一章:竜之卵の行方〈一〉

文字数 15,093文字

 その年、都の虹霓(こうげい)で催された冬至と陰を司る竜を寿ぐ陰之大祭(いんのたいさい)は、君主である竜皇の皇位継承に伴う即位式を兼ねていたため、それはそれは盛大なものとなった。
 大祭の当日、夜明けから二時間ほど経った頃、皇位継承がなされたことを知らせる龍笛が厳かに鳴り響くと人々は歓声を上げ街へと繰り出した。空は青く澄み、天を行き交う八百万の竜の御身が大地からでもはっきり見て取ることができた。
 家々の軒下には、艶やかな葉が生い茂った常緑樹の枝、赤々とした炎が灯された吊り灯籠、陶器でできた人形、切れ味と美しさを兼ねそろえた刀剣、水で満たされた硝子の器などが飾りつけられ、道端の屋台からは食欲をそそる芳ばしい香りや甘い匂いが溢れ出し、露天では物珍しい品々が道行く人々の目や心を楽しませた。
 正午が近づくと人々は新たな竜皇のお披露目が行われる啓湖(けいこ)の畔に集まりだした。
 都の中央に位置する啓湖は真円の巨大な湖で、周囲には、この日のために木製の簡易階段席がコロッセオのようにぐるりと設置されていた。
 椅子はなく全員基本立ち見だが階段席は見る間に埋まっていった。飛び見も許可されているので滞空時間に自信のある者はすでに階段席の上空で待機している。啓湖の上空にも複数の武官が滞空し「湖面には近づかないでください」「体力の限界が来る前に降りてください」「立ち見をしている人の視界を塞がないでください」と定期的に注意を促している。
 正午になると啓湖の中心あたりから楽の音が聞こえてきた。湖面がゆっくりと盛り上がり、水しぶきを上げながら楽師を乗せた数隻の小舟と色鮮やかな中型木造和船が姿を現した。水中に没していたにも関わらず船上もそこにいる人々も濡れていない。施された土気の竜道が土剋水──土気は水気を抑えるという理に則って水気を払っているのだ。
 和船の船首には五つの人影が立っていた。
 この日、二十五歳になった新たな竜皇と四人の弟妹だ。
 竜皇の右側には二人の弟が、左側には二人の妹が寄り添っている。竜皇と弟たちは束帯を、妹たちは十二単を纏い、竜皇の袍は皇族を示す氏でもある黄櫨染に、皇太子となった異母弟の袍は黄丹に、もう一人の異母弟の袍と妹たちの唐衣は支子に染め上げられている。
 竜皇と弟妹が笑顔で観衆に手を振ると、どこかで拍手が生じた。それは瞬く間に広がり「おめでとうございます!」「新竜皇と我ら至竜に幸あれ!」「陰を司る竜の祝福があらんことを!」と新たな竜皇を寿ぐ言葉が次々と船上に投げかけられた。
 露払いの小舟に続き和船がゆっくりと動き出す。これから船群は啓湖を時計回りに巡回する。竜皇と弟妹は集まってくれた人々からよく見えるよう船首から左舷中央に移動した。

「ねぇ竜皇陛下の隣にいるのって扇さんじゃない?」
「えっ! どれどれ……あっ! 本当だ! 扇さんだ!」
「髪下ろしてるし服もいつもと違うけど扇さんだね」
「お~い! 扇さぁ~ん!」
 階段席の一角でにわかに子供たちが騒ぎ出した。その口から無邪気に飛び出した名前は新たな竜皇の異母妹のものだった。近くにいた大人たちが眉をひそめる。普段ならいざ知らず、式典の最中──それも即位のお披露目の席で皇族をさん付けで呼ぶとは何事か──と思っているのがありありとわかる表情だった。
 しかし船上の異母妹に夢中な子供たちは大人たちの表情など見ていなかった。
 大人たちもまた子供たちに注意を促すことはなかった。
 子供たちを中心に、本人たちが気づかないまま空気が澱んでいく。
「ちょいちょいお兄さんお姉さん方、楽しそうにしているところ水を差して悪いが、今日はハレの日だ。お呼びするなら一之姫……じゃなくて、一之妹姫さまか扇姫さまだろう」
 不意に人波を縫って現れた大柄な壮年の男が慣れた様子で子供たちをたしなめた。
 褞袍を纏った厳つい顔つきの男で赤みがかった髪は短く額には白い布を巻いている。隻腕らしく左袖は肩より下にほとんど厚みがない。
 中々迫力のある見た目に、大人たちは心持ち距離を取ったが子供たちはひるむことなく隻腕の男を振り仰ぎ口を尖らせた。
「でも、扇さんが言ったんだよ?」
「そうだよ。扇さんが扇さんでいいって言ったんだよ?」
「しかしな、今は式典の最中で一之妹姫さまは皇族として参列されているんだ。なら俺たちも彼女のことを皇族として扱うべきじゃないか?」ここで隻腕の男は子供たちに顔を近づけ、それまでの茶目っ気と分別を兼ね備えた大人の表情から一転、悪戯小僧のような笑みを浮かべ「格好良くて優しい扇さんとは、また学び舎で会えるが、綺麗に着飾った一之妹姫さまとは、次いつ会えるかわからないんだぞ? 呼んでおかないと勿体なくないか」と言って、にぃっと笑みを深めた。
