第8章 ファティック映画の系譜

文字数 1,066文字

8 ファティック映画の系譜
 観客層を拡大、世界規模の産業と成長し、高い芸術性を獲得しながらも、以降、社会や映画界にグルーミングを必要とするとき、ファティック映画が登場している。それはしばしばピカレスクの特徴を持つ。ジャン=リュック・ゴダール(Jean-Luc Godard)の『勝手にしやがれ(À bout de souffle)』(1960)がそのことを端的に物語る。

 1960年代後半、ベトナム戦争が泥沼化し、アメリカは分裂の危機に陥る。そんな頃、アンチヒーローを主人公として、最後に、シニカルさを排しつつ、悲惨な末路で終わる『俺たちに明日はない(Bonnie and Clyde)』や『ワイルド・バンチ(The Wild Bunch)』(1969)、『明日に向かって撃て!(Butch Cassidy and The Sundance Kid)』(1969)などの映画が流行する。これはファティック・フィルムであり、人々は映画にグルーミングを求めている。

 また、1994年度のアカデミー賞では、インディーズ系のクエンティン・タランティーノ監督の『パルプ・フィクション(Pulp Fiction)』が七部門にノミネートされる。これは登場人物が薬の売人やら殺し屋やら賭けボクサーやら悪人だらけで、社会風刺も含めて特に伝わってくるメッセージがないファティック・フィルムである。それは大手映画会社の映画が行き詰まりを見せる中、その状況を打開すべく、映画界が原点を振り返ろうとした動きである。

 数あるファティック映画の中にあって、黒澤明監督の『用心棒』(1961)はファティックが映画の原点であることを最も理解し、それを体現している傑作である。棒きれを放り投げていく先を決めて宿場町にやってきた桑畑三十郎は抗争を続ける二組のやくざ連中をまとめてぶっ潰すが、義憤に駆られてと言うよりも、面白そうだからそうしたにすぎない。大暴れした後、桑畑三十郎は刀を抜き、切る真似をして、居酒屋の権爺たちに次のように言って去っていく。

「あばよ」。

 ファティック・フィルムがファティックによって閉じる。これこそ映画のアイデンティティを知り尽くした映画である。

 映画は近代の産物である。それは光学や力学、化学、電磁気学によって生み出されている。農村や異国から集まってきた新しい住民により都市は構成され、変貌を遂げ、新たなストレスに満ちている。映画はそんな社会におけるグルーミング効果のファティックとして最もふさわしい。『大列車強盗』はその原点にほかならない。
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