第4章 リュミエール兄弟とメリエス

文字数 5,294文字

4 リュミエール兄弟とメリエス
 しかし、決定的な発展はフランスで起こる。オーギュスト(Auguste Marie Louis Lumière)とルイ(Louis Jean Lumière)のリュミエール兄弟は、三色のカラー写真や義手義足の開発によりすでに名が知られていたが、それを不朽のものとするきっかけは、1894年に父アントワーヌ・リュミエール(Antoine Lumière)がしたアドバイスである。

 パリでエジソンのキネマとグラフを見たこの元肖像画家の実業家は、息子たちに映像の研究を勧める。彼らはキネトスコープを改良し、テアトル・歩チークと結びつけて、スクリーンに投影する「シネマトグラフ・リュミエール(Le cinématographe Lumière)」の特許を1895年2月13日付で申請する。エジソンは、キネトスコープの特許申請の際に、スクリーンに投影するということを盛りこんでいなかったし、そもそも欧州で申請することを怠っていたため、兄弟の特許は認定される。

 エジソンが開発した段階では、スクリーンに投影するとチラついて非常に見難く、実用化を断念している。映画を軽蔑的に言う際に、チラチラするという意味の「フリッカー(Flicker)」が用いられるのは、この技術の未熟さに由来する。新世界の発明のチャンピオンがパーソナルな覗きこむ小箱型の映写装置を志向したのに対し、旧大陸の発明デュオは不特定多数で時空間を共有できるスクリーン方式を選ぶ。そのため、リュミエール兄弟が映画の産みの親との栄誉を手にする。しかし、映画に関する発明界の横綱のアイデアにも、現在まで続いているものがある。彼は、直流方式が典型であるが、新たな発明を生み出しても、その方式の普及にはつねに失敗している。映画のフィルムの幅35mmだけが現存する唯一のエジソンが提唱したスタンダードである。

 1895年12月28日、パリのキャピシーヌ大通り一四番地のレストラン「グラン・カフェ(Grand Cafe)」地階のサロン・ナンディアン(Salon Indien)、すなわちインドの間において、シネマトグラフによる一般有料試写会が開催される。この入場料1フランの上映会をもって「映画の誕生」と見なされている。ロハではないところが意義深い。映画はビジネスの面を無視してはならないというわけだ。

 上映されたのは、『(リュミエール)工場の出口(La sortie de l'usine Lumière à Lyon)』や『(ラ・シオタ駅への)列車の到着(L'Arrivée d'un train à la Ciotat)』、『水をかけられた撒水夫(La jardinière)』など12本である。

 当時のカメラに搭載できるフィルムの長さは最大でも1分間程度だったため、いずれもそれ以下の非常に短い作品である。『工場の出口』はアントワーヌ・リュミエールの所有する工場の出口にカメラを設置し、昼食休憩にそこから出てくる従業員を写している。また、『列車の到着』は画面奥から列車が入ってきて停車し、乗客が降りてくる光景を撮影した作品である。列車が近づいてくるのを見た観客は驚嘆の声をあげ、逃げ出そうとしたと伝えられている。さらに、『水をかけられた撤水夫』は、水を撒く役目の撒水夫が逆に水をかけられたという滑稽な設定であり、明らかに観客を笑わせようとしている点で、史上初の喜劇映画と見なすこともできよう。

 いずれの映画もカメラは大人の眼の高さで固定され、構図は、奥行きを感じられるように、縦にとってある。目高は最も基本的なカメラ・アングルであるたて。また、遠くを上、近くを下に置く縦の構図は、古代エジプトの絵画が示すように、対象の遠近を感じさせるための原初的な配置である。小栗康平は、『映画を見る眼』において、リュミエールの映画を「目の記録」と命名している。見る行為の再現がリュミエールの映画である。

