三章:旅行者の目的〈五〉

文字数 6,493文字

 流水之祭を目前に控えた水曜日の昼下がり。
 昼営業の終わり間際。お客は全員捌けたものの、まだ熱気が残っている店内で湖太郎と手分けしてテーブルを拭いて回っていた笄花は、からからと引き戸が開く音を聞きつけ、反射的に「いらっしゃいませ」と言いながら振り返り──目を丸くした。
「すみません‼ まだやっていますか⁉」
 びしっと敬礼しながら問いかけてきたのは、検非違使の梫太郎だった。傍らの鈴木は、青い顔で何やらそわそわしている。
「おにいさん、だいじょうぶですか? すわってください」
 鈴木の顔色の悪さを心配した湖太郎が、駆け寄って席を勧める。
 止めるべきか否か判断に迷った梫太郎が視線で助けを求めてきたので、笄花は微苦笑をこぼし甥と旅行者に近づいた。
「どうぞ、お好きな席におかけください。飲み物は、冷たいお水がいいですか? それとも、温かい焙じ茶がいいですか?」
「ありがとう、ございます。じゃあ温かい焙じ茶をお願いします」
 ぎこちなく微笑む鈴木に「わかりました」と笑みを返してから笄花は湖太郎と共に厨房に向かった。

 梫太郎と鈴木に焙じ茶を供した笄花は、そのまま出入り口に向かい、引き戸の横にある『開店中』の札をひっくり返し『準備中』にした。
 月曜日の午後、迎賓館で何かが起きた。そのことは虹霓中に瞬く間に広がり、田村鋼太郎の名前と顔写真も一緒に出回った。写真には、見つけ次第、検非違使か陰陽官に通報するよう書かれていた。田村が何かに関わっていることは明白だった。そうなると行動を共にしていた鈴木や梫太郎も色々大変だったのだろう。
 そんなことを想像しながら、笄花は以前と同じテレビ下の席でメニューを吟味している二人に「他のお客さんは、もう入ってこないのでゆっくりしてください」と伝えた。梫太郎は「ありがとうございます!」と頭を深々と下げ、鈴木も「すみません。ありがとうございます」と言って申し訳なさそうに頭を下げた。
 笄花は思わず「ふふっ」と吹き出してしまった。
 鈴木が「どうしました?」と訝しげな顔をする。
「ごめんなさい。頭の下げ方とか言い方がよく似ていたから、なんだか微笑ましくなってしまって……ふふっ、玻璃菜と湖太郎も、たまにそういうことがあるんです。仕草や物言いが、ふとした瞬間、そっくりで……」
「わかります! 自分には兄がいるのですが、父や親戚の方々から、苛ついている時の物言いが驚くほどよく似ていると言われることがあります‼」
「僕は、一人っ子なのでそういう経験は……──あぁ、でも昔、兄のように慕っている人がいて、その人と笑い方が似ていると、母に言われました。その人は、自分なんかに似ちゃ駄目だと言って、それからしばらく笑うことを我慢していました」
「その人は、鈴木さんのことが大切だったのですね‼」
 にっと笑う梫太郎に、鈴木はしばしぽかんとしてから、「……だと、嬉しいです」と言ってはにかんだ。

