イタリア語で「裏切り者」、文字通りには「(聖書を)引き渡した者たち」という言葉が叫ばれる。すると今度は、成田の頭上から大量の本が現れ、松野に向かって滝のように放たれていった。今回も素早く避けようとした松野は、その本が何かを知って思わず固まってしまう。 "Holly Bible" 金色で印字された黒表紙からも分かるとおり、それらは大量の聖書である。いくら、イメージによる力とは言え、自分の躱した聖書が地面へ投げ捨てられていくのは抵抗がある。
くっ、なるほど……神学生なら避けることのできない必中の技というわけですか。
さすが、自分の身に迫るものが聖書だと一瞬で気づいたか。そう、これらは三〇三年から三一三年まで、激しい迫害を受けていたキリスト者たちが、その圧力に屈して官憲に引き渡してしまった聖書のイメージだ。その重みに耐えられるかな?
現在、日本で手に入れることのできる聖書は、B六版でおよそ七三○グラム。それが次々と降り注いでくれば、とんだ破壊力を持った凶器である。しかし、飛んでくるのが聖書だと知ってしまった松野は、躱すことも叩き落とすこともできない。ひたすらその身で受けつつ耐えるしかないのだ。
無駄だよ、茜くん。牧師を目指す者が聖書を床に投げ捨てるなんて、とても耐えられはしないことだ。かつて、皇帝コンスタンティヌスの回心でキリスト教への迫害が静まった後も、一度聖書を引き渡した者たちは、教会へ戻ってきても簡単には受け入れられなかった。彼らは自分で自分をふさわしくない者としてしまったからね。
そう、戻ってきた棄教者たちはなかなか教会に受け入れられず、特にドナティストと呼ばれる人々から、「教会に罪人のいる場所はない」と厳しく断罪され、排除された。それどころか、一度迫害に屈した聖職者の洗礼や聖餐も否定され、それらを受けた人はもう一度受け直さなければならないと主張されたのである。でなければ、教会の務めや説教の有効性が保たれないと考えたのだ。
さあ、選びたまえ松野くん! そのまま聖書の重みで潰されるか、聖書を捨てて身の安全を確保するか……もっとも、自分の年齢を認めず、嘘をついたまま聖職者になろうとする人間なら、当然、身の安全を優先するだろう?
挑発するように言っているが、松野には分かる。なんだかんだ、彼は自分に何かを期待していると……本気で牧師にさせまいとしているのではなく、今日に至るまで教会に残っている課題を託そうとしていると。
そうですね、確かに私は自分の身を大事にしてきました……人前で正直に年齢を言えば、皆から「嘘つき」と断罪されてしまう。それならもう、最初から年齢のことは口にしないでいこうと思い、同年代のクラスメイトからも、なるべく離れて過ごしてきました。歳を間違えられても訂正せず、あたかも見た目どおりのおじさんとして振る舞ってきました。その方がずっと楽だったのです。
大量の聖書に押しつぶされそうになる体を踏ん張りながら、松野は続けて力を振り絞る。
しかし、私が牧師の道を示されたのは、自分のように見た目や振る舞いから誤解され、偏見を持たれる者にも、神様は変わらず一緒にいてくださると知らされたときです。自分を偽り、嘘をつき、情けない思いをしてきた私でさえ、神様は出会って用いてくれる……その恵みを、もっと多くの人と分かち合う。それこそが私に与えられた使命であり召命です!
なっ、なんだこの光は……聖書学の使い手には、茜くんのように聖人のイメージは作り出せないはず! それなのに、これはまさか?
