#2 人気のある無人島

文字数 2,889文字

沖ノ島で夕日を見てきたらどうだろう。
同宿者からそんな提案を受けたのが、およそ30分前のこと。

青年がその日の宿に到着したのは、部屋で体を休めるにはまだ早く、だからといって、これから館山市内を回るには遅い時分だった。夏の宵の風は人肌程度にぬるく、出歩いたとて風邪をひくような冷たさではなかったが、館山駅西口の観光案内所含め、名だたる観光スポット施設はみなすでに暖簾を下ろしている。
原付バイクの駐車スペースとして案内された宿の裏庭で、青年が鉢合わせた同宿者の女もまた、その日のわざを為し終えたのか部屋着然としたスウェットを着ていた。女は、青年が押す原付バイクのナンバープレートを見て「おお」と唸った。

「こりゃまた随分遠い所から来たね。アクアラインで?」
「いえ。原付では東京湾アクアラインを通ることはできないので、フェリーで来ました」
「なるほどね。私も昔その辺りに住んでたことがあるよ。その前は那覇、その前は博多。仕事柄転勤が多くってさ。実は明後日にまた引っ越しなの。今の家はこの辺にあるんだけど、もう退居するから荷物全部まとめて段ボールだらけ。それで今晩はここで一泊ってわけ」

女はひと息にそう告げると、簡単に名乗った。
青年は薄く微笑むと、自分が話す順番になったことを確かめるように少しだけ間をおいてから、右手のグローブを外した。軽い握手のあとに青年も名乗る。自分が何者であるのか。何をしているのか、を。

「へー、原付の旅か。素敵だね。私も大学時代は原付で通学してたんだよ。ヤマハの、えーと何だったっけ。父親のお下がりのスクーターだったし、蟻みたいな見た目であまり愛着はなかったんだけどね。スピードが出ないから後続車に抜かされるとき怖かったし」

女はお喋りが好きなのだろう。青年は相槌を打つタイミングさえ掴めず困惑の笑みを浮かべるが、女はまるでお構いなしといった風で、ご機嫌に後ろ手を組んだ。

「シデさんはもうこの辺は見て回ったの?」
「いえ。今到着したばかりなんです。どこかよいところがあれば明日にでも——」
「そうねー、この辺りで鑑賞に値するものというと、」

シデと呼ばれた青年の言葉が終わらないうちに、女性は早くも唇を尖らせた。

「赤山地下壕跡とか案外面白いよ。戦争遺跡で、全長1km超の防空壕」
「防空壕……ですか」
「あ。もしかしてあんまりそういうの好きじゃない? 幽霊とか苦手? ちょっとわかるな。私も沖縄にいたころ、折角だからひめゆりの塔を見に行ったんだけどさ。霊感がなくてもそこに立つだけでぞわぞわするもんね。悪寒というか人の気配というか。何だろうねあれ」

女はぶるっと身震いしてみせ、

「だったら沖ノ島とかいいかも。周囲1kmくらいの無人島。海水浴場と砂州で繋がっているから歩いて渡れるよ。福岡にある世界遺産の島と同じ名前だけど、別物ね。磯遊びやビーチコーミングで結構賑わうけど今年はどうかな。こんなご時世だから海の家も出てないって聞いたし、意外と閑散としてるかも」

女はそこでようやく唇を合わせ、どこか悩ましげに自身の眉根をつまんだ。何か重要なことを失念しているのに気づいていて、思い出そうと苦心しているような仕草だった。いつ長広舌が再開されるか知れないと勘付いたシデが、やや早口に意見を挿しはさむ。

「僕は、静かな海も悪くないと思いますよ」
「まあね。夜にドライブデートで立ち寄る若者もいるんだから、悪くないのは確かね。街灯もないから星が綺麗だし。私個人としては、館山湾に沈む夕日が一番ロマンチックだと思うな。館山夕日桟橋なんかカップルだらけ——そうだ。ちょうどいい時間だし、沖ノ島で夕日を見てきたらどう?」

