序章:一之姫の初恋

文字数 5,309文字

 人は死に、竜になり、大地に帰る物語。


 鮮やかな紅葉が天を覆っている。
 黄櫨染之扇(こうろぜんのおうぎ)は、湿った土と落ち葉の匂いが充満している山道を屈強な近衛の肩に担がれた状態で下っていた。周囲には他にも数名の近衛がいる。年も体格もばらばらだが、皆一様に憔悴した顔つきをしている。
 頬に当たるが風がひどく冷たい。
 絶えることのない甲高い音が耳朶を打ち頭を揺らす。
 真新しい山吹色の狩衣は薄汚れ、自作の組紐で束ねた髪もひどく乱れている。
 どこか霞掛かった意識の中、どうしてこうなったのか扇は自問した。

     ☯

 扇は、太平洋の上空に浮かぶ天之大地全域を治める竜之国の君主、竜皇の第二子として生を受けた。第一子が男児なので、一之姫と呼ばれている。
 年は十一歳。まだまだ幼さが色濃いものの母親に似て秀麗な顔立ちをしている。
 今日は紅葉狩りだった。
 皇族が自らの足で山を登り山頂でささやかな宴を催す。年間行事の一つだがそれほど格式張ったものではない。日程も参加する皇族も毎年違う。去年は兄妹五人で一緒に登ったが今年は全員、日程も場所もばらばらで扇が一番乗りだった。
 早朝、父である竜皇と義母の皇后、実母の中宮に出発の挨拶をしてから山の麓まで輿で移動し、そこから近衛六名、陰陽師五名と共に山道を登りはじめた。
 竜之国の陰陽師は占い師ではない。陰陽五行の知識と至竜固有の能力である竜道(りゅうどう)を使い、至竜を襲う怪異──ヒソカやウツロを滅する武官だ。中務省に陰陽寮は存在せず、代わりに多くの権限を与えられ半ば独立機関と化している陰陽官に所属し、日々人々を守るため鍛練と見回りに励んでいる。
 陰陽師の中に背が高く長い髪を後頭部の高い位置で括った二十歳前後の精悍な青年がいた。橙色の糸で陰陽官の紋章である丸に五芒星が刺繍された薄紫の狩衣を纏い、太刀を佩き、程よく使い込まれたスニーカーを履いている。
 二大貴族である蘇芳之(すおうの)一族宗家の末子、蘇芳之天馬(てんま)だ。
 十一歳という若さで陰陽師の見習いに当たる陰陽生になった神童で、親同士が決めた扇の婚約者でもある。
 二人がはじめて顔を合わせたのは四年前、扇が七歳、天馬が十七歳の春だった。
 当時の天馬は、まるで仮面を被るように笑みを浮かべていた。
 周囲は、そんな天馬に気付いているのかいないのか誰も指摘したり注意したりしなかった。扇はそれがどうしても気持ち悪かった。笑顔というものは、もっと気持ちいいものだと思っていたし、そうあってほしかった。
 なので二人きりになるや否や「きみのえがおは、にせものだ」と言ってしまった。
 天馬は虚を突かれたような顔をしたものの、すぐに片膝をつき、真っ直ぐ視線を合わせながら「本当に笑えるよう、精進します」と言ってぎこちなく──しかし、偽りではない笑みを浮かべた。
 その真っ直ぐさに扇は一転、好感を覚えた。そして何度も会ううちに、優しく真面目で……実は結構ドジな婚約者に少しずつ好意を抱くようになった。この想いが愛や恋なのかと問われると正直わからないが、これから先の人生を天馬と共に歩むのだと思うと、にこにこしてしまうくらいには、好いている。
 今日は婚約者ではなく陰陽師として同行しているので不用意に声をかけることはできないが、たまに他の陰陽師や近衛の隙を突いて目配せをしたり手を振ったりしてくれるので、扇は照れくさいやら嬉しいやらで、ずっと浮かれていた。──無論、一人前の武官や陰陽師がその初々しい空気に気付かないはずもなく、微笑ましそうに、甘酸っぱそうに、悔しそうに、眩しそうに、それぞれ若い二人を見守っていた。
