第13話 混浴
文字数 6,222文字
この日は、これで撮影終了。一番盛り上がったところで終わらせて、次回まで高いテンションを維持しよう、という計算だ。
実際のところ、もうほとんど撮影が終わっていて、あとは若干の撮り残しと、映像を編集した後に必要になる撮り直しが必要なだけだ。
もちろん、その後の編集作業なんかに時間はかかるけど、あやかし山での撮影はあまり残っていない。少なくとも、今日みたいな派手なアクションシーンは、もうない。
ちょっと寂しい気もするが、安堵感の方が強いかな。
麓の神社で俺と優衣、雅人と美玖の二手に分かれて、その日は帰ることになった。
撮影がうまくいったため、上機嫌の優衣。
この後、一緒に風呂に入るという約束に、ドキドキしっぱなしの俺。
本当は半信半疑だったのだが、優衣は俺の家まで来てくれた。
両親は不在。その事を彼女も知っている。
「おじゃまします……じゃ、体も汚れていることだし、さっそくお風呂、入っちゃおうか」
おおっ、なんて積極的なんだ! これは、ひょっとして、本当に……。
とりあえず、二人で脱衣所の側まで行く。
しかし、
「恥ずかしいから……翔太、先に入ってて」
と言われてしまう。うっ、やっぱり。
こう言われたら、そうするしかないではないか。
俺が一人で風呂に入っている最中に、「やっぱり気が変わった」とか言って、一人で自分の家に帰る可能性だって大いにある。
まあ、けど、それはそれで仕方がない。優衣といっしょにお風呂、なんて、夢物語だったんだ……。いや、けど、ひょっとしたら……。
期待と不安の入り交じる中、俺は浴室に入った。
バスタブに湯を溜め始める。
一応、自分の体を洗っておく。優衣、遅いな、ひょっとして、もう帰ったかな……。
「翔太、もう入っていっていい?」
「あ、ああ。いいよ」
うおおおおっ! 本当に来る気だ!
どうしよう、どうしよう!
別に俺が慌てることないか。約束してたんだから、堂々と、当たり前のように待っていればいいんだ。
そのとき、パチン、と電気が消えた。
そりゃそうか、優衣は恥ずかしいに違いないんだから。
しかし、浴室には窓が付いていて、外はまだ夕方だから、たぶん表情が分かるぐらいの光量はある。つまり十分明るい。本当に優衣は来るのか。
ガラガラガラ、と脱衣所の扉が開く。
そこに優衣が入ってくる。
浴室と脱衣所は磨りガラスの扉で隔てられているだけなので、暗いながらもぼんやりと優衣の体が見える。もちろん、今はまだ服を来ているが、これから脱ぎ始めるはずだ。
「翔太、向こう向いてて。絶対にこっち見ちゃ、だめだよ。もし見たら、帰るからね」
はい、見ません。
向こうからも、俺が脱衣所の方を見ているかどうかぐらい分かるはずだから、ここはウソは付けない。俺はシャワーを浴びながら、その時を待っていた。
ものすごく長く感じた、その時間。
パタン、という音と共に、優衣が入ってくるのが分かった。
「ふう、お待たせ。そのまま、こっち向いちゃだめだよ。じゃ、約束通り、背中洗ってあげるね。このスポンジ、使えばいいのかな」
優衣の声だ、当たり前だが。
ひょっとして入ってきたのは別人なんじゃないか、っていう変な疑いを持っていたので、ちょっとほっとする。
一応、俺は礼儀として? 腰にはタオルを巻いておいたので、彼女も俺の裸をそれほど意識しなくて済む……はずなんだか、どうなんだか。
数秒後、背中をスポンジで擦られている感覚に、ピクン、と体が反応する。
丁寧に、背中全体が優しく擦られる。ちょっと気持ちいいが、それをじっくりと感じられる余裕がない。今、冷静でいようと必死だった。
「ふう、終わった。じゃ、流すね」
優衣はシャワーで、泡だらけの俺の背中を流してくれた。
「よし、オッケー! じゃあ、私はもう出ようかな」
……ええー、そんなあ!