松野の傍で淡い光が集まっていき、何者かの形が浮かび上がる。豊かな髭を蓄えたその人物は、目の前でそっと十字を切り、何かを天に向かって呟いた。すると、それまで松野の上に降り注いでいた大量の聖書がキラキラと輝き、空中へ戻っていったのだ。その姿は、茜がイメージしたヒエロニムスと同じ、四大ラテン教父の一人……
かつて、棄教者を受け入れなかったドナティストに対し、「罪人も教会から排除してはならない」と必死に訴えた人がいた。それが、ヒッポのアウグスティヌスである。彼は、洗礼式や聖餐式、礼拝のメッセージの有効性は、その務めに当たる人の聖性ではなく、イエス・キリストの聖性によって保たれると主張した。教会はむしろ、ふさわしくない者がそれでも神に用いられ、特別な働きに遣わされるところなのである。
アウグスティヌスは、お母さんのモニカも聖人なんだよね。もともとはキリスト教じゃなくてマニ教の信者をしていたり、グレて色々悪いこともしてたんだけど、お母さんと師匠の聖アンブロシウスのおかげでキリスト教に回心して、たくさん本を書いたんだよ。
ええ、彼が主張したように、たとえ棄教した聖職者による洗礼や聖餐であっても、その有効性が損なわれることはありません。聖職者が神の言葉を語るのにふさわしいか、ふさわしくないかを自分に問い始めたら、誰一人、礼拝でメッセージなんてできなくなるはず……むしろ、万人祭司の原則に立つプロテスタント教会ならば、全ての信徒がふさわしい、ふさわしくないに関わらず、神様のことを伝えていく使命に用いられているのです。
全ての聖書を天に返し、役目を終えてキラキラと消えていくアウグスティヌスの聖人像。それを後に、松野は力み続けていた肩をぐるっと回してほぐしつつ、一歩、また一歩と成田の方へ近づいていく。
なんてことだ……神学部一年目で、新約や教会史の技を複数の使い手から吸収していくなんて。いったい君は何者なんだ?
言ったでしょう? 正真正銘十八歳、伝道者コース一年の松野馳夫……なに、ちょっと罪深い神学生です。
お互いの手と手が触れ合う距離まで近づいた松野は、成田に向かって右手を差し出す。しばらく唖然としていた成田の方も、やれやれと苦笑しながら自分の右手を差し出した。
ふふ、なるほど……確かに君は本当のことを言っているようだ。会長が言ったとおりだったな。見た目で年齢を疑ったことも、突然襲いかかったことも悪かった。申し訳ないが、僕の方からお願いさせてくれ。このチャペル委員会で、一緒に学生たちの礼拝を手伝ってくれないだろうか? 決して、君にお願いするのに「ふさわしくない」者であることは承知だが。
もちろんですとも。正直私も、あなたのことは出落ちで滑ったままほっとかれるつまらないタイプの人間かと思っていましたが、なかなかエキサイティングな戦いでした。ぜひ、また話をさせてください。
歯に衣着せぬ言い方に、成田はますます苦笑いしながら頷いた。そう、本当は弥生に彼のことを聞いたときから、自分と同じ出オチ感のある周りから見て異質な神学生のことが気になっていたのだ。
先輩って本当は、松野くんのこと最初から追い出すつもりじゃなかったですよね? なんだかんだ、イコノクラスムもインドゥルジェネティアも松野くんに直接当たらないように外してたし、クワドリガとかトラドットゥーレも、松野くんの専攻する聖書学に絡んだ技だったし……
おっと……気づかれてしまったか。まあ、会長の弥生くんが戦って認めた男だ。そう簡単に出て行くことも諦めることもないと思っていたが、万が一、大怪我をさせてしまったらまずいからね。
そう言って、握手した手を離そうとしたとき、パシャリというシャッター音が聞こえてきた。
あっ、今のままもっかい写真撮るんで、二人ともこっちの方向いてくれますかーー?
好奇心旺盛に見える大きな瞳、サラリと流れる黒い髪の毛、「SD新聞」という腕章をつけた女性が、いつの間にかカメラを向けて、レンズ越しに二人を覗いていた。
また君か。委員会に入る気がないなら勝手に忍び込まないでくれと言っただろう?
