第6話 これが守護聖人の防御力です。
文字数 4,591文字
掛け声と共に、成田の手元から四つの光線が放たれる。それぞれ、赤、黄、緑、紫の光が松野の四肢に直撃した。右腕には物理的に刺されたような痛み、左腕には一瞬で凍ったような冷たさ、右足には足枷を嵌められたような重み、左足には見えない沼にはまったような感覚が加わる。異なる種類の攻撃を一度に受け、松野は体をピクリとも動かすことができなくなった。
くっ、なんという重さとパワー……体が全く動きません。四肢を別々の力で拘束する技というわけですか。
ふふ、やはりさっきのは付け焼き刃の反駁技。広範囲の神学は予習していなかったようだな。クワドリガはラテン語で「四重の」聖書の意味を表す専門用語……中世初期の教会で支配的だった「字義的に」「寓喩的に」「道徳的に」「神秘的に」聖書を解釈する四つの方法のことだ。
そう、アウグスティヌスによって整えられたこの方法は、聖書には字義通りの意味に加えて、そうでない三つの意味があることを前提とする。寓喩的意味は「キリスト者が信じるべきこと」、道徳的意味は「キリスト者が為すべきこと」、神秘的意味は「キリスト者が望むべきこと」とされ、それらを聖書のテキストから語ることが説教の目的と考えられた。このように、「四つの方法で自分なりにテキストの意味を固定する」というイメージから、成田は対象を拘束させる力を編み出したのだ。
クワドリガは最初の攻撃で四秒、次の攻撃で八秒、さらにその次の攻撃で十二秒と、数を増すごとに拘束する時間と体感するダメージも増えていく。そのまま連続で攻撃を受けて沈みたまえ!
連撃、クワドリガ!
動けない松野に対し、再び四つの光線が容赦なく襲いかかる。
しかし、茜の大声と共に、松野の目の前で光り輝く聖人像が現れる。聖ヒエロニムス……ラテン語に翻訳した聖書、ウルガータを作ったキリスト教の聖職者であり、正教会、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会で聖人とされる超大物神学者である。
何っ!? 四大ラテン教父の一人を咄嗟にイメージして守っただと!?
驚きながらも、成田は続けてクワドリガを唱え、次々と松野に攻撃を加えていく。だが、彼の前に立ちふさがったヒエロニムスの聖人像は、四つの光線をその身一つで受け止め、決して松野には当てさせない。
大丈夫、松野くんは聖書学を専門に勉強する神学生なんだよね? 聖ヒエロニムスは聖書学者の守護聖人でもあるから、松野くんに向かってくる攻撃は絶対に当てないように守ってくれるはずだよ。
ふっふっふっ……面白い! 小さい頃から触れてきた聖人への崇敬と、神に対する絶対的な信頼が組織神学専攻の僕の力を凌駕するとは……素晴らしい、素晴らしいよ茜くん! だが、僕はまだ松野くんを認めたわけじゃない。悪いが、もうしばらく付き合ってもらおう。
テンション高めに笑いながら叫んだ成田は、いったい何を思ったのか、松野の前に立ちふさがるヒエロニムスの聖人像に向かって勢いよく突進していく。相手はクワドリガを受けても平然としている聖人像……どう考えても、ぶつかればただでは済まない! 思わず松野は彼に叫ぶ。
成田先輩、いったい何を? 組織神学の使い手に自らの身体能力を強化するような力はないはず、守護聖人相手にぶつかっても自殺行為です!
ふはははは! 組織神学の使い手は、議論ばかりに終始している頭だけの人間だとでも思ったかい? 現在ヨーロッパ、アメリカ、アジア、アフリカといった世界中で活躍している神学者たちは、社会における教会の使命と働きを真剣に訴え、それぞれのフィールドで差別や貧困の問題とも戦っている実践的な教師たちだ。僕だって決して頭だけの人間じゃないってことさ!
そう、時折牧師の中でも、「世の中の問題に関わらない神学の勉強なんて自分はしない」という人間もいるが、そもそも神学は世の中に関わるからこそ生まれてきた学問だ。著名な神学者の中にも、人種差別に反対するデモに参加して捕えられたり、貧困の問題に奔走している人たちがいる。成田もまた、ペラペラと知識を語って突っ立っている人間ではない。自らの正義と信念に基づく、熱い心の持ち主なのだ! 相手がどれほど丈夫な聖人像であろうと、かまわず猛スピードで突進していく。このままでは衝突で打撲か骨折は免れない。するとその時、彼が全力でぶつかる寸前に、聖ヒエロニムスの聖人像がフッと姿を消したのだ。一瞬、何が起きたのか分からず、松野と茜は息を飲む。
勘が当たったな。確かにヒエロニムスは聖書学者を対象とする守護聖人だ。ただし、その守護対象は学校・学問関係において相当幅広い。子どもに学生、考古学者に図書館員、そして神学者……ちなみに僕は、図書館でのアルバイトもこなし、将来神学者になろうとしている苦学生だ。つまり、僕自身もれっきとした聖ヒエロニムスの守護対象……こちらからぶつかって行けば、衝突して僕を傷つけることないよう、自ら消えて守るしかないというわけさ!
あちゃ〜〜そういうことか。ごめんね、松野くん。やっぱり自分でガンバだ! ファイト!