 動く映像は、実際には、存在しない。静止画像を1秒間に16コマ連続させると、動いて見えるだけである。この原理はしばしば網膜の残像現象から解説される。しかし、それでは動画の認知を十分に説明できない。原刺激とは反対の性質が陰性残像として観察されるからだ。補色関係にある二つの対象を併置して一方だけを30秒ほど凝視すると、色が入れ替わって見える。しかも、その残像は数秒ほど続く。残像からは動画知覚を説明できない。

 実際の映画の原理は残像ではなく、仮現運動である。これは見かけの運動で、キネマ性運動とも呼ばれる。仮現運動にはα・β・γ の三種類がある。動画の知覚に関わるのは、このうち、β運動である。これは踏切を思い浮かべればよい。並列した赤いランプが交互に点滅を繰り返すと、動いているように見える。この仮現運動が動画認知の原理である。ただし、詳細は割愛するが、仮現運動に関する研究が進み、なめらかに見えるようにするためには、β一般ではなく、いくつかの条件があると確認されている。

 しかし、1秒間のコマ数を増やせば増やすほど自然に見えるかと言えば、そうではない。カメラには一つのレンズ、つまり一つの眼しかない。そのため、撮影したものからは奥行きが失われてしまう。カメラで撮影された映像は、それだけですでに人為的であり、二次元的である。二次元画像をどれだけ増やしてみても、三次元にはならない。眼がついていけなくなるだけだ。サイレントにおいては毎秒16コマ、トーキーでは毎秒34コマ、アナログ・テレビは毎秒30コマに落ち着いている。

 言うまでもなく、映画の成長と共に、多くの映像作家により奥行きを出す工夫が考案されている。その一つが黒澤明映画でお馴染みの望遠レンズの使用である。坂道を正面から撮っても傾斜が感じられない。カメラは独眼だからだ。片眼で見ることを思い出せばよい。ところが、望遠レンズを使うと、奥行きを圧縮できるので、遠近感をある程度感じられるようになる。ただし、これは、『用心棒』の冒頭での犬のカットのように、動いて登場してくものに焦点を合わせるのが難しく、撮影者に高い技能が要求される。また、『夢』(1990)に出演したいかりや長介が回想している通り、演技者にとっても、カメラが見当たらないため、視線をどこに向ければいいのかわかりにくい。

 その後、兄弟はリュミエール協会を設立して、世界中に撮影隊を派遣し、日本を含む世界各地のさまざまな光景を映像に記録させている。

 リュミエール兄弟は映画を物珍しい科学的発明にすぎず、しばらくはもてはやされるものの、いずれ飽きられてしまうだろうと考えている。映画には未来などない。しかし、それを観賞したマジシャンで劇場経営者のジョルジュ・メリエス(Georges-Jean Méliès)は違う感想を持つ。彼は娯楽としての可能性を見出し、特許を売ってくれないかとリュミエールにビジネスの話を持ちかけたものの、相手にされない。そこで、イギリスから撮影機を購入し、1896年、自分の劇場の出し物にしようと撮影を開始する。製作、監督、脚本、俳優、美術などを一人でこなしている。

 最初は、自分自身がマジックを演じている姿を収めた『奇術の上演(L'Auberge ensorcelée)』(一1896)や『ロベール・ウーダン劇場における婦人の消滅(Escamotage d'une dame chez Robert-Houdin)』(1896)を制作したが、97年五月に、太陽光に左右されないため、パリ郊外に撮影スタジオを設立し、次第に、シナリオを用意したストーリー性、撮影トリックやフィルム編集を意識していく。小栗康平は、『映画を見る眼』において、メリエスが「見るという行為」ではなく、フィルム上で人工化された「見えるもの」が映画だという認識があったと言っている。物語映画を撮ったのは、メリエスが初めてではない。1897年、R・G・ホラマン(Richard G. Hollaman)が俳優を使い、セットを組んで、三巻物の受難劇を制作している。しかし、彼はカメラ・トリックにまで気がついてはいない。

