第16話 逃走

文字数 4,822文字

 清水刑事は、ただひたすらに走っていた。

 抱えた重い泥だらけの麻袋により、彼女の服も黒く汚れていた。
 しかし、そんな事を気にする余裕など、あるはずもなかった。
 なぜあの子達が……いや、そんなことよりも、何とかしてこの、自分の運命を大きく狂わせる荷物を処分しなければ……そう考えていたに違いない。

『苦しい……』
 ぞくん、と彼女に戦慄が走った。
 若い女性の呻くような声が、自分の耳に聞こえてきたからだ。
 空耳……と、彼女は思った。

『痛い……苦しい、苦しい……』
 しかしその声は、次第に大きく、はっきりと彼女の耳に聞こえてくる。
(そんなばかな……どうして女の声が? 周りには誰もいないのに)
『呪ってやる……恨んでやる……』
 なおも聞こえるその不気味な声に、彼女は恐怖し、足元がふらつき、その場に転倒した。
 重い麻袋が、自分の目の前に転がる。

(いけない、これを今失うわけにはいかない!)
 彼女はそんな風に考えたのか、震える手でそれをまた拾い上げた。
『いやだ、いやだ……私は死にたくなかったのに……』
 追い打ちをかけるように、その声は彼女の頭に響いて来る。
(幻聴だ……これは恐れを抱いた私だけに聞こえる、まやかしだ。こんな事で……自分自身の人生をめちゃくちゃにすることはできない!)
 彼女は再びその荷物を抱えたままで、走り出そうとした。

 しかしその時。
 目の前に、何か白い影が見えた。
(人……? まずい、見られた……)
 濃い霧の向こうに、誰かいる。

 しかしそれはどういうわけか、はっきりとした形が分からない。
 いや、少しずつその姿が浮かび上がってくる。
 その正体が分かったとき、彼女は恐怖と驚きで目を大きく見開いた。
 白い服を着た、首から上が存在しない女性。
 その体躯には、所々、鮮血が付着している。特に襟首のあたりは真っ赤に染まっていた。
「い……いやあああぁぁ!」
 彼女は悲鳴を上げると、その白い影とは反対の方向に懸けだした。
 途中何度も転びながら。それでも、麻袋は抱えたままで。

(これは悪夢だ……幻影だ……こんなこと、あるわけがない……私は幽霊なんて信じない。これは私の弱い心が見せる、幻だ……)
 彼女はもはや、自分がどこを走っているのか分からなかった。
 ただ、逃げるしかない。
 あの少年少女たちから、そして自分自身が生み出した幻影から。
 やがてぬかるみに足を取られ、またしても転倒。今度は、右足の靴が脱げた。
 捻挫をしたのか、足首に強烈な痛みが走る。
 長髪のウイッグが取れて落ち、大きく乱れて地面に広がるが、拾い直す余裕がない。
 それでも、麻袋は離さない。
 これだけは……これだけは、なんとしても他の人間に奪われるわけにはいかない。

 泣き顔のままその荷物を抱え、もう一度立ち上がった。
 しかし、次の瞬間。
「ひっ……ひいいいぃー!」
 彼女は後方に、尻餅をつくように倒れ込んだ。
 ほんの数メートル先に、首のない少女が、両手をこちらに伸ばして立っていたのだ!

『憎い、憎い……殺してやる……』
 また頭の中にあの声が響いてくる。
「いやあああぁぁ! もう来ないでえぇぇ!」
 彼女は絶叫し、ついに麻袋を斜面下に向かって勢いよく放り投げた。
 十数メート下で、ボサッという音が聞こえる。しかしそこはもう、霧の向こう側だった。

「ほら、もう、ここにはあなたの頭はないわ……もう、来ないで……」
 しかし、その首のない少女は、歩みを留めることなく、ゆっくりと近づいてくる。
『私の……頭……返して……』
「ひっ……もう、ここにはないわ! 向こうよ、向こう!」
『返して……』
「ひいいぃ!」
 彼女は短く叫ぶと、半狂乱になりながら、また走り始めた。
 首のない少女は、それ以上ついて来ない。
 しかし、あの不気味な声は続けて聞こえる。

