アサギシデという先輩について

文字数 5,200文字

出張が多く不在がちな夫が帰宅するたび、3か月になる息子は、まるで知らない人に会ったかのように大泣きする。抱っこされれば、夫の腕から滑り落ちそうになるくらい体を反らして抵抗する始末。これは、人見知りというよりは「母親とそれ以外の区別がつくようになった証拠」だとママ友達に教わった。
しかし当の夫はそんなことは露知らず、

「いつになったらパパのことを憶えてくれるのかなぁ」

なんて、がっくりと肩を落とす。
私は、泣き喚く息子と項垂れる夫を我ながら器用にあやし、やがて寝息を立てはじめた息子のほうをベビーベッドに運んだ。夫は着替えもそこそこに、中途半端にスーツを脱いだ姿でこちらに近寄ると、息子の寝顔を眺めてこう呟いた。

「このままずっとパパの顔を憶えてくれなかったら泣いちゃうな」

その寂しげな言葉に、ふと思い出した。

脳裏に浮かぶのは、茶いろガラスのかけらの中のような放課後の図書室。
小声で交わした他愛無い会話。高校生の私が犯した裏切りの顛末。当時憧れだった上級生の男の子が見せた、今にも泣き出しそうな痛切な表情。彼はほんとうに美しい人だったのにかあいそうなことをした——

ああいうかなしいことを、私はきっと他に知らない。

・・・

あれは、桜散り切らぬ春のこと。
運動音痴にも関わらずバレーボール部に入った私は、入部早々に両手指を突き指するドジをやらかして自主休部を余儀なくされていた。右手は中指。左手は人差し指。それぞれテーピングと包帯で固定されて球拾いさえできないとなると、もはや完全にでくのぼう。そんな間抜けな新入生が、暇を持て余して向かった先が、例の上級生——先輩の孤城たる図書室だった。

実は、私は先輩と出会う前から先輩のことを知っていた(図書委員だということは知らなかったが)。
先輩は校内でも有名だったからだ。
有名人たる理由は単純明快。
先輩はすこぶる美人だった。
艶やかな黒髪に、物憂げな目元。すっと通った鼻梁に、透明感のある薄い唇。決して華やかな顔立ちではないが、立ち姿から匂い立つ歳不相応な色気というのか、一度見たら目が離せなくなるタイプの美貌の上級生。学校行事でも表舞台に立つことは滅多になく、ゆえにいっそうミステリアスな年上の男の子。そんな謎多き先輩は、もっぱら女子生徒の噂の的だった。

だから、図書室のカウンターに座ってハードカバーを捲る姿を認めたとき、私は思わず、聞き知ったばかりのフルネームで彼を呼んだ。

麻木(アサギ)紙垂(シデ)先輩」

抱えていた本が貸出カウンターに滑り落ちて、どすん、と音を響かせる。
それは図書委員から見れば、本を乱暴に扱う人間の所業に違いなかった。
しかし、先輩はおもむろに表紙の『バレーボール入門』の文字を眺めると、長い睫毛をばさばさと動かして私を見上げた。どきりとするほど無垢な瞳が、こちらのアクションをじっと待っていた。

「すみません、えっと、この本貸し出しでお願いします」
「……カード」
「えっ」
「貸出カード」

その口調の素っ気ないことといったら。突き放すような冷酷ささえ含んでいた。
くわえて、私は先輩の声が想像以上に低いことに面食らい(それは今思えばごく平均的な男の子の声域だったが、私は勝手に、美少年役を演じる男性声優のような声を期待していたのだった)、ひどくうろたえた。受験のときだってこれほど取り乱したりはしなかった。

「あの私、図書館使うの初めてで、借り方がよくわからなくて」
「1年生?」
「は、はい」
「……あそこの棚に貸出カードを用意しています。学年とクラス別にボックスを分けているので、自分の貸出カードを探して、借りたい本の名前・図書番号・貸出日・返却予定日を記入——」

事務的な説明の途中で、先輩ははたと立ち上がった。

「何組?」
「いっ、1年4組ですけど」
「名前は」
「遠藤しおり、です」

噂の上級生からクラスと名前を尋ねられるなんて、平時であればこれほど心躍ることはないだろうに、そのときの私は判決を待つ被告人のように委縮しながら、手持無沙汰に立ち呆けた。先輩はボックスから一枚の貸出カードを引き抜いてカウンターに戻ってくると、傍らにあった鉛筆を手に取った。

「今回は僕が代筆しますが、次回からは自身で貸出カードに記入して、本と一緒に持ってきてください。指の怪我、お大事に」

先輩の文字は几帳面に細長く、貸出カードに刻まれた筆跡には、何か耽美小説でも借りたかのような艶めかしさがあった。私は包帯でぐるぐる巻きの指で本を受け取ると、無意識に止めていた息をぷはっと吐き出すために、足早に図書室を後にした。


