#4 夢の跡

文字数 2,888文字

「……お(やしろ)がない」

シデは思わずそう呟いて、高さ十数メートルはある断崖の手前——かつてそれを背面に立派な社殿が建っていたであろう区画を見つめた。鳥居をくぐって参道を歩いてきたシデの左右には、苔とカビでまだら模様になった狛犬と、石造りの用水甕。しかしそれらの先に、本来あるべき拝殿と本殿の姿が見当たらない。
腰の高さに張られた「立入禁止」のバリケードの向こうは、更地だった。

「お社が、こんなに跡形もなく消失するなんて」

柱一本見えなければ土台さえ残っていない。
地面には、小石というには凶悪な大きさの礫がごろごろと転がり、ところどころで夏草が天頂を目指していた。更地の突き当たり——ちょうど社殿ひとつ分の距離を隔ててそびえる崖面は、もとは石切り場であったのか、巨大な板のように垂直に切り立ち、屋号と思われる彫り跡を岩肌にさらしていた。

シデは額に浮かんだ汗を袖口で拭い、辺りを見回した。
お社のないその神社には、何者の気配すらしなかった。

・・・

当初のシデの目的地は、社殿を失くしたこの「船形諏訪神社」の隣に位置する、「大福寺」であった。
館山湾沿いに国道125号線を南下すると、突如左手上空に現れる朱塗りの舞台造り。標高100メートルあまりの船形山中腹からせり出す大福寺の観音堂は「崖観音」と呼ばれ、地元住民の信仰も厚いと聞く。
墓参りに訪れる人も多いのだろう、ひっきりなしに車が入れ替わる駐車場に原付バイクを停め、シデはくたびれた様子でマウンテンパーカーを脱いだ。南房総らしい快晴の、日差しの強い日だった。暑い、というだけでもバイクの運転に支障を来たすには十分であるが、それに加えて、船形山までの道中でシデを困らせたものがあった。

「道、未だに台風の爪跡が残ったままでしたね、≪アオイさん≫」

シデは日陰に避難すると、静かに息を吐いた。
2019年に、千葉県を中心に甚大な被害をもたらした台風15号。主要道路こそ早期に復旧していたが、県道・市道では、倒木や土砂崩れ、電柱の崩壊などにより完全に復旧していない場所も多い。予め迂回ルートを組んでいたものの、いざ「通行止め」の看板を目にすると虚しいものがあった。何せくだんの台風は二年も前のこと。隣都では、オリンピックのために新たに建設工事を進めているくらいなのに。

トンビが舞う空をぼんやりと眺めるシデに、≪アオイさん≫と呼ばれた青い塗装の原付バイクは、当然ながら何の返事も寄越さなかった。それどころか、「さっさと崖観音を参詣してきたら」とでも言いたげな無関心を貫くばかり。冷めていくマフラーがちりちりとシデを急かす。

「そうですね、すぐに戻ります」

シデは薄く微笑むと、名残惜しそうに日陰から出て船形山を登り始めた。


崖観音は、前評判のとおり一見に値する趣を有していた。
まずは、舞台から眼下に広がる館山・船形地区の街並み。館山湾から吹く海風が心地いい。遠くに伊豆大島を望むことができるという絶景に目を凝らしていると、ジョギングの途中なのか、スポーツウェアに身を包んだ初老の男がシデを一瞥して笑った。ランナー姿の男は、堂内に上がらずして合掌を済ませ、やがてもと来た道を走っていった。ジョギングのルートとして日課のように観音堂を訪れているのだろう。シデは男を会釈で見送ってから、観音堂に足を踏み入れた。

近年修復されたばかりの堂内には、正面奥に御本尊、左右に興教大師と弘法大師の像。
欄間には十二支が彫られ、天井には南房総の植物を中心に描かれた奉納画が飾られていた。シデは御本尊に手を合わせてから、傍らに添えられた解説文を黙読する。御本尊の十一面観音像は、観音堂内陣の自然の懸崖に刻まれた「磨崖仏(まがいぶつ)」。つまり、崖の石を直接彫って仏像を浮き彫りにしたということらしい。

