三章:旅行者の目的〈六〉

文字数 5,208文字

 笄花が佐藤光一(こういち)を名乗る旅行者と出会ったのは、二十七年前の初春だった。
 買い出し中の笄花が、検非違使とはぐれ途方に暮れていた佐藤に声をかけたのがはじまりだった。
 まだ冬の気配が色濃く残っていたので、検非違使を探しつつ、笄花は馴染みの屋台で肉まんや甘酒を買い、佐藤と分け合った。その後、無事、検非違使と合流することができた佐藤は、笄花に何度も感謝の言葉を述べ、また会えないかと言ってきた。
 佐藤は、上背のある身体にややよれたスーツを纏った二十代から三十代くらいの温和な男だった。物腰もしゃべり方もゆったりしていた。年若い笄花には、それらが大人の余裕に見え、短い時間で憧れと尊敬の念を抱いていた。そんな相手からのお誘いに、飛びつかないはずがなかった。
 三度目の街歩きで手を繋ぎ、五度目で肩を抱かれ、六度目で「好きです」と言われた。すっかり佐藤に夢中になっていた笄花は、一も二もなく「私も好きです」と返した。しかし当時の笄花は学び舎を卒業したとはいえ、十代後半──大海の島では、まだ未成年に分類される年齢だった。佐藤も旅行者という立場だったので、真剣に将来を思えばこそ、節度あるお付き合いをすることになった。
 数日置きに迎賓館近くの路地で落ち合い、街を散策したり、喫茶店でのんびりしたあと、次に会う日時と場所を確認する──時間にして一時間程度の逢瀬だったが、笄花は満足していた。
『日本に帰ったら手紙を送るよ』『いつか一緒に日本で暮らそう』『君の好きなものを一つでも多く知りたいんだ』──佐藤はいつも甘く綺麗な言葉をたくさんくれた。それがすべて愛から生じたものだと、笄花は信じて疑わなかった。
 そんな中、陽之大祭を案内してほしいと言われ、笄花は舞い上がった。
 陽之大祭が終われば佐藤は大海の島に帰ってしまう──その前に、一番素敵な思い出を作ろうと、屋台の場所やイベントの時間など、念入りに調べて準備した。
 そうして迎えた陽之大祭当日──午前中は、旅行者同士の付き合いがあるので、午後一時半にいつもの場所で落ち合おうと言われ、笄花はできる限りのお洒落をして家を出た──のだが、十歩ほど進んだところで慣れない靴を履いていたため盛大に転んでしまった。しかも転んだ先が打ち水で泥濘んでいたため、一張羅のワンピースがどろどろになってしまった。
 笄花は泣く泣く引き返し、第二候補だった浴衣に着替えた。幸い、いつも三十分ほど余裕を持って待ち合わせ場所に行くようにしていたので、約束の時間には、十分間に合った。道すがら周囲が何やら騒がしかったが、笄花の頭の中は、佐藤のことでいっぱいだったため気にせず先を急いだ。
 しかしいつもの路地に佐藤の姿はなかった。
「佐藤さん?」
「笄花ちゃん。こっちだよ」
 愛しい声は、路地裏から聞こえてきた。
 笄花が路地裏に入ると奥まったところに佐藤が笑顔で立っていた。
「佐藤さんっ!」
 思わず駆け寄ると佐藤は優しく笄花を抱きしめてくれた。
「待っていたよ、笄花ちゃん。来ないかと思って冷や冷やしたよ」
「ごめんなさい。でも、私が佐藤さんとの約束を破るわけがないでしょう?」
「そうだね。でも、今は非常事態だから……」
「非常事態? そういえば、なんだか騒がしかったような……」
 小首を傾げる笄花を見下ろし、佐藤は、ふっと笑った。
 ぞわっ──夏至だというのに笄花は背筋が寒くなった。自分を見下ろす佐藤の視線が、なんとも気色悪く思えたのだ。値踏みするような、品質を確かめるような──ともかく、まかり間違っても大切な人に向けるものではなかった。
 反射的に佐藤の肩を押しのけ距離を取ろうとしたが、佐藤が抱擁を強めたため、逆に密着度が上がってしまった。
「笄花ちゃん。君は本当に可愛いね。──愚かで馬鹿で、本当に可愛い……」
「佐藤、さん?」
「本気で一緒になれると思っていたの? 馬鹿だなぁ……お前たちみたいな人間もどき、遊ぶか売るか以外、使い道なんてないだろう?」
 ニィッと口の端を釣り上げ、佐藤が笑う。抱きしめられているため笄花からその笑みは見えなかったが、肩越しに佐藤の背後に用意された中身の入っていないスーツケースを見て、頭が真っ白になった。
