三章:旅行者の目的〈三〉

文字数 12,655文字

 此花之院の門の前で速午は立ちすくんでいた。
 思いがけず田村に背を押され勢いづいたものの、扇との距離が近づくにつれ形容しがたい不安が膨れ上がり、門の前ですっかり足が止まってしまったのだ。
「はぁ……」
 吐きたくもないため息が勝手にこぼれ落ちていく──……と、
「あら──……今日は。速午陰陽生」
 門が開き、中から微笑を浮かべた李子が現れた。

     ☯

 まだおやつ時だというのに黄昏の気配を含んだ陽光が降り注ぐ中島で、扇は一人仰向けの状態で毛氈の上に横たわっていた。
 折敷も火鉢も片付けさせたので毛氈の上には扇しかいない。──タカラもいつの間にか袖の中に戻ってしまった。
 目を閉じると、天にいる竜の柔らかな視線と、地にいる竜が身じろぐ涼やかな音に包まれた。身体がすっかりそれらに馴染むと、徐々に塀の向こうを行き交う人々の気配が感じ取れるようになった。
 世間は休日でも竜之国の中枢である雲郭に休みはない。
 文官武官は勿論、彼らの食事や仕事を支える多くの人々が出入りしている。
 ──と、
「お身体が冷えますよ」
 柔らかくも密やかな声と共に竜気で暖められた空気がふわりと扇を覆った。思っていたよりも身体は冷えていたらしく、「ほぅ」と息を吐きながら扇は目を開けた。
 毛氈の傍らには、声の主──速午が立っていた。本人としては穏やかに微笑んでいるつもりのようだが頬や眉が強ばり、銜えた楊枝状の竜之鱗がぷるぷると震えている。
 近づいてきていることには気付いていたので扇は驚かなかった。
 むしろ何やら緊張している速午を見て、つい「ふっ」と吹き出してしまった。
「君を招いたのは、李子大将かな?」
「はい。門のところでお会いして、途中まで……」
「李子大将から何か聞いているかい?」
「いえ、当たり障りのない話しかしていません」
「そうか」と応えながら扇は上半身を起こし胡座を搔いた。
「君にも聞いておいてほしい。座ってくれ」
 扇が隣をぽんぽんっと叩くと、速午は人目を気にするように周囲を見回してから、「失礼します」と言って毛氈に上がった。しかし扇の隣ではなく隅っこに正座した。
「…………」
 拒絶とも取れる行動に扇はむっと唇を尖らせた。速午は申し訳なさそうに肩を竦ませたが、それだけだった。移動するつもりは毛頭ないらしい。扇は「はぁ」とため息をこぼし気持ちを切り替え、胡座を搔いたまま速午の方に向き直った。
「速午くん。君は二十七年前の十鬼夜行について、どこまで知ってる?」
「……昔、報告書を読んだので大体把握しています」
「それは、天馬くんの頃、という意味かな?」
「……はい」
 扇の確認に、速午は気まずそうに顎を引いた。
「ならば、計画実行したのが旅行者──大海の島の民だったことも知っているね?」
「存じています。しかし、犯人はまだ……」
「あぁ、捕まっていない。相当いい男だったらしい。親しくなった複数の女性から言葉巧みに血をもらい、空き瓶に入れて特殊な札で蓋をする。血に含まれた竜気に惹かれて近づいてきたヒソカは、瓶の中に入れるが出られなくなる。そうして集まったヒソカ同士でやがて共食いがはじまりウツロになる。あとは、瓶を金や酒と一緒に日雇い労働者に渡し、指定した時間に割ってもらうだけで十鬼夜行が起こるというわけだ」
 あまりの不快感に、扇はやや早口になっていた。
 速午も痛ましげな表情をしている。
 扇が口にしたのは憶測ではない。──亡くなった四名と負傷者の内、十七名は日雇い労働者だった。そして亡くなった四名の内、三名と、負傷者十七名の内、八名は、見慣れない男から報酬(金、酒、食品、など)と口を札で塞いだ瓶を布や新聞紙を巻いた状態で渡され、指定された場所で指定された時刻に割るよう指示されていた。
 瓶の中身を聞かれた際、男はにこやかに「花火のようなものです」と応えたそうだ。
 しかし、現れたのはウツロだった。
 ウツロは本能で、自分の属性に対して弱い人物を狙って攻撃した。
 そうして四人の命が奪われ、ウツロはその竜之卵を取り込み強化された。
 近くに他にも日雇い労働者がいたのは、「あぶく銭が手に入った」「折角の祭だから一緒に楽しもう」と報酬を得た者が振る舞った結果だった。「それまでほとんど話したことはなかったが、思ったよりも気があった」「もっと話がしたかった……」と、負傷者の一人は後に述べている。
「ウツロの発生源で見つかった酒瓶から竜気ではなく大海の民がなんらかの術を用いた痕跡が見つかり、利用された人々の証言から容疑者も絞ることができた。旅行者は、十鬼夜行が起きてすぐ、船で大海に避難させ、そのまま全員帰国していたが、身元ははっきりしている。すぐに捕まえることができると誰もが思っていた。しかし、容疑者の名前と経歴を持つ男は、この国を訪れた旅行者とは似ても似つかない男だった。男は、多額の借金を見逃してもらう代わりに、自身の名前と経歴を裏社会の人間に貸していたんだ」
「だから犯人を捕まえることができなかったのですね」
「当時、竜皇だった私の祖父は、未だにこの事件を気にかけている。そして李子大将によると、近々、同じ方法で十鬼夜行を起こそうとしている者がいるそうだ」
「──っ⁉」
 速午が息を呑む。
 その時、ふと視線を感じ扇が母屋の方に顔を向けると簀子に梓が佇んでいた。傍らには畳が敷かれ火鉢が用意されている。目が合うと優秀な女房は深々と頭を下げ、母屋を後にした。
「冷えてきたな。続きは、向こうで話そう」
 扇に倣って簀子を見ていた速午は、「はい」と応え立ち上がった。そのまま自然な動作で扇に手を差し伸べる。扇も自然な動作でその手を取った。
 身長はわずかに扇の方が高いが、手は速午の方が大きく温かかった。