シデの喉奥から「今から?」という当惑の音が鳴る。
が、それは当人の意思とは関係なく決定事項となり、

「戻ってきたら感想聞かせて。私、だいたい共有スペースにいるからまたお話しましょう」

女はそう言って宿のエントランスへ歩いていった。

シデはしばらくぽつねんと佇んでいたが、おもむろにグローブを装着しなおすと、原付バイクのエンジンを始動させた。手早く地図を確認し、海岸通りの突き当たりの「自衛隊前」交差点を右折する。館山港の静寂に耳が慣れてくると、まるで大勢と会話したあとのような疲れがどっと押し寄せてきて、シデはヘルメットのなかでふう、と息を漏らした。

・・・

沖ノ島公園内の無人島である沖ノ島は、なるほど確かに愛らしい小島だった。
女の言った通り海水浴場は閉鎖されており、駐車場も間引かれ、バーベキュー・テントの類の設営も禁止。海岸側には、ぽつぽつと停まった自動車と、夜釣りの準備を始める者が数名。整然と並べられた立入禁止の赤い三角コーン。それぞれに動きがないぶん、風景はいっそう寂しさを増していた。

シデは館山航空基地を囲む鉄条網を背に、鏡ケ浦と呼ばれるほど穏やかな海の波音を聞きながら、西日の眩しさに目を細めた。空は夕暮れから夜闇へ向かうグラデーション。こんもりと茂る島内の木々が、逆光で黒々と際立つ。踏み込んだら戻ってこれないような気がしたのか、シデは陸繋島の砂州をゆくことはせず、遠くから島の全容を眺めるようにしてしばらく海を眺めていた。

時折、島のほうに向かって小さく手を振りながら。

・・・

沖ノ島で夕日を見てきたのですが。
シデがそう言って宿の共有スペースに顔を出したのが、およそ5分前のこと。

自前の鍋でパスタを茹でていた女が、レトルトソースの封を開けながら「おかえり」と顔を上げる。白い深皿が準備されたテーブルには、画面に何らかの検索結果が表示されたスマホと、地域の観光案内パンフレットが広げられていて、ちょうど沖ノ島公園のページが天井を向いていた。磯遊びやビーチコーミングで人気(にんき)のある無人島。紙面には緑鮮やかな昼の沖ノ島の写真とともにそう記されていた。
調理に集中力を要すメニューでもないだろうに、女は些か気まずそうに口をもごもごさせるだけで一向に話し出そうとしない。通常であれば長くもない沈黙がいやに不穏だった。ややあって会話の先攻を譲られたと認識したシデが、訝しげにこう問いかけた。

「磯遊びやビーチコーミングは普通夜には行わないですよね」
「そりゃあ、ね。危ないし。な、何、幽霊でも見ちゃった?」

女が若干上擦った声で尋ねると、

「僕には、思ったよりたくさん人がいたように見えました」

シデはそう答えてしばらく黙った。
女は曖昧な表情を浮かべたままざばっとパスタを盛り付けると、シデの隣に腰掛けた。

女の視線がふよふよと泳ぐ。すっかり伝え忘れていたんだけど——女は歯切れ悪くそう言って、シデを直視するのを避けるように俯いた。女がぼそぼそと語るには、沖ノ島は、戦時中に防衛の最前線として使われていた軍事拠点。つまり戦争遺跡のひとつであり、今でも地下壕が島の至る所に遺されているらしい、と。かつての戦禍の時代、壕内で多くの人が息を潜めた人気(ひとけ)のある無人島。
女はパスタにフォークを突き挿したが、その手を動かすことはせず、

「ごめんね。シデさん、本当にみえるタイプの人だったんだね」と申し訳なさそうに頭を下げた。
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登場人物紹介

シデ

原付バイクと旅をする青年。

人の顔を認識することができず、まれに、人以外のものを「人」と認識する。

”アオイさん”

青い塗装の原付バイク。

車種はホンダ スーパーカブ110。シデの従姉・麻木青衣の遺品であり未練。

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