 大口を開けるような姿で地面の上に置かれたそれと、佐藤が口にした売るという言葉が、笄花の中で繋がったのだ。
「しかし、いつもは時間より早く来るお前が中々来ねぇから少し焦ったよ。ばれたとは思わなかったが、無理矢理避難させられている可能性はあったからな。妖怪──じゃなかった、ウツロ、だったか? あれってお前たちの天敵なんだろう?」
「……騒がしかったのは、ウツロが出たから?」
「出たって言うか、俺が何体か作ってばら撒いた。蠱毒って知ってるか? 一つの壺の中にたぁ~くさん虫とか入れて殺し合いをさせるんだ。そうして生き残った個体は、呪いの道具として重宝される。それと同じ要領で、強ぉ~い妖怪を作ったんだ」
「……どうして?」
「非常事態って便利だよな。どさくさに紛れて女一人攫ったところで、まず攫ったことにも中々気付かれない。気付いたところでなぁ~んにもできない! まぁ、そういうわけだから──……」
 佐藤は左手で笄花の肩をしっかりと掴みながら、右手でポケットからハンカチを取り出した。薬品の臭いが、つんっと鼻をついた。
「約束通り、一緒に日本で暮らそう、笄花ちゃん。まぁ帰る場所は別々だけどな」
 満面の笑みを浮かべた佐藤が、ハンカチを近づけてくる。
「大丈夫。少し深く眠るだけだ。依存性も後遺症もない」
 夢の中にいるような、ふわふわとした心地で笄花は佐藤を見ていた。
 ──この人は、誰?
 ──何を言っているの?
 ──私は、どうなるの?
 疑問は浮かべど、どうすればいいのか、何をすればいいのか、考えることができず、汗ばむほどの気温の中で、ただただ表情を凍てつかせ、小刻みに震えることしかできなかった。
「あなたたち‼ こんなところで何をしているの⁉ 早く逃げなさい‼」
 涼やかな声が笄花の後頭部に叩きつけられた。
 はっとして振り返ると、二十代後半と思しき女性が路地裏の入り口に立っていた。ほっそりとした顔に険しい表情を浮かべているが、それでもなお、美しいとわかる造りをしている。身体の線が出にくい、ゆったりとしたワンピースを身につけ、紫色の輝きを放つ黒髪を簪で一つにまとめている。
 女性は、笄花と佐藤を順に見てから、佐藤の手にあるハンカチに気づき、片眉をぴくりと動かした。佐藤もその一連の流れに気付いたらしく、ハンカチを隠すべきか否か迷い、笄花の肩を掴む手が一瞬、緩んだ。
「放してっ!」
「──っ⁉」
 その隙を逃さず、笄花は佐藤の手を振り払い、女性がいる路地裏の入り口に向かって駆け出した。
「待てっ!」
 すぐに佐藤が追ってくる。歩幅と速度は佐藤の方が上だった。すぐに追いつかれ肩に再び佐藤の手が触れる──直後、笄花の横を風が通り過ぎ、佐藤の手が離れた。
 足を止め振り返ると、女性が佐藤の両腕を掴み引き留めていた。
「止まらないで‼ 早く逃げなさい‼ 通りに出れば陰陽師か検非違使が安全な場所に案内してくれる‼」
「あっ……」
「逃げなさい‼」
「──っ!」
 笄花は走った。佐藤と女性が言い争う声が聞こえたが止まらなかった。
 路地に出ると多くの人が逃げ惑っていた。どうやら複数のウツロが出現し、死者も出たらしい。検非違使や陰陽師が大声で誘導している。笄花はそれに従って、ひたすら足を動かし続けた。
 目からは、止めどなく涙がこぼれ続けていた。

     ☯

 身体が揺れている──そう自覚すると同時に笄花の意識は急浮上した。その勢いのまま目を開くと、薄闇の向こうにうっすらと見覚えのない板壁が見えた。窓はなく、笄花が横たわっている床も板敷きで、天井も板材でできている。
「ここは……」
 呟いたところで気を失う前に何が起きたのか思い出し笄花は唇を噛んだ。。
 ──スマートフォンから聞こえてきた、かつて大事件を起こした元恋人の声。
 ──その元恋人が息子と呼んだ旅行者。
 ──旅行者と親しげだった人の姿をしたウツロ。
 何か大変なことが起きようとしている──その事実に笄花は身体を震わせた。
 しかしいつまでも寝転がっているわけにもいかず、上体を起こそうとして足首と手首がそれぞれ紐で括られていることに気付いた。痛くはないが緩みもしない。それでもなんとかならないかと、身体を起こしてから上に下に右に左に手足を動かす。
 髪を結っていた紐も切れてしまったらしく、動くたび顔にかかる髪が鬱陶しい。
「笄花さん、笄花さん」