(なんなの、やめて、あなたが悪い、私は正しい、死んで当然、殺されて当然、当然の報い、嫌、ヤメテ、クルナ、コナイデ、イヤ、クルナ、クルナ、クルナ、クルナクルナクルナクルナクルナクルナクルナクルナクルナクルナクルナクルナクルナクルナクルナ…………)

 女は、ボロボロになりながら道無き道を走り続けた。
 気がつくと、元の遊歩道に戻っており、そしてその事に幾分安堵しながら、ふもとの綾樫神社まで一気に駆け下りた。
 境内の大きな楠にもたれ、粗い呼吸を繰り返す。

「清水さん……どうしたんですか、そんなに泥だらけになって」
 ビクっと体を硬直させながら、その声の方を見つめる。
 そこに立っていたのは、普通に首のある少女……優衣だった。

「……なんだ、あなたなの……ううん、なんでもないわ。ちょっと転んだだけ。みっともないわね。それより……よく私だと分かったわね」
 少し余裕ができなのか、清水刑事はほんのわずか笑顔を浮かべながらそう呟いた。
「……ずいぶん慌てていたみたいですね……何があったんですか?」
「……変な幻を見ていたみたい。でも、もう大丈夫だわ」
「そうなんですか。……でも、さっきの袋、どうしたんですか? あんなに大事そうに抱えていたのに……」
 優衣がまじめな表情でそう問いただす。

「……ああ、あれね。あれは、そう……ツチノコの死骸が入っていたの。だから、他の人に取られたくなくて、慌てて走ったのよ」
「ツチノコ……大発見じゃないですか。だから変装までして……慌ててたんですね。でも、だとしたらすごくもったいないじゃないですか」
「……ええ、でも、落としちゃった物は仕方がないわね」
 もうどうでもいい、とでも言いたげに、彼女は投げやりに答える。

「……本当にあれ、ツチノコだったんですか? 清水さん……」
 その声は、別の方向から聞こえた。
 険しい表情でそちらを見つめる女性刑事。
 そこには雅人、美玖、そして俺がいた。
 三人とも、あちこち泥で汚れている。しかし彼女にはそれを不審に思う余裕がなかった。

「……ええ、そうよ。ツチノコよ。まったく、惜しいことをしたわ」
 彼女はその無理のある主張を覆さない。
「だったら、また俺たちが探します。絶対に見つけて見せます」
 俺はニコリともせず、まじめに答えた。
「だめ! よけいな事はしないで! あれは山に返すべきものなの!」
 彼女は大木にもたれかかったまま、声を荒げた。

「そうはいかないな。今度は俺も捜索に協力する」
 その聞き覚えのある野太い声に、彼女はビクッと反応した。
 恐る恐る、声の方向を見つめる清水刑事。
「……二階堂さん……」
 そこにいるはずのない、同僚刑事だった。
「どうして、こんなところに……」
「優衣君から通報があったんだよ。『私たち、とんでもない事件に巻き込まれた』ってね。で、半信半疑で来てみたら、今のこの状況ってわけさ」
 彼の言葉こそ少しおどけていたが、その表情はまじめだった。

 この五人の異常な空気に、彼の直感が「本当にとんでもないこと」であると反応しているのだろう。
「優衣君、もう一度さっきの映像、見せてくれるか?」
 彼のその言葉に優衣は小さく頷くと、リュックに入れてあった小型の機械を取り出した。

 小型プロジェクター。それを手際よく捜査すると、近くの建物の壁面に、ある映像を映し出した。
 それは、例の望遠カメラに映った、怪しい女が雅人の部屋に侵入していく様子、そして彼女がカーテンの隙間からから一瞬顔を覗かせている映像だった。

 最初美玖の部屋で見たときは、俺しか同一人物であると見分けることができなかった。しかし今の清水刑事は、長髪のウイッグこそ外れているが、その白い顔、真っ赤な口紅、そしてサングラスを外したその目元と、誰が見ても映像と同じだと判別できる。
 彼女の顔から、みるみる血の気が失せていく。

「清水……これはどういうことだ? お前は一体何をしているんだ?」
 二階堂刑事が厳しい口調で問いただす。
 しかし彼女は、一言も発することができない。
「それから……これは今日撮影した映像です」
 優衣はややためらいがちに……それでも最終的には、毅然とした様子で、その映像を映し出した。