翌週も、先輩はカウンターに座っていた。
厚い茶いろのカーテンが引かれた放課後の図書室は、暖色に昏く、本がノイズを吸収していると思うほど静かで、どこか異世界を感じさせた。そんなビール瓶のかけらをのぞいたような空間に先輩の姿を見つけた私は、意気揚々とカウンターへ足を運んだ。

「先輩すみません、まだあの本読み終わってなくて。貸出延長ってできますか」
「あの本?」

先輩は半ば睨むように、目を凝らして私を見た。
その視線が、私の頭のてっぺんから指先に移動したあたりでぴたりと止まる。

「ああ、先週バレーボールの本を借りていった……」
「遠藤です。あの、お恥ずかしい話なんですけど、この指じゃページが捲りづらくて」
「やっぱり」

先輩が小さく微笑んだその瞬間を、私は生涯忘れないだろう。
それは、嘲笑にも似た些細な表情の変化だったが、あどけない女子生徒の心を鷲掴みにするには十分すぎる笑みだった。しかし先輩はそんな乙女心は露知らず、貸出期間は二週間だからまだ延長手続きはしなくてもよい、というマニュアル対応で終話しようとした。

「せ、せっかく図書館にきたんだから何か追加で借りていきます!」
「ページを捲れないのに?」
「いいんです! えっとそれ、今先輩が読んでいるその本を借ります!」

耳の先まで真っ赤にしながらそう言うと、先輩は呆れたように眉を下げながらも、私の貸出カードに傾いだ字で『宮澤賢治全集』と記入してくれた。ちょうど開いていた『黄いろのトマト』のページに栞紐が挿まれる。ずしりと重い一冊を受け取るなり退散しようとする私の背中に、先輩は静かな声でこう告げた。

「今度来るときは先に名乗ってください。僕、人の顔を憶えられないので」

人の顔を憶えられない。
その言葉がよくあるお断りではないと知ったのは、両指の包帯がとれたころだった。先輩は、私が先に名乗らない限りは、あくまでも図書委員としての事務対応を徹底した。そんなだから、廊下ですれ違ってもガン無視。顔見知りの関係になってくれる気はないのだと悟った私は、たいそう落ち込んだものだった(それにしても「顔見知り」とは言い得て妙だ)。

「バレー部の人は皆同じ髪型をしているから見分けがつかない」

というのが先輩の言い訳で、さらに臭いも同じだからいっそう判別が難しいとのことだった。確かに、バレー部員はもれなく眉上ぱっつん前髪のショートカット。さらに、示し合わせたように同じ制汗剤を使っていた。臭いで女の子を記憶しているなんてやらしい、と茶化すと、先輩は曖昧に視線を逸らした。

やがて指が回復し、部活に復帰すると、図書室へ通う機会は自然と減った。
それでも先輩との繋がりを失いたくなかった私は、

「麻木先輩、遠藤です!」

先輩と遭遇するたびに、高らかにそう言って存在を主張した。
図書室へ足を運んだとき。
移動教室ですれ違うとき。
昇降口で鉢合わせたとき。
誰に対しても塩対応な先輩が、唯一こちらを振り向いてくれる魔法の呪文。不特定多数の前で名乗りを上げるのはやや抵抗があったが、慣れてしまえばなんてことはなかったし、多少元気がよすぎる女子高生の言動と思えばかわいいものだ、と周囲も黙認してくれていた——否、私はそれをまんまと利用され、結果、先輩をひどく傷つけることになったのだ。


梅雨が過ぎ、夏服に衣替えをすませた時分だったか。
体育館のモップ掛けを終え、先輩部員が帰った後のカビくさい部室で制服のリボンを結んでいると、隣で制汗スプレーを振りまいていた同期が私を小突いて言った。

「しおり、例の先輩と仲いいよね」
「麻木先輩?」
「そうそう。麻木先輩、あまり取り合ってくれないって有名でしょ。どうやって取り入ったの。やっぱり『遠藤です』って名乗るのがウケてるんじゃないかって、キャプテンが言ってたよ。今度試してみるって」

取り入ったとは人聞きの悪い。私は同期に肘鉄を喰らわせようとしたが、それより不愉快な単語に動きを止めた。試してみる——つまり、遠藤しおりを装って例の呪文を唱えてみるということだ。
それは普通なら、笑い飛ばせるような軽い悪戯に過ぎなかった。キャプテンと私は髪型と臭いは同じでも、顔立ちは似ても似つかない。先輩は迷惑そうにキャプテンをあしらうに違いない。きっとそうだ。絶対そうに決まっている。そう信じたい——けれど。