     ☯

「うすいけどおりたためないんだね、スマホって」
「湖太郎、画面をべたべた触っちゃだめ。こーやって触らないように持つの」
「そうなの? おねえちゃんものしり! すごい!」
 梫太郎と鈴木がテーブル横ではしゃぐ幼い姉弟を微笑ましそうに眺めながら焙じ茶を啜っていると、それぞれの前に小皿が置かれた。
 小皿の上には、小ぶりの肉まんとあんまんがちょこんと載っている。
「どうぞ、流水之祭で売る予定の肉まんとあんまんです。味見してください」
 小皿を置いた笄花は、そう言ってにっこりと微笑んだ。
「ありがとうございます。いただきます」
「頂きます‼」
 鈴木はあんまんを、梫太郎は肉まんを手に取った。
「玻璃菜と湖太郎の相手をしてくださって、本当にありがとうございます」
 笄花の言葉に、鈴木は「いえ、そんな……」と照れ笑いを浮かべた。
 玻璃菜が帰宅したのは、梫太郎と鈴木が遅めの昼食を食べ終える間際だった。
 二人がいることに興奮しつつも手際よく片付けを手伝う幼い姉弟に感心した鈴木が声をかけ、色々話しているうちに気がつけばスマートフォンを差し出していた。
「しかし、本当にスマートフォンとか携帯電話の普及率が低いんですね」
「この国では、エネルギーをほぼ竜気でまかなっているので、機械も竜気を内包しているんです。なので機械を持ち歩くと、必然的に竜気の量も多くなり、ヒソカやウツロとの遭遇率が上がってしまって危険なんです」
「あっ……そういう理由、なんですね……」
 思っていたより切実な実情に鈴木は表情を強ばらせ、子供たちにもみくちゃにされているスマートフォンをなんとなく一瞥した。その視線に気付いた梫太郎が、
「迎賓館では竜気を電力に変えているのでご安心ください‼」
 と言って、安心させるためか満面の笑みを浮かべた。
「でも、迎賓館では、ということは、一般のご家庭では家電を竜気で動かしているということですよね。そうなると部屋の中にヒソカやウツロが入ってきそうですが、そこは大丈夫なんですか?」
「そとでうまれたヒソカやウツロは、へやのなかには、はいってこないんだよ!」
「だから怪しいと思ったら、近くのお家に助けを求めるんです!」
 鈴木の疑問に応えたのは、スマートフォンに夢中になっていたはずの湖太郎と玻璃菜だった。二人とも得意気に目を輝かせている。大人に教えるという滅多にない状況にはしゃいでいるようだ。
「そうなんですね、知りませんでした。教えてくれて、ありがとうございます」
 鈴木は、柔らかな笑みを浮かべながら幼い姉弟の頭を撫でた。
「「ふふふっ」」
 姉弟はくすぐったそうに首を竦めて笑った。
「あなたたちもおやつを食べてきなさい。スマートフォンはお返しするのよ」
「「はーい!」」
「鈴木さん、ありがとうございました」
「ありがとうございます!」
 笄花に背中を押された玻璃菜と湖太郎は、鈴木にスマートフォンを返すと駆け足で厨房に戻り──「こら、店内は走らない!」と母親に叱られた。
 笄花、梫太郎、鈴木はなんとなく顔を見合わせ、「ふっ」「ははっ‼」「ははっ」と同時に吹き出した。明るい笑声が店内で重なり合い響き合う。
「──……梫太郎さん、連れてきてくれて、ありがとうございます」
 一頻り笑ったあと、目尻に浮かんだ涙を指で拭いながら、鈴木は梫太郎の方に向き直り礼を述べた。笑いすぎてすっかり渇いてしまった喉を潤そうと焙じ茶を飲んでいた梫太郎は、穏やかな笑みを浮かべた。
「気晴らしになったのならば重畳です‼」
「はい。色々思うところはありますが、最後までこの旅を楽しみたいと思います」
 そう言って鈴木は微笑んだが、目の奥には憂いが滲み、頬も少し引きつっていた。
 無理に本心を隠しているその姿に、過去の自分が重なり、笄花の心にある古傷が罪の意識と共にずきりと痛んだ。胸元に手を添える。
「見た目で、人の善悪がわかればいいのに……」
 鈴木が「えっ?」と笄花の顔を見上げる。
「──っ、すみません。昔、その、手ひどい裏切りにあって……優しい人だと思っていたのに、その優しさは偽りで、すべて、私を騙すための嘘だったんです。世の中には、そういう人がいるんです。だから、見た目でわかればいいのにと思って……」
「……そう、ですね。見た目でわかれば、楽ですよね」
 笄花と鈴木の間にしんみりとした空気が流れる。それを弾き飛ばすように、ばんっ──と、乱暴な音を立てながら梫太郎がテーブルに両手をつき、立ち上がった。
「まだ、田村さんが本当に悪いことをしたのか、わからないじゃないですか‼ 仮にしていたとしても、何か理由があってのことかもしれません‼ 免罪符にはなりませんが情状酌量の余地は生まれるかもしれません‼」
 ぐっと手を握りしめ、手の甲に血管を浮かせながら梫太郎は熱弁した。
「どうしたの?」
「おおきいおと、したよ?」
 玻璃菜と湖太郎が厨房からひょこっと顔を出す。
 梫太郎が「すみません‼ お騒がせしました‼」と言って席に座り直し、笄花が「大丈夫、なんでもないわ」と言いながら厨房に向かう。そんな二人を眺めながら鈴木は仲間はずれになった子供のような寂しげな笑みを浮かべた。