 子供たちはもじもじしながら顔を見合わせた。いつもと違う姿の『扇さん』に、みんなちょっとどきどきすると共に物理的な距離も相まって少し寂しく感じていたのだ。だからこそ『扇さん』にこだわったのだが、隻腕の男の指摘を受け、そんな自分たちがとても勿体ないことをしているような気分になった。
「……呼んでみる?」
「なんて?」
「えっと……一之、妹姫さま、かな?」
 子供たちは、はにかみながら頷き合い、竜皇の隣にいる女性に向かって、
「「「「一之妹姫さまぁ~~~!!!!!」」」」と呼びかけた。
 女性が顔を上げ、にっこりと微笑みながら子供たちに手を振る。子供たちは嬉しくなって「姫さま~!」「一之妹姫さまぁ~~~!」と各々声を張り上げた。隻腕の男が満足そうに「うんうん」と頷く──水面から巨大な黒い腕がぬっと生え、和船の船首と船尾を掴んだのは、その直後だった。

 水を打ったように歓声が止み、影のように真っ黒な頭と胴体が水中からぬるっと現れた。顔に凹凸はあるが髪はなく着物も何も身につけてはいない。黒一色の中、ぽつんと付け足されたまん丸な白目は、どこか作りものめいていた。
 その白い二つの丸の下に大きな裂け目が生じた。上下に広がるそれが口で、中にずらりと並ぶ尖った岩石群が歯だと気づくのに人々は数秒かかった。
「ヒソカッ⁉」
「違うウツロだ! 船を掴んでる! 実体があるんだ!」
「逃げろ! ウツロだ!」
「ウツロが出たぞ! 形は海坊主だ! 水辺には近づくな!」
 注意を促す叫びと悲鳴があちこちで上がる。
 武官は武器を構え、人々は潮が引くように啓湖から遠ざかった。

 そんな中、階段席で熱心にウツロ──海坊主を見上げている男児がいた。
「おい! ぼけっとしてると喰われるぞ!」
 作業服の上に厚手のコートを羽織った男が声をかけるが男児は動かない。
 男は「ちっ」と舌打ちをしながら男児を抱え上げ、もたつきながらも踵を返した。
「あれなぁに?」
 男児は男の肩越しに海坊主を見上げながら呑気に問いを投げかける。
「ウツロだよ! 俺たちの天敵だ!」
 右足を引きずりながら男も律儀に応える。
「ちがうよ、うでのところ。あっ、とんだ。みみをけって、いま、でかいののあたまのてっぺんにいる!」
「頭のてっぺん?」
 明らかに興奮している男児の言葉に引っかかりを覚えた男は足を止め振り返った。目をこらすと、確かに海坊主の頭上に何かが──誰かが立っていた。
「……モグラ」
 男の口からこぼれたのは、言い慣れた一之妹姫の蔑称だった。

 唐衣も五衣も単衣も脱ぎ捨て、真っ白な小袖と切り袴のみを纏った竜皇の異母妹は、わずかな風にその漆黒の髪をなびかせながら手にした抜き身の短刀を海坊主のつるりとした頭頂部に深々と突き刺した。
 海坊主の巨体からすれば針の先が刺さったくらいの感覚だろう。しかし、海坊主は目と口をカッと限界まで開き動きを止めた。短刀が刺さっている箇所から金色の亀裂が生じ、全身に広がっていく。
「~~~~~~~~~~~~~~っっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!」
 海坊主の身体が震え、地響きのような振動がその喉から音もなく轟いた。
 海坊主の巨体がぱっと黒い靄に戻り霧散する。
 足場を失った一之妹姫の身体が湖面目がけて落ちていく。
 逃げるのを止め、湖面の攻防に見入っていた人々が息を呑み悲鳴を上げた。
 武官たちが慌てて一之妹姫の元まで飛んでいくが妹姫は武官たちを制するように手を前に出した。そして何事か言葉を発しながら空中で器用に身を翻し伸ばされた手をすべて躱していった。はらはらしながら見守っていた人々が思わず「おー」と感嘆の声を上げてしまうほど一差しの舞いの如く見事な身のこなしだった。
 そのまま一之妹姫は人々の憂いとは裏腹に危なげなく甲板に降り立った。
 静寂ののち歓声と拍手が啓湖の周囲を包み込んだ。
 竜皇が一之妹姫に駆け寄り勢いよく抱きついた。残りの弟妹もそれに続く。
 それはまさに『めでたしめでたし』にふさわしい清く正しく美しい光景だった。

     ☯

 ぷつっ──
「「「「「゙あーっ!」」」」」
 糸が切れるような音を立て画面が真っ暗になると、テレビの前に集まり齧り付くように画面を見ていた子供たちは、一斉に落胆の悲鳴を上げた。木造平屋建ての詰め所が一瞬、揺れたと錯覚するほどの声量だった。
「紳士淑女の諸君。そろそろ準備しないと午後の授業に間に合わないぞ。ふぁあ……」
