三章:旅行者の目的〈序〉

文字数 1,253文字

 夜刀(やと)の世界は、広々としたマンションの一室だけだった。
 そこにいるのは、幼い夜刀と美しく芯の強い母のみ。
 外部との繋がりは、窓やベランダから見える景色と、大体一日置きに顔を出すおにいさんと、不定期にやってくる父を名乗る男だけだった。
 おにいさんは食材や日用品、洋服などを買ってきてくれた。
 母は微笑を浮かべ、「ありがとう」といつも丁寧に感謝の気持ちを伝えていた。
 父を名乗る男は、高い洋服や玩具などを持ってきてくれた。
 母は硬い表情と声で「ありがとうございます」と感謝の言葉を口にしていた。
 どうやら母は父を名乗る男のことが好きではないようだった。そしてそれは夜刀も同じだった。父を名乗る男は、いつも綺麗な身なりをしていた。殴ったり暴言を吐くこともなく、微笑を浮かべ綺麗な言葉をいい声で紡いだ。しかしその目は常に濁り、染みついた胡散臭さが鼻についた。だからというわけではないが夜刀は父を名乗る男よりも、おにいさんの方が好きだった。
 おにいさんのシャツとズボンは、いつもヨレヨレだった。血や土がついていることもよくあった。言動は粗野で、たまに「競馬に負けた!」と言ってゴミ箱などを蹴ったりしていた。ほうれん草を頼まれたのにブロッコリーを買ってきたこともあった。そのくせ夜刀が何か間違えると嬉しそうに「ばぁか」と言ってデコピンしてきた。しかし夜刀が母のお手伝いをしたり、絵を描いてみせると、もっと嬉しそうに「すごいなっ!」と言って抱き上げてぐるぐるしてくれたり頭を撫でたりしてくれた。
 そんなおにいさんのことを母は、もう一人の息子のように扱った。よくない言動をすれば叱り、よくできたことはしっかり褒めた。おにいさんは悪態を吐きながらも、どこか嬉しそうに母の言葉を聞いていた。
 一度、料理をしている母を見ながら「姐さんが母親だったら、俺ももう少しまともな人間になれたのかな」とおにいさんが冗談めかして呟いたことがあった。
 幼い夜刀には意味がよくわからなかったが、おにいさんが寂しそうだったので、いつも母がそうしてくれるように頭を撫でてあげた。するとおにいさんは目をまん丸にしてからぼろぼろと泣き出した。母も料理の手を止めおにいさんを抱きしめた。……その日から、夜刀の世界にはおにいさんも加わった。
 大抵の人がそうであるように、幼い夜刀は漠然と、歪だが温かく柔らかなこの世界がずっと続いていくのだと思っていた。
 しかし夜刀が五歳になる少し前に、世界はすべて灰塵と化した。

 母が、世界に──部屋に火を放ったのだ。

 燃え盛る炎の中で母は夜刀を抱きしめた。
 頬に、額に、汗ばんだ肌の感触が張り付き、焦げ臭さと生臭さを押しのけ母自身の甘いミルクのような匂いが薫った。荒い呼吸の合間に紡がれた「生きて」という言葉を最後に、母は忽然と消えてしまった。
 その日、来るはずだったおにいさんは、いつまで経っても来なかった。
 父を名乗る男とその部下が助けに来るまで、幼い夜刀は炎の傍らで泣いていた。
 その手に、竜之卵を握りしめながら。
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