「それとも、もうちょっと、いっしょにいた方がいい?」
「……ああ」
なぜか俺は、ほとんどしゃべる事ができない。
「そう? うん、じゃあ……私も体洗いたいから、翔太はそのまま、バスタブの中に入っていてくれる?」
「……ああ」
くっ……うまく言葉が出ない!
俺は振り返ることなく、そのまま半分だけ湯のはいった浴槽に体を浸けた。
背後では、優衣が体を洗っている様子が分かる。
今、薄暗い浴室に、俺と優衣が居る。
心臓が張り裂けそうなぐらい、鼓動が高鳴っているのを感じている。
女の子が体を洗う時間って、長いんだな。いや、俺が緊張しまくっているからそう感じるだけなのか……。
「ねえ、翔太! シャンプーってどっち?」
「ああ、シャンプーなら……」
俺は無意識に、後ろを振り返ってしまった。
当然目に飛び込んでくる、優衣の裸身……。
「……ぎぃやぁぁぁぁーーー!」
大声で叫んだのは、俺の方だった。
優衣は……優衣は全身血まみれだったのだ!
「……見ぃーたーなー……」
頬にも大きな切り傷が横一線、そこから真っ赤な血液が溢れだしている。
よく見るとあちこちに同様の傷が存在し、幾筋もの赤い滴をその肌に這わせ、特に下半身は鮮血で真っ赤に染まっていた。
優衣はにやりと不気味な笑みを浮かべ、こちらに迫ってくる。
「絶対、見ないでって言ったのにぃー……」
「ひっ、ひいいぃーー! ゆ、優衣! 落ち着け、正気に戻れ!」
慌てているのは俺の方だったが、冷静な言葉など発せられようはずが無い。
「こぉろぉしぃてやるぅうー……」
血まみれの両手を突き出し、こちらに迫ってくる優衣。
「ぎっ、ぎえええぇぇー! 来るなあぁーー!」
俺は必死に両手を前にかざし、それ以上の接近を防ごうとする。しかし、優衣はそのおぞましい笑みを浮かべたまま怯むことがない。
「よぉくぅも……きゃあぁっ!」
……彼女の叫び声と共に、一瞬、時間が停止した。
そして映画のスローモーションの様に、優衣の体がこちらに倒れ込んでくる。
その表情は、明らかに今までとは異なるものだった。
瞬時に状況が変わったことを察知した俺。
逃げ腰だった体勢を元に戻し、彼女の体を迎え入れる。
そしてすんでのところで、俺は優衣を受け止めた。
腰から下はバスタブの中という、不安定な足場ながら、なんとか踏ん張って倒れる事を防いだ。
十数秒間、そのまま固まる。
「……怖かったぁ……」
ようやく優衣が言葉を発した。
「まったく……イタズラするから、バチがあたったんだよ」
この時には、俺はもう優衣が血まみれに見えた理由を悟っていた。
抱きしめた両手に伝わる感触から、彼女が何か着ているのが分かったのだ。
「ごめん……でも、リアルだったでしょ?」
冷静さを取り戻したのか、優衣は少し体を俺から離し、照れたような笑顔を浮かべていた。
相変わらず切り傷の残る……いや、切り傷に見えるシールを貼ったその顔は、それでもすごく可愛らしく見えた。
俺はそのシールを剥ぐと、そっと彼女の額にキスをした。
優衣は、
「ばれちゃったならしょうがないわね……髪を洗う間、ちょっと待ってね」
とだけ言うと、またシャワーの方に戻っていった。
血まみれの格好のまま髪を洗う美少女。
ものすごく違和感ありまくりの光景なんだけど、俺は飽きもせずその様子をじっと見つめていた。
「……もう、ジロジロ見ないでよ。恥ずかしいじゃない」
俺の視線に気付き、顔を赤らめて抗議する優衣。
「俺を驚かそうとしたバツだよ。いいじゃないか、裸ってワケじゃないんだし」
「そうだけど……もうっ!」
ちょっとすねたところもまた、俺の目には可愛らしく映った。
……約十分後、俺と優衣は、同じバスタブの中に、ぴったりと並んで座っていた。
