Interlude―閑窓

文字数 4,700文字

洗面所で歯を磨いてから、自分の頬を殴るように顔を洗った。
きちんとタオルで拭かないから前髪の毛先が濡れたままだけど、別に構わない。
顎から水滴を滴らせながら手の平の感触で眼鏡を探し、装着と同時に目を開く。
2階にある自分の部屋へ向かう途中で、耳障りなCMの音がするリビングへ顔を出し、「おやすみ」のかわりに「もう寝る」と告げる。すると父さんが俺のかわりに「おやすみ」と言う。次いで、夕飯の食器を洗っていた母さんが顔を上げてちょっと微笑む。それがいつものルーティーン——だったのに。

(おうぎ)、ちょっと」
「何、母さん」
「今日はベッドの横に洗面器を置いておきなさい」

人の警戒心を削ぐ甘ったるい声でありながら、断定するような強い口調。
占い師なんて胡散臭い職業をやっている母さんは、故意かどうかは別にして、家族に対してもそんな口の聞き方をする。依頼でも指示でも命令でもない。母さんはいつだってただ淡々と粛々と、その人が次にとるべき行動を告げる。まるで何もかも知っているかのように
俺は一瞬だけたじろいだが、その意味を解するや否や口角泡を飛ばして、

「『

』っていつも言ってるだろ!」

拳を握り、近所迷惑も考えずに大声を張り上げた。
不安げな顔をした父さんが、俺と母さんを交互に見ながら肩を強張らせる。自分の声が自分の鼓膜にびりびりと響いて、14になっても未だ虚弱な体がわずかにふらついた。少しの静寂ののち意識に戻ってくる、TVタレントの下卑た笑い声。シンクを流れる水の音。
しかし母さんは悪びれる素振りひとつ見せず、いやな圧力を感じさせる猫撫で声で、

「でも、扇が嘔吐したあとの片付けをするのは私でしょう?」

反抗期の息子をなだめる母親の表情で、こともなげにそう言った。

そして、その晩。
場所は雨が降りしきる深夜の道路——20歳くらいの女性が車に撥ねられて、アスファルトの上を引き摺られていく瞬間を≪視た≫俺は、全身に汗をびっしょりかきながら飛び起きて案の定みっともなく嘔吐した。
逆流した胃液で喉がひりつき視界が滲む。体の芯が冷たくて震えが止まらない。ベッド脇に置いていた洗面器をかき抱くようにして、ぼろぼろと涙をこぼしながらえずいていると、廊下から母さんの声がした。母さんは俺の部屋に入ってくると、無言のまま、俺のそばにゆっくりとしゃがみ込んだ。手渡された眼鏡をかける。部屋の明かりがつく。俺はやっと、今しがた≪視た≫交通事故が遠く離れた場所で起きたことだと実感する。

「今週末、お葬式にいかないといけないわね」

遠い土地、遠い未来のことが≪視える≫母さんが、俺の背中をさすりながら囁く。
時間的距離のある特定の地点、いわゆる未来を窺うことはできないながら、時折、どこか見知らぬ場所で起こった衝撃の強い出来事を、ふいにチャンネルの合ったラジオのようにリアルタイムで受信してしまう俺は、言われるがままに頷いて口元を拭った。

週末には、生前に会うことの叶わなかった従姉——麻木青衣(アサギアオイ)の葬儀があった。

麻木青衣の両親さえ列席していない胸糞悪い葬式の間中、
俺は欲しくもないのに授かった≪千里眼≫を、ずっと、ぎゅっと閉じていた。

・・・

≪千里眼≫——遠隔地の出来事や、将来に起こることを感知できる能力。仏教でいう天眼通。透視能力。ESP。将来までをも見通す場合、それは未来視とも呼ばれる。

世の中学2年生ならその名を聞くだけで小躍りするような、全能感を漂わせる眉唾物の能力だが、こいつが俺に恩恵を与えてくれたことは生まれてこの方一度もない。
眼球から得られる視覚情報を突然断たれ、脳内に強制的に映し出される別のビジョン。過眠症(ナルコレプシー)なら周囲もまだ異常を察知して気を利かせてくれるだろうが、目を開けたままふいに見知らぬ光景を≪視る≫俺は、対人関係が苦手というよりは生きることそれ自体が苦手だった。家の階段には転落防止用の手すりがあるし、教室では隣の席と妙な距離があった。通信簿はそんな俺を「おとなしい性格だが注意散漫」と表した。

