文字数 2,480文字

指に纏わる絹、きっとあの蜘蛛の糸はこの糸でありましょう。たおやかな繊維がはらはらほどけ、微かな音をたて仄かに香りました。静かな呼吸に耳を澄ませ、滑らかな丸みから生え揃った放射状へ緩慢に指をつたわせます。青々とした眉下には、海底にうずまったような固さが絶えず放たれる熱を少しだけ弱めています。屈曲した硬さをなぞれば、指がすっぽりと嵌り込み、ぽっかりとした深さを探ると、指の腹に細かく振動する球体を感じました。球体の先はゆるゆると震え、熱くやわらかく、この触れてはいけない密度を圧し潰したらいったいどうなってしまうのでしょうか。わたしは、溜め込んでいた息を吐き出しました。球体の間にはそびえる核があり、静かに高さを落としていきます。少しの曲線の流れに身を任せると指と指が離れていき、弾性のある箇所で指が止まります。指先が生々とした空気にくすぐられました。微かな甘い匂い。そう、ここが一番かわいいのです。間抜けとでもいうべきか、神聖な柔さや物質といった硬さ、それらを支える異なった温度の中でひとり奇妙な質感を誇っている様は非常に愛らしく、ひとしきり手で弄んでしまいます。それからすっと指を下すと触れる薄さ、光沢のある花びらのような瑞々しさは蕩けてしまいそうです。軽い膨らみから指先が落ち私は名残りが惜しく、糸を引くように爪先を離しました。
ほんとうに、顔には人間というものが詰まっているようです。
起きて毎朝あなたの顔を確かめる。
それはいつもと同じように、今日も私にとって生きる上での大切な儀式でありました。

私の目は見えません。
生まれてから少しばかりは目が見えていたようですが、物の心着くころには私の目は完全に不自由となりました。何故目が見えなくなってしまったか、先天的なものなのか感染病やら、その理由は定かでは有りませんが今となっては気にかけるに足らないことです。とは言ってもやはり一人だけで生活していくのは困難ですから、私には常に私を支えてくれる竜胆という方が居ります。
「お嬢様、そろそろ夕餉に致しましょうか。」
竜胆は、私のことをお嬢様と呼びます。私たちは何も主従関係を結んでいる訳でないのですが、竜胆は頑に私と対等になることを拒みました。私はそれが納得いかずに居ますが、竜胆はそうでなければどうしても落ち着かないのだそうです。
「こちらですお嬢様」
この屋敷は竜胆と二人で生活するにはとても広く、もっぱら私たちは庭に面した室内で過ごしています。目が見えないゆえに私たちはいつも一緒でしたから、余計に屋敷の方は寂れたように感じているでしょう。私たちの足音、呼吸、家事をする音、話し声、生きた匂いは薄くひろがり、軋みながら日々を描いています。
「今日は鰆かしら。」
「さすがですね、お嬢様」
私は目が不自由な代わりに、まあ一つの感覚を失った大抵の人がそうでしょうが、わたしの嗅覚や聴覚は優れています。ですから、今日の夕餉の献立をあてる位なら造作もありません。口を開けて、わたしの箸に添えられた竜胆の手の通り飲み込みます。
「美味しい」
「ありがとうございます。」
食べ終えるころには、周りの空気は冷えていました。鎮まる夜になったのでしょう。
満腹感から眠たくなった私は竜胆を捕まえてもたれ掛かりました。
「全く、もう赤子ではないのですからね。」
そうは言いつつ、髪を撫でられ、眠くなってしまいます。
「お嬢様の睫毛は、飴細工のように細いですね。微睡んで蝶の羽のように羽ばたいています。」「髪はしなやかで皮膚に馴染み、一本一本に銀が閉じ込められたような艶が眩しいです。」「肌は白百合よりも清らかで、触れれば焦がされる程です。頬の血潮が透けて、じんわり熱さが手に滲みます。」
竜胆はいつも私の容姿を事細かに描写して感嘆を述べます。昔は気恥ずかしくあった気がするのですが、今ではすっかり慣れてしまいました。そのときだけ饒舌で、楽しそうで、私のこと以外にも、周りの景色や物を詳しく教えてくれます。
ほんとうに竜胆がいれば目なんて必要ないのです。なぜ私のために生きてくれるのか聞くと、決まってお嬢様がここにいるのと同じですよと言うだけでした。
「お嬢様、お湯の準備が整いましたよ。」
気づいたら眠ってしまっていたようでした。囁かれて渋々起き上がります。纏っていて布を落とし、湯船に足を差し込むと肌に温かさが吸いつきました。飛沫の跳ねた音を掴もうと水中で指を切ると、液体は細かくなり、再度私を包み込みました。こうも面白いのは形がないからでしょうか。ぬるく、こうやって、水の中で手や指を動かすたびに動く筋を覚え私も組み立てられたものであると気づくのです。目が見えない故でしょうか、わたしはあまりものを一つとして捉えるのが苦手でした。部分、部分でしか見えないのです。
「体が温まりましたら、髪を流しましょうか。」
慣れた手つきでぬるい湯をかけ、私の地肌を揺り動かします。竜胆の鼻歌が浴室に響き渡り、切れの長い発音を並べその末尾の音はほどけ空間を漂いました。私も真似して茹だった音で口ずさみます。はねかえった響きは気分が良いです。
「お上手です、お嬢さま」
夜風は清廉につき抜け、しみた匂いが手で溶かした氷のように広がります。体を元の冷たさに戻している間に、竜胆は何時ものようにさらさらと日記をつけていました。
「今日は何を書いているの?」
「そうですねぇ、一日の献立やお嬢さまの伸びてきた髪が濡れ鴉のようだったとかご一緒に歌ったこととか、いつもと変わらず今日の出来事を書いております。」
「読んでみせて」
「なら今度文字をお教えしましょう。お嬢様は賢いのできっとすぐ覚えられますよ。」
残念で堪りません。隠れて日記を読むことができればいいのですが、わたしは生涯竜胆の字体を見られないのでしょう。竜胆の顔もいつも助けてくれる手も感じることはできても見ることはできない。
「りんどう、今日もありがとう。」
「おやすみ」
竜胆は絶対に一緒に寝てくれません。夜はどこかへ行っているのか、寝息を聞いたこともありません。
「おやすみなさいませ、お嬢様。」

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