二章:陰陽師の資質〈三〉

文字数 16,584文字

 しばらく尾行を続けていると扇たちは住宅街に入り込んだ。
 竜之国では、法律で十メートル以上の建物を造ることが禁じられている。
 大海の島や大陸の住民がこの事実を知ると多くの場合『空を飛ぶのに邪魔だから』と判断する。これは間違っていないがすべてではない。
 空飛ぶ島で生まれ育ち、空を自由に飛ぶことができる種族でありながら、至竜は、天に畏怖の念を抱き、大地に安堵を覚える性質を有している。
 天とは、八百万の竜が行き交う空間を指し、大地は天之大地を意味する。
 故に天に近づき大地から離れる高層建築を至竜はそもそも望まないのだ。
 それでも様々な国家と交流するうちに明確にしておくべきという判断がなされ、前出の法律が制定された。なので竜之国の建物は、高くとも三階建てまでしかなく、集合住宅もアパートやマンションより長屋が多く、大きな戦渦に巻き込まれたこともないので鉄筋コンクリートよりも築百年を超える木造建築がまだ幅を利かせている。
 重厚な木造平屋建ての隣にモダンなアパートが並び、近代的な二階建ての住宅を味のある長屋が囲んでいる──なんて光景があちこちで見受けられるのだ。その町並みを大海の島──日本からの旅行者は、ブログで『チグハグな映画村』と称した。
「あそこが目的地のようだね」
 見つからないよう小径に身を潜め扇は呟いた。その視線の先で幼い少年が周囲を気にしつつレンガ造りの塀に囲まれた金属性の外れかけた門扉をそっと開け、敷地内に入っていく。次に扇たちより洋館に近い小径に隠れていた少年二人も、幼い少年の姿が見えなくなるのを待って門扉の向こうに消えていった。
 扇たちも門扉の前まで移動する。
「荒れてますね」
 そう言って速午は眉を顰めた。
 確かにレンガ造りの塀は、造りこそ立派だが、あちこち崩れ蔦が絡みつき苔のようなものが生えている。何年も手入れされていないことは一目瞭然だった。門扉の隙間からのぞく庭も好き勝手生えた草に占拠され、その先に佇む二階建てのハイソな洋館は、元は白かったであろう壁が薄汚れ、全体的に影を背負っているように見える。
「十中八九、廃墟だな」
「そうですね。しかし……」
「あぁ……人が住んでいないとは言い切れない」
 応えながら扇はすっと目を細めた。門扉から洋館まで何度も行き来したのだろう、しっかり獣道ができている。
「入りますか?」
 速午の問いかけに扇が頷くより先に、

初空(はつぞら)っ‼」

 剣呑な響きを帯びた少年の声が獣道の奥から聞こえてきた。

     ☯

 扇と速午が獣道を辿っていくと鬱蒼とした林に行き着いた。敷地の北側に位置するその林は、元は緑溢れる庭だったのだろう。色とりどりの花々が無秩序に咲き乱れ、陶器の鉢植えや花壇だったであろうレンガがそこかしこに転がっている。
 林と化した庭に面する洋館の北側は、室内からでも庭が望めるよう大きな硝子張りの引き戸がずらりと並んでいた。しかし、長年の放置により硝子は曇り硝子と見紛うほど汚れ、あちこち罅割れている。
 その硝子張りの引き戸の前で、少年二人が幼い少年を背に庇い、コート姿の男と対峙していた。男は青みを帯びた光沢のない髪を掻きながら睨みつけてくる少年二人を面倒くさそうに見下ろしている。──と、落ちくぼんだ男の目が不意にぎょろりと動き、獣道に佇む扇たちを捕らえた。病的に白かった男の顔が一瞬で、かっ──と赤黒く染まり、突き刺すような殺気が全身から放たれる。
「──ッ‼ モグラッ‼ またお前か⁉」
 男の怒声がびりびりと空気を震わせた。
 近距離でそれを受けた三人の少年はびくっと身体を震わせ硬直してしまったが、怒声を叩きつけられた当の本人はどこ吹く風で、今にも飛び出しそうな部下を手で制しつつやんわりと微苦笑を浮かべた。
「今回も前回も声をかけてきたのは君じゃないか。なぁ葛寿くん?」
「五月蠅い五月蠅いッ‼ お前が俺の前に現れるのが悪い‼ 姫ならば姫らしく後宮にでも引っ込んでろ‼」
 葛寿と呼ばれた男は、ぎりぎりと目尻を釣り上げ吼えた。
「扇少将のお住まいは後宮ではなく離宮ですよ」
「煽るな。あと情報漏洩だ」
 手足が出せない代わりに口を出してきた部下の額を扇は裏拳で軽く叩いた。速午は不満そうにしながらも口出ししないという意思表示のためか手で口を覆った。
 葛寿を見ると、うつむき肩で息をしている。激しく興奮した上、いきなり大声を出したせいで軽い酸欠になっているようだ。
「少年たち、直に日も暮れる。家に帰りなさい」
 扇が声をかけると、長髪が幼い少年の腕を掴み扇たちの方に駆け寄ってきた。しかし幼い少年は、途中で長髪の手を振り払い葛寿の元に戻ってしまった。
「初空っ⁉」
 長髪が振り返りながら声を張り上げる。どうやら初空というのが幼い少年の名前らしい。そして、先ほど扇たちが聞いた剣呑な少年の声は、長髪が発したものだった。
 幼い少年──初空は、先ほどからずっと大事そうに抱えていた風呂敷包みを葛寿の足元に置くと、すぐに踵を返し扇や少年たちの横を通り抜けていった。
「待てっ! 初空!」
 長髪が透かさず初空のあとを追いかける。
 坊主頭は、友人に追随しようと一歩踏み出したが扇たちの存在も無視できず、気まずそうに振り返った。
「私たちのことは気にするな。今は友人の元に行ってあげなさい。そしてもし、心配事があるなら詰め所に来るといい。改めて話を聞こう」
 扇は、坊主頭の目をしっかり見据えながら努めて静かな声で語りかけた。
 坊主頭は、表情を引き締め、「ありがとうございます!」と頭を下げてから地面を蹴り、友人たちが走り去った門扉の方へと飛んでいった。