遠い土地で起こる悲劇を意図せず≪視て≫苦悩するたびに、母さんは「扇も早く自分で制御(コントロール)できるようにならないとね」と呟いて、営業用の笑顔を浮かべる。
中学生の息子がいるとは到底思えない若作りな母さん、もとい、占い師・麻木斎(アサギイツキ)は、デパートや百貨店の一画で占いを営む個人事業主でありながら、雑誌などのメディアでしばしば取り上げられる実力派占い師——らしい。年齢不詳でミステリアスな美貌も相まってその界隈での人気も高いと聞く。
「驚異の的中率!」なんて見出しを週刊誌に見たときには流石の俺も失笑したものだ。≪千里眼≫を駆使し、自由自在に未来を見ることのできる母さんにとって、占いなんてものは臍で茶を沸かすような所業に過ぎないのだから。


さて、こうして遺伝的に授かった天からの重荷だが。肝心なところで母さんの才能を受け継がなかった俺は、依然としてこの災厄じみた力に振り回されていた。

あれは5時限目、英語の小テストがあった真夏の日のこと。
回答用紙に名前を記入している最中、突如視界が奪われた。
それは、かすれ気味のインクで印刷された英単語を一面の田園風景に塗り替えた。青々とした稲穂が揺れるのどかな情景。一枚一枚の田の面積は狭いながら階段状になって果てしなく斜面を覆っていた。棚田というのだったか。俺はしばらく、今にも蝉の声や草の匂いがしてきそうなその風景に心奪われていたが、

「……あっ」

思わず鉛筆を置き、自分の鼻を強く押さえた。
程なくして、鼻血を流したのが俺ではなく棚田を眺めていた人物——俺へ景色(ビジョン)を共有した男だと気づく。男は拭った鮮血に少し驚いてから、呆れたようなため息を吐いて、傍らの青い原付バイクへ凭れかかった。年頃は大学生くらい。端正な顔立ちの青年で、なぜか見覚えがある気がした。

「——君、麻木君、もしかしてまた寝てたの? 小テスト回収だよ」 
「……へ?」
「だから小テスト終わったんだってば。ほら、回答用紙前に送って」

背中を小突かれて我に返ると、後ろの席の女子が訝しげな顔で俺を見ていた。
女子の手には、自身とその後ろの生徒の回答用紙が2枚。座席の列ごとに後ろから前へと提出物を収集する動作であることは瞬時に理解できた。俺はごにょごにょと謝って回答用紙を受け取ると、自分のそれを見下ろして回答欄はおろか名前さえ書き終えていないことに眉を顰めた。あと6画足りない。トリップしていただけに『羽』が足りていないなんて笑えない冗談(ジョーク)だ。

「麻木、早く」

急ぎ書き足すべきかと逡巡するのも束の間。前の席の生徒から督促されて、俺は『麻木

』のまま回答用紙を手放した。
それが回答欄でなくても、テスト終了後に文字を書き足すような真似は周囲の反感を買う恐れがある。そうしてクラスメイトに遠巻きにされるくらいなら、テスト中に寝ていたと思われるほうがいくらかマシだった——たとえ後で英語教師に呼び出されようとも。

結論から言うと、職員室で俺を待っていたのは英語教師ではなく担任だった。
担任は怠そうにぐしゃぐしゃと頭を掻きながら、注意力散漫を主とする俺の素行の悪さと、それを両親に相談したい旨を手短に告げた。問題児特有の保護者の呼び出し。ついに来たか、と俺は諦め半分に視線を逸らそうとしたが、不意に手首を掴まれて気持ちが怯んだ。逃げられない。予知でもなんでもなくそう悟った。

「そういうわけで、来週以降で親御さんの都合のつく日を教えてくれないか」

俺は解放されたい一心でこくこくと頷いて、担任の話を皆まで聞かずに職員室から逃亡した。
三者面談で解決するような話ではないことは、俺がいちばんよく知っていた。

・・・

自傷行為ともとれるような乱暴な洗顔を終えて、TVのノイズが漏れ聞こえてくるリビングへ顔を出すと、俺に気づいた父さんが「おやすみ」と言って笑った。繊細で、不安定で、屈折した息子に対する不満は微塵もないのだろうか。そう錯覚させるほど優しい声だったから、俺はその日担任から呼び出されたことをやにわに口に出そうとした。が、なけなしのプライドが邪魔をして思うような声は出なかった。
ややあって、まるでその沈黙を見越したように、母さんが夕飯の食器を洗う手を止めた。

