#3 私と猫と赤色と

文字数 3,891文字

「さっきは本当に助かりました。あそこでクラクションを鳴らしてもらえなかったら、対向車がミケに気づくことはなかったでしょう。シデくんはミケの命の恩人です」

私は依然鳴りやまない心臓を押さえつつ、何度目かのお礼を告げた。
一方でミケ——文字通りの三毛猫で、人間に換算するとおばあちゃんの年頃であるミケは、自らのお転婆が招いたヒヤリ・ハットにはまるで興味がないようで、腕の中で不機嫌そうにごろごろと鳴いている。白黒茶のしましま尻尾が「早く解放しろ」と言わんばかりに私の腕を叩く。まったく、あと一歩で最悪の事態になっていたというのに。

「滅相もありません。僕はただ警笛(ホーン)を鳴らしただけで」
「でも、それがなければミケは確実に車の前に飛び出していました。何も知らずにあのトラックの下から躍り出て今頃きっと……ああ、本当にありがとうございました。何とお礼を申し上げたらよいか!」

事故を回避できなかった未来を想像して、私は思わず身震いする。
しかし、ミケの赤い首輪についた鈴はちりんと気楽な音を立てた。
まだ血色が戻らない私の顔色を窺うように、ミケの恩人はこちらをじっと見つめた。ミケによく似た濁りのない目。同性でありながら敬遠してしまうほど整った相貌が、困ったようにわずかに崩れる。

「もう十分です。どうかお気になさらないでください。こうしてお茶菓子までいただいて、これではかえって僕の方が——」

(私に)無理やり座らされたダイニングテーブルで、眼前に置かれたクッキーの缶を見つめながら、シデと名乗った我らが恩人は頬を掻いた。一体どうしてこのような状況になっているのだろう。そう言いたげな顔をしているので回想するとしよう。

時は少しだけ遡って午後三時。
おやつをあげようとして抱きかかえたミケが逃走し、家の前で停まっていたトラックの下を潜ろうとしたことが事の発端だ。

元野良であったミケは、家猫でありながら、拾い主の意向で放し飼いがデフォルト。逃げ足の速いミケを追って私もあわてて外へ飛び出したが、人影もなければ猫影もなし。住宅街の狭い公道にまばらに車の往来があるばかり。
そこへ右から青い原付バイクが走ってきて、進行方向に駐車しているトラックの向こうを窺うためか、ちょうど私の目の前で停止した。華奢な青年が運転手だった。青年は原付バイクをとことことアイドリングさせながら対向車が過ぎるのを待っていたが、ふいに短くクラクションを鳴らした。驚いた対向車がトラックの手前で停止する。そして——これまたクラクションに驚いて立ち止まったミケが、トラックの下からそろりそろりと出てきたのである。

と、今しがた起こった出来事を映画のごとくリバイバルしたところで、電気ケトルのお湯が沸いた。ミケが腕をすり抜け、私を先導する。リビングをすべて見渡せるキッチンは、彼女のお気に入りの場所。
私は仰々しくシデくんを振り向いて、

「いいや。どうかたっぷりお礼させてください。飲み物は紅茶でいいですか?」

・・・

やはり見知らぬ他人の家は居づらいのか、私が紅茶を準備している間、シデくんは所在無げに俯いていたが、やがて住人の素性を探るようにリビングを見回しはじめた。

これといって物珍しいものなどないはずだったが、彼の視線が長く留まる場所には、確かに解説を要するものがいくつかあった。床には、通り魔にでもあったかのように裂かれた黒革のランドセル。TV台には往年のロボットアニメのフィギュアが色違いで2つ。壁には息子が図画工作で手がけた絵画。義母のパッチワーク作品のキルト。

「どうぞ。お口に合えばいいんですが」
「ありがとうございます」

慣れないソーサーで紅茶を出すと、シデくんはやわらかく微笑んだ。
涼やかな目元に高い鼻梁、薄い唇。会釈するたびに、さらさらと額を滑る細い黒髪。飾り気はないが美男子には違いない。学生というには大人びていて、どこか儚げな印象を抱かせる風貌の青年だった。私はシデくんをまじまじと見つめて寡夫らしからぬときめきを感じたりしていたが、シデくんはと言えば、彼は彼で紅茶をまじまじと見つめていた。

「もしかして猫舌でした?」
「あっ、いえ。ティーカップも赤色なんだなと思って」

カップの中に映るシデくんの顔が、憂いを帯びる。
一瞬、彼がそのティーカップ——いつかの結婚記念日に買ったノリタケの真紅のペアティーカップを、その購入経緯を含めて知っているかのような錯覚を受け、私はとっさにリビングを見渡した。この家には確かに赤色が多い。カーテン、テーブルクロスにカーペット。料理好きな彼女の希望でリフォームしたはいいが、ついぞ使われなかったキッチンの戸棚。私にとっては当たり前のことだったから全く自覚していなかった。

