#6 いさなとり

文字数 3,045文字

この目で見ない限りはどうしても実感できないことがある。
理屈では分かっていても、話には聞いていても。
その光景を目撃しないとどうにも信じられない。

南房総市・和田浦にある道の駅の広場公園にて。
青年がひとり——そんな思案顔をして、シロナガスクジラの骨格標本を見上げていた。

「大きすぎて、同じ地球上に実在する生き物とは思えませんね」

1880年代初頭に捕獲されたといわれるそのシロナガスクジラは、レプリカの骨格標本だけでも全長26メートル。ここに内臓や筋肉がつき、背びれ・胸びれ・尾びれが加わる。最後に分厚く固い皮膚で覆えば、青年の脳内には、戦艦にも似た強大なイメージが完成した。生前はギリシア神話の怪獣・ティアマトの名をほしいままにし、ときに人間的な求愛の歌を響かせながら、威風堂々と大海原を回遊していたに違いない。

青年は遥かに見える海に目をやり、彼女(標本の案内板には(メス)とあった)が泳いでいる姿を思い浮かべようとした——があまり上手くいかなかった。愛車の原付バイクを走らせてきた外房黒潮ラインから望むあの穏やかな海に、そんな空想じみた生き物が棲息しているとは到底思えなかった。


房州の海にシロナガスクジラは似合わない、という青年の印象は的を得ていた。
というのも、くだんの骨格標本はノルウェー北部で捕獲された個体のものであり、南房総の海を訪れるのはこれより小型のクジラであるらしい。なかでも、日本の捕鯨基地のひとつである和田で捕獲されるのは主にツチクジラだという。

「『土』……?」
「いいやお兄さん、『槌』だよ。『槌鯨(ツチクジラ)』。頭のかたちが木槌に似てるんだ」

道の駅併設のクジラ資料館で展示物を眺めていると、初老の男が口をはさんだ。
資料館——ホワイトキューブの博物館というより、地元公民館の企画展示といったほうがしっくりくるような空間だった——の関係者だろう。男は掃除機のプラグを手に館内に現れたが、青年が展示物に首を傾げているのを見てプラグを床に置いた。見学者のために清掃時間の融通をきかせてくれる心遣いが嬉しかった。
青年は語気に好奇心を滲ませて、男に訊ねた。

「ツチクジラを見たことがあるのですか」
「あるよ。毎年そこで捕れるからね。今年はもう漁期は終わっちゃったけれど」

クジラ漁と聞いてエイハブ船長とモビー・ディックの死闘を連想したのか、青年が身震いしてみせると、男は学芸員らしく静かに笑った。ツチクジラは最大でも体長約13メートル。外に展示しているシロナガスクジラのレプリカほどではないという。しかしそれでも十分に大きい気がするが。

「ってことは、お兄さんはクジラを見たことがないんだね」
「ええ。写真や映像ぐらいしか……」
「それじゃシャチは? イルカは?」
「シャチやイルカなら水族館で見たことがあります……幼い頃ですが」

青年がはにかむように答えると、

「実は、クジラもシャチもイルカも大きさが違うだけなんだよ。体長約4メートル以下のクジラが『イルカ』、約5~9メートルのクジラが『シャチ』。研究者によって見解が違ったりするけれど、だいたいそう言われているね」

男は、青年の顔に関心の灯がともったのを見ると、得意げに胸を反らした。
それから、青年から別の反応を引き出そうと様々なクジラ知識を披露した。

回遊するクジラの多くが、エサの豊富な高緯度の冷たい海で半年を過ごし、残りの半年は暖かい海へ移動してほとんど絶食状態で子育てをすること。その移動距離は数千キロメートルにも及ぶこと。
クジラがしばしば海岸等に乗り上げて座礁する理由のひとつに、耳の病気が考えられること。座礁したクジラを解剖すると、その大半が寄生虫に耳を侵されていて平衡感覚と聴覚を阻害されていること。
そして捕鯨について、和田での捕獲枠は年間26頭と決められていること。クジラが捕れた翌日には、朝早くから業者や見学者が集って解体場が賑わうこと。