 林に静寂が訪れる。
 しかしそれは決して穏やかなものではなかった。
 嵐の前の静けさ──というのが一番、適しているだろう。
 当の嵐は、未だにうつむいている。呼吸こそ落ち着いたが、今にも破裂しそうなぴりぴりとした緊張感を周囲に与えている。
 扇は葛寿の様子を窺いつつ、
「ふぁあ……」
 袖で口元を隠しあくびをした。ついでに腰から提げている懐中時計を確認すると、もうすぐ四時半になるところだった。
「あの方とは、どういったご関係なのですか?」
 張り詰めた緊張の糸がほんの少したわんだ瞬間を逃さず速午が疑問を口にする。
「彼は乙木之葛寿くん……学び舎時代に武術の授業で何度か相手をしてもらった好敵手の一人だよ。一緒に仕事をしたことはないが、同僚だったこともある」
「元、陰陽師の方なんですね」
 速午の葛寿に向ける眼差しに、ほんのわずかだが労るような色が滲んだ。
 陰陽師になるのは簡単なことではないが恐ろしく難しいわけでもない。
 何より辛く厳しいのは、陰陽師(あるいは陰陽生)であり続けることだ。
 天敵とされるヒソカやウツロと日夜対峙する恐怖と緊張は、想像を絶する。慣れたら慣れたで油断は隙を生み、自分や他者を危険にさらす可能性を増幅されるので、より慎重な思考と行動を心がけなければならない。
 どちらにしろ心身は蝕まれる。そしてそれは、多くの場合、憧れや使命感だけでは、どうすることもできない。そのことを悟り、いち早く辞める者。しがみついてしがみついて……心身のどちらかを損ない辞めざるを得なくなる者。現実を受け入れられないまま言い訳を並べ立て辞める者──……陰陽師の離職率は高く、二、三十代で『元陰陽師』という肩書きを持つ者も珍しくない。
「何が好敵手だっ‼」
 不意に葛寿が勢いよく顔を上げ、真っ直ぐ扇を睨みつけながら吼えた。
 血色の悪い顔の中で目だけがぎらぎらと青い輝きを放っている。
「思ってもないことを……どうせ落ちぶれた俺を笑いに来たんだろうっ‼」
 葛寿の咆哮に応えるように無数の風が巻き起こった。
 煽られた林の木々がざわざわと音を立てる。落ち葉や小枝を内包した風は、そのまま無数の小さな竜巻に姿を変え葛寿の周囲に集まった。自然現象ではない。竜道だ。その証拠に竜巻はわずかだか葛寿の目と同じ輝きを帯びている。
 扇が袖から紐を取り出すより先に、楊枝状の竜之鱗を銜えた速午が前に出た。
 葛寿から視線を逸らさず、太刀の柄に手をかけ問いかける。
「彼は、木属性ですね」
「そうだ。木属性の風使いだ」
 扇の応えを聞き、すっと細められた陰陽生の白と黒の双眸が、一瞬、白銀の輝きを放った。呼応するように、すらりと抜いた太刀の刃が淡く輝く。
「消えろっ‼ 俺の前から‼」
 葛寿が叫ぶとすべての竜巻がもの凄い速さで過たず扇に向かってきた。
 同時に速午も竜巻の方へと踏み込み──はじめからそうなると決まっている演舞のように無駄のない動きで淡く輝く太刀を振るい、すべて一刀両断した。
「──なっ⁉ 斬った、だと? 俺の風を……陰陽生が?」
 竜巻に翻弄されていた落ち葉や小枝が音もなく地面に舞い落ちる──……。
「……──ははっ」
 動揺を露わにしていた葛寿の口が不意に歪な弧を描き、乾いた笑声を漏らした。そのまま先ほど初春が置いて行った風呂敷包みを無造作に掴むと右足を引きずりながら硝子張りの引き戸の方へと歩き出した。
 その姿が何よりも雄弁に訴えていた──自分に構うな、と。
 誇るでも哀れむでもなく速午はただ静かに太刀を鞘にしまった。
「葛寿くん」
 扇が声をかけると、葛寿は引き戸に手をかけた状態で動きを止めた。
「君たちが私の好敵手だったのは、過去のことだ」
「…………」
「だからこそもう変わることはない。今までも、これからも、君は私の好敵手だ。例え君がどんな人生を歩んできたとしても、それは揺るぎようのない事実だ」
 無言のまま振り返ることもなく葛寿は廃墟と化した洋館の中へと消えていった。
 扇はしばし洋館を眺めてから踵を返した。
「詰め所に戻ろう」
「いいのですか?」
「このまま闇雲に話しかけても葛寿くんには響かない。今日のところは撤退した方がいいだろう。──時間もないしな」
 最後の一文は口の中だけで呟いた。それが聞こえたのか否かわからないが、速午はあっさりと「わかりました。戻りましょう」と言って獣道を引き返しはじめた。
 それから扇と速午は、何ごともなく学び舎に戻ることができた。
 しかし詰め所のある森に足を踏み入れた瞬間、扇が危惧していたことが起きた。
「──っ!」
 世界が暗転する──違う、瞼が勝手に降りてきたのだ。なんとか押し上げるが、すぐにまた落ちてくる。地面もぐらぐらと大きく揺れはじめた──違う、扇の身体が揺れているのだ。真っ直ぐ歩こうとしても千鳥足になってしまう。
「失礼します」
 扇が一人静かに奮闘していると異変に気付いた速午が何も聞かずに、そっと身体を支えてくれた。ぷつ…ぷつ……と不規則に途切れる意識の中で扇はなんとか「ありがとう」と礼を述べた。
 道の先に平屋建ての詰め所と、その手前にある池が見えてくる。
 池の畔に複数の人影を認めたところで扇の意識は、ふっと深い闇に沈んだ。