胸騒ぎに駆られた私は、結びかけのリボンをだらりと垂らしたまま、弾けるように図書室へ向かった。

閉館間際の図書室のカウンターには、人影がふたつあった。
それからカウンターにほど近い書架の後ろに、見知った顔の部員が数名。キャプテンの悪戯を一目見ようと息を殺していた。蜂雀が語るあの悲しい物語を連想させる空間に、私と先輩以外の異物が混入していた。私は唇を噛み、一足ずつ覚悟を決めて二人のもとへ歩み寄る。キャプテンの声が耳に届く。

「……え……声、変ですか……えーと……ちょっと風邪気味で」

少しの沈黙のあと、先輩の声が続いた。
それは驚くほど鮮明に、鼓膜を叩いた。

「……そうですか。喉、お大事に。



先輩がキャプテンをそう呼んだ瞬間、ひゅっと喉が鳴った。
その音に気づいた先輩が、私を——私の、もうとっくに包帯のとれた指を見た。次いで、先輩の視線を追うようにキャプテンが振り返る。いいところだったのに、本物の遠藤が来ちゃだめじゃん。キャプテンの口がそんな風に動いたが、私はみるみるうちに青ざめていく先輩の表情から目が離せなかった。

「あ、麻木先輩、」

やっとのことで声を絞り出すと、その声で遠藤しおりを特定したのだろう、先輩の顔が今にも泣き出しそうに歪んだ。美しい相貌に浮かぶのは困惑、驚愕、疑念、後悔。最後に、痛切な自責の表情に着地した。先輩はしばらくそのまま押し黙っていたが、やがて揺れる瞳をぎゅっとつむると、よろめくようにして図書室を出ていった。

私は慌てて先輩のあとを追ったが、中庭で蹲る先輩に追いついたときにはすっかり日も沈んでいた。しんと夜を迎え入れた校舎の隅、微睡むような初夏の湿度が先輩を包んでいた。その背中は、憧れの男子生徒のものにしては随分小さく、人間に怯える小動物を思わせた。実際に先輩は怯えていた。

「せ、先輩ごめんなさい……その、きっとキャプテンも悪気があったわけじゃなくて」

背後から声を掛けると、先輩はびくりと肩を震わせて振り向いた。
何度もこすったと思われる鼻先。朱をさしたように赤い目元。長い睫毛がしっとりと濡れていた。息を飲むほどに美しいガラス玉の瞳に、私、遠藤しおりの姿が映る。先輩は一呼吸おいてから、今にも消え入りそうな低い声でこう言った。

誰ですか

——人の顔を憶えられない。
いつか先輩が話した言葉の意味を、私はそのときようやく理解したのだった。
そして、難しいことはわからないまでも(先輩の症状に合致する脳障害が存在すると知ったのは何年もあとのことだ)、私が先輩を裏切ったという事実は、思春期の記憶のなかに嫌というほど刻み込まれている。

・・・

先日、久しぶりに休暇が取れた夫と、家族三人でピクニックに訪れた自然公園で、先輩によく似た人物とすれ違った。彼はオフホワイトのマウンテンパーカーを着用し、快晴の空の色と同じ、青い原付バイクを押していた。多少大人びてはいるものの、あの麗しい面差しはそのままだった。

しかしその表情を見て、一瞬空目かと自信が揺らぐ。
同行人の姿は見当たらなかったが、彼は何やら楽しそうに口を動かして微笑んでいた。私の知る先輩はあんな顔で笑わなかった。あんなに気安い穏やかな表情は、私の前では一度だって見せてはくれなかった。

「麻木先輩、」

私はそう言いかけて、喉の奥でつっかえた呪文の続きをぐっと飲み込んだ。
私の苗字はもう「遠藤」ではないし、それに、彼が返すであろう反応は想像に難くない。彼は私の顔を憶えていない。辛うじて後輩の女子生徒を憶えていたとしても、その顔を知らない。だから彼の返答は尋ねるまでもなく、あのよそよそしく残酷な一言に違いなかった。

「どうしたの、大丈夫?」

息子を膝に乗せた夫が、心配そうに私の顔を覗き込む。
私は、空があんまりにも明るいのと、先輩のかあいそうなのとに、目がチクチクっと痛んだだけだと、涙をぼろぼろこぼしながらそう言った。
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登場人物紹介

シデ

原付バイクと旅をする青年。

人の顔を認識することができず、まれに、人以外のものを「人」と認識する。

”アオイさん”

青い塗装の原付バイク。

車種はホンダ スーパーカブ110。シデの従姉・麻木青衣の遺品であり未練。

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