 事態が急変したのは、六合目を過ぎたあたりだった。
 最初に気づいたのは扇だった。
 それまでのふわふわした気持ちが一瞬で吹き飛ぶほどの怖気を覚えたのだ。
「戻ろう! この先は危険だ!」
 そう言って足を止めた幼い姫にほとんどの大人は苦笑を滲ませた。「疲れた」「飽きた」と言うのが恥ずかしくて、それっぽいことを言っているのだと思ったのだ。
 しかし天馬を含めた数人──壮年の陰陽師、小柄な陰陽師、屈強な近衛、痩躯の近衛は、いつでも得物を構えられるようにしながら素早く周囲をうかがい、気づいた。
「来ます」
 天馬が太刀を抜きながら淡々と事実を述べる。その声と表情に余裕はなかった。
 それまで澄んでいた空気が澱み、湿っぽさが増し気温が一気に下がると、木々の間や道に落ちた影などから次々と異形が──ウツロが姿を現した。四足獣のようなモノから人によく似た姿のモノまで、二十体近くのウツロが一行を取り囲む。
 異常な数だ。それでも半狂乱で悲鳴を上げたり腰を抜かさなかったのは、彼らが優秀だからということも一因に挙げられるが、最も幼く守られるべき立場の姫君が怯えを滲ませながらも気丈に振る舞っていたことが最大の要因だろう。
「ここは我ら陰陽師が引き受けます。近衛の方々は一之姫さまをつれて下山し応援を呼んでください。この数は異常です。百鬼夜行の前触れかもしれません」
 壮年の陰陽師の言葉に一同は行動で応えた。
 近衛は扇の傍に集まり、陰陽師はそれぞれ臨戦態勢を整える。
「道を作りますっ!」小柄な陰陽師がウツロの一角に向けて両手をかざすと、掌が黒く輝き、そこから大量の水が溢れ出た。水は一本の激流となり数体のウツロを一気に押し流す。
「行きますぞ!」叫びながら痩躯の近衛が先陣を切る。抜き放たれた太刀は青く輝き、刀身に雷を纏っている。
 ウツロの囲いを抜けた扇と近衛は登ったばかりの山道を駆け下りた。
 背後からウツロの断末魔や打撃音、剣戟のような音が絶えず聞こえてくる。
「振り返ってはなりませんっ!」後ろを気にする扇に殿を務める屈強な近衛が吼えた。扇はぐっと唇を引き結び手足に力を込め走ることに集中した。
 やがて背後の音は聞こえなくなり空気から澱みも消えた。扇を取り囲む近衛たちも足を止めることはなかったが明らかに速度を落とした。
「一之姫さま、大丈夫ですかな?」
「大丈夫だ! まだ走れ──っ⁉」
 先を行く痩躯の近衛の問いに応えた直後、頭上から飛来した黒い縄状のものが扇の身体に巻き付き、その華奢な身体を勢いよく斜め後ろに引っ張り上げた。
「「「「姫さまっ!」」」」近衛たちが切迫した声を上げる。
 急な浮遊感と悍ましい気配に吐き気を覚えながら扇は自身の身体に巻き付いたものを見た。蛇だ。胴回りは扇の腕よりも太く、鱗は金属のような輝きを放ち、酸化した血のような黒い目がじっとこちらを見据えている。
 蛇の胴体を辿り視線を落としていくと焦げ茶色の獣毛に覆われた胴体に行き着いた。太い前足と後ろ足を覆う獣毛は黄色に黒の縞模様が施され、こちらを見上げる頭部には光の当たり具合で金色にも見える薄茶色のふわふわとした獣毛が生えている。しかし目と鼻と口の周囲は毛がほとんどなく赤い皮膚が剥き出しになっていた。
 猿の頭、虎の手足、狸の胴体、そして尾は蛇。
「ヒィーヒィー」という鳥に似た鳴き声。
 それらの特徴を有する怪異を扇は知っていた。
 かつて大海の島にトラツグミという鳥とよく似た声で鳴く怪異が現れた。歪な獣の姿をしたその怪異を人々はいつの頃からかトラツグミの異名で呼ぶようになった。

