これはこれは……カトリックの聖人クリストフォロ並みの力持ちですね。患者さんを持ち上げたり運んだりすることの多い介護や看護の現場では、なかなか重宝されるでしょう。

クリストフォロは、三世紀頃、パレスチナの上流階級の家に生まれた聖人である。もともとはレプローブスという名前であり、相当な怪力の持ち主であったらしい。彼は、世界で最も強い王に仕えることを求めて、旅人を背負って川を渡る仕事をしていたが、ある日、激しい雨と風の吹き荒れる夜、子どもの姿をしたキリストと出会い、肩に乗せて運んでいくことになる。やがて川を渡りきったとき、彼は真の王とは誰なのかを悟ったのだという。このときから、ギリシャ語で「キリストを背負う者」、クリストフォロスを名乗るようになったそうだ。
すごい、お母さんと同じこと言ってる! うちの家はカトリックで私だけ洗礼受けてないんだけど、「プロテスタントはすぐに聖人を否定する」って聞いてたからそれも不安だったんだ。もしかして松野くんも聖人を信じてるの?
そうですね……私はカトリックの人たちのように聖人の名前を呼んで祈ったりすることはありませんが、その人生や信仰的態度を振り返って、自分自身の生活を改める気持ちになることはよくあります。信仰の先人たちが歩んだ道のりを繰り返し思い起こす姿勢は、プロテスタントの我々も失ってはならないと思ってますよ。

カトリックとプロテスタントにはいくつかの違いがある。その一つが、聖母マリアや聖人に対する姿勢である。キリスト教では、神への信仰と聖人への敬意を分けて考えており、聖人を信仰の対象として拝むことはない。ただし、カトリックでは、聖人の名前を呼んで自分たちのために祈るよう呼びかける習慣がある。プロテスタントでは全てのクリスチャンを「聖徒」として考えるため、基本的にこの習慣はないが、聖公会やルーテル教会など一部の教会では礼拝の中で聖人を覚えることもあるそうだ。

そうなんだ。私の他にもカトリックから来た人っているのかな? ここじゃほとんどプロテスタントの人しかいないって聞いてるけれど。
今年の新入生はよく知らないけど、私の先輩とか院生の中にはカトリック出身の人も入ってますよ。今までも、ルーテル教会とか聖公会とか、教団以外の人も何人かここで勉強してるみたい。
基本的に、多くの教派・教団では独自の神学校を持っているが、たまに自分のところが建てたわけではない神学校も認可神学校として認めている教団もある。創世大学神学部は、松野が所属している複数の教派が合同してできた教団が認可している学校であり、よその教派からもちょくちょく学生がやってくるのだ。ちなみに、総合大学の中に神学部がある学校は日本で珍しく、全国で二つしかない希少な存在なのだ。
聖公会の人には一度も出会ったことがないので、私も話すのが楽しみです。カトリックとプロテスタントの中間と呼ばれる教派の教会……どんな感じなのか一度聞いてみたかったのです。
私とその人と松野くんが揃えば、西方教会のグラデーションができあがるね!
普通なら自分より二回りは歳上に見える松野に対し、茜は最初からタメ口で話しかけてくる。今まで同年代の人間からも、そう簡単にタメ口で呼びかけてもらえなかった松野は、ちょっと新鮮な気分を味わっていた。恐れを知らない彼女だからこそ、初対面の自分にも年相応のフランクな対応をしてくれるのだろう。なかなか悪い気はしない。
ふふ、確かにそうですね。ところで、ナイチンゲールやマザーテレサについて研究したいということは、茜さんは実戦神学よりの教会史のゼミへ入るということでしょうか?
よく分かんないけど、たぶんそう。
そうですか……一緒のゼミに進めないのは残念ですが、あなたなら我々の予想を超える教会史の使い手になりそうです。
なんか難しそうだけど頑張る! お父さんも、「茜ならすぐ歴史に残る伝説を作れるぞ」って言ってたから。
確かに、この子なら何かしらの伝説を神学部に残しそうだ。実は、この学部には他の学部以上にいくつもの伝説が語り継がれている。ある者は、学校に生えている松の木を切って学生控え室のクリスマスツリーにした伝説を残し、ある者は、神学部校舎の屋上に上って十字架の上で逆立ちした伝説を残し、ある者は、関係ない他学部の授業で一時間讃美歌を歌い続けて怒られたという伝説を残している。嘘か真かは分からないが、たいていロクでもない話が多いため、なるべく伝説は残さない方がいい。
やっぱり聖書学を専攻する人は今年も少ないのかな……私の時は旧約が一人もいなかったから、もしかすると松野さん一人になるかもしれないですね。
あのね、松野くん。ゼミは違うところになると思うけど、よかったら一緒に入れるところがあるよ!

