第6章 映画とカタルシス

文字数 2,668文字

6 映画とカタルシス
 「カタルシス(Κάθαρσις)」は、ギリシア語で、「浄化」や「排泄」を意味し、ディオニュソス信仰に基礎を置くオルゲウス教に起源を持っている。彼らは、地上で肉体に閉じこめられた人間が、オルフェウスの奏でる天上の音楽によって、その魂が浄化されると説く。ピタゴラスはこれを受け、音楽=数学と捉え、数をアルケーとしている。一方、ヒポクラテスは、血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁という体内の四液の調和を重んじ、病的体液の排除、すなわち体内にたまった汚物の体外への排泄としてカタルシスを理解している。

 それらを踏襲し、アリストテレスは、『詩学』において、カタルシスを精神的な浄化と読み替える。ミメーシスの最高形態として悲劇を挙げ、それを観賞した観客の間にカタルシスが起きると述べている。悲劇には、(英雄であるからこそこうした苦悩に直面しなければならないのだという)正当さへの共感と(なぜ英雄がこんな目にあわなくてはならないのかという)不当さへの憐れみの相反する組み合わせがある。この感情の高まりと共に、鬱積していた情緒が発散され、魂が浄化される。アリストテレスはこの作用をカタルシスと呼ぶ。閉じこめられ、鬱屈とした感情解放するために、演劇空間は非日常的な場であることが保障され、そこで演じられるものには、現実空間よりもはるかに広い許容範囲のルールがなければならない。

 精神分析はこの考えを心理療法へと移動させる。抑圧された病的情動のしこりを想起・再体験することで、それを解放していく除反応をカタルシスと呼んでいる。現在では、精神分析だけでなく、心理面接や芸術療法、遊戯療法、自律訓練法、レクリエーション療法などもカタルシス効果の意義を認めている。

 ポーター映画のもたらすカタルシスは個人的と言うよりも、集団的である。それは劇場の中で、不特定多数で時空間を共有するからだけではない。神の死に基づく近代では、「大道徳」に代わって、テーオドール・W・アドルノが指摘するように、「小道徳」が支配的となる。これは共同体を強力に結び付けていく規範の弱体化をも意味する。人々は、その都度、モラル・ジレンマの中で判断していかなければならない。

 はっきりしない道徳による集団の中で生活をするといいうのはストレスとなる。こうした曖昧な倫理と誰もが直面している摩擦・葛藤では、かつてのような悲劇は困難である。しかし、古代アテナイの市民以上に、現代人には集団生活に伴うストレスが鬱積している。新たな社会のつながりを確認しつつ、カタルシスを感受することが求められる。映画世界は、カメラによる撮影とフィルムの編集のため、演劇以上に、非日常的であり、カタルシス効果の場としての条件を満たしている。ポーターは映画の持つそうしたカタルシス効果を引き出す。

 このカタルシスには「グルーミング(Grooming)」の効果がある。集団生活する動物は、ストレス解消のために、グルーミングを行う。サルであれば、それは毛づくろいである。

 各種の研究によれば、社会集団の大きさに比例して、グルーミングに費やされる時間も増加する。サルは不特定多数ではなく、家族であるとか、親しいものであるとかいつも決まったパートナーとの間で毛づくろいをし合う。このグルーミング仲間では、餌を見つけたり、敵が近づいてきたりした際に、合図を出し合っている。利他的行為はグルーミングが成立している間柄でなされるのであり、グルーミングは友好的な関係を形成・維持するための行為である。

 人間の現代社会の規模はサルの集団とは比較にならないほど巨大で、複雑に入り組んでいる。一対一の毛づくろいではストレスを発散するには不十分である。しかし、その反面、多種多様なコミュニケーションの方法も持っている。映画もその一つである。

 近代は人の移動がかつてないほど促進した時代である。欧州の農村の余剰人口が都市を目指す。そこは国内に限らない。伝統的な共同体は崩れ、新たな共同体が形成されていく。アメリカはまさにその最前線である。新大陸には、東アジアからの移民も急増している。19世紀末の合衆国の社会は対立・混乱し、20世紀を迎えると、こうした危機の再来を招かないための新秩序の構築が政治的課題となっている。

 ウィリアム・マッキンレー(William McKinley)の暗殺死に伴い、42歳のセオドア・ローズヴェルト(Theodore Roosevelt, Jr)が大統領に就任し、世論の「革新主義(Progressive Movement)」の声に押され、社会の改革を全米に誓う。素朴な社会ダーウィニズムやレッセフェールへの批判も高まり、「マックレーカーズ(Muckrakers)」と呼ばれるジャーナリストたちが企業の横暴や政治家の腐敗、都市住民の置かれた劣悪な環境を暴露し、社会に衝撃を与える。同時に、科学が明るい未来を約束しているという展望が信じられ、急激に科学技術の発展とその応用が促進している。

 1902年にウィルバー(Wilbur Wright)とオーヴィル(Orville Wright)のライト兄弟が初飛行に成功し、ヘンリー・フォード(Henry Ford)が自動車会社を設立したのは、ほんの一例である。その一方で、「棍棒外交(Big Stick Diplomacy)」で知られるこの若き大統領は中南米・カリブ海諸国をアメリカの裏庭と考え、海外進出に積極的に臨み、アメリカは帝国主義の道を歩んでいく。ポーターが映画を撮影していたのはこういうグルーミングの求められていた時代である。

 いずれの映画にもカタルシスがあるものの、『アメリカ消防夫の生活』と『大列車強盗』はスリルとサスペンスという点では共通しているが、大きな違いがある。前者の主人公が消防夫というヒーローであるのに対し、後者では、悪党の列車強盗団だという点である。しかも、警官もいささかマヌケに描かれている。ただ、たんに悪人が警官隊に撃ち殺されるだけならば、勧善懲悪にすぎない。また、悪漢小説、すなわちピカレスクのような社会批評の要素もない。

 しかし、最後のシーンによりこの作品からメッセージ性が消えてしまう。観客に銃を向けると観客は悲鳴をあげたけれども、それが映画だと思い出し、すなわちカタルシスのための現実を離れた非日常性を再確認し、思わず笑ったと伝えられている。『大列車強盗』にはグルーミング効果のカタルシスがあるだけで、メッセージ性がない。
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