茜は申し訳なさそうにするが、今の時間で松野も態勢を立て直せた。感謝しつつ、気を引き締めて返事をする。
十分です! 四肢の痺れも取れました。反撃させてもらいましょう。
今度は懐から札のようなものを出し、悪霊を退治するアニメシーンのように次々と投げ放っていく成田。神学生というより、まるで霊媒師のようだ。やがて、彼の放った札は空中で炎を纏い、松野を囲むように燃え上がる。
こっ、これは煉獄をイメージした炎? インドゥルジェネティアという言葉は初めて聞きましたが、おそらくラテン語……キリスト教で煉獄の炎と紙の券と言えば「贖宥状」! なるほど、その炎に一度触れれば、こちらが罪を悔い改めるまで焼かれ続けるということですか。
インドゥルジェネティア……松野が予想したとおり、ラテン語で「贖宥状」を意味する言葉である。一般的には「免罪符」という言葉でよく知られており、十六世紀に教皇庁から発行され、「購入すればその人の罪が赦され、煉獄での苦しみを免れることができる」と言われた代物である。もちろん、そのような券を買えば罪を赦してもらうことができる、といった教えは聖書になく、やがて次々と現れる宗教改革者たちによって批判されることになった。
そのとおり。煉獄はカトリックの教義で、人が罪を清めて天国へ行くまでの中間地点。罪を清める浄化の炎は、その人の罪が完全に燃え尽きるまで消えることはない。松野くん、君も年齢を正直に認めるまでは、いつまでも僕の炎で燃やされるといい!
おやおや……認めるも何も、私は正真正銘の十八歳。身に覚えのない嘘で燃やされてはたまりません。ですが私も、贖宥状については反駁したルターの基本路線を知っています。高校の世界史にも出てくる有名な言葉なら、組織神学の専攻でなくても分かるからです!
恵みのみ、キリストのみ、信仰のみ、聖書のみ!
ところが、イコノクラスムに対してプロスキュネシスを唱えたときのように、反駁技は綺麗に決まらない。一瞬、松野を囲む炎の壁が若干揺れただけで、特に何の変化もない。
皮肉なものだね。堕落した聖職者を批判するルターの路線を松野くんが唱えられるとは。ただ、残念なことに僕のインドゥルジェネティアに対する反駁技は、同じラテン語じゃないと通じないのさ。君に勝ち目はないというわけだ。はっはっはっ……!
それなら私、たぶん分かるよーー
ソラ・グラティア……ソラ・クリストゥス……ソラ・フィデ……ソラ・スクリプチュア!
詰まりながらも正確に答えた茜の言葉によって、インドゥルジェネティアの反駁技が今度こそ決まり、煉獄の炎が見る見るうちに消えていく。
何っ! カトリックの茜くんが宗教改革、ひいてはプロテスタントの基本路線を答えられるだと!?
お父さんが子どもの頃は、日本のカトリックでもまだラテン語で礼拝してたから。神学部入る前にちょっと教えてもらったの。
無邪気にそう言う茜に対し、成田はダラダラと汗を垂らす。正直、松野だけを試すつもりで始めた戦いだったが、ノーマークだった彼女の方が実質自分を追い詰めている。
なるほど、ウルガータの翻訳者ヒエロニムスの聖人像を具現化できるだけありますね。茜さんの素で身についているカトリックのポテンシャルが高すぎてデタラメなことになっています。
そう、本気を出した成田との戦いで、松野はまだ何もしていない。ここまでは、ほぼ茜のサポートがあったから何とかなってきた。自分の力を見せるなら今しかない。
私も負けていられません。昨日の戦いでコツを掴んだ私の力……必ずや先輩にも認めていただきましょう。
ノアの洪水!
掛け声を挙げて大きく振りかぶった松野の手から、キラキラと汗が飛び散っていく。
ふんっ、洪水だと? 自分の汗で雨でも降らせるつもりか? さっきまで拘束されて動けなかった松野くんが、そうたくさんの汗をかいているとは思えない。四十日四十夜振り続けたと言われる大雨を再現するなんて、無理にもほどがあるだろう。
確かに、普通ならそうでしょう。しかし、今の私はいつもの私ではありません。誰かさんのおかげでホカホカと体が温まって仕方ないのですよ。
呟いている間にも、オーケストラの指揮者のように両腕を振り回す松野から、ものすごい勢いで汗が飛び始める。いつの間にこれだけの汗をかいたのか分からないが、彼の唱えた洪水物語のイメージも相まって、空中で一粒一粒の汗がさらに大きくなり、多くの水滴へと分裂していく。
何っ! 本当に雨のように汗が……いったいなぜ? いや、まさかこれは!
ご察しのとおり、あなたがご自分で淹れてくださったコーヒーのおかげです。あまりの味わい深さに私の心拍数は上昇し、血液が全身を駆け巡り、発汗作用がこれほどまでに促されたのですよ。
雨のように降り注ぐ他人の汗へ突っ込みたいという人はまずいない。至近距離まで近づいていた成田は、慌てて後ろへ後退する。そう、松野は弥生との戦いで、彼女の竜巻から静電気を蓄えたように、自分に襲いかかる人間から力を吸収し、新しい技へと変えてしまう才能を開花させたのだ。
「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」……レビ記19章18節の言葉です。たとえ、一目見ただけで年齢詐称と疑われようが、突然襲いかかってこられようが、不思議とあなたがたを憎めないのは、伝道と礼拝に対する真摯な思いが伝わってくるからです。分かってもらえず腹も立ちますが、敵ながら尊敬するものがあるのは事実……その信念と正義感から繰り出される一つ一つの力、むしろこちらで吸収し、隣人になるまで付き合っていただきましょう!
なるほど……これが弥生くんの認めた彼の力。面白い、僕のもてなしからここまでパワーを引き出すとは! ならば、これも君に受けられるかな?
互いに一瞥した後、再び成田から攻撃が繰り出される。しかし、その表情はさっきまでと違い、戦う相手への尊敬と期待で満ちていた。
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