 テレビを消した張本人──黄櫨染之扇は、手にしたリモコンで軽く肩を叩きながら真っ暗な画面を呆然と眺めている子供たちの後頭部にため息交じりの声を投げかけ、空いた片手で口元を隠しつつ大きなあくびをした。
 御年二十六歳。上背がある引き締まった身体を包む山吹色の狩衣と紗でできた黒い羽織には、それぞれ陰陽官の紋章である丸に五芒星が橙色の糸で刺繍され、彼女が陰陽官所属の陰陽師であることを物語っている。
 幼い頃より秀麗だった顔立ちはより洗練され、寝起きのためややぼんやりしているが、それでもなお涼やかな漆黒の双眸には溢れんばかりの気力と自信が煌めいている。
 豊かな黒髪は、二本の三つ編みにし、それぞれ左右の耳を隠すよう円形にまとめている。遠目には大きなヘッドフォンを付けているように見える。大海の島──日本の昭和初期に流行したラジオ巻きという髪型で、当時、ラジオ(鉱石ラジオ)を聞くにはレシーバー(ヘッドフォン)が必須だったため、その姿を模しているのだ。
「あっ、扇さん起きたんだ。おはよう」
 セーラー服に眼鏡をかけた女児──(こころ)が笑顔で振り返り、「──って、あと十五分で午後の授業がはじまっちゃう!」すぐ後ろにあるローテーブル上の置き時計が目に入り慌てて予習のため広げていた教科書やノートを片付けはじめる。
「「きゃー急がなきゃ急がなきゃ!」」
 色違いだが同じ柄の着物と袴を穿いたはんなりとした双子の女児──(こう)(れい)も心に続く。
「君たちも早く片付けなさい。授業に遅れるぞ」
 扇は女児三人の邪魔にならないよう気をつけながら未だテレビの前から動こうとしない男児二人に詰め寄った。男児二人が同時に顔を上げる。その目が今まで見たことがないほどきらきらしていることに気づき扇は「うん?」と訝しげに眉根を寄せた。男児二人が勢いよく立ち上がったのは、その直後だった。
「扇さんって本当に陰陽師だったんだな!」
 と言ったのは、半袖半ズボンの男児──(あきら)だった。
「ウツロを退治できるんですね!」
 と言ったのは、書生服の男児──(じん)だった。
「……君たちは私のことを一体なんだと思っていたのかな?」
「「なんちゃって陰陽師」」
 しかめっ面の扇に男児二人は悪びれもせず即答した。
 女児三人も片付けの手を一旦休め、うんうんと同意を示す。
「いっつも昼休みくらいにならなきゃ出勤して来ないじゃない」
 と心が言えば、
「来たら来たで校内をお散歩しているだけだしねぇ~」
「ここでお茶を飲んでいるだけだしねぇ~」
 と孝と礼が続ける。
「ウツロは夕方から夜間が一番活発だから午前中は英気を養っているんだよ。校内を歩き回っているのは、発生したヒソカの経過観察のためで散歩じゃない。お茶は水分補給と息抜きだ。休むことは仕事を続ける上でとても大切なことだからね」
 女児三人の主張を扇は一つ一つ丁寧に訂正した。
「あと、本当にお姫さまだったんだな!」
「十二単、綺麗でした!」
「……できたてのポップコーン並みに話が飛び散るな」
「扇さまが午睡をなさっている間に一昨年の映像が流れたんですよ」
 脈絡のない男児二人の発言に扇が困惑していると、いつの間にか傍らに立っていた女房の(あずさ)が助け船を出してくれた。
 大きなくりっとした目と太めの眉が印象的な二十代半ばの女性で、日に透かすと茶色く見える髪をショートボブにし、ふっくらとした身体をお仕着せの砥粉色の着物で包み、藍染めの前掛けをつけている。
「一昨年……あぁ、陰之大祭の一件か」
「そうですそうです啓湖での最高に格好いい勇姿です!」
 はしゃぐ梓の言葉を裏付けるように子供たちが興奮した様子で、
「めっちゃかっこよかった!」と昭が言い「海坊主を一撃なんて尊敬します!」と仁が続き「私だったらきっと動けなかったな」と心が頷き「綺麗でしたぁ~」「素敵でしたぁ~」と孝と礼がうっとりする。
「ありがとう。しかしあれは勅命を受けたから仕方なく動いただけだよ。我が兄弟は、姉妹使いが荒いんだ」
 扇は軽く肩をすくませ、冗談めかした。
「ちょくめい?」昭が首を傾げる。
「竜皇陛下のご命令ってことよ」心が透かさず説明する。
「さて紳士淑女の諸君。まだまだ話し足りないかもしれないが今は片付けの方が先決だ。校舎まで走るにしても飛ぶにしても早くしないと遅刻するぞ」
 扇の指摘に子供たちは慌てて片付けを再開させた。

「ごちそうさまでした」「授業が終わったらまた来ますねぇ~」「お菓子よろしくお願いしますねぇ~」「ウツロを倒すコツ教えてくれよな!」「楽しみにしています!」
「わかったから、ちゃんと前を向け! 池に落ちるぞ!」
