第2話:市営住宅への引越し子供の成長

文字数 3,432文字

 1953年9月橫浜の北部の市営住宅に着いて女衆は連中は家の中を掃除した。男衆は必要な家具、電化製品、身の回りの品物、食料品を買いに行った。14時には全部そろい金井一郎がトラックを金沢の工務店に返しに行った。18時に中山駅からバスで十日市場団地へ戻ってきた。

 夕飯を食べながら明日から金井猛が、この地元の工務店で使ってもらえないか頼みに行くが一郎は若いんだから東神奈川、橫浜、桜木町で会社訪問して就職口を探して来いと金井猛が言った。一郎が、わかった、そうすると話した。その当時、朝鮮特需でセメントの需要が急拡大。

 そのためセメント工場の新設と生産力拡大が急務であり大工や機械工の人手が足りなかった。そう言う時代背景から1953年10月2日の昼過ぎに金井一郎から東神奈川の工場で大工で来るなら雇うといわれた。父の事も大工を束ねていた頭領と話すと連れて来いと言われた。

 頭領が、直ぐに東神奈川へお父さんも連れて来いと言われわかったと答えた。電話して13時に工場に来て一郎が人事課の頭領の早乙女芳夫さんに、父ですと紹介した。今、セメント工場を新しくできるだけ早く作りたいので、2人とも、採用すると言われた。

 ただし、今後、関東地区の工場に出かけて工場のメンテナンスや修理を行う仕事になるといわれた。出張手当、旅費も出すから、やってくれるかと言われ了解すると言うと父と子2人とも採用された。、午後15時から、若手5人の大工と見習いの教育も金井猛さんにお願いしたいと言われたので快諾。

 そして金井猛さんが係長待遇で給料も増やすと言ってくれ喜んだ。金井猛が早乙女さんの手をお礼を込めて、きつく握手をすると痛てえと言い、やっぱり大工は力持ちだと大笑いした。その晩、金井猛と一郎が1953年10月3日付けで採用されて安定した収入が得られると喜んで工場での話をした。

 その後、東神奈川の工場へ行くと、金井猛は出張はなく若い大工育成に専念してくれと言われた。その月に5人、大工見習いが入ってきた。一郎は1人前の大工として見習いの2人とを組んで東京、多摩、埼玉、千葉の工場の補修や新工場建設に出かけていった。

 そうして1954年を迎えた。金井猛と一郎の給料が増えて市営住宅の家賃と食費、生活費に余裕ができ御飯のおかずが豪華になり鶏の唐揚げ、コロッケ、ハムカツ、目玉焼き、豚バラ肉の野菜炒め、カレーライスなど以前と見違える程、うまい料理が食卓に出た。

 また冷蔵庫にビール、更に日本酒も買った。金井猛、八重さんとはつさんが、たまに晩酌した。近所の話やプロ野球、巨人、大洋ホエールズ、プロレスの力道山、相撲の話題で夜遅くまで飲んでいる光景も見るようになった。その後、年2回、ボーナスを手にできた。

 すると金井猛が子供達にケーキやチョコレートを買ってきて子供達が大喜びした。1954年7月28日に金井かなえが2人目の子を宿したことがわかり近くの産婦人科に行き出産予定日、1955年1月28日と告げられた。1月27日から入院して1955年1月28日に3kgの男の子を出産し二郎と名付けた。

 2月10日に退院して家に帰ってきた。2の子供ができて母の金井かなえと祖父のはつ、更に70歳を超えた曾祖母の八重まで楽しそうに赤ちゃんの面倒をみた。その後も金井猛と一郎がセメント会社でしっかり働きボーナスもいただく様になった。

 その後、1956年8月22日に、また金井かなえが子供を宿した事がわかり近くの産婦人科で出産予定日が1956年12月12日と言われ12月8日に入院して12月12日に2.7kgの女の子を出産し金井悦子と名付けた。12月14日に退院してきた。

 義朗が4歳近くなり1人で食べられるようになったが7人では6畳2間と6畳の広さの食堂では手狭になった。将来的には大きな所に引っ越すか何か良い方法を考えねばならなくなった。この時代は神武景気「1954年~1957年6月」と言われ好景気で郵便局、銀行の金利は良かった。