そこで、思い出した! というように茜は二人に顔を近づける。もう少しで彼女の顔面に当たりそうになって、弥生はビクンッと頭をのけぞらせる。さっきの戦いであれだけ自分を追い詰めた彼女をこうも翻弄させるとは……この子は敵に回さないようにしようと、松野は固く心に誓う。

これ! 「学生チャペル委員会」ってとこに誘われたんだけど、よかったら松野君も一緒に入らない? 私、プロテスタントの礼拝って出たことがないから、興味はあるんだけど勝手が分からなくて。
茜の差し出したチラシには、大きく「求む、チャペル委員!」と印字され、その下に目元を隠す黒い仮面をつけた男子学生の写真がある。委員会の代表なのか分からないが、いかにもナルシストっぽい表情を浮かべ、明らかに滑っているのが分かる。松野は敢えて写真については触れないことにした。
学生主体のチャペル委員会ですか。大学の中にもあるんですね。これも毎日行われているんですか?

創世大学では、各学部ごとにチャペルが設けられており、毎朝十時半から十一時の間、チャペルアワーという礼拝の時間がある。他の学部では週に二回か三回、礼拝が行われているが、神学部では毎日行われており、他の学部から出席しても構わないことになっている。

ううん、これは大学記念礼拝堂で毎月一回だけ開いているチャペル。学生主体で企画するから、司会も奏楽もメッセージも、全部自分たちで分担していたはずですよ。
ほほう……それは面白そうです。きっと神学部の学生が多いんでしょうね。
松野の言葉に、弥生は歯切れの悪そうな顔をする。
ええと……そうでもない、かな。
あれ、でも私を誘ってくれたこの人、神学部の人だって言ってましたよ?
写真の人物はまさかの同窓だったようである。神学部は癖の強い人間が多いと父親からも聞いていたが、どうやら本当のようだ。松野は改めてチラシに目を戻す。
うん、今チャペル委員会に入ってる神学部の学生は彼ともう一人だけ。あとは他の学部のクリスチャンとか、その友達だったかな。この人ともう一人の先輩も伝道者コースじゃなくて文化コースで、牧師を目指している人は一人も委員に入ってないの。
おや、それは不思議ですね。どうしてそんなことに?
首をかしげる茜と松野に、弥生は苦笑しながら答える。
司会も奏楽もメッセージも、全部学生たちでやるって言いましたよね。神学部の伝道者コースが委員に入ると、高確率でその人に礼拝のメッセージが頼まれるようになるんです。どうもそれが嫌みたいで、最近は誰も入ってくれなくて……何年か前まではそんなことなかったらしいんだけど。
ふーん、牧師を目指してる人がメッセージするのを断るんだ……
「何を勉強しに来てるんだろ?」……と直球で彼女が言う前に、弥生は続けて口を開く。
神学部のチャペルも時々院生に担当してもらうんですけど、この頃はそっちも断られるみたい。「まだきちんと話せない自分を見せたくない」っていう心理が働くのかな……おかげで委員じゃないけど、一学期に一回、私も応援でメッセージを頼まれるくらいです。
そんなことが……私もまだ新入生だからと甘んじてはいられませんね。
かつて、日本におけるキリスト教徒は一パーセントと言われていたが、現在では〇・八パーセントを切るとさえ言われている。それに伴い、牧師や神父を目指す献身者も数を減らし続けており、各神学校の維持まで難しくなっている。ここ数年で、伝道者コース以外に「信徒コース」や「未受洗者コース」が新たに開拓されてきているのもそれが関係している。そんな状況の中、当の伝道者コースが話をするのを渋って入れば、日本の伝道はますます縮こまっていくだろう。
てっきり、神学生同士で衝突が生じて、他の委員と喧嘩別れする事件でもあったのかと思いましたが……それ以前の話だったとは。
(それもなくはなかったんだけど……)
小声で呟いた弥生の言葉は、考え事をする松野の耳には入らなかったようだ。チラシの中で「さあ、来てみろ僕のもとへ!」と言ってくるような顔写真を見つめつつ、松野は後日、茜と一緒にチャペル委員を訪れることにした。
いいでしょう。学生主体のチャペル委員、どのようなものか見せていただきましょう。
やった! じゃあ、明日一緒に行こうね〜
元気一杯の茜の声とは裏腹に、弥生は何となく胸騒ぎを覚えながら、いつの間にかオリエンテーションの始まっていた教室へ慌てて二人を行かせるのだった。
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登場人物紹介