青年は頷きながらそれを聞いていたが、だんだんと、相槌のタイミングを失するようになっていった。徐々に会話のテンポがずれていく。知識が増えるのに比例して物言いたげな沈黙が長くなる。やがて青年の視線は物思いにふけるように宙に留まり、もはやクジラの解体道具の展示を眺めてはいなかった。

「おっと、一方的に喋ってしまってすまないね。お邪魔だったかな」
「いいえ、そんなことは全く——」

青年は男の声に困惑の色を察知すると、慌てて頭を下げた。
しかし、もたげた頭の前髪の奥ではまだ瞳が思案していて、

「僕はきっと、心のどこかで『本当にこんなに大きな生き物が存在するのだろうか』と疑っていたんだと思います。クジラなんて見たことがないから、どうしても。だからお話を聞けてよかったです」

今の今まで、青年が想起するクジラは実体を伴わない生き物だった。写真や映像を見てもいまひとつ現実感に欠ける伝聞情報の集合体。物語に登場する架空のキャラクター。それゆえに男の語ったクジラの生態の話は、骨格標本に内臓や筋肉を付けていくように、青年のなかに巨大な海獣を創りつつあった。遥かに見える南房総の海を泳ぐひとつの生命体として。
すると男は指を鳴らして、青年にひとつ提案をした。

「クジラはいるよ。食べてみたらいい」

・・・

くじらのたれ。

「『タレ』……?」
「いいやお兄さん、『垂れ』だよ。干し肉。天日干しにして垂らすから『タレ』」

道の駅の売店で板状の加工食品を手に眺めていると、店員の女がくすりと笑った。
漁師の晴れ着といわれる万祝(まいわい)でつくられたクジラのモビールが天井を泳ぐ、施設内のお土産コーナー。人の流れが落ち着いたのを見計らって商品を陳列していた店員の女は、青年が不思議そうに首を傾げているのを見て作業の手を止めた。日々飽きるほど説明しているだろうに、親切に教えてくれる心遣いが嬉しかった。
青年は男から聞いた話を確かめるように、女に訊ねた。

「クジラの肉なのですね」
「そうよ。ツチクジラの赤身肉をタレ(こちらは一般的な液体調味料の意)に漬け込んで、天日で干した珍味。房州地方の特産品なの」

青年は数種類のパッケージを見比べ、炙らずすぐに食べられるタイプの商品を選んだ。赤いパッケージの窓から内容物が確認できるようになってはいるものの、例の干し肉は黒々としていて得体が知れない。シート状のタレは手のひら大で1ミリほどの厚みがあり、指で押してもやすやすと破れる感じはしなかった。
青年はごくりと息を飲み、やがて意を決してレジへ向かった。


駐車場の隅。木陰に停まっている原付バイクに身を寄せ、青年はタレの封を切った。

絶えず吹きつける潮風で鼻が鈍っているせいか、特に臭みは感じなかった。真空パックから取り出したタレの表面はニスを塗ったように照り輝き、その黒色の艶やかさに口に運ぶのを躊躇いそうになる。指先に力を入れて干し肉の端を手前に引くと、長い繊維を伴った一口大のサイズに裂くことができた。青年はタレをわずかに口に含むと、

「……海の味がする」

鼻を抜ける海水の匂いに目を見開いた。
魚の干物とは異なる、哺乳類の肉の味。

獣肉なのに海の匂いが感じられるのは、天日干しの際に南房総の海風に晒されたから?
それともその肉片が、かつて大海原を悠々と泳いでいたときの記憶を湛えているから?
喉元を過ぎてもまだ口に残るクジラの味は、その生き物がこの世界に実在することを証明してなお余りあるくらいに、青年の脳裏にどっしりと血の通った巨体を現した。
それは目撃するよりよっぽど鮮烈な、存在の確認方法だった。
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登場人物紹介

シデ

原付バイクと旅をする青年。

人の顔を認識することができず、まれに、人以外のものを「人」と認識する。

”アオイさん”

青い塗装の原付バイク。

車種はホンダ スーパーカブ110。シデの従姉・麻木青衣の遺品であり未練。

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