さっきまでの興奮とはまた違った……今度は幸福な意味での鼓動の高鳴りを感じた。
優衣は相変わらず血まみれボディースーツのまま。俺は腰にタオルを巻いている。
「翔太、さっきは驚いた?」
「そりゃ、驚くさ。本当にワケが分からなかった。ものすごくリアルだし。それ、雅人が作ったんだろう?」
「その通り。『翔太をビックリさせてやりたいから』って言ったら、喜んで作ってくれたわ」
「あいつ……」
今考えたら、俺たちを驚かそうと優衣の生首を作ったのも雅人だ。自分の特異な美術センスを人を驚かせるために使おうなんて、とんでもない奴だ。
「でもこれ、凄いよね。ぱっと見、本当に血が噴き出した跡みたい。流れる鮮血とか、血しぶきまで本物そっくりに見えるね。水に濡れても落ちないし」
「ああ。心臓止まるかと思ったよ。それを見る寸前まで、裸でいるものと思い込んでテンパってたから、余計にギャップが大きすぎて混乱した」
「フフッ、計算通りね。……翔太、私が裸でないって分かって、がっかりしてる?」
「いや……どちらかっていうと、ほっとした。本当に裸だったら……たぶん、今もまともに会話できてなかったと思う……っていうか、なんでそんな物持ってきてたんだ? 家に帰ってないから、朝から持ってきてたって事だよな?」
「うん。こういう展開になるかもって、考えてたから……」
そうなのか? だとしたら、あの「一緒にお風呂入ろっか?」発言は、準備していた台詞っていうことになる。
「私、たまに自分で、どうして私はこんなのかなって、悩む時があるの」
「こんなのって?」
「今日だって、翔太を大変な目に遭わせたし。さっきも、これ着てビックリさせちゃったし。それを楽しいって思う自分がいるの」
なんだ、優衣、自覚していたのか。
優衣には、俺を虐げる「Sモード」と、可愛らしい「女の子モード」がある。
今の彼女は「女の子モード」で、「Sモードの自分」を反省しているのだ。
「まあ、それが優衣の個性だしな。俺も、虐げられて楽しいって訳じゃ無いけど、例えば、優衣が他の男をいじめてたら、それはそれで嫉妬すると思う」
「そう? それって、乱暴な私でも、嫌いじゃないってこと?」
「……まあ、嫌いにはならないな。嬉しくはないけど」
「そうようね、嬉しくはないわよね……でも、私、たぶんまた翔太にいろいろ無茶なこと言っちゃうかもしれない。それでも、いい?」
「……仕方ないかな。それで俺の彼女でいてくれるのなら」
「よかった。これで安心して、一緒にいられるね」
それは、またSモードに突入するけど、いいよねって言っているのか?
うーん、それでも受け入れるしかないか。
「私って、恋愛経験が少ない……っていうか、ないから……どうしていいか、分からなくなるときがあるの。今日も、かなり悩んだし」
「悩んだ? 何を?」
「一緒にお風呂、入るかどうか」
「へえ、悩んだんだ。俺はてっきり、最初っから策略立ててたのかと思った」
「策略ってなによ。私だって真剣に悩んだんだからね」
う、ちょっとコマンド選択を誤ったみたいだ。今、彼女は「女の子モード」なのだから、優しく接してあげねば。
「ごめん。でも、嬉しいよ。そんなに考えてくれてるなら」
「うん。翔太、優しいね。で、さっきの話だけど、単に恥ずかしいっていうだけじゃなく、ちょっと怖かった」
「怖い? 俺が怒るとか……それか、襲いかかるとか考えたのか」
「ううん、そうじゃなくて、二人の関係が壊れるんじゃないかなって」
「……そんなので、壊れるかな」
「それが分からなくて……私たち、幼なじみみたいに、小さい頃からよく遊んできたじゃない。この年になって、恋人とかって意識して……」