「「「「「はぁ~い!」」」」」と元気よく返事をするや否や、子供たちは一斉に地面を蹴り空に浮かび上がった。そのまま文字通り校舎の方向へと飛んでいく姿を見送り、扇は「う~ん」と伸びをした。
〝にょ〟狩衣の襟からぴょこんっと丸い物体が飛び出し扇の頭にちょこんと乗る。
 大きさは握り拳ほど。丸く透明で、頭頂部と思しき部分が少しだけ尖っている。見た目は水晶のようだが飛び跳ねるとぷるんっとゼリーのように揺れる。
「おはよう、タカラ。よく眠れたかな?」
 扇が指先で触れると、タカラは〝にょ〟とどこからともなく声を発した。
「あぁタカラちゃん、相変わらず可愛らしいですねぇ」
 梓が蕩けきった表情でタカラの身体を突く。タカラはされるがまま、しかしどこか楽しそうに〝にょ〟〝にょ〟と言いながら左右にぷるんぷるん揺れている。
「タカラも起きたことだし見回りに行ってくるよ。今日は南側にも足を伸ばすから戻るのは三時過ぎになるかもしれない」
「畏まりました。お茶の準備をしておきますね。お茶請けは昨日仕込んでおいたバナナパウンドケーキです」
「素敵だね。飲み物は紅茶も捨てがたいが今日は珈琲がいいな。小さな紳士淑女もまた集まってくるだろうから牛乳とジュースも頼むよ」
「畏まりました」

     ☯

 竜之国の民は、五歳くらいから国営の学問所である学び舎に通い出す。
 学び舎は集落から都まで民がいる場所には必ず設けられている。
 虹霓の学び舎は啓湖の西に位置し、南北に延びる広大な敷地は、北から春夏之園(はるなつのその)、技術棟、中庭、秋冬之園(あきふゆのその)、訓練所の計五つの区画に分けられている。技術棟と中庭は他の区画の半分の面積で、春夏之園の南東に技術棟、南西に中庭がある。
 陰陽官の詰め所は中庭の森の中にあり、扇は春夏之園、技術棟、中庭の三区画を平日はほぼ毎日見回っている。春夏之園の生徒は比較的年齢層が低く、ヒソカとウツロの区別がつかない上、好奇心からヒソカに近づいたり、中にはこっそり飼っている猛者もいるので、こまめに見回る必要があるのだ。
 対して秋冬之園の生徒は年齢層が高く、ヒソカやウツロに対する理解もあり、対処の仕方も、ある程度習得している。訓練所も元武官、元陰陽師の教師陣がうようよしているので扇の出る幕はない。しかしだからと言って何もしないのは扇の性に合わないので、月に最低二回は、見回るようにしている。
「今日は綺麗な竜晴れだね」
 整備された道を南下しながら扇は空を仰いだ。十月になって随分涼しくなってきたが空にはまだ夏が残っているらしく、のっぺりとした青空の所々にうっすらと竜の影がうかがえた。
〝にょ〟肩の上でタカラがぷるぷるする。
「まずは訓練所のシャワー室からだ。あそこには垢嘗めが複数いるからね。その次は湧きやすいトイレかな。立ち入り禁止の看板が各トイレの掃除用具入れにあるから、授業中に男子トイレから攻めよう。──そういえば、野犬が敷地内に入り込んだって話はどうなったんだろう? あとで慈郎坊(じろうぼう)くんに訊きに行くか」
〝にょにょ〟タカラが頷くような仕草をする。
 段取りを考えているうちに扇は秋冬之園に足を踏み入れていた。道を行き交う生徒の年齢が十歳前後から十代半ばに変わる。数年の違いだが、この年頃の数年はとても大きい。まだまだ幼さが色濃いはずの少年少女が妙に大人びて見える。時折、春夏之園に通っていた頃と同じように「扇さん」と声をかけてくれる生徒もいた。すっかり伸びた背丈や低くなった声に懐かしさと喜びを覚え扇は笑顔で応えていく。
「ちっ──いいご身分だな。モグラのくせに。知ってるか? あいつ、夜の見回りには参加せず、朝は好きなだけ寝て、昼はのんびりお散歩して、夕方には帰宅するんだぞ? 夜通し一人で中央領を見回ってる月の陰陽師の爪の垢を煎じて呑ませてやりたいよ。あんなのを陰陽師にするなんて陰陽官の上層部は大丈夫なのか?」
 聞こえよがしな舌打ちと忌々しそうな声は前方から聞こえてきた。
 扇が顔を向けると十代半ばくらいの男子生徒が二人、道端に立っていた。不満そうに腕を組んでいる青みがかった坊主頭の生徒を紫がかった長髪の生徒が青ざめながら諫めている。二人とも道着を身につけているので武術系の授業を選択しているのだろう。体格もいいので武官や陰陽師を目指しているのかもしれない。
 扇は不覚にもちょっとした懐かしさを覚えた。以前は、こういった絡み方をしてくる手合いが日に二組ほどいたのだが、啓湖の一件以降、扇の実力がそこそこ知れ渡ったため、最近ではめっきり減っていたのだ。──しかし、だからといって火種を見逃すことはできない。
 扇はつかつかと真顔で二人に近づいた。
「な、なんだよ! 文句あるのか⁉」