「ああ……そうですね。赤色が好きだったもので」
「あのザクもですか」

シデくんがTV台の上のフィギュアを指さす。

「あれはシャア専用ですな」

言うと、シデくんはあどけない笑顔で私を見た。
それから、時折何もない空間を凝視するミケを真似るようにキッチンを一瞥すると、シデくんはおずおずとティーカップに口を付けた。ゆったりと時間をかけて香りを味わい「おいしいです」と告げるその口調には、私以外の誰かの存在を意識しているような響きがあった。


私はシデくんの向かい側に腰掛けて色々なことを話した。
シデくんが無意識に放つ、しんと凪いだ湖面のような独特の雰囲気。私はしばしばそれに飲まれ、そのたびに言葉を忘れてシデくんに見惚れていたが、彼は自分を凝視する視線をものともせず、言葉をテーブルに並べていくみたいに丁寧に話した。

原付バイクで旅をしている。シデくんがそう言って黙ったのを、平日の白昼堂々、猫を追いかけてふらふらしている男やもめの言い訳の機会ととらえた私は、

「私はこれでも会社員……所謂、在宅エンジニアです。3時はミケのおやつの時間だから少し席を外していただけなんです。義母(はは)なんて、私が日がな一日PCで遊んでいると思っているようで、もう当たりがキツいのなんのって」

するとシデくんはきょとんと目を丸くして、窓の向こうのガレージを見た。

言わんとするところはすぐに知れた。シデくんを家に招く際、原付バイクを停めるよう案内した屋根付きのガレージは、車が2台入るスペースをまるごと持て余していた。実際、この家には車がなく、義母はデイサービスの送迎バスを頼りに、私は自身の脚力を頼みに生活している。あれだけ立派なガレージがあるのに自家用車がない。その点が、彼にはどうも腑に落ちないらしかった。

「ああ……以前は車を所有していたんです。若い人にわかりますかね、ポルシェ。乗らないので手放してしまいましたが」
「もしかして真っ赤なやつですか」

シデくんがクッキーをつまむ手を止める。

「緑の中を走り抜けてくやつですな」

言うと、シデくんはわずかな驚きを湛えて私を見た。
私のような冴えない男が、赤いポルシェに乗るとは到底思っていなかったのだろう——事実、その印象は的を得ていて、数年前に売却したポルシェは妻の愛車だった。妻と付き合い始めた大学時代、あの車でドライブに誘われて度肝を抜かれた記憶は、まだ色褪せていない。今でもありありと目蓋に浮かぶ、鮮明な赤い思い出。

「……実は私は、緑色の方が好きなんです」

私は思い出の眩しさに目を細め、ひとりごちる。

「でもだめですね……いつも彼女が『赤がいい』って言うんで、負けてしまうんです。シデくん、ミケの首輪見ましたか。随分古いんで、何度も緑色の首輪に取り換えようとしたんですけど、今の赤色の首輪を外させてくれないんです」

拾い主が最初に付けてくれた首輪がお気に入りなのか。
それとも、単純に私がミケに嫌われているだけなのか。

「それに床の黒いランドセル……引っ掻き傷でぼろぼろでしょう。赤色以外だと、ミケがどうしても爪とぎに使いたがるんで、息子は赤いランドセルで通学しているんですよ。男の子が赤色なんて嫌だって初めは嫌がっていました。もっとも今は、煉獄さんの赤だとかなんとか、本人はまんざらでもないようですが」

嬉々として赤いランドセルで小学校に通う息子を見たら、彼女はなんと言うだろう。『ほらね、お母さんは初めから赤がいいって言ってたでしょ』なんて笑うのだろうか。今や聞く術のない愛しい声を脳が勝手に補完して、ふいに視界がゆらぐ。この家の赤色のすべてに彼女の面影を見る。私は喉が震えるのを堪えながら、不器用に笑った。

「ミケも、緑色より赤色が好きなんでしょうね」

言うと、シデくんはどこか寂しそうな表情で私を見た。
その後随分長い時間、私とシデくんは互いに言葉を発さなかった。言いたいことは胸中にあるのに口に出す決心がつかない。シデくんはずっとそんな顔をしていた。かち、かち、と掛け時計の秒針が沈黙を刻むのを、不意にミケの首の鈴が打ち消す。いつもキッチンのほうを向いて耳をぴんと立てているミケが、足元へすり寄ってきてにゃあと鳴いた。慰めるような声だった。

「猫は赤色を見ることができないと聞いたことがあります」
「……えっ?」

シデくんが切り出した言葉が、水面を揺らすようにリビングに溶けていく。

「猫の色覚では、赤色と緑色の識別が付かないと聞きます。ですから、恐らくミケさんは赤色が好きなわけではないと思います」

そしてシデくんは呼吸をひとつ、

「だからミケさんが赤を選ぶとき、それは赤色を見ているのではなくて——“赤色が好きな誰か”を見ているのではないでしょうか」

シデくんは静かな声でそう言った。
それからミケと同じ曇りのない目でキッチンを見つめると、小さく微笑んだ。
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登場人物紹介

シデ

原付バイクと旅をする青年。

人の顔を認識することができず、まれに、人以外のものを「人」と認識する。

”アオイさん”

青い塗装の原付バイク。

車種はホンダ スーパーカブ110。シデの従姉・麻木青衣の遺品であり未練。

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