解説曰く、仏像は、左手に持つ水瓶や着衣のひだの形から平安時代中頃の様式ではないかと推測されるものの、全体的に摩耗が激しく制作年代は不明。目・鼻・口などが失われているためその表情は知れないが、

「『それゆえに有難く思えるのかもしれない』——ですか」

文章を読み終えると、シデは誰へともなく呟いて正面を向いた。
このような記述をされてはどうしても仏像の表情を拝みたくなるものだが、シデは御本尊を覗き込もうとはせず、深く一礼をして観音堂を後にした。どこか寂しそうな憂いの表情を、その顔に浮かべながら。

・・・

観音堂を降りて、左折すれば大福寺本堂へ下る分岐点。
お不動様を祀る岩屋が崖壁にめり込むように建てられているT字路のまんなかで、シデはふと、その道を直進できることに気がついた。道の先は薄暗く心許ない感じがしたが、シデは崖を滴る水の気配に誘われるようにして歩を進めた。
そうして間もなく辿り着いたのが「船形諏訪神社」。お寺の道を歩いていたらいつの間にか神社に出ていたなんてこの国ではよくある話だが、シデを驚かせたのは、お社を欠いたがらんどうの空間だった。

護るべき社を失った狛犬と、消火にあたる建物を失った用水甕。
ぐるりと辺りを見渡せば、手水舎に色褪せたのぼり旗が掲げられていて、辛うじて「復興祈願」の文字が見て取れた。社務所の横に「仮宮」の表示を発見してなかを覗き込めば、どう見ても住居の一画という間に合わせの場所ながら、丁重な祭壇が設けられていた。不釣合いに新しい賽銭箱に、書き置きの御朱印。依然として人の気配はなかった。
シデは参拝を済ませると、もう一度、崖前に広がる区画を見つめて、

「……これも台風の被害なのでしょうか」

歯痒そうにぽつりとこぼすと、お社の跡に背を向けた。

形あるものはいつかはなくなる。盛者必衰、諸行無常。
人は死ぬし、物は壊れる。十一面観音像も表情を失う。
人の手による建造物は、時間の経過と非業の災害には敵わない。大福寺の観音堂だって、経年劣化や天災のたびに幾度も再建・改修がなされたという。いつか消失することがわかっていながら、なくなるたびに建て直す。信仰が途絶えないように。信仰が途絶えない限り。

鳥居を抜けて原付バイクのもとへ向かう途中、大きな立て看板が目についた。
看板の内容は、社殿再建の篤志金を募るものだった。シデはその文言に目を滑らせてから、一瞬だけ、驚きと悲しみがない交ぜになったような顔をして——にわかに、下りてきたばかりの船形諏訪神社の参道を再び登り始めた。

汗ばんだ手に握りしめるのは、心ばかりの寄付金と、自らの甘さへの戒め。
なぜその可能性に思い至らなかったのか。息を切らして階段を駆け上がる。
いつしか人の善性を手放しに信じていた愚鈍な頭を、思い切り殴られたかのような衝撃だった。平和ボケした呑気な思考回路。それがいつ旅の仇になるとも知れないのに。夢の跡——失われた社殿を思えば思うほど、警戒心のない自分自身に対する苦い怒りがこみ上げ、シデは下唇を噛んで社務所の呼び鈴を鳴らした。

——船形諏訪神社の社殿が焼失したのは2017年の三月。
焼失の原因は、住所不定・無職の男による放火で、落ち葉や雑誌などを本殿裏に大量に集めて火をつけた彼は「生活に困り、逮捕されたかった」と供述したという。
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登場人物紹介

シデ

原付バイクと旅をする青年。

人の顔を認識することができず、まれに、人以外のものを「人」と認識する。

”アオイさん”

青い塗装の原付バイク。

車種はホンダ スーパーカブ110。シデの従姉・麻木青衣の遺品であり未練。

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