 支えている扇の身体から完全に力が抜けるのを感じ取った速午は、その身体が頽れる前にしっかりと抱きとめ、流れるような動作で横抱きにした。
 池の畔にいた三人のうち二人が扇の異変に気付き駆け寄ってきたが、速午の鮮やかな手腕を目撃し目を丸くして足を止めた。二人は先ほど廃墟で見かけた坊主頭と長髪の少年だった。なお心配そうに扇と速午を見ている二人の背後で三人目がゆったりとした足取りで近づいてくる。
 四十絡みの偉丈夫で、赤みがかった髪は短く、額に白い布を巻いている。顔つきは厳ついが滲む愛嬌と柔らかな表情のお陰で近寄りがたさはほとんどない。
 尻っ端折りした袖のない着物に股引、地下足袋という軽装で、右腕は肘から手の甲を布製の籠手で覆い、左腕は二の腕の半ばから先がないので籠手の共布を切断面に当て紐で括っている。
 炬火之慈郎坊(きょかのじろうぼう)──学び舎で武術の授業を受け持っている教師の一人だ。
 慈郎坊は少年二人の頭をぽんっぽんっと順に撫で、振り返った二人に、にっと笑いかけた。
「扇少将は眠っただけだから安心しな」
「あんな倒れるように、ですか?」
 訝しげな長髪に慈郎坊が「そうだ」と大真面目に頷いてみせると、少年二人は困惑した様子で顔を見合わせた。慈郎坊のことは信用しているが今の説明には納得できていないようだ。
 丁度その時、扇を抱えた速午が三人のすぐ傍までやって来た。その腕の中で扇が健やかな寝息を立てているのを見て、少年二人は、ようやく『眠っただけ』という事実を受け入れることができたらしく、ほっと胸を撫で下ろした。
「さっき廃墟で会ったね。もしかして話をしに来てくれたのかな?」
 長髪が「はい」と応え坊主頭が頷くと、速午の表情がほんのわずかだが強ばった。
 呼応するように腕の中で扇も「うぅ」と呻き、速午を慌てさせる。
「なぁ速午、まずは詰め所に入らないか? 三十分以内に扇少将が起きないようなら話はお前さんが聞くか明日以降にしてもらう。どちらにしろ俺が責任を持って二人を家まで送り届ける。これならいいだろ?」
 慈郎坊の提案に少年二人は、はっとした。秋の日は釣瓶落とし──辺りはすっかり夕闇に包まれている。武術の授業を受けているとはいえ子供だけで外を歩くのはあまりよろしくない時間帯だ。例え子供の方に退っ引きならない事情があったとしても、良識ある大人ならば子供を引き留めることを躊躇するだろう。
 そして速午は見た目こそ少年のようだが中身は良識のある大人で、慈郎坊の提案は良識ある大人を納得させるのに十分な条件がそろっていた。
「わかった。そうしよう」
 速午は表情を和らげ、詰め所に向かって歩き出した。
「慈郎坊先生、ありがとうございます」
「ありがとうございます!」
 長髪と坊主頭が頭を下げると、慈郎坊は「どういたしまして」と笑顔で返した。

     ☯

 学び舎の詰め所に廊下はなく、玄関を開けるとすぐに広々としたフローリングのリビングダイニングに繋がっている。玄関から見て奥には台所、風呂場、トイレなどの水回りがあり、右手には絨毯が敷かれ、その上にテレビとローテーブルとソファが、左手には三方を本棚で囲った中に木製のダイニングテーブルと椅子が置かれ、その奥に物置部屋と和室に続く引き戸が並んでいる。
 和室に寝かされていた扇が目覚めたのは、二十分後だった。
 すぐに詰め所で待機していた面々がダイニングテーブルに集い、藻が「もう夕刻ですのでお茶は止めておきましょう」と全員に温かなレモネードを供した。
 席順は本棚を背にした扇の右隣を速午が陣取り、テーブルを挟んだ向かいに、慈郎坊、長髪、坊主頭が座っている。藻は扇の左斜め後ろに立ったまま控えている。
「すまない、待たせてしまったね。急に倒れたから驚いただろう?」
 レモネードで寝起きの喉を潤した扇は、謝罪という形で口火を切った。
 少年二人はそろって頷き、長髪が恐る恐る口を開いた。
「その、お身体は……」
「健康そのものだよ。あれは生まれついての体質なんだ。いつもはちゃんと調節しているんだが、今日は少しうまくいなかったようだ。以後気をつけるよ」
 扇が申し訳なさそうに微笑むと、少年二人は頬を赤らめうつむいてしまった。しかし坊主頭の方が何かに気付き、真剣な面持ちで顔を上げる。
「扇さんが夜の見回りに参加していないのは、その体質が関係しているのですか?」
「……私は空を飛べないから連携を取るのが難しいんだ。そうなると組める相手が限られてくる。実際、そのことで陰陽生の頃はまぁ色々とあってね。それらを踏まえ、陰陽師に昇格した際、この詰め所を任されることになったんだ」
 少年二人は神妙な顔つきで話を聞いていた。
 ふと視界の端に映り込んだ速午も真摯な表情を浮かべていた。
 どことなくしんみりした空気に、扇は内心苦笑しながらレモネードを飲んだ。
「人にはそれぞれ事情があるということだ。次は、君たちの事情を聞かせておくれ」
 水を向けられた少年二人は、はっとして居住まいを正した。