     ☯

 コツッ──と爪先に硬質なものが当たった。
 笄花はテーブルを拭く手を止め、テーブルの下をのぞき込んだ。
「……スマートフォン?」
 手に取ってみると、それは確かにスマートフォンだった。
 しかし先ほど姪と甥が見せてもらったものとは違い、画面には細かな傷があり、ケースもついていない。なんとなく扱いが雑な印象を受けた。
「でも、きっと鈴木さんのものよね」
 笄花は割烹着を近くの椅子の上に置き、スマートフォンを袖にしまってから妹夫婦に「忘れ物があったから迎賓館に届けてくる。すぐ戻るから」と声をかけ店を出た。

 街は、沸騰前の水のように一見いつもと変わりないように見えて、その実、ふつふつと熱を上げつつあった。真面目に日々の業務をこなす傍ら、ふと生じた空き時間を祭の準備に充てる──浮かれている人々の明るく生き生きとした表情が、笄花には目に痛いほど眩しく、少しうつむきながら先を急いだ。
 迎賓館への道のりは、もう何十年も足を向けていないのに身体が覚えていた。その事実に、鼻の奥がつんっと痛み、次いで指先がすっと冷えた。楽しくて幸せで、宝物のようだった日々は、最後の最後で罪深く汚らわしいヘドロに変わってしまった。
『逃げなさい‼』
 いつまでも色あせない涼やかな声が脳裏に響く。
 ピッピピピピ……──ピッピピピピ……──
 聞き慣れない電子音が袖から溢れ出した。
「えっ? えっ? えっ?」
 笄花は慌ててスマートフォンを取り出した。画面は真っ暗だが電子音は止まない。
 複数の視線を感じ、笄花はなんとなく申し訳なくなり近くの路地裏に逃げ込んだ。
「えっと、ボタン……は、確か、液晶画面に……」
 以前、ドラマで見たスマートフォンを扱うシーンを思い出しながら指先で真っ黒な画面に触れる──パッと画面に明かりがついた。
 数字の羅列と、いくつかの記号が現れる。
「あぁ電話だったのね。何事かと思った」
 ほっと胸を撫で下ろした拍子に、笄花の指が画面の電話マークに触れた。
 そして──

『よぉ、愛しい愛しい息子。元気にやってるか?』

 渋く艶のあるいい声が流れてきた。
 笄花の身体が凍り付いたように動かなくなる。
『どうした? ……少し周囲が騒がしいな。もしかして外か? 迎賓館から出られたのか? それとも出されたのか? 抜き打ち調査があったんだろう』
 声の主は少し間を置いてから、『ククッ』と喉の奥で嘲るように笑った。
『驚いたか? 本当に偶然なんだが旅行者の中に、俺たちに頭の上がらない奴がいてな、たまにお前──というか、他の旅行者の情報を流させてたんだよ。そいつがさっき連絡をくれてな』
 ごくり──と笄花は唾を飲んだ。
『監視なんて大層なものじゃないが、まぁ気が引き締まるだろう?』
「…………」
『……なぁ息子よ。そろそろ声を聞かせちゃくれないか。それとも監視するようなことをされて怒ったのか? でも仕方ないだろう。お前は反抗期だからな。それも特大の。俺の言うことを聞かないのは、まぁまだ許せたが、まだ使える玩具を勝手に捨てたのは駄目だ。そんなことするお前を野放しにはできないだろう?』
「…………」
『おい、いい加減にしろよ。優しくしてりゃつけあがり……──』
「佐藤さん」
 プツッ──
 笄花の囁くような呼びかけに返事はなく、文明の利器は、いつの間にかただの冷たい板に成り果てていた。様々な感情と言葉と記憶が混ざり合い、笄花の頭の中を真っ黒に染め上げていく。ただ立ち尽くすことしかできずにいると、
「笄花さん?」
 すっかり聞き慣れてしまった声が背中に投げかけられた。
 振り返ると路地を塞ぐように鈴木が立っていた。
「やっぱり笄花さんでしたか。こんなところで何を?」
「…………」
 穏やかな笑みを浮かべながら鈴木が近づいてくる。笄花は無言で距離を取った。
 鈴木が「笄花さん?」と訝しげに少し首を傾げる。
 笄花はスマートフォンを握りしめた。