「……そうだな。俺も最初、一言もしゃべれなかったから。今ぐらいが一番いいのかな。これでも結構、どきどきしてるよ」
「そうよね。ボディースーツ着てるとはいえ、一緒に並んでお風呂に入っているんだもんね。すごい進展だわ」
優衣の顔は赤くなっている。それはのぼせたせいじゃなく、いまの雰囲気によるものみたいだ。
残念なのは、それを血まみれのボディースーツを着たまましゃべってる事なんだけど。
「まあ、二人でちょっとずつ進んでいったらいいんじゃないかな。俺、今のこの状態でも十分嬉しいし、それに……」
「それに?」
「……ずっと一緒にいられたら、それでいいかなって思っている」
「……ありがとう。今日、勇気を出して一緒にお風呂に入って、良かった……」
心なしか、優衣は涙を浮かべているようにも見えた。
「……なんだか、のぼせてきちゃった。そろそろ出ようかな……」
そう呟きながら立ち上がる優衣。
その刹那、鮮血ペイントだらけのそのボディースーツが、するり、と彼女の体から脱落した。
……一瞬、何が起こったのか分からなかった。
きょとん、とした表情の優衣。
俺の目の前には、今度こそ正真正銘、一糸まとわぬ黒髪の美少女――。
数秒間の時間停止。
「きっ……キィヤアアアァァァァ!」
すさまじい金切り声と共に、俺の顔面に向かってスマッシュフックが飛んでくる。
「ゴファッ!」
彼女の裸身に見入っていた俺は、それをかわすことができず、モロに食らった。
「何て事してくれるのよ! 向こう向いてよ、変態!」
「い、いや、不可抗力だ! 俺は何にもしてないだろう?」
大慌てで弁明しながら壁の方を向く。
「うそ、ボディースーツか突然落ちるなんて、おかしいじゃない! 何か仕込んでなきゃ……」
そこで優衣は言葉を詰まらせた。
そうか、これは雅人の仕業だ! あの野郎、二段ドッキリを仕掛けていやがった!
あどけない顔をしてとんでもない奴だ、これは今度会ったときにたっぷり褒めて……いや、懲らしめてやらねば!
「でも、私の裸、じっと見つめたじゃない! やっぱり許せない! この変態!」
「いや、さっきはあまりの事にビックリして、固まっただけ……ぐえぇ!」
俺は突然の呼吸困難に呻いた。
優衣が背後から、スリーパーホールドを掛けてきたのだ!
「Sモード」全開の彼女。これがホントの裸締め。……いや、シャレを言っている場合ではなかった!
「記憶をぉー、失えぇっ!」
かけ声と共に、さらにきつく首を絞めてくる!
「うっ……うぐぐっっ……ぐっ……」
ま、マジで、死ぬ……。
俺は薄れゆく意識の中で、彼女の胸が自分の背中に当たっていることを、僅かに幸せに感じていた。
俺って、Mなのかな……。
その後、なんとかなだめて機嫌が直った彼女を、風呂から出た後、無事家まで送り届けた。
「今日、楽しかったね」
別れ際、赤くなりながら笑顔でそう言って、周囲に誰も居ない事を確認した後、彼女の方からキスをしてくれた。
恋愛って、難しいけど、楽しいな。
けど、翌日、そんな気分を吹き飛ばす、大事件が起きた。
月曜日、放課後の視聴覚室。いつも通り、ちょっと遅れ気味にこの部屋に来た俺と優衣。するとそこには、泣きそうな顔で二人を待っていた雅人と美玖がいた。
前にケンカしていたときとは違い、並んで座っているにもかかわらず、重苦しい雰囲気に包まれている。
「どうしたの? 深刻な顔をして」
優衣も不審がっている。
雅人がこちらを見て、一瞬ためらった後、その重い口を開いた。
「実は……あの……すみません、週末に撮影した映像のメモリカードと、ビデオカメラ、全部盗まれたんです……」
……えええええーーっ!
あれだけ苦労して撮影したあの映像が……全部?