 長髪は、名を花朝之雪待(かちょうのゆきまつ)といい、属性は水。
 坊主頭は、名を翁草之千代木(おきなぐさのちよき)といい、属性は木。
 年はどちらも十五歳。赤ん坊の頃から一緒に遊んでいた所謂幼馴染みだ。
 廃墟にいた幼い少年は雪待の弟で花朝之初空といい、属性は木。年は八歳。
「二週間ほど前に初空が買い置きの缶詰やお菓子をごっそり持ち出したことがあったんです。両親が理由を聞いても教えてくれませんでした。ただ『ごめんなさい。もうしません』と言うので、一先ず様子を見ることにしたんです。
 ……甘いとお思いですか? 僕もそう思います。
 実はうちにはもう一人、二歳になったばかりの妹がいて、この子が活発な上、竜気の量が多くて、ここ数ヶ月、両親はほとんど妹に付きっきりで初空に寂しい思いをさせている自覚があるから強く出られないところがあるんです。
 僕もあまり構ってやれなくて……。それでもなるべく初空のことを気にかけていたのですが、今度は家を空ける時間が長くなって、買った覚えのないお菓子を持っていたり、この前なんか床に置いてあった箱を蹴ったら中から大量の小銭が出てきて……どうしたのか聞いたら、『預かってるだけ』って」
 両親が話を聞こうにも、「お金は知り合いから預かってるだけ」「お菓子はそのお礼にもらった」と繰り返すだけで埒が明かず、念のため知り合いにそれとなく何か知らないか聞いて回っても、皆、首を横に振るばかりで、雪待と両親は、すっかり手詰まりになってしまった。
「今日は千代木の提案で気分転換に西区の普段行かない商店街まで足を伸ばしたんです。そうしたらそこに初空がいて、色々買い込んでいるのを見てぴんときました。千代木も事情を知っていたので、そのまま一緒に尾行してくれたんです」
「そしてあの廃墟に辿り着いた──ということかな?」
 扇の問いかけに雪待と少し遅れて千代木も首肯した。
「初空が建物に向かって声をかけたら、あの男が出てきたんです。知らない男です」
 一気に喋ったため喉が渇いたのか雪待がレモネードを口にする。しかしカップをテーブルに戻すと急に肩を窄め「すみません」と頭を下げた。
「話しながら気付きました。これって陰陽師の領分じゃないですよね。思っていたより混乱していたようです……家に帰って、もっとちゃんと両親と話し合います」
「両親との話し合いは必須だけど、俺は陰陽師の領分ではないと言い切るのは、まだ早いと思う」
 速午の言葉に雪待が「えっ?」と不思議そうな顔をした。
「廃墟に子供が食べ物を持って行くという構図に、思い当たることがあるんだ」
「あの男に脅されて持って行ってたんじゃ……」
「脅されるには脅されるだけの何かがなくちゃだろう? あの男が怖いのなら行かなければいい。家を知られているのなら検非違使に相談すればいい。でも、初空くんはそうしなかった。多分、あの男は初空くんに竜之鱗を渡して換金してもらっていたんだ。そのお金で食料を買ってきてもらって、余った分を初空くんに口止めの意も込めて渡していたんじゃないかな。実際、昼間に初空くんが何者かと接触しているのを第三者が見ているし、俺と扇少将は彼が竜之鱗を何枚か持っているのを見ている」
 雪待がはっと息を呑むのを見て、速午は続けた。
「買い置きをごっそり持ち出したって言ってたけど、それは持ち出すのを見たの?」
「見てはいません。母が保管場所を確認したら減っていて、何か知らないか家族に聞いて回ったところ初空が明らかに動揺していたので問い詰めたら持ち出したことを認めたんです」
「確認は毎日?」
「いいえ。週に一度くらいです」
「それなら数日かけて少しずつ持ち出してもわからないね」
「でも、そうなると大人だと物足りないと思います。ごっそりと言いましたが全部持ち出したわけではないので……」
「うん。だから買い置きを渡していた相手は、あの男じゃない」
 そこで速午が意味ありげに言葉を切った。少年二人はわけがわからず訝しげな顔をしていたが、扇と慈郎坊の脳裏には、一つの可能性が浮かんでいた。
「「〈秘密のともだち〉」」
 扇と慈郎坊の口から同じ言葉が紡がれた。
 速午は、一瞬、唇を尖らせたように見えたが、すぐに神妙な面持ちで頷いた。
「なんですか、それ」
「こっそり飼われてるヒソカのことだよ」
 千代木の疑問に慈郎坊がにやりと笑いながら応えると少年二人は目を丸くしてから、なんとも言えない表情で「「あ~~~……」」と呻くような声を出した。何やら思い当たる節があるようだ。
 しかしそれはこの二人に限った話ではない。竜之国の子供ならば丁度彼らくらいの年齢になるまでに一度は、自分か兄弟か友人か先輩か後輩か知人の誰かが〈秘密のともだち〉を持つ──あるいは、持ったという噂を耳にする。
「あの廃墟には、なんらかのヒソカが住み着いていたんだろう。初空くんは最初、そのヒソカにお菓子なんかを持って行った。そこにあの男が現れて、ヒソカのことを言わない代わりに要求を呑むよう脅されているんじゃないかな」
 速午の推測に雪待は表情を強ばらせた。しかし微かだが安堵も滲んでいる。今まで影も形も見えなかったものの輪郭が朧ながら見えたからだろう。
「ヒソカが絡んでいるのなら陰陽師が関わってもおかしくはないな」
 扇が微笑を浮かべながら告げると、少年二人が勢いよくこちらに顔を向けた。
 感極まって何も言えないでいる雪待の背中を千代木が「よかったな」と言いながらさすると、ぎりぎり耐えていた涙が雪待の頬をいくつもいくつも転げ落ちていった。