「扇、ちょっと」
「…………」
「お母さん、来週以降は先に言ってくれればいつでも予定を開けておくからね

俺は吸った息を吐くのも忘れて、その場に立ち竦んだ。
心臓を素手で鷲掴みにされたかのような生々しい恐怖が、全身を貫く。一瞬にして筋肉が硬直し、手指さえ動かせない。凍り付いた体がわずかに震えだす。過去・現在・未来のすべてを見通すという行為はその人への暴力に酷似しているのだと身をもって知る。

——っ!」

憎まれ口を叩く気力も半ばで潰え、下唇を噛む。
怒りと悲しみと恥ずかしさと不甲斐なさと、まだ俺がその名を知らない複雑な感情が頭の中で渦を巻く。母さんは知っていた。俺が担任から呼び出しを受けたことを。保護者と面談を行いたいから予定を調整してほしいと頼まれたことを。俺の失敗も俺の孤独も。初めから何もかも。母さんは≪()って≫いた!

火照った感情の冷却水のつもりなのか、涙が一筋、頬を伝う。
俺はそれを拭うのも忘れて、夢中で2階の自室へ駆け込んだ。

ベッドに投身して嗚咽を殺しているうちに、夜が更けていく。
思えば昔からそうだった——事件や事故などのおぞましい現場を≪視た≫ときや、それを≪視た≫ことによって気味悪がられたり、些細な傷を負ったりしたとき。いつだって母さんは先回りして俺を慰め、癒してくれた。いつからそれが苦痛になったのだろう。どうしてそれに耐えられなくなったのだろう。『俺の未来を視ないでほしい』というのは我儘なのだろうか。

古い記憶のページを捲って回想しているうちに、ふと気づく。
昼間に見た男の面差し。鼻血に驚いて悄然としたあの表情。

「そうだ……

だ」

自他の区別さえ曖昧な幼い時分に≪視た≫、陰惨な光景を思い出す。
薄暗い納屋か倉庫のなか。朽ちた板張りの床は所々が抜けていて、長い間手入れがされていないことを如実に物語っていた。ぼろぼろの屋根の隙間から差し込む月の光が、そこで蠢く人影(シルエット)をぼんやりと浮かび上がらせる。暗くて仔細は伺えないが、無造作に転がった黒いランドセルの奥に大人が2~3人、身を寄せ合って

を押さえつけていて、その何かの細い足が時折跳ねたり痙攣したりするのだった。
そして俺が≪視て≫いる対角線上には真っ赤な眼玉がひとつ浮かんでいて、事の一部始終を捉えている。今ならあれがカメラの録画表示のライトだと理解できるが、まだ言葉も使えない当時の俺はその光景の一切合切が恐ろしくて、散々泣きじゃくった憶えがある。

はじめ大人たちに抵抗していたその

は、次第に力を失くして最後には動かなくなった。やがて一瞬だけ映ったその顔には、頭部から流れる血の筋が数条、小学生にしてはいやに整った目鼻立ちを引き裂くように伝っていた。確かに今日≪視た≫顔だった。

「よかった……あの子、生きてたんだ」

俺は誰へともなく呟いて——「よかった」なんて言葉を発した自分を不思議に思った。
それと同時に、にわかに、これまで一度だって望む景色を見せてくれなかった≪千里眼≫が言うほど劣悪なものではない気がした。母さんや父さんやクラスメイトや担任。そういった目の前の面倒事から隔絶された世界(ビジョン)。逃避にはうってつけの能力。

俺は静かな窓の向こう側を覗き見るように、泣き腫らした両目をそっと、ぎゅっと閉じてみた。
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登場人物紹介

シデ

原付バイクと旅をする青年。

人の顔を認識することができず、まれに、人以外のものを「人」と認識する。

”アオイさん”

青い塗装の原付バイク。

車種はホンダ スーパーカブ110。シデの従姉・麻木青衣の遺品であり未練。

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