優衣は一瞬、彼の言葉の意味が分からなかったよでうで、きょとんとしていた。
が、その意味を理解した途端、さすがの彼女も立ちくらみをおこしたのか、へなへなと近くにあった椅子に座り込んでしまった。
実際のところ、もうほとんど撮影が終わっていて、あとは若干の撮り残しと、映像を編集した後に必要になる撮り直しが必要なだけだ。
もちろん、その後の編集作業なんかに時間はかかるけど、あやかし山での撮影はあまり残っていない。少なくとも、今日みたいな派手なアクションシーンは、もうない。
ちょっと寂しい気もするが、安堵感の方が強いかな。
麓の神社で俺と優衣、雅人と美玖の二手に分かれて、その日は帰ることになった。
撮影がうまくいったため、上機嫌の優衣。
この後、一緒に風呂に入るという約束に、ドキドキしっぱなしの俺。
本当は半信半疑だったのだが、優衣は俺の家まで来てくれた。
両親は不在。その事を彼女も知っている。
「おじゃまします……じゃ、体も汚れていることだし、さっそくお風呂、入っちゃおうか」
おおっ、なんて積極的なんだ! これは、ひょっとして、本当に……。
とりあえず、二人で脱衣所の側まで行く。
しかし、
「恥ずかしいから……翔太、先に入ってて」
と言われてしまう。うっ、やっぱり。
こう言われたら、そうするしかないではないか。
俺が一人で風呂に入っている最中に、「やっぱり気が変わった」とか言って、一人で自分の家に帰る可能性だって大いにある。
まあ、けど、それはそれで仕方がない。優衣といっしょにお風呂、なんて、夢物語だったんだ……。いや、けど、ひょっとしたら……。
期待と不安の入り交じる中、俺は浴室に入った。
バスタブに湯を溜め始める。
一応、自分の体を洗っておく。優衣、遅いな、ひょっとして、もう帰ったかな……。
「翔太、もう入っていっていい?」
「あ、ああ。いいよ」
うおおおおっ! 本当に来る気だ!
どうしよう、どうしよう!
別に俺が慌てることないか。約束してたんだから、堂々と、当たり前のように待っていればいいんだ。
そのとき、パチン、と電気が消えた。
そりゃそうか、優衣は恥ずかしいに違いないんだから。
しかし、浴室には窓が付いていて、外はまだ夕方だから、たぶん表情が分かるぐらいの光量はある。つまり十分明るい。本当に優衣は来るのか。
ガラガラガラ、と脱衣所の扉が開く。
そこに優衣が入ってくる。
浴室と脱衣所は磨りガラスの扉で隔てられているだけなので、暗いながらもぼんやりと優衣の体が見える。もちろん、今はまだ服を来ているが、これから脱ぎ始めるはずだ。
「翔太、向こう向いてて。絶対にこっち見ちゃ、だめだよ。もし見たら、帰るからね」
はい、見ません。
向こうからも、俺が脱衣所の方を見ているかどうかぐらい分かるはずだから、ここはウソは付けない。俺はシャワーを浴びながら、その時を待っていた。
ものすごく長く感じた、その時間。
パタン、という音と共に、優衣が入ってくるのが分かった。
「ふう、お待たせ。そのまま、こっち向いちゃだめだよ。じゃ、約束通り、背中洗ってあげるね。このスポンジ、使えばいいのかな」
優衣の声だ、当たり前だが。
ひょっとして入ってきたのは別人なんじゃないか、っていう変な疑いを持っていたので、ちょっとほっとする。
一応、俺は礼儀として? 腰にはタオルを巻いておいたので、彼女も俺の裸をそれほど意識しなくて済む……はずなんだか、どうなんだか。
数秒後、背中をスポンジで擦られている感覚に、ピクン、と体が反応する。
丁寧に、背中全体が優しく擦られる。ちょっと気持ちいいが、それをじっくりと感じられる余裕がない。今、冷静でいようと必死だった。
「ふう、終わった。じゃ、流すね」
優衣はシャワーで、泡だらけの俺の背中を流してくれた。
「よし、オッケー! じゃあ、私はもう出ようかな」
……ええー、そんなあ!