     ☯

 畳の上でも速午は隅っこに座ろうとしたので、扇は先手を打って懐から取り出した数枚の地図を畳の中央部に広げ、「そこだと見えないぞ」と言った。速午はなんとか覗き込もうとしたが無理だと悟ると渋々といった様子で扇の向かいに胡座を搔いた。
「この印は、竜気の乱れがある場所だ。そういう場所にはヒソカやウツロが生じるか、すでに生じている可能性が高い。毎日、竜之国全土と中央領の地図に印をつけて李子大将か中将のどちらかに届けている」
「竜之国全土の竜気の乱れがわかるのですか⁉」
 驚きと畏れ──それは扇がはじめて見る速午の表情だった。
 悪戯が成功したような、少しだけ罪悪感の混ざった達成感が扇の口元に笑みという形で浮かび上がる。
「室内に入られると少し難しいけどね。そうでなければ大体わかるよ。幼い頃は、なんとなくだったが、陰陽生になった十四歳くらいの頃、自分が感じているものがなんなのか理解した。父に話したところ、皇族には、大体百五十年おきに私のような──天之大地の竜気を把握できる代わりに空を飛べず、創造もできず、起きていられる時間も限られる、そんな娘が産まれるらしい」
「初耳です」
「皇族や貴族でも一部の者しか知らないからな」
「……俺に話してよかったのですか?」
「君は他言したりしないだろう」
 確信を持って微笑みかけると、速午は「うっ」と口を引き結びうつむいてしまった。髪の間からのぞく耳が、赤く色づいている。
「ふっ」と少し吹き出してから、扇は地図に視線を落とした。
「これは李子大将が持ってきた複製で、一年前のものと数日前のものだ」
「……数日前の中央領の地図だけ、極端に印が少ないですね」
 速午の指摘に扇は首肯した。
「正確には乱れは起きている。しかしすぐになくなってしまうんだ。そんなことが、ここ数ヶ月続いている。ヒソカとウツロの目撃情報も実際減っている。李子大将によると二十七年前の十鬼夜行が起こる前も同じように目撃情報が極端に減ったらしい。ちなみに従来の十鬼夜行の場合、ヒソカではなくウツロの目撃情報が極端に減る。百鬼夜行の場合、前兆はほとんどない」
「ヒソカの目撃情報が減るのは、生じても、すぐに件の空き瓶に入ってしまうから目撃されない、ということでしょうか」
「私と李子大将はそうだと思っている。蓋の役割を果たす札には、閉じ込めるほかにおびき寄せる効果もあるらしく経過観察していたヒソカの数も減っていた。ヒソカの数が減るからウツロになる個体も減り、ウツロの発生も減る」
 扇は指先で地図に触れた。
「ただヒソカとウツロの数が減ったというだけでは、十鬼夜行を計画している証拠にはならない。この地図も公にはできないからな。李子大将もそのことは重々承知している。──しかし、この前の廃墟の一件で事態は大きく動いた」
「ビール瓶、ですね」
 モモキと名乗ったウツロが葛寿と初空の前で割ったビール瓶──その欠片は、ほとんど回収され、葛寿によって割られる前のビール瓶の口の部分に紙が貼られていたのが視認されている。
「そうだ。明確な証拠と証言を得ることができた」
 扇はそこで背筋を伸ばし、すっと速午を見据えながら告げた。
「陰陽官は、今日、迎賓館に踏み込み、すべての旅行者を拘束することにした」
 先ほど会った田村の顔が脳裏をよぎり、速午は膝に乗せていた手を握りしめた。
「……急、ですね」
「事は急を要するからな」
 扇は少しだけ目を伏せた。
「二十七年前を踏まえると、今回、十鬼夜行が起きるのは流水之祭だ。しかも、今回の犯人はウツロと手を組んでいる。何が起きるか予測できない」
「あのモモキとかいうウツロですね」
 敵意を隠そうとしない速午に微苦笑をこぼしつつ、扇は地図を懐にしまった。
「早ければあと数時間で進展がある──まぁ進展したところで私たちが関わるとは限らないが、念のため気にかけておいてくれ。話は以上だ。休日を楽しんでくれ」
 そう言って扇は立ち上がり、塗籠の方に向かって歩き出した。
「あっ」と速午が控え目だがどこか悲痛な声を上げた。
 前後して、
 くんっ──と袴を引っ張られ、扇は足を止めた。
 振り返ると、畳に両膝と片手をついた速午が袴を掴み、今にも泣き出しそうな顔でこちらを見上げていた。
「速午くん……」
「どうして……どうして、何も訊かれないのですか?」
 銜えていた楊枝状の竜之鱗が畳の上に落ち、しゃんっ──と澄んだ音を立てる。
 しかし扇にも速午にも、その音は届かなかった。
「私に何があったのか、どうしてこんな姿になったのか……何故、何も訊かれないのですか? 何事もなかったかのように上司と部下の関係を続けられるのですか?」
 縋るような視線と声だった。
 扇は、片膝をつき速午と視線を合わせた。
「天馬くん」
「──っ!」
 青年の色違いの双眸が涙で潤む。
「不安にさせてしまったようだね。すまない。私は、もう満足してしまったんだ」
「満足、ですか?」
「君は、会いに来てくれただろう?」
 袴を掴む青年の手に自身の手を重ね、扇は穏やかに微笑んだ。
 青年は、何を言われたのか理解しかねているのか目を瞠り呆気にとられている。
 扇は髪と髪が触れ合う距離まで額を寄せた。

「あの日、君は私に、また会いましょう。待っていてください──と言った。
 私はその言葉を……約束を信じて待っていた。そして君は──天馬くんは約束を守ってくれた。だから私は、君に、もう何も望まない、求めない……君は、自由だ」

 愛しさを隠そうともしない甘やかな声だった。
 しかし、揺るぎない芯のある口調だった。
 袴を掴んでいた青年の手から、すっと力が抜け、そのまま畳に落ちる。
 その手を一瞥し、扇は立ち上がった。言いたかったこと、言えずにいたことをすべて伝えたその顔は、とても晴れやかで、妻戸へと向かう足取りもどこか軽い。
「──もう一つだけ、教えてください」
 扇は妻戸に手をかけたまま肩越しに振り返った。
 速午は先ほどと同じ位置に座り直し、真っ直ぐ扇を見据えながら、
「俺が……私が、蘇芳之天馬だと、いつから気付いていたのですか?」
 ──と、絞り出すような声で問いかけてきた。
 扇は微笑みながら応えた。
「三年前に君を助けた、その(とき)からだ」