「あなたも、十鬼夜行を起こすの?」

 鈴木の表情が固まった。足も止まる。しかしすぐに困ったような笑みを浮かべ、口を開こうとした。しかし笄花の方が早かった。
「その混乱に乗じて至竜を攫うの? スーツケースに詰めて」
「何を仰っているのですか?」
「とぼけないで!」
 笄花はスマートフォンを突き出した。
「テーブルの下に落ちてた。あなたのものでしょ? さっきこれに電話がかかってきたの。相手は名乗らなかったけど知っている声だった」
「それは確かに僕のものですが、かけてくるのは日本……大海の島の人だけなので、笄花さんの知り合いではないと思いますよ。聞き間違いです」
「私が知っている彼の名前を呼んだ途端、電話を切られたのに?」
「僕にかけたのに女性の声がして驚いただけですよ」
「違う。相手も私に気付いたからよ。二十七年前、彼は……あいつは、あなたと同じ旅行者だった。そして、私の恋人だった。でも、恋人だと思っていたのは私だけ……すべては、陽之大祭で十鬼夜行を起こし、混乱に乗じて私を……至竜を攫うための下準備でしかなかった!」
「笄花さん」
 届くはずのない鈴木の手から逃れるように、笄花は身を翻し地面を蹴った。その身体がふわりと空に浮かび上がる。そのまま上昇していくと地上から、どさっ──と大きな物音がした。何事かと振り返り──笄花は息を呑んだ。
 鈴木の後ろに見知らぬ子供が立っていた。そしてその足元に梫太郎が倒れていた。気を失っているらしく、ぐったりしている。先ほどの大きな音は、梫太郎を地面に下ろした音だったようだ。
「近くで聞き耳を立てていましたよ。油断大敵です」
 振り返った鈴木に、子供はそう言ってニッコリと微笑んだ。
 次いで子供は笄花を見上げた。顔立ちは美麗。十歳前後で仕立てのいいシャツと半ズボンを身に纏っている。育ちの良さそうな子供だ。しかし笄花は本能で察した。この子供は自分たちの天敵──ウツロだと。
 子供の姿をしたウツロは笄花を見据えたまま、梫太郎の首に片足を乗せた。
「降りてきてください。美味しそう……いえ、綺麗なお姉さん。さもないと、このお兄さんの首を踏んで骨を砕きます。僕は本気だし、それができるだけの力を持っている。お姉さんにはわかるでしょう?」
 ニィ──と笑うその顔は、嗜虐の喜びに満ちていた。
 本能的な──捕食されるかもしれないという恐怖が、スマートフォンを握る笄花の手を震わせた。今すぐにでもこの場から離れたいと身体が訴えかけてくる。
 しかし笄花は動けなかった。「はっはっ」と息ばかり荒くなる。
「早くしてください」
 早々にしびれを切らしたウツロが笑顔から一変、ムッと口をへの字に曲げ、梫太郎の首に乗せた足に力を込める。
「やめてっ!」
 笄花は慌てて高度を落としたが、すぐに空中で止まった。
 ウツロの足首を梫太郎が両手で掴んだのだ。想定外だったらしくウツロもポカンとしている。
「笄花さんっ‼ 逃げてくださいっ‼」
『逃げなさい‼』
 梫太郎の声に、記憶の中にある涼やかな声が重なった。
「ぐはっ‼」
 鈴木が無言で梫太郎の腹を踏みつける。
 苦悶の声を上げながら、それでも梫太郎は手を放さなかった。
「やめなさいっ!」
 もう一度、梫太郎の腹を踏みつけようとした鈴木に、笄花は斜め上から飛びつき、そのまま揉みくちゃになりながら地面に倒れ込んだ。すぐに体勢を立て直そうとしたが、鈴木の方が動き出しが早く手際もよかった。気がつくと笄花は、うつ伏せの状態で後ろ手に拘束されていた。
「……あのまま逃げればよかったのに」
 耳元に唇を寄せ、鈴木が囁く。呆れているような口調だった。
 笄花は目だけ動かし近距離から鈴木を睨みつけた。先ほど揉みくちゃになった際、吹き飛んだのか銀縁の眼鏡は外れ、髪も乱れている。
「もう十分逃げたわ。だから、もう逃げない」
「……あっそ」
 興味なさそうな鈴木の声を最後に、笄花は意識を失った。
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