「それとも、もうちょっと、いっしょにいた方がいい?」
「……ああ」
なぜか俺は、ほとんどしゃべる事ができない。
「そう? うん、じゃあ……私も体洗いたいから、翔太はそのまま、バスタブの中に入っていてくれる?」
「……ああ」
くっ……うまく言葉が出ない!
俺は振り返ることなく、そのまま半分だけ湯のはいった浴槽に体を浸けた。
背後では、優衣が体を洗っている様子が分かる。
今、薄暗い浴室に、俺と優衣が居る。
心臓が張り裂けそうなぐらい、鼓動が高鳴っているのを感じている。
女の子が体を洗う時間って、長いんだな。いや、俺が緊張しまくっているからそう感じるだけなのか……。
「ねえ、翔太! シャンプーってどっち?」
「ああ、シャンプーなら……」
俺は無意識に、後ろを振り返ってしまった。
当然目に飛び込んでくる、優衣の裸身……。
「……ぎぃやぁぁぁぁーーー!」
大声で叫んだのは、俺の方だった。
優衣は……優衣は全身血まみれだったのだ!
「……見ぃーたーなー……」
頬にも大きな切り傷が横一線、そこから真っ赤な血液が溢れだしている。
よく見るとあちこちに同様の傷が存在し、幾筋もの赤い滴をその肌に這わせ、特に下半身は鮮血で真っ赤に染まっていた。
優衣はにやりと不気味な笑みを浮かべ、こちらに迫ってくる。
「絶対、見ないでって言ったのにぃー……」
「ひっ、ひいいぃーー! ゆ、優衣! 落ち着け、正気に戻れ!」
慌てているのは俺の方だったが、冷静な言葉など発せられようはずが無い。
「こぉろぉしぃてやるぅうー……」
血まみれの両手を突き出し、こちらに迫ってくる優衣。
「ぎっ、ぎえええぇぇー! 来るなあぁーー!」
俺は必死に両手を前にかざし、それ以上の接近を防ごうとする。しかし、優衣はそのおぞましい笑みを浮かべたまま怯むことがない。
「よぉくぅも……きゃあぁっ!」
……彼女の叫び声と共に、一瞬、時間が停止した。
そして映画のスローモーションの様に、優衣の体がこちらに倒れ込んでくる。
その表情は、明らかに今までとは異なるものだった。
瞬時に状況が変わったことを察知した俺。
逃げ腰だった体勢を元に戻し、彼女の体を迎え入れる。
そしてすんでのところで、俺は優衣を受け止めた。
腰から下はバスタブの中という、不安定な足場ながら、なんとか踏ん張って倒れる事を防いだ。
十数秒間、そのまま固まる。
「……怖かったぁ……」
ようやく優衣が言葉を発した。
「まったく……イタズラするから、バチがあたったんだよ」
この時には、俺はもう優衣が血まみれに見えた理由を悟っていた。
抱きしめた両手に伝わる感触から、彼女が何か着ているのが分かったのだ。
「ごめん……でも、リアルだったでしょ?」
冷静さを取り戻したのか、優衣は少し体を俺から離し、照れたような笑顔を浮かべていた。
相変わらず切り傷の残る……いや、切り傷に見えるシールを貼ったその顔は、それでもすごく可愛らしく見えた。
俺はそのシールを剥ぐと、そっと彼女の額にキスをした。
優衣は、
「ばれちゃったならしょうがないわね……髪を洗う間、ちょっと待ってね」
とだけ言うと、またシャワーの方に戻っていった。
血まみれの格好のまま髪を洗う美少女。
ものすごく違和感ありまくりの光景なんだけど、俺は飽きもせずその様子をじっと見つめていた。
「……もう、ジロジロ見ないでよ。恥ずかしいじゃない」
俺の視線に気付き、顔を赤らめて抗議する優衣。
「俺を驚かそうとしたバツだよ。いいじゃないか、裸ってワケじゃないんだし」
「そうだけど……もうっ!」
ちょっとすねたところもまた、俺の目には可愛らしく映った。
……約十分後、俺と優衣は、同じバスタブの中に、ぴったりと並んで座っていた。
さっきまでの興奮とはまた違った……今度は幸福な意味での鼓動の高鳴りを感じた。