「鵺」

 扇がその名を呼ぶと歪な獣の姿をしたウツロ──鵺はニィッと笑った。余裕の滲む表情に苛立ちを覚えたが、どんな反応をしても相手を喜ばせるだけなので精一杯平静を装った。その間も鵺は上昇していく。どうやら跳躍し最高高度に達する前に捕獲されたようだ。飛べるのにあえて跳躍したのか、それとも飛べないから跳躍したのか──どちらにしろ鵺のこの判断は扇には有効だった。
 やがて最高高度に達した鵺は、扇を鼻先に引き寄せた。
 どぐっ──と心臓が嫌な音を立て、冷えた指先が扇の意思を無視して小刻みに震え出す。それでも、じわりと滲んだ涙だけは、気合いで目の縁に留めた。
 ガパッと鵺が口を開く。生臭い呼気が溢れ出し、ずらりと並んだ牙からたらりと垂れた粘着質の液体が扇の頬に落ち──
「ヒィーーーーーーーーッ!」
「シャーーーーーーーーッ!」
 鵺と蛇が同時に目を剥き悲鳴を上げた。
 前後して扇の身体が重力に従い落下していく。蛇は身体に巻き付いたままだが先ほどまでの締め付けはなく目から光も消えている。胴体を辿っていくと途中ですっぱり切られていた。先ほどの悲鳴は断末魔だったのだ。
 喰らい付こうと鵺が必死に首を伸ばすが届く気配はない。
 よく見ると鵺の背後によく見知った陰陽師がいた。臀部付近に太刀を突き刺し鵺を空に繋ぎ止めている。蛇を切断したのも十中八九、彼だろう。
「天馬くんっ‼」
 手を伸ばしながら名前を呼ぶと、陰陽師──天馬は太刀の柄を両手で掴んだまま穏やかな笑みを浮かべた。しかしすぐに表情を引き締め「逃げろっ‼ 決して振り返るなっ‼」と聞いたことのない鋭い声で指示を飛ばした。待ち構えていた屈強な近衛と体格のいい近衛が二人がかりで扇を受け止め、巻き付いたままの蛇を剥ぎ取りながら屈強な近衛が「承知したっ‼」と応える。
「待ってくれ! 天馬くんが……」
「一之姫であらせられる、あなたの御身が第一です」
 屈強な近衛の言葉に扇は顔色をなくした。そして思い出す──否、改めて自覚する。自分は皇族──守られるべき立場なのだと。
 屈強な近衛は痛ましげに眉根を寄せたが、躊躇うことなく扇を肩に担ぎ上げ駆け出した。他の近衛も悲痛さを滲ませながらあとに続く。
 扇は、空の真っ只中で鵺と熾烈な攻防を続ける天馬を見た。
 あちこちほつれた狩衣は血と土にまみれ、左足は太ももから先がない。右目の周囲も引っ掻かれたのか抉れている。どこからどう見ても満身創痍だ。しかし天馬の表情に悲壮感はなかった。残った左目を虹色に煌めかせ、次々と火の玉や小刀を創造し、手を変え品を変え、目の前の敵をどう滅するか考え実行に移していく。
 扇は先ほど頬に落ちてきた液体を指先で拭った。
 それはよだれ混じりの血だった。──至竜の血だ。
 そんなものが鵺の牙についていた理由は、至竜を喰らったからに他ならない。
 満身創痍な天馬が単身で駆けつけたということは、上も逼迫しているのだろう。援軍はきっと望めない。そして近衛は対人には長けているがウツロとの戦闘にはそれほど慣れていない。自分たちが足手まといになると瞬時に理解したからこそ六合目でも即座に逃走を受け入れたのだ。我が身を惜しんだのではない。最悪、自分たちが壁となって確実に扇だけでも逃がすための布陣だ。
 状況を整理すればするほど死の気配が濃くなっていく……それでも皇族である扇にできることは、守られることだけだった。それを破棄することは、この場にいる全員の命を踏みにじることになる。扇が一之姫である以上、最も安全な最後尾から最前線にいる天馬をただ見ていることしかできないのだ。
 それでも──否、だからこそ、呼ばずにはいられなかった。

「天馬くんっ‼」

 声が届いたのか天馬が振り返る。そして──

「また会いましょう。待っていてください。扇姫」

 風に乗って聞こえたその声は、幻聴だったのか願望だったのか、それとも……。
 ずっと堪えていた涙が、感情が、堰を切った。

     ☯

「天馬くん天馬くん‼ いやだ、いやだよ‼ 天馬くんっ‼」
 鮮やかな紅葉が天を覆っている。
「そばにいてよ! 一緒にいてよ‼ 天馬くん‼」
 扇は屈強な近衛の肩に担がれた状態で山道を下っていく。
「私は! 私は……君のことが……」
 組紐が千切れ、漆黒の髪が風にたなびく。
「天馬くんの、こと、が、あ……あっ……」
 精一杯伸ばした手は何も掴むことができず、頬は涙で濡れ、
 甲高い音が耳朶を打ち頭を揺らす。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああっ‼」

 それは扇自身の声だった。
 初めての恋を自覚し、初めて恋い慕った相手を呼ぶ、少女の悲痛な声だった。

     ☯

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 一之姫、黄櫨染之扇殿下が公務である紅葉狩りの最中、多数のウツロと遭遇。数はおおよそ二十体。陰陽師五名で応対。黄櫨染之扇殿下は近衛六名と共に下山。途中、鵺の形をしたウツロの襲撃に遭うが、陰陽師蘇芳之天馬が応戦する。
 下山ののち、近衛が携帯電話を使用し、陰陽官に応援を要請。
 陰陽官より派遣された応援の陰陽師五名が到着した時点でウツロは残り三体。
 三体とも速やかに滅し陰陽師四名を保護。内、一名は軽傷、三名は重傷。

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 蘇芳之天馬が鵺と応戦したと思われる場所で、蘇芳之天馬の太刀、狩衣の一部、竜之卵を二つ、回収。その場で竜之卵はどちらも蘇芳之天馬とは無関係と判明。
 現場には血溜まりもあり血液は蘇芳之天馬のものと判明。
 正確な量は不明だが致死量に達していると推測される。
 三日間、捜索したが蘇芳之天馬の身柄は依然、不明。

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

     ☯

 それから、十五年──……。
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