 そこで金井はつさんが家計をうまくやり郵便局の定額貯金を家族に名前で何口も作りせっせと金を貯めた。1956年の経済白書には「もはや戦後ではない」とまでいわれた。戦後復興の完了が宣言された。その後、約1年のなべ底景気といわれるデフレの時代が来たが期間は短く、また岩戸景気に乗り好景気が続いた。

1959年に長男の金井義朗が小学校に入学して後を追い1961年に次郎が小学校へ1963年に長女悦子が小学校に入る頃には、夏は家が狭くて暑苦しくて困る程になった。母の金井かなえが金井猛と一郎の給与を預かり働き出した1954年頃から年に100万円を目標に貯めた。

 朝鮮特需、神武景気と岩戸景気による10年に及ぶ好景気のために貧乏であった金井家の資産も1963年末には1千万円と10倍になった。そこで1964年の3月から庭に6畳の簡単な木造の勉強部屋を作る事を計画してセメントで土台をつくり4つの支柱を建てた。

 毎週日曜日に金井猛と一郎が2人で木材を買ってきては木の板を張り6月末迄に全部板張りの6畳の勉強部屋を設けて長男の義朗と次男の次郎のために2段ベッドを手作りして机と椅子を買ってきて2人の勉強部屋にすると喜んでくれた。宿題もしっかりして、勉強するようになった。

 翌年の1965年、地元の中学へ長男、義朗が入学して熱心に勉強した。中学になると問題集や参考書が必要になると金井一郎がバスで中山駅に行き、そこから橫浜駅行きのバスに乗って六角橋の古本屋に進学の近づいた子供を連れて行き、受験用の問題集、参考書を買ってきてた。

 大事にカバーをつけて使って子供達全員が使えるように大事に使ったものだ。かなり多くの古本を買って大きな袋にかかえて一郎と子供達が帰って来た。これは高校受験の時も大学受験の時も一緒だったが、六角橋には近くの神奈川大学の学生が利用する安くて大盛りの定食やラーメン屋、喫茶店が多い。

 本を買いにいって腹が減ると大人達が旨いラーメンを食べさせてくれるのが男の子の楽しみ。女達は、きれいな洋服が飾ってある洋品店を見て歩くのがの楽しみだった。そして問題集を特に重点的に使って勉強していた。最初に義朗が問題集や参考書を買って使った。

 それを次郎が同じ本を、最後に悦子が使って、おしまいとなる。1967年に次郎が中学に入り、やがて義朗が高校受験を迎え、買った本で受験勉強して、中学3年でクラスで2位になり志望高校を地元の名門、川和高校に的を絞り勉強に励み、1968年3月に合格した。

 負けず嫌いの弟も負けじと夜遅くまで勉強して中学ではクラストップで学年で3位となり、特に数学が良かったようて、工業系をめざすと宣言して、志望高校を橫浜でトップクラスの翠嵐高校に的を絞り1970年3月に合格した。ちなみに長女の金井悦子も川和高校に合格した。

 その後、長男の義朗は橫浜市大商学部を目標に勉強して行き1971年に合格。次男の次郎は橫浜国大の工学部に的を絞り勉強して1973年に合格。投資の方では1972年末には更に1千万円を預金して合計2千万円になった。1973年から郵便貯金の定額預金「3年満期」に預金した。

年に3回4月、8月、12月に100万円ずつ、郵便貯金の定額預金に預け入れて1975年の年末には2800万円になった。1976年から長男の金井義朗の勤める富国生命で5年満期の一時払い養老保険を隔月60万円ずつ契約して総合計62ヶ月で600万円となった。

 その一時払い養老保険を5年を超えて61ヶ月目に解約して再度100万円で解約し直すことをし続けた。その結果1986年には資産合計が4千万円を越えた。長女の金井悦子は神奈川大学経済学部をめざして挑戦して合格し私学で学費がかかると考えて育英会の奨学金をもらって学費に充てる事にした。

 1975年に長男の義朗は就職先を生命保険会社にして就職活動をして1975年に富国生命中山支店に入行した。1976年には長男の勤める富国生命で家族6人名義で一時払い養老保険を年6回、隔月で加入し続けた。次男の金井次郎は日本電信電話公社を就職先の目標にして就職活動の末、1977年に入社した。長女は銀行を就職先に決めて1979年に橫浜銀行長津田支店に入行した。
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