     ☯

 扇が妻戸の向こうに消えるのを見届けてから速午は此花之院を後にした。
 ぼんやりとした頭でふらふらと雲郭の中を進んでいく。
 涙が流れないのが不思議なほど目頭が熱かった。
 様々な感情がこみ上げてきて逆に涙が引っ込んでしまったのだ。
「あの夜に……扇姫、あなたも……」
 心と思考をぐちゃぐちゃに掻き乱されながら、速午は、すべてを思い出す切っ掛けとなった三年前に思いを馳せた──……。

     ☯

 その夜──速午は一人、シャツにスラックスという軽装で山中の茂みに身を潜め息を殺していた。
 周囲は、驚くほど静かで自身が発する微かな呼吸と心臓の音以外ほぼ無音だった。
 本来、活発になるはずの動物や虫も夜の闇の底でじっとしている。
 やがて、

 ガサガサ──ガサガサ──

 巨大な影が這いずるように少し離れた茂みの中を進んでいった。
 平べったく長い胴体、その左右に並ぶ無数の足──大百足のウツロだ。
 青白い火の玉を複数引き連れた大百足は、少し拓けた場所に出ると頭を鎌首のように持ち上げ、ゆっくり辺りを見回した。その牙の先に引っかかった薄紫の小さな布製の袋が大百足の動きに合わせて右に左に揺れているのを見て、速午は歯がみした。
 昼間、久しぶりに育児院に顔を出した速午は、幼い弟妹にせがまれ、町の南西にあるこの山を訪れた。思う存分ピクニックを楽しんでから育児院に戻り、興奮冷めやらぬ弟妹の夜更かしに少し付き合ってから役所の寮に帰る道すがら、速午はいつも肌身離さず身につけているお守りの紛失に気付いた。
 そのお守りは、速午が保護された際、身につけていたぼろ布の中からなんとか使えそうな部分を切り取り育児院の職員が作ってくれたもので、どういうわけか速午は、そのお守りがどこにあるのか感じ取ることができた。
 この時も、すぐに意識を集中させ、お守りがこの山にあるとわかった。
 夜が明けるまで待った方がいい──と思う一方、
 あの山にウツロが出たという話は聞いたことがない──とも思ってしまった。
 更に、翌日は仕事で夕方にならなければ山には行けない──という事実が、躊躇いを打ち消し、速午を山へと向かわせた。
 お守りは、弟妹と駆け回った山中にある原っぱの中央付近に落ちていた。
 拾おうと身を屈めた直後、速午は真正面から迫ってくる嫌な気配──殺気に気付き、咄嗟に横に飛び退いた。地面に倒れ込みながらも振り返ると、大百足が地面に牙を突き立て、こちらを睨みつけていた。
「──っ!」
 声なき悲鳴を上げながら速午はすぐに立ち上がり、茂みの中に逃げ込んだ。

 ガサガサ──ガサガサ──

 透かさず大百足が追ってくる。
 しかし、後ろを振り返らずに全速力で逃げたのがよかったのか、独特な足音は確実に遠のいていった。それでも速午は気を抜かず、更に距離を取ってから程よい茂みに身を隠した。
「はっはっ……」と荒くなる呼吸を無理矢理鎮め、意識を聴覚に集中させる。

 ガサガサ──ガサガサ──

 少しずつ、あの足音が近づいてくる。真っ直ぐ向かってくることはないが着実に距離は縮まっている。恐らく微かに残っている速午の竜気を追ってきているのだろう。
 そうして動くに動けなくなった速午の視界を牙にお守りを引っかけた大百足が横切っていった。
 噛みしめていた顎から力を抜き、ほっと一息吐きたくなる気持ちを抑え込む──安堵するには、まだ早い。かと言って速午はそれほど悲観はしていなかった。
 体内の竜気はほぼ漏れ出てしまっているので動くには支障ないが竜道を使ったり飛んだりすることはできない。しかしだからこそ大百足も速午の位置を特定できずにいる。隠れ続ければ見回りの陰陽師が大百足を発見し対処してくれるだろう。
 万が一、見つかってしまっても、シャツの胸ポケットに一本だけ楊枝状の竜之鱗が入っているので逃げて、また隠れることはできる。
「──よし」
 胸ポケットを握りしめ改めて覚悟を決めた、直後──