     ☯

 雪待が落ち着くのを待って今日のところは解散の運びになった。
 扇と速午は、見回りの合間に情報収集と廃墟の様子を確認することを約束し、雪待は両親と話し合い、それとなく初空を廃墟から遠ざけつつ、何かあったら白青公園付近にいる扇たちか詰め所にいる女房に報告することになった。もらい泣きした千代木は鼻を啜りながら雪待の手伝いを買って出た。
「言いそびれていたが、あの廃墟の男は、私の古い友人で元陰陽師なんだ。だからヒソカはもういないかもしれない。しかし、一度ヒソカが住み着いた場所には、またヒソカがやって来ることがある。どちらにしろ危険だから初空くんは勿論、君たちも極力近寄らないようにしてほしい」
 扇が念を押すと、少年二人は神妙に「「はい」」と応えた。
 次いで扇は慈郎坊を見上げ、少しだけ眉尻を下げた。
「すまないね、慈郎坊くん。折角来てくれたのに……」
「帰りがてらに少し顔を見に来ただけだから気にしないでください。それより根を詰めずに、ちゃんと休んでくださいよ」
「わかっている。ありがとう」
 慈郎坊は軽く扇の背中を叩くと、少年たちと共に詰め所を後にした。
 扇も本当はそのまま離宮に戻り夕食を食べて一眠りしたかったのだが、報告書などの事務仕事が残っていたため、あくびをかみ殺しながら和室に入った。
 飴色に輝く座卓が中央に鎮座する和室は、扇のお昼寝場所兼執務室だ。
 本来は会議室なのだが、そもそも詰め所所属の陰陽師は速午が加わるまでは扇しかおらず、学び舎の教師と何か話し合う際は、扇の方から校舎に出向いていたので、本来の用途で使われた回数は両手の指で十分足りてしまう。
 しかし使わないのは勿体ないので、子供たちに見せられない書類仕事などは、ここで行うことにしたのだ。なので重要な資料や書類が保管されている物置部屋は勿論、和室も基本、子供たちの出入りを禁止している。
 女房の二人も飲み物や軽食を運ぶ以外で和室に入ることはあまりない。
〝にょにょ〟人目がないとわかっているからか、扇が座卓に近づくと、狩衣の襟からタカラが飛び出し座卓の上に着地した。そのまま〝にょ〟〝にょにょ〟と機嫌良さそうに転がり回る。
 その様子を笑顔で眺めながら扇は胡座を搔いた。普段、離宮で円座や移動可能な畳の上に座っているので座布団や座椅子がない方が楽なのだ。
「タカラくんは、人前には出さないのですか?」
 当たり前のようについて来て、当たり前のように正面に座り、当たり前のように書類を何枚か引き抜いた速午が使い込まれた万年筆を片手に小首を傾げながら問いかけてくる。
「可愛いし賢いし自慢して回りたいところだが、一応ヒソカだからね。可愛いけど」
「しかしそれだけでないところが心憎いですね」
 ふふっと笑みをこぼしながら速午は丁寧に、それでいて手慣れた様子で仕事をこなしていく。
 扇も愛用の万年筆を手に取った。──こういう時、速午はてこでも動かないので扇は、ただただその存在を受け入れるようにしている。女房たちは、はじめこそ「年頃の男女が同じ部屋で二人っきりになるなんて!」と難色を示したが、速午の誠実さと頑固さに気付いてからは静観してくれている。扇が「心配してくれるのは嬉しいが速午くんは大丈夫だ」と言い添えたことが最後の決め手となったらしい。
 互いに言葉を交わさず、筆先が紙をする音だけが和室に響く──……。
「ふぁあ……うん?」
 終わりが見えた気の緩みからか扇の口からあくびがこぼれた。袖で隠しながら何気なく正面を見ると速午が真っ直ぐこちらを見つめていた。しかし眼差しの強さに反し表情はとても不安そうで心許ない。手元の書類は、ほぼ完成しているようだが、まだ完成させるつもりはないらしく完全に手が止まっている。
 なんとなく視線を交わすことがしばし──……速午が頭を下げた。
「扇少将、本日は、誠にすみませんでした」
「……謝罪される覚えがないのだが?」
「公園で……傍にいると言ったのに、舌の根も乾かぬうちに離れてしまいました」
 顔を上げた速午が罪を告白するような面持ちで告げた内容に扇は内心首を傾げ──公園での業務確認の際、速午が『俺は扇少将の傍にいればいいということですね』と言っていたことを思いだし「あぁ、そういえばそうだったな」と手を打った。
「しかし君が傍を離れたのは、初空くんを心配してだろう? 陰陽師として正しい行いだ。むしろ気付いたのに無視していたら、私は君を軽蔑したよ」
「それでも俺は、何よりもあなたを優先したいんです。あなたのことが大切だから」
 速午の声音は真剣だったが、その表情と口調は、拗ねた子供のようだった。
 扇は思わず「ふっ」と吹き出した。
「……俺の気持ち、疑ってます?」
 恨めしそうに上目遣いで睨まれ、扇は軽く肩を竦ませ「まさか」と応えた。
「君が私を大切に想う気持ちは、日々実感しているよ。生半可な気持ちで押しかけ部下をしたり、離宮にまで乗り込んでこられたら溜まらないからね。だから君は、君の思うまま行動するといい。言動が矛盾していても、私は君を疑わない」
 真っ直ぐ見つめ返すと速午の表情から険が薄れ、双眸が光を受けた螺鈿のように鮮やかに輝いた。
「傍にいます。……今度こそ」
 頬を赤く染めながら速午は真摯に誓った。
「ありがとう。無理のない範囲で頼むよ」
 扇は微苦笑を浮かべながら、その誓いを受けた。

