第2章 スタンフォードとマイブリッジ

文字数 1,127文字

2 スタンフォードとマイブリッジ
 1877年、カリフォルニア州知事リーランド・スタンフォード(Leland Stanford)は、友人と乗馬愛好家の間で長年続いてきた論争に決着をつけるべく賭けをする。「馬がギャロップ、すなわち全速力で走るときに、4本の脚が同時に地面から離れることがあるか否か」。このセントラル・パシフィック鉄道の設立者は4万ドルを然りに賭ける。彼は自説を証明し、大金を手にするために、写真家のエドワード・マイブリッジに声をかける。

 イギリスの写真家エドワード・マイブリッジ(Eadweard Muybridge)は、1855年にアメリカ合衆国に移住し、その後、サンフランシスコで出版業界に身を置くようになる。彼を一躍有名にしたのは、1872年、妻の愛人を射殺したものの、裁判で無罪を勝ちとったことという出来事である。知事から依頼されたマイブリッジは、ジョン・D・アイザックス(John D. Isaacs)と共同で、ある実験装置を考案する。

 マイブリッジは、競馬場のコースに沿って電気シャッター付きの12台のカメラを設置し、レーンを横切るように12本の糸を張り、走る馬がそれを切るとシャッターが順次作動するメカニズムをつくりあげる。この結果を確認後、試行錯誤をして、彼はカメラを二四台に増やし、同じ実験を行っている。

 この連続写真は全速力で走る馬の姿を収めることに成功し、それにより、スタンフォード大学の創立者が賭けに勝利する。その後も、マイブリッジはシャッター装置の改良を続け、1877年には露光速度も2000分の1秒まで短縮している。

 この実験の成果は新聞で大々的に報道され、大きな反響を呼ぶ。マイブリッジの友人のウォーレス・M・レヴィソン(Wallace Mark Levison)はカメラのレンズ裏のホイール上で感光板を漸進的に動かして連続写真を撮影する技術を考案し、1888年には、ジョージ・イーストマン(George Eastman)はセルロイドの帯状のロール・フィルムを完成させる。

 また、ドイツの写真家オットマール・アンシュッツ(Ottomar Anschütz)は、1888年、フォーカル・プレーン・シャッターの特許をドイツで取得し、1891年、ゾートロープを改良発展させた「電気式シュネルゼーアー(Elektrischer Schnellseher)」を開発している。

 1889年、マイブリッジが自慢げに例の連続写真をある著名人に見せる。すると、彼は、早速、回転するフィルムに動く映像を写す技術を発明して見せる。この野心的な人物こそ発明王トーマス・アルヴァ・エジソン(Thomas Alva Edison)である。
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