「速午にいちゃ~ん! お~い! どこ行ったんだよぉ~!」

 耳に馴染んだ幼い声が山中に響き渡った。
 悪ガキと怒鳴られて「へへっ」と喜ぶような九歳の弟だ。
 速午は、全身から血の気が引く音を聞いた。末端が一瞬で凍り付く。
 見当違いな方向を見ていた大百足が、グリッと山道の方に頭を向けた。その無数の足が動き出すより前に、速午は楊枝状の竜之鱗を銜え竜気で身体能力を高めた。地面を蹴り、飛ぶような速さで山道に出ると、パジャマ姿の弟がいた。ほんの少しだけ速度を落とし、何が起きたのかわかっていない弟を抱きしめ向かいの茂みに飛び込む。
 一拍遅れて、弟が立っていた場所に大百足が頭から突っ込んだ。
 踏み固められた土が抉れ、土埃が舞い上がる。
「ひっ──⁉」
 一部始終を目撃した弟が引きつったような声を上げた。その身体から、ふっと力が抜ける。──気を失ったのだ。
 速午は弟を抱え直しながら立ち上がり大百足に向き直った。
 大百足も鎌首をもたげ、こちらを見下ろす。その目が速午には笑っているように見えた。温かさの欠片もない嗜虐的な嘲笑だ。
「…………」
 速午は、残りわずかな竜気に火気を込め弟を包み込んだ。赤く淡い輝きに包まれた弟の表情が少し和らぐ。火気の温かさが心地好かったようだ。
 太々しく静観していた大百足が赤く淡い輝きを見て少し鼻白んだ。しかしすぐに自身の優位を思い出したのか、一度身を乗り出してから人間が背を逸らすように、グッと頭を後ろに下げ、「シャーッ」と威嚇するような声を発しながら頭から突っ込んできた。
 速午は迫り来る大百足の頭をぎりぎりで避け、木々の生い茂る方へと駆け出した。
 しかし、十歩と進まずその足は止まった。
 ──……っ!
 頭の中で誰かが何かを叫んだ。喜色と罪悪感が入り交じったその声に促され、慌てて身体ごと振り返り空を見る。そして──……