 話は終わったので、さっさと仕事を終わらせてしまおう──と扇は意気込んだが、速午の手は、依然として止まったままだった。しかも今度は視線を逸らし何やらもじもじしている。どうやらまだ何か言いたいことか聞きたいことがあるらしい。
〝にょ〟
 指摘するべきか扇が束の間、迷っていると、座卓の上で静かに転がっていたタカラが不意に跳躍し──速午の頭の上に着地した。そのまま速午の頭の上をぽよんぽよんと跳ね回る。遊んでいるわけではないのだが、あまりの可愛さに扇は「ふふっ」と笑ってしまった。
 ぽよんぽよんされている当の本人は「タ、タカラくん?」と困惑している。
「『尋ねたきことあらば疾く尋ねよ』──だそうだ」
 いつもよりやや低い声で扇はタカラの言いたいことを代わりに口にした。その口元には悪戯を企む子供のような笑みが浮かんでいる。
 速午は扇に視線を合わせ目をぱちくりさせた。
「タカラくんってそんな口調なんですか? 声も……その、渋い感じなんですか?」
「可愛いけど如意宝珠だからね」
「あぁそうでしたね。如意宝珠ですもんね……」
 速午は苦笑を浮かべ視線を少しうろうろさせてから再び扇を真っ直ぐ見据えた。どうやら腹を決めたようだ。タカラも跳ねるのを止め成り行きを見守る姿勢を取る。
「扇少将。──慈郎坊さんのことをどうお思いですか?」
「仕事の面ならば学び舎と詰め所の間を自然と取り持ってくれているので助かっているし頼りにしている。実生活なら愛妻家の子煩悩。あと賢弟の趣味の師匠で、まだ未熟だった私を見守ってくれた大切な護衛であり武術を指導してくれた大切な師でもある。職を辞してもそれは変わらない」
 扇は微笑を浮かべながら間髪容れず淀みなく応えた。
「……聞いておいてなんですが、なんだか慣れていませんか?」
「最近はあまりないが、ここを任されたばかりの頃、散々聞かれたからね。妙に親しげな妙齢の男女──しかも片方は高貴な身だ。好奇心だけでなく弱味を握りたい恩を売りたいと考える者が湧いてね。実害はなかったが、あえて空気を読まないあの慈郎坊くんが深刻な様子で『俺、しばらく顔を見せない方がいいですかね?』と言い出すくらいには、煩わしかったと付け足しておこう」
 微笑を微苦笑に変えて応えると、速午は真っ青な顔で勢いよく頭を下げた。
「すみません! 慈郎坊さんにも失礼でした。思っていたより扇少将と慈郎坊さんの息が合っていて、羨ましいやら妬ましいやら……それで、つい……」
「私のこともそうだが、慈郎坊くんのことも信じられないのかい?」
「信じています! 二人のことは、信じていますが……たまにどうしても不安になるんです。十五年前のこととか……俺が知らない、空白の時間が……」
 勢いよく顔を上げた速午の眉がへにゃりと八の字を描く。
〝にょにょ〟速午の頭からタカラが飛び降り、座卓の上を転がって扇の手元近くで跳躍──扇の肩に落ち着いた。指先でタカラを撫でてから、扇は書類をまとめ、しょんぼりしている速午の隣に移動した。
「扇少将?」
 突然のことにぽかんとしている速午の額を扇は指で軽く突き、
「過去の空白はどうしようもないが、今、この時、空間的な空白は埋めることができる。一先ずこれで我慢してくれ」
 と言って仕事を再開させた。そう間を置かず横からペンが紙の上を走る音が聞こえてきた。そっと目だけ動かし様子を窺うと速午が一心に万年筆を動かしていた。その眼差しは真剣そのものだったが、上気した頬は緩み笑みが滲んでいた。
 視線を手元に戻した扇は、微苦笑を浮かべたまま「ふぅ」とため息を吐いた。
「仲がいいのは、君たちもだし、空白の時間が気になるのは、君だけじゃない」
〝にょ〟その切なさを含んだ呟きを聞いたのは、タカラだけだった。
 慰めるように身を寄せてくるタカラに頬ずりしつつ、扇は速午が正式に部下になった日のことを思い返した──……。