 まさか近づいてくるとは思っていなかったらしく坊主頭はやや怯みながらも毅然と扇を睨みつけてきた。扇は坊主頭の前で足を止め、その目を真っ直ぐ見つめ返しながらにっこりと微笑んだ。
「駆けっこをしよう」
「はぁっ?」
「だから駆けっこだよ。向こうに屋台が見えるだろう。そこまで競争だ。君は飛んでもいいよ。先に屋台に着いた方が、そうだな、葡萄ジュースを奢ることにしよう」
「ふ、普通、奢るのは負けた方だろう? なんで勝った方が奢るんだよ!」
「いくら礼儀知らずとはいえ、子供に奢らせるわけにはいかないだろう?」
 坊主頭は、一瞬、きょとんとしたが、すぐに意味を悟り、「てめぇっ!」と叫びながら扇の胸ぐらを掴もうとした。扇はそれをひょいっと躱し、心配そうにことの成り行きを見守っていた長髪に「合図を頼む。よーいドンがいいな」と言った。
「えっ⁉ え~と……」
 長髪はびくっと身体をすくめ助けを求めるように坊主頭を見た。
 悔しそうに扇を睨みつけていた坊主頭は、友人に「合図しろ!」と言った。
「えぇっ⁉ お、お前、本気か⁉ 今ならまだ……」
「本気に決まってるだろ。──そっちから吹っかけてきたんだから結果がどうあれ、不敬罪だ、とか言うなよ‼」
 前半は友人に、後半は扇に向けて坊主頭は吼えた。その活きの良さを微笑ましく思いながら、扇は「そんなつまらないことはしない」と約束した。
「あぁもう! やればいいんだろう、やれば! えっとじゃあ、位置について──」
 長髪のやけくそなかけ声に合わせ扇と坊主頭が横並びになる。
「よーいドン!」
 合図と同時に坊主頭は上体を思いっきり前に倒しながら地面を蹴った。そのまま空中を弾丸のように真っ直ぐ飛んでいく。坊主頭は長く滞空できない代わりに速さには自信があった。元武官である教師も『速さだけなら現役の武官と張り合える』と太鼓判を押してくれた。だからこそ扇が駆けっこを提案した時点で頭の片隅に『勝利』の二文字が浮かんでいた。しかし──
「お疲れさま。私の勝ちだ!」
「……はぁっ⁉」
 屋台の手前で速度を落とし地に足をつけると、屋台の前に扇が立っていた。多少衣に皺が寄り前髪が乱れているが呼吸に乱れはなく汗も搔いていない。
「ど、どうして……いや、どうやって⁉」
「無論、走ってだよ。私は空を知らない土竜姫だからね」
 応えながら扇はおどけたように軽く肩を竦めた。屋台の店主に葡萄ジュースを二つ頼み代金を支払う。老年の店主は笑顔を崩さず準備に取りかかった。
 坊主頭が状況を理解できず呆然としていると、長髪の友人が酷く興奮した様子で駆け寄ってきた。
「おい、何が……」
「す、すごかった! えっと、その……ともかく、すごく、速かった‼」
「そんな……っ!」
 友人の口から飛び出した賞賛の言葉を受け入れることができず、坊主頭は周囲を見回した。授業中なのでそれほど多くはないが、一部始終を見ていたであろう生徒のうち、半数は呆気にとられ、残り半数は興奮したり、したり顔だったり、歓声を上げたりしていた。後者の面々が扇に向ける視線には尊敬と憧憬が、坊主頭に向ける視線には憐れみとわずかな軽蔑が入り交じっている。
 ここにきてようやく、坊主頭は自身の『敗北』を実感した。
 真っ青な顔で佇む坊主頭に、扇は「そうだよ。君は負けたんだ」と言い放った。
 生徒たちの視線が扇に集中する。
「私はね、空を飛べないし創造もできないが竜道は使える。特に自身の身体を含め、既存のものを強化したり変化させたりするのは得意なんだ。竜気の量も多いから長時間継続して竜道を使うこともできる。肉体強化は小回りと応用が利くから校舎内を見て回るのに重宝してるよ」
 実際、扇は何もやましいことはしていない。ただ竜道で全身を強化し、生徒たちが捉えることができるぎりぎりの速さで走っただけだ。衆目が追えないほどの速さを出すこともできるが、「ずるをした」などといちゃもんをつけられる可能性を考慮して、今回はやめておいた。
 項垂れる坊主頭と、落ち込む友人を前にして狼狽えている長髪に、扇は店主から受け取った葡萄ジュース入りの木製コップを差し出した。
「ほら、約束の葡萄ジュースだ。合図を出してくれた君も飲むといい」
「…………」
「えっ、えっと……」
 坊主頭は黙り込み、長髪はどうしていいかわからず挙動不審になった。
 どちらもコップを受け取ってくれそうにないので、扇は仕方なく強硬手段に出ることにした。コップを二人の頭に乗せ、
「いち、にの、さん、で手を離す。行くぞ。いち、にの、さんっ!」
 と言って手を離した。
「うわっ!」と坊主頭が片手で、
「えぇっ⁉」と長髪が両手で、
 それぞれコップを掴み顔を上げる。