「ひ──っ⁉」
 不意に背後から名前を呼ばれ危うく大きな声が出そうになった。慌てて口を閉じ、振り返ると、壁を背に座る人影が二つ見えた。じっと見据えていると、目が暗闇に慣れてきたらしく、徐々に輪郭がはっきりしてきた。
「──っ! 梫太郎さん……それに、田村さんも」
 二人は笄花と違い、肩の辺りから腰の辺りまで隙間なくぐるぐる巻きにされていた。足も足首から膝まで念入りに紐が巻かれている。
「守り切れず、すみませんでした。お身体は大丈夫ですか?」
 梫太郎が身を乗り出しながら心配そうに問いかけてくる。その声は、先ほど笄花を呼んだものだった。いつもは張っている声を抑えているので少し違和感があった。
「私は大丈夫です。梫太郎さんこそ大丈夫ですか?」
「鍛えてますので」
 梫太郎は、にっと歯を見せて笑った。
「田村さんは……」
 田村は、梫太郎の隣でうつむいていた。寝ているわけではなく床の一点を静かに見つめている。前に会った時は、明るく騒々しい印象だったが、今は近寄りがたいほど静謐な空気を醸し出している。──と、田村が顔を上げ、笄花を見てへらりと笑った。途端、近寄りがたさが霧散する。
「あ~ごめんごめん。ぼうっとしてた。梫太郎ちゃんから何があったか聞いて……いやぁ、流石の俺もショックだよ。まさか身代わりにされるなんて……」
「身代わり?」
「すみません、笄花さん。先ほど路地裏での鈴木さんとの会話を聞いてしまったのですが、それと自分が持っている情報を合わせた結果、鈴木さん──いえ、鈴木渓は、この国で自らが起こし、そしてこれから起こす罪のすべてを田村さんに被せるため、彼を拉致監禁したということがわかったのです」
「そんな……」
 梫太郎の話を聞き笄花は目眩を覚えた。
 田村と鈴木は古くからの知り合いではないと聞いている。竜之国に来てから勝手に組み分けされ、一緒に行動することになった他人なのだと、以前、田村が吹聴していた。しかし笄花の目には、二人は気の置けない友人のように見えていた……そんな相手に、自らの罪を押しつけるなど、笄花には考えられないことだった。
 不意に梫太郎と田村が背中を預けている壁の向かい側から扉が開く音と共に光が差し込んできた。笄花がそちらに顔を向けると逆光の中に人影が見えた。
「──っ、渓ちゃん」
 田村が人影の名を呼ぶ。部屋に入ってきた鈴木は、スーツの上着を脱ぎ、眼鏡もしていなかった。整えていた髪も乱され、まるで別人のような気怠げな雰囲気を纏いながら、開け放たれた出入り口に佇み、笄花たちを見下ろした。
「あ~悪いな。ここ、壁とか薄いから話が丸聞こえでね」
 申し訳なさそうに頭を掻きながら、鈴木は苦笑を滲ませた。
「弁解はしない。この状況でしても無意味で滑稽なだけだからな。まぁ詰まるところ俺は悪いことをするために、この国に来た悪い人ってわけ。一応、鈴木渓って名前で戸籍は持ってるけど、普段は夜刀って呼ばれてる。笄花さんに佐藤光一って名乗ってたのは、俺の上司……で、父親の野槌」
 鈴木──夜刀は、大股で部屋の中央まで進むと、膝を折り曲げ、座っている一同と視線を合わせ、にこっと笑った。
「計画にないことばっか起きたけど、まぁなんとかなりそうだ。あんたたちのことも直接殺す予定はないから、そこは安心してくれ」
「鈴木渓‼」
 部屋が梫太郎の声で震えた。
 夜刀も軽く目を瞠ったが、すぐにつまらなそうに梫太郎を見た。
「俺は夜刀だ」
「ならば夜刀‼ 本当に、多数のウツロを街に放ち‼ この国の民を攫うつもりなのか⁉」
「あ~……そこなんだが、俺の目的は、女じゃない」
「何⁉」
「野槌からは、至竜の女か竜之卵、どちらかを持ってこいと言われたが、それももうどうでもいいんだ」
「ならば夜刀‼ あなたの目的はなんだ⁉」
「……もしかして交渉するつもりか? なら無意味だぞ」
 すっと立ち上がった夜刀の顔から、表情が抜け落ちる。
「俺の目的は、俺の竜之卵を取り戻すこと──それだけだ。それさえ達成すれば、あとは誰が死のうが生きようが滅びようが……どうでもいい」
 そう言って微笑んだ夜刀の、世界を拒絶するように濁った双眸が、一瞬、紫色の輝きを放ったように見えた。
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