【松野馳夫】MATUNO, Hashseo

神学部の新入生。伝道者コース。年齢詐称の疑いがかけられている自称十八歳。聖書学の使い手。牧師を目指している。

「いいでしょう。真正十八歳の持久力、見せて差し上げましょう!」

【縄文弥生】JYOMON, Yayoi

神学部二年生。伝道者コース。しっかりものの学生会長で、松野と同じ聖書学の使い手。ミッションスクールの聖書科教師を目指している。

「ダビデとヨナタンは絶対デキてたと思うな。松野さんはどう思う?」

【牧原茜】MAKIHARA, Akane

神学部の新入生。キリスト教文化コース。明るく天真爛漫でとてつもない力持ち。教会史の使い手。キリスト教福祉施設への就職を目指している。

「見て見て、『キリスト教綱要』片手で全巻掴めるよ!」

【成田成尾】NARITA,Nario

神学部二年生。キリスト教文化コース。学生会副会長。極度のナルシストで組織神学の使い手。神学の博士号を取って大学教員になることを目指している。

「聞きたまえ。僕の華麗なるペリコーペの朗読を!」

【加賀京子】KAGA, Kyoko

神学部の新入生。キリスト教文化コース。好奇心旺盛で調べるのが大好き。宗教哲学の使い手。宗教問題に切り込むジャーナリストを目指している。

『うちはイエス・キリストのロリコン説を推しますよーー』

【上野メグミ】KAMINO, Megumi

神学部三年生。伝道者コース。佐渡と度々ぶつかる聖書研究会所属のツンデレ、実戦神学の使い手。海外の貧困地域で働く宣教師を目指している。

「あの異端者……今日こそギャフンと言わせてやるわ!」

【佐渡一夜】SHADO, Ichiya

神学部専任講師。若くして学部長を務める聖書学の使い手。聖書の記述を批判的に読むため反感を買いやすいが、ドSっぽい発言は一部の人から人気を集めている。

「語学は筋トレと言いましたよね? そんなに私のヒブル語攻めが聞きたいですか?」

【紐田カカシ】HIMOTA, Kakashi

神学部五年生のベテラン留年生。伝道者コース。おっかない先生はだいたい彼に聞けば分かる。教会史の使い手。売れっ子vtuberを目指している。

「なっ、俺とお前の仲だろ? 頼むから今度配信一緒に出てくれよ。」

【粟井てる子】AWAI, Teruko

神学部非常勤講師。組織神学の使い手。キレやすいのにどこか憎めない姉貴っぽい先生。ズボラで適当そうなのにカリキュラムはしっかりこなす。

「私を舐めてると塩の柱にするぞ〜」

【月乃塚子】TUKINO, Tukako

神学部専任講師。学生主任を務める教会史の使い手。メイド服やゴスロリ系の服が好きで、チャペルの司会もそれで務めたことがある。自分を貫く先生。

「カルトのレポートはもう見飽きました。次そのテーマで出したら落とします。」

【松野林檎】MATUNO, Ringo

松野馳夫の姉。とある牧師のパートナー。漫画やアニメが大好きでコスプレを趣味にしている。大らかで優しい表情を崩さないが、理不尽な慣例や発言には容赦ない言葉でバッサリ斬る。

【モブの人①】

神学部周辺で活躍するモブの一人。シンプルエディタの仕様上、登場人物欄に登場させている。名前はまだない。これからもたぶんない。

【モブの人②】

モブが一人だけなのはよくない……ということで登場してくれたもう一人のモブ。モブの人①と共に色々やる。

【通行人A】

モブの人たちでフォローし切れない何かをカバーする。たぶん、通行人以外のこともする。

【通行人B】

通行人が一人でいるのはよくない……ということで現れたもう一人の通行人。彼女も通行人以外のことを色々やってくれるだろう。

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