 唖然としている二人を見て、扇は「ふふっ」と笑みをこぼした。
「──っ‼ あ、あの、ジュース、ありがとうございます」
「……ありがとうございます」
 頬を淡く色づかせながら長髪と坊主頭は謝意を述べた。
「どういたしまして。──そして、君たちを不安にさせてすまなかった」
 突然の謝罪に男子生徒二人は目を見開いた。
「私の実力に不安があったから突っかかってきたんだろう? 陰陽官まで引き合いに出したのは少しやり過ぎだが疑問や疑念を持つことは悪いことじゃない。ただ、自ら火種を──諍いを生み出すような言動は止めた方がいい。小さな火種だって燃え上がれば脅威になる。君たちの手足や頭脳は、自分自身や周囲を守るためのものだ。いざという時のために大切にしてほしい」
「──っ!」
 坊主頭は、きゅっと唇を引き結んだ。目は潤み頬は上気している。様々な感情が身体の中で渦巻いているようだ。やがて坊主頭は、しっかり扇を見つめながら、
「すみませんでした」と言って深々と頭を下げた。
 神妙な面持ちで様子を窺っていた長髪も坊主頭に倣い、頭を下げる。
「君たちの謝罪を受け入れよう」
 鷹揚に応えてから扇はそっと二人に顔を近づけ、「坊主頭くん。今回は相手が私だったから残念な結果になってしまったが、君の飛行能力は素晴らしい。胸を張りなさい。長髪くんも、きちんと友を諫め、傍を離れず寄り添い続けた。その心根を尊く思うよ」と囁き、念を押すようにそれぞれの肩をぽんっと叩いた。
 二人が顔を上げると、扇はすでに歩き出していた。
 遠ざかる背中に男子生徒二人は無言で敬礼した。

 人気のない道端で扇は不意に足を止めた。学び舎の敷地は広大だが通う生徒の数も多いので授業中とはいえまったく人気のない場所というのは中々貴重だったりする。
〝にょ〟
 先ほどは空気を読んで狩衣の中に避難していたタカラが肩の上で揺れる。
 指先でタカラを撫でながら扇は街路樹の方に顔だけ向け挑発的な笑みを浮かべた。
「──いい加減、視線が五月蠅いから訊くけど、君はいつまで隠れん坊を続けるつもりなのかな? 陰陽生くん」
「お気づきでしたか」
 柔らかな声と共に街路樹の後ろから現れたのは、薄灰の狩衣を纏い、太刀を佩いた少年だった。申し訳なさそうな表情で近づいてくるその顔は整っていて愛嬌があるが、右目の周囲の皮膚が広範囲に渡って引きつり変色している。恐らく古傷だろう。更に左目の虹彩が黒なのに対し、右目の虹彩は鈍く輝く白銀に染まっている。
 狩衣には陰陽官の紋章である丸に五芒星が刺繍されているが、五芒星の内側が隙間なく縫われ、着用者が陰陽師ではなく見習いの陰陽生であることを示していた。
「声をかけようと思ったのですが機を逸してしまい、ご不快な思いをさせてしまいました。申し訳ありません」
 少年は恭しく頭を垂れてから、首を少し後ろに傾け扇を見上げた。
 扇も首を少し前に傾け少年を見下ろす。
 目が合うと、少年はそれはそれは嬉しそうに微笑んだ。
「──いい笑顔だね」
 微苦笑を浮かべながら扇が率直な感想を口にすると、少年は一層、笑みを深めた。
 きらきらと輝くような笑顔に毒気を抜かれた扇は「ふぅ」とため息を吐き、歩き出した。数歩進んだところで立ち止まり、佇んだままの少年を振り返る。
「訊きたいことは山とあるが、まずは……そうだな、一緒に見回りをしよう」
「──っ‼ は、はい! お供します‼」
 笑顔で駆け寄ってくる少年に、扇は苦笑を滲ませた。

     ☯

「はじめまして! 陰陽官本部所属陰陽生、土属性の柃之速午と申します!」
「ご丁寧にありがとうございます。私は女房として黄櫨染之扇姫にお仕えしております棣棠之(ていとうの)梓です。属性は土を筆頭に水と木を嗜みます。以後お見知りおきを」
 扇が少年──速午を伴い詰め所に戻ると、梓は驚きつつもすぐに人数分のパウンドケーキと珈琲を用意してくれた。テレビの前のローテーブルにそれらを供し、三台ある二人掛けソファのうち、扇がテレビの正面に座り、扇から見て左手の壁際に梓が、右手の玄関側に速午が落ち着いたところで「扇さま、こちらはどなたさまでしょうか?」と梓が口火を切り、自己紹介と相成った。
 挨拶に際し立ち上がった速午と梓は、にっこりと笑みを交わしてから座り直した。
 一見、友好的に見えるが扇は二人の間にばちばちと弾ける火花を見た。
 梓は普段、人当たりがよく老若男女関係なく初対面から友好的なのだが、扇の交友関係に関してだけは、やたら保守的で潔癖になる。これは彼女に女房としてのいろはを教えたのが扇の乳母とも言える女房たちだったため起きた誤算だ。