優衣は相変わらず血まみれボディースーツのまま。俺は腰にタオルを巻いている。
「翔太、さっきは驚いた?」
「そりゃ、驚くさ。本当にワケが分からなかった。ものすごくリアルだし。それ、雅人が作ったんだろう?」
「その通り。『翔太をビックリさせてやりたいから』って言ったら、喜んで作ってくれたわ」
「あいつ……」
今考えたら、俺たちを驚かそうと優衣の生首を作ったのも雅人だ。自分の特異な美術センスを人を驚かせるために使おうなんて、とんでもない奴だ。
「でもこれ、凄いよね。ぱっと見、本当に血が噴き出した跡みたい。流れる鮮血とか、血しぶきまで本物そっくりに見えるね。水に濡れても落ちないし」
「ああ。心臓止まるかと思ったよ。それを見る寸前まで、裸でいるものと思い込んでテンパってたから、余計にギャップが大きすぎて混乱した」
「フフッ、計算通りね。……翔太、私が裸でないって分かって、がっかりしてる?」
「いや……どちらかっていうと、ほっとした。本当に裸だったら……たぶん、今もまともに会話できてなかったと思う……っていうか、なんでそんな物持ってきてたんだ? 家に帰ってないから、朝から持ってきてたって事だよな?」
「うん。こういう展開になるかもって、考えてたから……」
そうなのか? だとしたら、あの「一緒にお風呂入ろっか?」発言は、準備していた台詞っていうことになる。
「私、たまに自分で、どうして私はこんなのかなって、悩む時があるの」
「こんなのって?」
「今日だって、翔太を大変な目に遭わせたし。さっきも、これ着てビックリさせちゃったし。それを楽しいって思う自分がいるの」
なんだ、優衣、自覚していたのか。
優衣には、俺を虐げる「Sモード」と、可愛らしい「女の子モード」がある。
今の彼女は「女の子モード」で、「Sモードの自分」を反省しているのだ。
「まあ、それが優衣の個性だしな。俺も、虐げられて楽しいって訳じゃ無いけど、例えば、優衣が他の男をいじめてたら、それはそれで嫉妬すると思う」
「そう? それって、乱暴な私でも、嫌いじゃないってこと?」
「……まあ、嫌いにはならないな。嬉しくはないけど」
「そうようね、嬉しくはないわよね……でも、私、たぶんまた翔太にいろいろ無茶なこと言っちゃうかもしれない。それでも、いい?」
「……仕方ないかな。それで俺の彼女でいてくれるのなら」
「よかった。これで安心して、一緒にいられるね」
それは、またSモードに突入するけど、いいよねって言っているのか?
うーん、それでも受け入れるしかないか。
「私って、恋愛経験が少ない……っていうか、ないから……どうしていいか、分からなくなるときがあるの。今日も、かなり悩んだし」
「悩んだ? 何を?」
「一緒にお風呂、入るかどうか」
「へえ、悩んだんだ。俺はてっきり、最初っから策略立ててたのかと思った」
「策略ってなによ。私だって真剣に悩んだんだからね」
う、ちょっとコマンド選択を誤ったみたいだ。今、彼女は「女の子モード」なのだから、優しく接してあげねば。
「ごめん。でも、嬉しいよ。そんなに考えてくれてるなら」
「うん。翔太、優しいね。で、さっきの話だけど、単に恥ずかしいっていうだけじゃなく、ちょっと怖かった」
「怖い? 俺が怒るとか……それか、襲いかかるとか考えたのか」
「ううん、そうじゃなくて、二人の関係が壊れるんじゃないかなって」
「……そんなので、壊れるかな」
「それが分からなくて……私たち、幼なじみみたいに、小さい頃からよく遊んできたじゃない。この年になって、恋人とかって意識して……」
「……そうだな。俺も最初、一言もしゃべれなかったから。今ぐらいが一番いいのかな。これでも結構、どきどきしてるよ」