 落ちてくる純白の彗星に目を奪われた。

 いつの間にか顔を上げていた大百足も、速午と同じように夜空から落ちてくる純白の彗星を見上げていた。その頭部に、純白の彗星が降り立つ──速午はそこでようやく純白の彗星が純白の狩衣を纏った人だということに気付いた。しかも狩衣には陰陽官の紋章が刺繍されている。
 純白の狩衣を纏った陰陽師の手には、赤い棍が握られていた。
 そしてその先端は大百足の片目に深々と刺さっていた。
「~~~~~~ッ!!!!!!」
 声なき断末魔を上げ、大百足の身体が白い靄となって霧散する。
 足場を失った陰陽師は、危なげなく地面に降り立つと速午の方を振り返った。
 組紐で束ねられた夜の闇よりなお黒い髪が陰陽師の動きに合わせてたなびく。
 白い鼠の半面の向こうから、真っ直ぐな視線が速午を射貫いた。
 ゆっくりと瞬きをすること五回──……陰陽師は、速午と、その腕の中にいる弟の安否を視認すると、口元に微笑を浮かべ無言のまま麓の方を指差した。
「早く帰りなさい」という意味だろう。
 速午が呆然としながら人形のように力なく頷くと陰陽師は満足そうに笑みを深め、身を翻しながら地面を蹴り、夜空に跳ねた。「あっ」と速午が一歩踏み出す。その間に陰陽師は、とんっ──と空に浮かぶ何かを蹴り、どんどん高度を上げ、すぐに見えなくなってしまった。
 取り残された速午は、しばし夜空を見つめていたが、腕の中で弟が身じろいだので慌てて下山した。
 麓につくと、育児院の先生と陰陽師が二名、駆け寄ってきた。
 なんでも弟の不在に気付いた先生が子供たちを起こして何か知らないか聞いて回ったところ、窓の外を見て「速午にいちゃんだ!」と言うのを何人かが目撃していた。すぐに速午の暮らす寮を訪ねたが、人気がなかったため、これは何かあったに違いないと陰陽師の詰め所に駆け込み、手分けして捜そうとしていたところだったらしい。
 速午と弟の無事な姿を見て泣いて喜ぶ先生を宥めつつ、速午は事の経緯を簡単に説明した。純白の陰陽師のくだりで陰陽師たちは少し眉を動かしたが特に追求はしてこず、後日、陰陽官の支部に出向くことを約束し、その場は解散の運びとなった。
 先生から育児院に来ないかと誘われたが、丁寧に断り、速午は一人、寮に帰った。
 灯りもつけずに押し入れから布団を取り出し、そのまま倒れ込む。
 勝手に瞼が落ちてきた──体力のなさにため息を吐きつつ、速午は無理矢理身体を動かし仰向けになった。
 うっすら目を開けると鼻先に小指の爪ほどの光が生じた。
 すべての色を取り込んだ闇とは対極にある光だ。しかし眩しくはない。
《おはようございます。思ったより、早い目覚めでしたね》
 聞こえてきたのは男の声だった。しかし年齢はわからない。少年にも老人にも聞こえる不思議な声が、鼓膜ではなく脳裏に響く。
 この声を聞くのは、二度目だった。
 一度目は十五年前──蘇芳之天馬として死にかけていた時だった──……。

     ☯

 まだ明るい山道に、天馬は一人横たわっていた。
 扇たちを追おうとしたウツロを斬り伏せ、ならばと手負いの天馬に群がってきたウツロも薙ぎ払い、すべて滅し霧散させた。最後まで粘ったのは、やはりあの鵺で、なんとかその首を切り飛ばし霧散させると、竜之卵が二つ、残された。
 道理で強いはずだ──と思うも、声は出ない。