 女房たちは扇が如何に世間知らずの無鉄砲か梓ともう一人の女房に散々吹き込んでくれたらしく、すでに二十代の半ばも過ぎた現在も、休日の昼間に一人で散歩に行こうとすると「知らない人について行っては駄目ですよ。ものをもらってもいけません」と真顔で言ってくることがある。
 今も突然現れた陰陽生の真意を見定めようと、その一挙手一投足をつぶさに観察している。そしてそれは速午の方も同じだった。梓と同じくらい真剣に、しかし表面上はにこやかに相手の心の内側を探ろうとしている。
 色々思うところはあるが下手に口を出すと面倒なことになると直感した扇は言葉を呑み込み、パウンドケーキと珈琲に舌鼓を打つことにした。まずはパウンドケーキをフォークで一口サイズに切り分け口に運ぶ。しっとりとした生地を口に含むと、舌の上にねっとりとした甘さとバナナの香りが優しく広がった。そこに温かい珈琲を流し込む──……
「はぁ」恍惚とした吐息が扇の口からもれた。
 半分ほど食べ進めたところで、扇はふと同席者二名に意識を向けた。二人ともパウンドケーキには手をつけず、じっと扇を見つめている。その眼差しは観察ではなく鑑賞のそれで、潤んだ瞳はこれでもかと輝き、頬は夢見る乙女のように色づいている。
 扇は自身の美貌を自覚している。美姫と名高い生母と瓜二つの姿形をしているので自分は美しいのだと客観的に知っているのだ。しかしだからといって飲食する姿を見られて喜ぶような趣味趣向を持ち合わせてはいない。珈琲で口の中を綺麗にしてからカップをローテーブルに置き、呆れを含んだため息を吐く。
「せっかくの珈琲が冷めてしまうぞ」
 速午は夢から覚めたように、はっとして頭を下げた。
「すみません! あまりにも美味しそうに食べるので、つい見蕩れてしまいました」
「私が何かを美味しそうに食べる姿なんて、これから嫌というほど見られるだろう。君は私の部下になるのだから」
「やはり彼が大海の島で与輿彦さまを救出した陰陽生なのですね。そして陛下に謁見した際、扇さまの部下になることを望んだ、慧眼の持ち主……」
 カップを手に取った梓が値踏みするような視線を速午に向ける。
「二十歳と伺っていますが、とても若々しいですね」
「恥ずかしながら成長が遅いようで……事前に履歴書などが送られているので、ご存じとは思いますが、俺は中央領の北西部にある育児院で育ちました。五歳の頃、一人でふらふらしていたところを保護してもらったんです。怪我はしていなかったのですが栄養が足りていなくて記憶も曖昧で……辛うじて年だけわかったそうです。名前も育児院の先生方につけていただきました」
「あら、私たちと一緒ですね。私ともう一人の女房も、扇さまに拾われて、家名を賜ったのですよ」
 梓が勝ち誇ったように胸を張ると、速午は愕然としながら「……羨ましい」と呟いた。扇はやや遠い目でそんな二人を眺めながらパウンドケーキを咀嚼した。
「……履歴書によると、速午くん、君はわずか十四歳で役所に就職しているね。武官ではなく文官として。なのに三年前、急に陰陽師になると言い出し特訓を開始──今年の春、晴れて陰陽生になった」
「まぁ……文官でしたのにわずか三年で陰陽生に?」
 扇の話を聞き、今度は梓の方が目を丸くする。
 速午は少しだけ居心地悪そうに身をよじり頬を指で掻いた。
「どうしても陰陽師になりたかったんです。なので、頑張りました」
「それでも三年で成し遂げたのは、凄いことだ。陰陽生になってからも慢心せず、私のような外れ者の耳にも、とても優秀だと風の便りが届いている。実際、一緒に見回りをしたが手際がよくてとても助かったよ」
「だから予定よりも早くお帰りになられたのですね」
「そういうことだ」
 扇と梓の会話を聞きながら速午は照れくさそうにパウンドケーキを頬張った。
「ところで速午くん。君にいくつか確認したいことがある」
「はい! 何なりとお訊きください!」
 そう言って速午は居住まいを正した。
 扇は殊更にっこりと微笑みながら問いかける。
「辞令によると、君がこの詰め所に配属されるのは明日のはずだが、どうして今日来たんだい?」
「はい! いても立ってもいられなかったからです!」
「君は昨日、夜番で、今朝八時まで本部に詰めていたはずだが?」
「はい! しっかり寝てから来ました! なので体調は万全です!」
 扇はすっと笑顔を消し眉を吊り上げた。
「七時間未満の睡眠時間でしっかりとはおこがましい! 最低七時間寝てから出直してくるがいい!」
「七時間寝ると身体と頭が痛くなってしまう場合はどうすればいいでしょうか?」
「論点をずらすんじゃない! 問題は睡眠時間ではなく君の勤務実態だ。今日は休暇だろう? 休むことも仕事のうちだ。ゆっくり休め」