 リュミエール兄弟にとって映画は記録媒体であったが、メリエスには、娯楽ショーである。これは発明家とマジシャンの関心の違いに起因するだろう。手品のトリックを考え出すように、メリエスは撮影・編集の技術の開発に意欲を示す。1899年頃から、画期的な技術に溢れた作品を発表している。フランス陸軍将校アルフレッド・ドレフュスの審理の模様を10のシーンに分けて再構成した『ドレフュス事件(L'Affaire Dreyfus)』、20のシーンから構成された『シンデレラ(Cendrillon)』を制作している。

 さらに、『ジャンヌ・ダルクJeanne d'Arc)』(1899)、『一人オーケストラ(L'homme-orchestre)』(1900)、『ゴム頭の男(L'homme à la tête de caoutchouc)』(1902)、『月世界旅行(Le Voyage dans la Lune)』(1902)、『ガリバー旅行紀(Le Voyage de Gulliver à Lilliput et chez les géants)』(1902)、『音楽狂(Le mélomane)』(1903)、『妖精たちの王国(Le royaume des fées)』(1903)などの傑作において、カメラ停止、二重焼き、多重露光、オーバーラップ、高速撮影、逆回転などの撮影・編集技術を編み出している。チャーリー・チャップリンをして、彼を「光の錬金術師」と賞賛しているほどである。

 メリエスに対抗すべく、他の映像表現者たちも名乗りを上げる。1901年、フランスのフェルディナン・ゼッカ(Ferdinand Zecca)がリアリズム路線で、『ある犯罪の話(Histoire d'un crime)』を公開している。これは、ヴィクトル・ユーゴー一『ある犯罪者の物語(Histoire d'un crime)』(1877~78)を意識した作品である。しかし、いずれもファンタジックなメリエスの人気には及ばない。

 1905年頃から映画は産業へと移行し、プロデューサーが作品ごとに監督や俳優などを起用するなど製作の制度化が進んでいく。内容的にも、もっと刺激的な映画が求められるようになり、メリエス作品は観客に飽きられ始める。経済的に苦境に陥ったメリエスは外部プロデューサーを迎え、『極地征服(La Conquête du pôle)』(1912)などを撮ったものの、興行成績は芳しくなく、映画ビジネスからの撤退を決意し、所蔵する映画を焼却処分する。

 この残念すぎる決断もあり、メリエスの製作した映画は500本余りと見られているけれども、現存するフィルムは断片も含めて170本程度である。しばらくは忘れられていたが、25年頃から映画史家により再発見され、メリエスはレジオン・ドヌール勲章を受章している。

 メリエスの目論見を超え、映画は商売から産業へと急速に発達していく。1896年になると、二月にロンドンとブリュッセル、四月ベルリン、六月にはニューヨークと世界各地でスクリーンのついた映画館がオープンする。リュミエール兄弟の成功に接したエジソンも急遽方針を転換して、大型スクリーンに映像を拡大して映し出せる活動写真映写機「ヴァイタスコープ(Vitascope)」を発明し、1896年4月23日、ニューヨークでお披露目を行っている。それにあわせて、エジソン社はスタジを使って劇場向けの凝った映画を製作する。映画は劇場の出し物の一つとして考えられていたため、当時の寄席芸の時間に相当する1000フィートを一巻とするフィルムの標準的長さとなり、この規格は今日でも同じである。

 しかし、ことはすんなりとは運ばない。キネトスコープの製品化の中心メンバーだったウィリアム・ディクソンが彼の元を去り、アメリカン・ミュートスコープ&バイオグラフ社を設立している。1897年になって、エジソンがバイオグラフ社を特許侵害で告訴する。この訴訟は長期に及び、その間にバイオグラフ社は消耗してしまう。1907年、エジソン側の言い分を認める形で決着する。

 この訴訟の最中の1903年、エジソン社製作のある映画が公開され、それは映画史上初のヒット作品となる。この成功により映画の産業としての将来性が明白化する。その後、5セントのニッケル硬貨一枚で入場できる劇場の「ニッケルオデオン()Nickelodeon」がアメリカ各地に登場し、移民や労働者の格好の気晴らしの場となる。それは映画産業が今日のような巨大なビジネスへと成長していくきっかけである。
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