#1 フェリーにて

文字数 2,887文字

横須賀市・久里浜から千葉県富津市・金谷までを結ぶ東京湾フェリーは、1時間に1便の間隔で運航しているとはいえ、乗船予定の便を逃して次便を待つのはあまりにも耐えがたい。そう思わせるほど、じりじりと熱い夏の日だった。

県道211号線。ペリー通りと呼ばれる海岸沿いの道を、1台の原付バイクがあわてた様子で走ってきて、久里浜港へ進入する。ナンバープレートがピンクの原付二種。車体はまだ新しいのか目立った損傷はなく、鮮やかなブルーの塗装を輝かせていた。一方で、細身な運転手が着用しているのはくすんだ白のマウンテンパーカーに濃色のジーンズという、いたく飾り気のない服装だった。

「よかった。なんとか間に合いました」

ターミナルに停まっている自動車が動き出していないことを横目で確かめ、運転手が安堵の声を漏らす。オートバイ・自転車専用のレーンを見つけて減速すると、係員が機敏な動きで駆け寄ってきて乗船券の有無を問った。運転手はヘルメットのシールドを上げながら首を振る。ちらりと覗いた目元から、運転手は二十代の青年と察せられた。

「では、出航までに乗船券の購入をお願いします。そこの窓口で往復3,250円。バイクはそのレーンの最後尾に停めてください」
「わかりました」

青年は係員に会釈すると、先に並んでいる4台のハーレーの後ろに原付バイクを停めた。黒光りする先客の傍に所有者の姿はなく、それは主人の帰りを待つ血統書付きの大型犬を思わせた。比較すれば、青年の原付バイクはチワワ、いや、豆柴あたりが妥当なところか。
青年はヘルメットと革のグローブを外すと、

「≪アオイさん≫はここで待っていてください」

と言って、原付バイクのシートを撫でた。
その目は、愛犬に向けるような慈愛の目ではなく。
初恋の人を見るときのような、切ない笑みだった。


独特な字体で「東京湾フェリーターミナル」と書かれた建物の窓口で、土産物には目もくれず、そそくさと乗船券だけ購入した青年が戻ってきたとき、オートバイ・自転車専用レーンの様相は一変していた。というより、青年の原付バイクが数名の男女に囲まれていた。男が三名——ガタイのいい者、サングラスをかけた者、長身長髪の者。そして女が一名。全員が黒づくめの装いで統一感があった。
いじめられている亀を目撃した浦島太郎のように、青年は心なしか身構えながら、原付バイクのもとへ駆けつける。しかし青年が口を開くより先に、ガタイのいい男が声を上げた。太くてよく通る声だった。

「このカブ、お兄さんの?」
「え、ええ、そうです。そんなに珍しい車種ではないと思うのですが、もしかして何かおかしなところがありましたか」

おずおずと答える青年の様子に、黒ずくめの集団はしばらく顔を見合わせていたが、やがてその委縮の理由に気づいた女だけが、小さくぷっと噴き出した。女は青年の原付バイクから一歩身を引くと、道を譲るように手のひらを返した。

「ごめんね。懐かしいなぁって見てただけなの。取って食おうとしたわけじゃないのよ。こんなガラの悪い人たちに愛車が囲まれてたら驚いちゃうわよね」
「えっ、俺らってガラ悪いか?」
「客観的に見てよくはないだろ」

男女は口々にそう言ってからりと笑った。
気の置けない仲なのだろう。その快活さは、彼らが悪党ではないという証明に他ならないように思えた。青年はふっと警戒を解いて、輪の中へ歩み寄る。近づくと煙草の臭いがした。

「『懐かしい』ということは、皆さんもカブに乗っていたことがあるのですか」

「俺は学生のときに。50CCのやつだったけど」
「ダブルシートにしてタンデム仕様にしてたな」
「それ、確か峠で無茶して大破したやつだっけ。よく無事だったよな」
「うるせ! にしても、昔と形は変わってないんだな。これ新車か?」

ガタイのいい男が凄むように青年を見た。鋭い眼光は生来のものなのか。それは傍から見れば、青年を恐喝しているように映ったに違いない。
しかし青年は唇に指をあて、困ったように微笑んだ。

「おそらくは……まだ新しいと思います。申し訳ありません。譲っていただいたものなので、僕には正確な製造時期がわからないんです。バイクにも詳しくなくて」
「へえ。それだと、もしやお兄さんはこれが初めてのバイク?」
「ええ」
「それじゃもしかして初フェリーか?」
「そうですね。初フェリーになります」

はにかむように青年が言うと、黒ずくめの四人組はにんまりと笑みを交わし、横暴にも手を上げて係員を呼び寄せた。青年は、握りしめていた乗船券の半券をちぎってもらいながら、大袈裟なくらいに何度も頭を下げた。係員にも四人組にも。
足元を眺めたままの青年の腕を、女がつん、とつつく。

「ところでさぁ、バイクに名前は付けてるの?」
「……えっ」
「付けるだろ普通。だって1台目だぞ」
「いや、それ理由になってないからな」

青年はわずかな逡巡ののち、人名ともとれるその名を告げた。

それは原付バイクの塗装の色には違いなかったが、何かそれだけではないような、もっと深い理由が存在する予感を帯びていた。中長距離の移動手段やステータス誇示の道具に対して以上の感情が、その呼び名に込められているような——黒づくめの男女が一瞬黙り込むと、青年はにわかに恥ずかしくなったのか、あわてて顔を伏せた。それから視線を乗船券の控えに移し、ふと穏やかに目を細めた。

「どうした? 乗船券に何か面白いことでも書いてあったか?」
「……僕より≪アオイさん≫の方が運賃が高いんだな、と思って」

往復運賃、旅客1,450円に対して車両1,800円。
原付バイクでなくオートバイの部類になれば、その金額差はより大きくなる。

「はは、そりゃそうだ。俺よりもアイツのほうが価値があるし高く売れる」

アイツと呼んだ視線の先には4台の大型バイク。
ガタイのいい男は野太い笑い声を上げながら、鍛えられた胸筋を反らしてみせた。身に纏う黒のインナーに記されたHARLEY-DAVIDSON OWNERS CLUBの文字を高らかに主張しながら。

・・・

久里浜港から金谷港まで、東京湾を横断すること約40分。
フェリーのデッキで少し潮風を浴びたのち、客室で微睡んでいた青年は、着岸の放送で目を覚ました。乗船時は二輪車が自動車に先行するが、下船時はその逆。ハーレー乗りの四人組に教えられたひと通りの手続きを思い出し、車両甲板に下りると、躊躇うような弱い力が青年の肩をとんとんと叩いた。

「お兄さん、乗船のときに絡まれてたでしょ。見てましたよ」

振り向けば、眼鏡をかけた中年の男が、曖昧な笑みを浮かべて立っていた。
手には一組の軍手と、後方で甲板に固定されている三輪バイクとカラーリングを合わせた銀色のヘルメットを抱えていた。青年のあとに続いて乗船した旅客だろう。

「ハーレーの集団って、その、ちょっと威圧感ありません? あの厳つい男性とか眉毛がなくておっかない感じでしたもん。皆強面だから怖くって。大丈夫でした?」
「そうだったのですか」

青年は、まるで

に驚くように呟いてから。
怖い人ではなかったですよと、どこか寂しげに微笑んだ。
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登場人物紹介

シデ

原付バイクと旅をする青年。

人の顔を認識することができず、まれに、人以外のものを「人」と認識する。

”アオイさん”

青い塗装の原付バイク。

車種はホンダ スーパーカブ110。シデの従姉・麻木青衣の遺品であり未練。

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