「働きたいという若人の意欲を無碍にするのですか⁉」
「一緒に見回りをしただろう。先ほども言ったが、とても手際がよくて助かった。十分な働きだ。だから今日はお家にお帰り。私からのお願いだ。ごねるのならば上司として『今すぐ詰め所から出ていけ』と命じる。まだ上司ではないと言うのならば、君も私の部下ではないということになるので容赦なく追い出す」
「──っ!」
 冷ややか視線と声で告げると速午は今にも泣き出しそうな顔で身体をすくませ、ぷるぷると小刻みに震えだした。小動物をいじめているような罪悪感が扇の胸に生じたが情に流されてうやむやにしていい問題ではないのでなんとか冷徹な表情を保つ。
 こんこんこんっ──と張り詰めた空気の中、扉を叩く音がした。
 梓が「自分が出ましょうか?」と視線で問いかけてきたので、扇は首を左右に振り自ら玄関に向かった。時計を確認するとまだ三時前だった。扉を叩いた位置と合わせても子供たちではないだろうと当たりをつけ誰何する。
「どなたかな?」
「検非違使の衝羽根之梫太郎(つくばねのしんたろう)です‼ お客さまをお連れしました‼」
 返ってきたのは、はきはきとした低く聞き取りやすい耳慣れた声だった。
 扇が玄関扉を開けると三十前後の男性と十歳に満たない少女が立っていた。
「こんにちは‼ 扇さん‼」
 目の前で風船を割られたような声量で挨拶され、扇は一瞬立ちくらみを覚えたが、すぐに持ち直し「今日は、梫太郎くん」と友人でもある検非違使に挨拶を返した。
 竜之国の警察組織──検非違使に所属する梫太郎は、上背も筋肉もある男で、検非違使の制服である褐色の軍服のような背広とスラックスを身につけ、緑色の輝きを放つ五分刈りにした髪を制服と同色の帽子で覆い、腰に刀を差している。厳つい顔立ちだが表情は柔らかいので近づきがたさは大分軽減されていた。
 挨拶を済ませた扇はしゃがみ込み、梫太郎の隣にいる少女と視線を合わせた。
「はじめまして。この詰め所を任されている陰陽師、土属性の黄櫨染之扇だ」
香雨之玻璃菜(こううのはりな)です! はじめまして! 属性は金です!」
 藤鼠色の作務衣を纏いリュックを背負った玻璃菜は、緊張した面持ちで勢いよく頭を下げた。二つ結びされた髪が光を受け白銀の輝きを散らす。目はぱっちりとしており、年相応にふっくらとした頬と唇は鮮やかな薔薇色に染まっている可愛らしい少女だ。
「森の入り口でまごついていたんです。声をかけたところ詰め所の陰陽師の方に相談したいことがあるけど道がわからないとのことだったので、ここまで案内しました!」
「──そうか。ありがとう」
 扇が梫太郎を見上げながら礼を言うと玻璃菜が「あのっ!」と声を上げた。
「弟を説得してほしいんです!」
「弟?」真っ先に反応したのは梫太郎だった。どうやら陰陽師に相談したいということ以外、何も聞いていなかったようだ。
 玻璃菜は、びくっと肩を揺らしたが、話しはじめてしまった以上、後戻りはできないと思ったのか真剣な表情で扇を見つめながら続けた。
「お、弟が、おばあちゃんの竜之卵を持って、朝から家のトイレに閉じこもっちゃったんです! だから、出てくるように説得してください! お願いします!」
 自己紹介の時より勢いよく玻璃菜は頭を下げた。
「弟は五歳で、まだ学び舎に通ってないし、陰陽師の人にこんなことお願いしていいのかわからないけど、でも、お友だちから、詰め所の陰陽師の人なら話を聞いてくれるかもしれないって言われて……それで……」
「大丈夫」と言いながら微かに震える玻璃菜の頭を撫でたのは、扇でも梫太郎でもなく、いつの間にか玄関まで来ていた速午だった。
「何も気にすることないよ。ヒソカやウツロの他に、竜之卵や鱗に関することも陰陽師の領分だし、君は学び舎の生徒だ。なら、この詰め所を頼る権利がある。そうですよね? 扇少将」
 速午の言葉の真偽を問うように玻璃菜は顔を上げ涙の滲んだ目で扇を見た。
 扇は玻璃菜を安心させるために頷いた。
「彼の言うとおりだ。玻璃菜くん、この後、授業はあるかい?」
「な、ないです」
「ならば、すぐに君の家に向かおう。案内を頼むよ」
「はっ──はい! ありがとうございます!」
 三度、玻璃菜は頭を下げた。
 速午はうんうんと満足そうに頷き、顔を上げた玻璃菜の頭を再び撫でた。
「よかったな。俺もまだ見習いの陰陽師だけど手伝うよ」
「うん! ありがとう、見習いのお兄さん!」
 扇が「あっ」──と言う間に、ちゃっかり速午の同行が決定した。
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