 荒かった呼吸が徐々に不規則になり、ひゅーひゅーという笛のような音に変わる。
 先ほどまで熱かった傷口も、今は何も感じない。
 先ほどまで見えていた目も、今は何も映さない。
 沈んでいく──……。
 溶けていく──……。
 それは決して不快ではなかった。むしろ心地好くすらあった。
 意識を手放す──直前、天馬の脳裏を数々の思い出が駆け巡った。走馬灯だ。
 懐かしさに口元をほころばせながら天馬は終わりを迎えようとした。

「きみのえがおは、にせものだ」

 天馬の意識を繋ぎ止めたのは、幼いが凜とした声だった。
 御年七つの一之姫──竜皇の第二子であり、土属性でありながら空を飛ぶことができないため、皇位継承権を得られなかった〈モグラ姫〉。
 遠目に見る一之姫は、天馬にとって憐れみの対象だった。それは親から一之姫との婚約が決まったと言われたあとも、両親に連れられて行った此花之院ではじめて顔を合わせた時も、変わらなかった。
 そんな中、二人きりになった直後、一之姫は天馬を真っ直ぐ見上げながら前記の言葉を投げかけてきた。
 わずか十一歳で陰陽生になった天馬は、笑顔という仮面を被っていた。
 やっかみから絡んでくる者にも、心配する振りをして蹴落とそうとしてくる者にも、この仮面はとても有効だった。ある程度のところで「そうですね」「ありがとうございます」と言えば大抵の相手はあしらうことができた。
 そうしていつの頃からか天馬は常日頃から仮面をつけるようになっていた。
 気の置けない仲間や友人、尊敬できる上司や同僚は、そんな天馬を心配しながらも何も言わずにいてくれた。それが天馬の処世術だと理解してくれたのだ。
 しかし幼い姫君は、真っ直ぐ天馬が仮面を被っていると指摘してきた。
 その純粋さが、羨ましく、そして苛立たしかった。それでもなんとか片膝をつき、視線を合わせながら「本当に笑えるよう、精進します」と言って久しぶりに仮面ではない笑みを浮かべて見せた。そうすれば幼い姫君は満足すると思ったのだ。
 案の定、一之姫は嬉しそうに微笑み返してくれた。
 そして天馬の頬を両手で挟むように包み込み、額を寄せて囁いた。
「わたしはきみのこんやくしゃ──かえるばしょだ」
「はい」
「だから、わたしのまえでは、よろいをぬいでいいんだ」
「…………」
「とてもすてきなよろいだが、わたしのまえでは、へたくそでもいいから、ほんとうのえがおをみせてくれ。きみがよろいをぬげるよう、わたしも、しょうじんしよう。どんなきみでも、わたしはちゃんとむきあうどりょくをつづけよう」
「……はい」
「……わたしのこんやくしゃは、なみだもうつくしいな」
「すみません。……思っていたより、私は疲れていたようです」
「そういうときもある」
「……七歳の台詞じゃないですね」
「みみどしまなんだ」
 一之姫が「ふふっ」と笑う。
 天馬は一之姫の肩に手を乗せた。成長途中の天馬の手でもあまるほど細く小さな肩だった。
 意図を察した一之姫が額を離し、二人は改めて正面から見つめ合った。
「蘇芳之天馬です。どうか、天馬とお呼びください」
「黄櫨染之扇だ。扇と呼んでくれ、天馬くん」
「わかりました、扇姫」
 一之姫──扇は、花がほころぶような笑みを浮かべた。
 この笑顔を守りたいと、天馬は思った。しかし──