     ☯

 ──……十五年前。婚約者の安否が不明になった直後、まだ一之姫と呼ばれていた幼い扇は居ても立ってもいられず、家族や近衛、女房女官の目を掻い潜り、単身、ヒソカがよく出ると言われている山に乗り込んだ。
 武器は、武術の稽古や授業で使う竹刀のみ。
 一人で身支度したため、髪はともかく狩衣はあちこちよれていた。
 山の中腹で立ち止まると、涙がぽたぽたと勝手に溢れてきた。
 それが呼び水になったのか、気がつくと扇は無数のヒソカに囲まれていた。
 涙を流したまま表情を引き締め竹刀を構える──しかしヒソカは距離を置いてこちらを窺うだけで一向に向かってこない。
 ふと、ほんの少し前に簀子で天馬と交わした会話を思い出した。
「……至竜の、血……」
 ザワッ……──と何かを期待するようにヒソカが身じろいだ。
 扇は柄から左手を放し、そのままを口元まで持ち上げた。
 そしてずり下がった袖からのぞく左腕に──思い切り歯を立てた。
「──っ!」
 痛みが走る──が、それだけだった。皮膚を破ることはできず、当然、血も流れない……そのことがひどく情けなく思え、扇は更に力を込めた。
 赤い風が吹いたのは、その直後だった。
 ただの風ではない。竜気が──火気が込められた風が、扇の背後から吹き付けたのだ。風に当たったヒソカは銘々悲鳴を上げたり顔をしかめたりしながら、どこかに消えてしまった。駆けていった者もいれば、文字通りパッと消えてしまった個体もいる。
 瞬きを数回する間に、扇の周囲からヒソカは一体もいなくなった。
「…………」
 左腕から口を離し、扇はゆっくりと身体ごと振り返った。
 二十代後半くらいだろう。体格のいい隻腕の男が長刀を手に仁王立ちしていた。
 身に纏った薄桃の狩衣には、陰陽官の紋章が刺繍され、額に白い布を巻いている。
 その顔に扇は見覚えがあった。天馬が何度か「友人です」と言って連れてきて、武術の稽古などをつけてくれた。
「炬火之、慈郎坊、くん……」
 名前を呼ぶと慈郎坊は「はい」と硬い声で応え近づいてきた。そして扇の目の前で片膝をつくと長刀を地面に置き、扇の左手をそっと掴み、歯形に視線を注いだ。
 それから顔を上げ──
「まずは強くなりましょう。扇姫」
 と言って快活に笑った。
 てっきり怒られるか諭されるか哀れまれると思っていた扇は、きょとんとしてしまった。涙もいつしか止まっていた。
 慈郎坊は「失礼」と言って扇を片腕で抱き上げた。
「最後に会った時、天馬に何か言われませんでしたか?」
「……待っていてくれと、言われた」
「如何にもあいつが言いそうなことですね」
「そうかな?」
「そうですよ。それにあいつは……天馬は、約束を守る男です。そのことは扇姫もよくご存じのはずだ。だから、あいつが帰ってくるまでに強くなって驚かせてやりましょう! 大丈夫。扇姫は筋がいいので、すぐに強くなれます。いかがですか?」
 悪戯っ子のような笑みを浮かべながら慈郎坊は扇の顔をのぞき込んだ。
 扇は口元に手を添え──「ふふっ」と笑った。
 あの紅葉狩りの日以降、初めての笑みだった。
「おっ! 笑いましたね。それは是と取りますよ? まずは帰ってしっかりご飯を食べてゆっくり寝ましょう! 何ごとも身体が資本です」
 慈郎坊が意気揚々と山道を下りはじめる。
「慈郎坊くん。ありがとう」
「はははっ! 恐悦至極にございます。しかし俺の本気の稽古は厳しいですよ」
「覚悟しておくよ。それと、気になっていたんだが長刀はいいのかい?」
 扇が小首を傾げると、慈郎坊は「あっ‼」と叫んで慌てて踵を返した。