 園芸用の金属スコップで山中の地面を一心不乱に掘り返す清水刑事。そしてそこから掘り出した、バレーボールほどの物体が入った麻袋。
「うっ……あっ……」
 清水刑事は、もう呻くことしかできない。
 俺たちに見つかり、一言も発せず逃走する彼女。その様子も鮮やかに映し出された。
 そして場面は移動する。
 次に映ったのは、清水刑事が絶叫し、麻袋を斜面下に向かって勢いよく放り投げる映像だった。

「ほら、もう、ここにはあなたの頭はないわ……もう、来ないで……」
 画面の中の彼女が言い放った、決定的な言葉。
 この場面を見た清水刑事は、ついにガクガクと震え始めていた。
 映像に収められていたのは、ここまでだった。
 しかし、これらの状況証拠は、ある恐ろしい疑いを彼女に対して抱かせた。
「おまえ……まさか……あの袋には、何を入れていたんだ!」
 二階堂刑事の言葉は、怒りに震えていた。
 その時だった。

 俺たちの集まっている場所から二十メートルほど離れた山の斜面で、なにやら、ガサガサっと音がした。
 全員、その方向を注目する。
 何かが、その斜面を転がってくる。
 それはザザザッと滑り、この神社の敷地内に落ちて、数メートル転がって止まった。
 その物体を見て、全員が凍り付いた。
 たった今、映像で映し出された……清水刑事が放り投げた、あの麻袋だったのだ。

「まさか、このタイミングでこの場所に落ちてくるとはな……どうやら、捜索する手間が省けたようだ」
 二階堂刑事は平静を装って、その麻袋に近づいて行った。
 そしてゆっくりと腰を下ろし、きつく紐で結ばれたその袋の口を開け始めた。
 その様子を見た清水刑事は、ポケットから何かを取り出した。
 銀色にぎらりと鈍く輝く、ほんの小さなその物体……バタフライナイフの刃先を、彼女は、自分の首筋に向けていたのだ。

 しかし次の瞬間、
「きゃあっ!」
 小さな悲鳴を上げ、彼女はそのナイフを取り落としていた。
 秘技、『フラウィング・ゲット』。
 なんのことはない、五百円玉を勢いよく狙った箇所に投げつけるだけの技。
 優衣が命名し、俺が数年間、何十枚も五百円玉を失いながら練習した結果、距離二十メートル以内なら半径五センチの的に正確に当てられるほど上達した一発芸。それが清水刑事の右手を直撃したのだ。
 俺はこれ以上ないほどの勢いで走っていき、彼女の細い腕を捻りあげた。

 ――小学校五年生の夏、優衣は変質者に乱暴されそうになった。
 彼女は必死で逃げ、なんとか事なきを得たが、そのときのショックは大きかった。
「俺がおまえを、ずっと護り続ける」と――。

 今だと恥ずかしくて言えないその言葉がきっかけで、彼女は次第に元の活発な少女へと戻っていった。

 そして俺は必死に護身術の勉強をし、近所の道場にも通った。
 そこで覚えた技を、優衣本人に教えもした。
 自分の好きな女の子を護ろうと、何年も鍛錬を続けたその成果が、まさかこんな形で発揮されるとは……。

 如何に相手が格闘術を身につけた警察官であろうと、俺より体格の劣る、しかも女性。さらに気力もなくしていた彼女は、あっけなく身動きを封じられた。

「雅人、ナイフを拾え! 優衣、美玖、お前らはこっちを見るな!」
 清水刑事を動けなくしてから、俺は皆に指示を与える。
「伊達君、すまない。すぐ終わるから、そのまま彼女を取り押さえていてくれ」

 さすがにこんな状況でも、二階堂刑事は冷静だった。俺の堂に入った脇固めを確認して、任せても大丈夫だと判断したのだろう。
 しかし、そんな彼でも、幾重にもくるまれた布の最後の一枚を剥いだ瞬間は顔をしかめた。
 そしてそれをもう一度麻袋で隠し、ゆっくりと立ち上がった。

「……清水弘子、死体遺棄の現行犯で、逮捕する」
 手錠のかかる音、そして数秒遅れて清水刑事の慟哭が、あやかし山に響き渡った――。
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