「天馬くんっ‼」

 最後に聞いた彼女の声は、悲痛、そのものだった。屈強な近衛の肩に担がれながらこちらを見つめる漆黒の双眸からは、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちていた。
「死、ねない……死にたく、ない」
 天馬はゆっくりと顔を上げ左目を無理矢理こじ開けた。次いで腕を上げようとしたが、地面の上で小刻みに震えることしかできなかった。あんなにも心地好かった死の気配が、今は、ただただ恐ろしい。
 死にたくない死にたくない死にたくない──っ!

《おや、まだ生きていましたか》

 不意に男の声が脳裏に響いた。
 面白がっているようにも哀しんでいるようにも聞こえる。
《声に出さなくていいですよ。思うだけで伝わるので。しかし意外でしたね。そんなに生にしがみつくなんて。ろくに触れ合うこともできなかった婚約者が、そんなに大切ですか? ……あぁ、怒らないでください。すみません、少し意地悪なことを言いました。あなたが羨ましかったんです。彼女と共にいられたあなたが……。うん? あぁ私ですか。私は、あなたです。正確には、あなたは私の欠片です。あなたの執着が私を呼び起こしたんです。滅多にあることではありません。その想いに免じて、あなたの願いを叶えてあげることにしました。ただ私も本体ではないのでできることは限られます。まず、欠損した身体や命を補うために身体を小さく──幼くします。心身に負担がかかるので記憶も封印します。これは、時が来れば思い出すので安心してください。それから一度壊れた身体なので竜気は貯まり辛くなります。訓練次第でなんとかなるかもしれませんが、まぁ不自由は覚悟してください。そして命を助ける代償に、記憶を取り戻してもあなたから彼女に正体を明かすことを禁じます。──これは、彼女を哀しませた罰だと思ってください。えぇ単なる私怨です》
 ふっと声が一度途切れた。
《今まで通りとは、とても言えない状態です。それでもあなたは、生きることは選びますか? ……あぁ、愚問でしたね》
 声に苦笑が混じる。それが蘇芳之天馬の最後の記憶となった──……。

     ☯

 ──……あの時と同じ声が、同じように脳裏に響く。
《安心してください。代償のことを念押ししに来ただけです。実は念を押すまでもなく、あなたから彼女には、話せないようになっているのですが……まぁ経過観察、息抜き、好奇心……お好きなように解釈してください。──えぇ話は以上です。それでは、あなたが望むように生きてください》
 ぱっと光が消え、部屋に静寂と闇が戻ってきた。
「はぁ……」ため息が漏れる。
 一気に取り戻した記憶を整理するため、頭は驚くほど冴えていた。
 純白の陰陽師に視線で射貫かれた瞬間──瞬き五回の間に、速午はすべてを思い出した。同時に、あの純白の陰陽師が扇だということにも気付いた。
「扇姫……」
 何故、正体を隠しているのか。何故、一人で行動しているのか。何故、自分たちの危機を察知できたのか。疑問は尽きない。何より今の自分では、物理的にも身分的にも問いただすことすらできない。
 それが歯痒く、切なかった。しかし、それ以上に──
「また、会えた……」
 喜びの涙が目尻からこめかみを流れ落ちていく。
 夜の底で倦怠感に押し潰されながら、速午は再会の喜びに涙を流し続けた。