「俺は山に向かう扇姫を見てあとを追いかけたから知らなかったんだが、その頃、竜之宮では一之姫がいないって上を下への大騒ぎでな。彼女を連れ戻した俺は滅茶苦茶感謝されて、ちょっと調子に乗って護衛兼武術の指導者にしてほしいって頼んだらあっさり通ったんだ。この時点では、扇姫が陰陽生になったら俺も陰陽官に戻って陰陽師を続けるつもりだったんだが、二年ですっかり教える楽しさに目覚めたから教師に転職したんだ。そうしたら今度は、陰陽師になった扇姫──いや、扇少将が学び舎の詰め所を任されることになったから、昔馴染みの俺が教師陣との仲立ちみたいなことをしているってわけだ。いやぁ人と人との縁って不思議だよなぁ」
「……ほぼ初耳なんですが?」
 青も白も通り越して土気色に近い顔色の速午の口から、地の底を這うような声が紡がれる。それに対して慈郎坊は明るく呵々と笑った。
「そりゃあ、前もってお前にこの話したら、一も二もなく扇少将のところに突撃しただろう? だからお前がちゃんと扇少将の部下になるまで言わなかったんだ」
「その配慮は感謝しますが、単身山に行って、しかも自らを傷つけて血を出そうとしていたなんて……前に聞いた話だと、たまたま迷子になっているのを見つけて竜之宮までお送りし、その褒美に護衛になったって……」
「感情が迷走してるんだから迷子だろう? 嘘は吐いてないぞ」
「ここまで説明が抜けていると嘘とほとんど変わりませんよ」
「だからこうして今、ちゃんと全部話したじゃないか」
 ローテーブルを挟んでテンポよく会話を交わす慈郎坊と速午を扇はシュークリームを咀嚼しながら眺めていた。〝にょにょ〟肩にはタカラが乗っている。
 この日、正式に詰め所所属になった速午は、いつものように昼食がてら遊びに来た子供たちとすぐに打ち解け、まるでずっと以前からそうしていたかのような自然さで彼らを午後の授業に送り出した。そうして速午に何を教えようか扇が迷っていると、シュークリーム入りの紙袋を手に提げた慈郎坊が訪ねてきたのだ。
 簡単な挨拶を済ませると、藻はシュークリームと共にキッチンに、扇はテレビ正面のソファに座り、速午は扇から見て左側のソファに、慈郎坊は右側のソファにそれぞれ腰を下ろした。〝にょ〟タカラも狩衣の襟から飛び出し扇の肩に乗る。
「元護衛として、教師陣の代表として、扇少将の部下になった陰陽生の顔を拝んでおこうと思いまして、こうして馳せ参じた次第です」
 シュークリームと珈琲が全員に供されるのを待って慈郎坊が口火を切った。
 扇は珈琲を一口飲んでから「ふっ」と微笑を浮かべ、
「拝むも何もよく見知った顔だろう? 君たちは友人なのだから」と言った。
 速午が軽く目を瞠り、慈郎坊はばつが悪そうに頬を指先で掻いた。
「あ~……やっぱり調べはついていましたか」
 口調は軽いが、慈郎坊の声音には、忸怩たる思いが滲んでいた。
 扇は申し訳なさそうに、しかし毅然と微笑み頷いた。
「履歴書とは別に報告書も添えられていた。私は皇族だからね。直属の部下ともなると調べないわけにはいかないし、私も目を通さないわけにはいかない」
 速午を見ると、年若い陰陽生は神妙な面持ちで「重々承知の上です」と言った。
 慈郎坊が「はぁ……」と聞こえよがしにため息を吐く。
「なんか……緊張して損した。これでも色々考えてきたんですよ?」
「慈郎坊くんは生真面目だからね。ところで二人はどこで出会ったんだい?」
「報告書には書かれていないんですか?」
「流石にそこまでは調べられなかったようだ」
 慈郎坊の疑問に答えながら扇は軽く肩をすくめた。〝にょ〟タカラが少し体勢を崩したので手で支えると、そのまま手にじゃれついてきたので膝に移動させた。
 居住まいを正した速午が「こほん」と咳払いをする。
「確かに慈郎坊さんとは以前から交流がありました。正確には三年前です」
「君が陰陽師を目指しはじめた頃だね」
「はい。俺は陰陽官の本部で働きたかったので、一度、本部を見るために虹霓を訪れたんです。ただその時は、気が急いていて宿を取り忘れてしまって……途方に暮れていたところ声をかけてくれたのが慈郎坊さんでした。事情を話すと自分の家に泊まればいいと言ってくれて、それから手紙などでやりとりをするようになりました」
「二年前の陰之大祭の時も家に泊めて、啓湖のお披露目を一緒に見に行ったんですが、こいつ、扇少将が正装で現れるや否やすっかり魅入って、てこでも動きそうになかったから、その場に残して俺は少し前に出たんです」
 珈琲を手に取った慈郎坊がくつくつと笑いながら言い添える。
「慈郎坊くんが子供たちに何か吹き込んでいるのは見かけたが速午くんには気付かなかったな……」
 そう言って扇は珈琲を口にした。
〝にょにょ〟身体を伝って肩に乗り直したタカラが頬ずりしてくる。
「──そういえば、どうして速午くんはそんなに私のことが好きなんだい?」
「──っ⁉」
 珈琲を飲もうとしていた速午の身体が、中途半端な体勢で固まった。咄嗟に真一文字に引き結ばれた唇が微かに震えている。
「だははははっ‼ そ、そういえばそうですね‼ こいつ、三年前からずっと何かといえば『扇さま』『扇さま』っ言ってたんですよ‼ ほらほら、ご本人がお尋ねなんだから、ちゃんと答えろ‼」
 目尻に涙が浮かぶほど大笑いした慈郎坊が食べかけのシュークリームを手にしたまま速午に詰め寄る。速午は恨めしそうに慈郎坊を睨みつけたが、本気で怒っているわけではなく視線にも表情にも焦りと照れが混在していた。慈郎坊もそうとわかっているからこそ、にやにやするだけで小揺るぎもせず、「ほらほら」「早くしろよ」と少年のようにはしゃぎせっついた。
「……本当に仲がいいんだね」
 シュークリームを手に取りながら扇はため息を交じりに呟いた。
 途端、速午と慈郎坊がぴたりと口を閉じ扇に注目する。その様子を見た扇が「ふふっ」と笑い「ほら、やはり仲がいい」と言った。
 速午は唇を尖らせ、慈郎坊は苦笑を浮かべ頬を指で掻いた。
「な、仲がいいと言えば、慈郎坊さんは扇少将の護衛だったんですよね? その経緯をお教え願いたいのですが……」
「慈郎坊くん、話していないのかい?」
「大まかには話しましたよ。でも、そうですね。もう大丈夫でしょう」
 何やら一人納得した慈郎坊はローテーブルを挟んで向かいにいる速午に向き直った。速午も空気を察し、聞く姿勢になる。
 そうして慈郎坊は、十五年前のことを語りはじめたのだった──……。
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