「そうよね。ボディースーツ着てるとはいえ、一緒に並んでお風呂に入っているんだもんね。すごい進展だわ」
優衣の顔は赤くなっている。それはのぼせたせいじゃなく、いまの雰囲気によるものみたいだ。
残念なのは、それを血まみれのボディースーツを着たまましゃべってる事なんだけど。
「まあ、二人でちょっとずつ進んでいったらいいんじゃないかな。俺、今のこの状態でも十分嬉しいし、それに……」
「それに?」
「……ずっと一緒にいられたら、それでいいかなって思っている」
「……ありがとう。今日、勇気を出して一緒にお風呂に入って、良かった……」
心なしか、優衣は涙を浮かべているようにも見えた。
「……なんだか、のぼせてきちゃった。そろそろ出ようかな……」
そう呟きながら立ち上がる優衣。
その刹那、鮮血ペイントだらけのそのボディースーツが、するり、と彼女の体から脱落した。
……一瞬、何が起こったのか分からなかった。
きょとん、とした表情の優衣。
俺の目の前には、今度こそ正真正銘、一糸まとわぬ黒髪の美少女――。
数秒間の時間停止。
「きっ……キィヤアアアァァァァ!」
すさまじい金切り声と共に、俺の顔面に向かってスマッシュフックが飛んでくる。
「ゴファッ!」
彼女の裸身に見入っていた俺は、それをかわすことができず、モロに食らった。
「何て事してくれるのよ! 向こう向いてよ、変態!」
「い、いや、不可抗力だ! 俺は何にもしてないだろう?」
大慌てで弁明しながら壁の方を向く。
「うそ、ボディースーツか突然落ちるなんて、おかしいじゃない! 何か仕込んでなきゃ……」
そこで優衣は言葉を詰まらせた。
そうか、これは雅人の仕業だ! あの野郎、二段ドッキリを仕掛けていやがった!
あどけない顔をしてとんでもない奴だ、これは今度会ったときにたっぷり褒めて……いや、懲らしめてやらねば!
「でも、私の裸、じっと見つめたじゃない! やっぱり許せない! この変態!」
「いや、さっきはあまりの事にビックリして、固まっただけ……ぐえぇ!」
俺は突然の呼吸困難に呻いた。
優衣が背後から、スリーパーホールドを掛けてきたのだ!
「Sモード」全開の彼女。これがホントの裸締め。……いや、シャレを言っている場合ではなかった!
「記憶をぉー、失えぇっ!」
かけ声と共に、さらにきつく首を絞めてくる!
「うっ……うぐぐっっ……ぐっ……」
ま、マジで、死ぬ……。
俺は薄れゆく意識の中で、彼女の胸が自分の背中に当たっていることを、僅かに幸せに感じていた。
俺って、Mなのかな……。
その後、なんとかなだめて機嫌が直った彼女を、風呂から出た後、無事家まで送り届けた。
「今日、楽しかったね」
別れ際、赤くなりながら笑顔でそう言って、周囲に誰も居ない事を確認した後、彼女の方からキスをしてくれた。
恋愛って、難しいけど、楽しいな。
けど、翌日、そんな気分を吹き飛ばす、大事件が起きた。
月曜日、放課後の視聴覚室。いつも通り、ちょっと遅れ気味にこの部屋に来た俺と優衣。するとそこには、泣きそうな顔で二人を待っていた雅人と美玖がいた。
前にケンカしていたときとは違い、並んで座っているにもかかわらず、重苦しい雰囲気に包まれている。
「どうしたの? 深刻な顔をして」
優衣も不審がっている。
雅人がこちらを見て、一瞬ためらった後、その重い口を開いた。
「実は……あの……すみません、週末に撮影した映像のメモリカードと、ビデオカメラ、全部盗まれたんです……」
……えええええーーっ!
あれだけ苦労して撮影したあの映像が……全部?
優衣は一瞬、彼の言葉の意味が分からなかったよでうで、きょとんとしていた。
が、その意味を理解した途端、さすがの彼女も立ちくらみをおこしたのか、へなへなと近くにあった椅子に座り込んでしまった。