いやーー美味しいお茶菓子と面白いネタがありそうだったんで、つい。
カメラを向けながらモグモグとしている口の中には、おそらく机に用意されていたお茶菓子が入っているのだろう。今年はどうも遠慮のない学生が多いようである。
加賀京子さんだよね? 神学部の入学式で私の前に座ってた。その腕章、新聞部に入ったの?
うっす、うちは宗教問題に切り込むジャーナリストを目指してるんで、まずは形から入りました。
どうやら、この女性も松野と同じ神学部の新入生らしい。成田の様子を見ると、今日ここへ来るのも初めてじゃないようだ。
初めまして、私の名前は松野馳夫。あなたはチャペル委員会へ入りに来たわけじゃないんですね。既に新聞部のようですし。
そうっすね。何かネタがないかと思いまして、初日からちょくちょく宗教センターを出入りしてました。松野さんのことは、もう昨日から噂になってますよーー年齢を詐称して神学部に入ってきたおじさんが、いきなり学生会長とバトルになって、終わったらなぜかロリコンカップルができていた……っていう。
たった一日でとんでもない噂ができている。もしかすると神学部の新たな伝説を作るのは茜ではなく自分になってしまうかもしれない。松野は慌てて訂正する。
いえいえ違います。私と会長が手を握り合ったのは、お互いのことを認めた証の握手です。付き合ってはいませんし、そもそも私は十八歳、会長より歳下ですからロリコンではありません。
手を握り合った……そうなのか? 僕は会長からそんなこと聞いてないぞ。
急にニヤッとした顔つきで成田は松野をジロジロと見る。しまった……墓穴を掘ってしまったと思いながら、松野はコホンっと咳払いする。
自分で言っちゃいましたね……まっ、事実を歪曲するのも大げさに書くのも嫌いなんで、記事にはしないから安心してください。
そうなの? てっきり松野くんに会うのが目当てで来たのかと思ったーー
おっ、察しがいいっすね。本当は会長と戦ったときのインタビューをしに来たんですけど、ついさっき成田先輩と十分面白いことやってたんで、そっちを記事にさせてもらおうかと。
どうやら、松野たちの戦いは一部始終、彼女に見られていたらしい。入学早々あまり目立ちたくはないが、昨日の時点で十分目立っている上に、成田先輩も松野自身も、もとから見た目が話題になりやすい。記事にしようがされまいが、目立ってしまうことに変わりはないだろう。すると、京子の言葉に成田はサッと肩を組み、松野と並んで額に手を当てたポーズを取る。
それなら、僕と松野くんの写真も最高の一枚を撮りたまえ。会長以上に仲良くなったところを見せようじゃないか?
「成田先輩×松野くん」か……う〜ん、私はどっちかと言うと「松野くん×成田先輩」かな?
まさか身内と自分との妄想を本人の前でされるとは……どこへ向かうの分からなくなってきた話題に、松野は再びコホンと咳払いをした。
さすがに私も目の前で妄想されるのは恥ずかしいので、後にしていただけると……
ははは……そうだな、松野くん。この話はここで終わりにしよう。そろそろ他の委員たちも戻ってくる頃だしな。
あっ、その前に一つ質問いいっすか? ドナティスト論争でしたっけ、さっきの話聞いてたら、ずっと気になってること思い出しちゃったんで。
急に声が真剣なトーンになった後輩に、成田も笑うのをやめて向き直る。
おや、どんな質問かな? 神学部の後輩の頼みだ。組織神学の内容なら、答えられる範囲で答えようじゃないか。
じゃあ遠慮なく……同性愛の聖職者って、キリスト教の教義・教理的にはどうなんすかね? ありですか、なしですか?
松野はふと、昨日弥生と話していた内容を思い出す。成田先輩がどこの教派の出身かはまだ知らないが、京子の質問にグッと顔が引き締まったところを見ると、やはり難しい事柄なのだろう。場合によってはキリスト者同士が激しく対立する話……彼はどう答えるのだろうか? 一瞬、シンとした静けさが部屋の中を満たしていた。