     ☯

 雲郭の外へと続く門の手前で、速午は足を止めた。
 文官が武官が商人が、その横を通り過ぎていく。
 ぐちゃぐちゃだった心が、今はすっかり凪いでいた。
 何をあんなに悩んでいたのだろう、と自分で自分に呆れてしまう。
「そうだ……」
 記憶を取り戻してから、天馬──いや、速午はどうすれば扇の傍にいられるか考えて考えて考えて──虹霓で陰陽師になるべく動き出した。
 速午には、天馬のような体力も、竜気もなかった。それでも思い出した記憶を頼りに心身を鍛えた。はじめは心配していた周囲も、速午の本気を感じ取ると応援してくれるようになった。更に慈郎坊や李子、両親や兄姉など──あらゆる人に協力してもらい、速午は扇の傍にいる権利を得るに至った。しかし、
「俺はまだ、満足していない」
 満足したのだと扇は言った。そして速午は自由だとも続けた。
 自由に、どこに行ってもいいのだと。
 あの不思議な光も、望むように生きろと言った。ならば自分は、
「扇姫……俺は、あなたの傍にいたい」
 何があっても迷うことなく、自由に、望むままに。
 周囲の状況がどれだけ変わっても関係ない。
 昔も今も、天馬の願いは、速午の望みは、何一つ変わらない。
 確かな足取りで速午は一歩前に踏み出した。

     ☯

「あっ、渓ちゃん。お帰りぃ~」
 田村が声をかけると、前を歩いていた鈴木が足を止め振り返った。
「田村さん。ただいま戻りました。美味しそうですね」
「いいだろう? 食堂でもらってきたんだ。小腹が空いてなぁ」
 言いながら田村は蒸しパンと珈琲が載っているお盆を軽く持ち上げた。その横を何度か話をしたことがある旅行者が「失礼」と言って通り過ぎていく。笑顔で会釈を返しながら田村は視線を巡らせた。
 迎賓館の廊下は、そこそこ混み合っていた。
 それ自体は珍しいことではない。見学会終わりに見られるいつもの光景だ。
 しかし一点だけ、いつもと違うところがあった。
「見学会、今日は随分早く終わったんだな。帰ってくるのは夕方だと思ってた」
「いえ、今日もいつも通り夕方までの予定だったんです。それが急に帰ることになって、正直、僕たちも戸惑っています」
 田村の指摘に鈴木は困惑顔で応えた。
 周囲を改めて窺うと、確かに他の旅行者も不安そうな面持ちだったり落ち着きがないように見える。
『館内にいる旅行者の方は、部屋に戻らず食堂にお集まりください。繰り返します』
 突然の館内放送に、廊下に留まっていた旅行者たちは、なんとなく互いの顔色を窺ってから一人、また一人と移動をはじめた。
 田村はお盆の上に視線を落とし「とんぼ返りかぁ」と呟いた。
「少し運動した方がより美味しく感じられますよ」
 慰めてくれているのか、鈴木が微苦笑を浮かべながら軽く田村の背中を叩いた。
 すっかり閑散とした廊下を並んで歩く。──と、
「……あれ」
 不意に鈴木が足を止め振り返った。
「どうした?」
「今、田村さんの部屋の方から何か物音がしたような……」
「俺の部屋から? 気のせいだろう。それより早く食堂に行くぞ」
 田村に促され、鈴木は渋々歩き出したものの数歩進んだところで「やっぱり気になります」と言って身を翻し扉に駆け寄った。そして、
「渓ちゃんっ!」
 非難するような田村の声を無視して勢いよく扉を開いた。
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