文字数 3,190文字

 土曜日の朝、ユキナは午前八時には秋葉原のライブハウスに入る。開演時刻は十四時からであるが、スタッフと共に会場を準備し、生写真にサインを入れ、リハーサルを行う。普段はスッピンで、滅多にしない化粧にも時間がかかる。メイク担当のスタッフなどいない。ステージ用の衣装でさえ、自分で洗濯する。給料なんて、子供の小遣い程しかない。化粧品と服を買って、一、二度飲みに行けば何も残らない。それでも、劇団の仲間に比べれば、給料が出るだけまだましな方だと言われる。劇団の子たちは、自分たちの公演のチケット販売ノルマがある。売れ残りは買い取りになる。家族や友人、親戚にまで売りつけるが、毎回というわけにもいかない。チケットを買い取るためにアルバイトをしているようなものだ。だから、皆決まって貧しい。特に地方から上京してきて、都内で一人暮らしをしている子は、厳しい暮らしをしている。その点、ユキナは都内に自宅があり、喫茶店のアルバイトで得た給料を自由に使って生活することができた。初めは目を輝かせて劇団や映画学校に入って来た子たちも、二年、三年と過ぎて行く中で、彼氏ができたり、水商売で金を稼ぐようになると、一人、また一人とユキナの周りから姿を消した。学校を卒業して、秋葉原のメイド喫茶で働こうかと思った時期もあるが、常に自分が女優になった時のことを考え、過去にやましい経歴を残さないことも、プロ意識の一つではないかと自分を律した。その意識や努力が実を結ぶかどうかは、女優としてデビューすることと関係が無い、と教えてくれたのがショウだった。思いに向かって努力することは大切だが、結果に結びつくとは限らないとショウは言った。遊んでいる奴がスカウトされることもあるし、歌が下手でも人気歌手になることもある。ショウのように生まれながらに金に困らない奴もいる。それらは全て本人の努力とは無関係だ。けれども、時間だけが平等に与えられていて、時間をどう使うかによって人生が変わる。人生は二度無い。自分自身を死ぬまで信じ切ることができれば、その結果とは関係無く、人は幸福になれるとショウが言ったのを覚えている。ショウは同い年でも、自分とは比べものにならない程、大人だと感じることがある。そんな時は、ショウが近くて遠い存在に思える。自分のような人間とは釣り合いが取れないと感じる時、心が萎縮して、何もかもが嫌になってしまう。それでも、自分を信じろと言ってくれたのはショウだ。だから、ユキナは自分を信じている。
 ユキナがライブ会場に着くと、まだ朝の八時過ぎだと言うのに、会場の入り口で花束を持った男が立っていた。きっと上京したての、誰か他のメンバーのファンなのだろうと思って通り過ぎようとしたが、その男はユキナに近づくと、顔を真っ赤にして、花束を差し出した。
「ファンです。受け取ってください、応援してます!」
 ユキナは驚いて目を瞬きさせた。爽やかな笑顔の好青年だった。年齢は自分より少し若いだろうか。思わず花束を受け取った。
「おう! ありがとな!」
 その男はユキナの声を聞くと嬉しそうに微笑んだ。
「ライブの時間になったらまた来ます。ライブの準備大変ですね、僕、ユキナさんの邪魔はしませんから」
 秋葉原の街に消えてしまった。そんなに気に留めていなかったが、花束に添えられたメッセージカードがあることに気がついた。楽屋に入り、鏡の前に座り、花束を荷物台の上に置いたが、何となく気になった。
「何か、調子狂っちまうな」
 男性に告白されることは、ユキナにとっては珍しいことではない。それは子供の頃からそうだったし、地下アイドルになってからも度々あった。その都度、丁寧に断ってきた。ショウのことを考えれば当然のことだったが、何故か今日受け取った花束に対しては、気持ちが落ち着かなかった。動物の絵柄のついた封筒が目に入った。
「仕方ねえ、手紙、読んでやるか・・・・・・」
 そんな言葉とは裏腹に、どこか微かに緊張している自分がいた。手紙の内容は、単なるファンレターだった。ほっとしたような、残念なような複雑な気持ちになった。男の名は「トミタアキラ」とあった。二十歳になったばかりの大学生で、ユキナの予想とは異なり、東京の出身だった。弟のヒデユキより二つ歳上だったので、ある意味ほっとした。しかし、よく考えると、弟のヒデユキと年齢が近いということで、気が楽でもあった。元々年下の男を恋愛対象と感じたことが無い。まして弟のヒデユキと年齢が近いなんて、有り得ないことだ。ファンレターを花束にそっと戻し、一瞬でも想像を巡らした自分に苦笑した。メイクを始めたが、ショウ以外の男性を意識した自分に、無性に腹が立っていた。
 午後になって、いつものようにライブが始まると、アキラはショウとは異なり、最前列で声援を送ってくれた。壁際で、ビールを飲みながら観ていたショウとは大違いだった。アキラは他の男子のようないやらしい目でユキナを見なかった。ユキナとグループのライブを心から楽しんでいるように見えた。ライブが終わり、ユキナたちはファンを見送るために、地下の廊下に並んで手を振ったり、握手に応えたりする。そこにアキラの姿もあった。
「ユキナさん、またライブ観に来てもいいですか?」
「お、おう、ありがとな」
 軽く噛みそうになったユキナを見て、アキラが微笑んだ。ユキナは周りの視線を気にして、わざと素っ気無く振舞った。
「また、観に来てくれよな!」
「ええ、また来ます。ユキナさんに会いにまた必ず来ますね」
 メンバーの一人がそれを聞いて、ユキナを肘で小突いた。アキラは頭を下げ、メンバーにも会釈して出て行った。
「ちょっとユキナぁ、何、あの子、ちょっと可愛くない? あの目はユキナに惚れてる目だったな、でも、いいのぉ? ユキナ彼氏いるんでしょう?」
「あの子はウチの弟と同年代だぜ、対象外だよ、対象外、それにアタシには心に決めた人がいるからさ、まぁ、あの子も運が悪かったよね」
 そう言ってはみたものの、ショウの素っ気無い態度を思い出し急に腹が立った。
「何だよ、ショウの奴、このアタシを放っておきやがって、何かムカついてきた!」
 楽屋に戻ると、衣装を脱ぎ、ブラジャーとパンティーのまま椅子に腰掛け、ロッカーから携帯電話を取り出し、メールを打ち始めた。
「超、疲れた。腹減ったんだけど!」
 ショウの携帯電話に送信した。半分期待して、もう半分は期待していなかったが、五分後に返信があった。
「何、食いたい?」
 ユキナは携帯電話の画面にキスをした。頬が緩んで、嬉しさが止まらない。携帯電話を胸にあてた。
「よかった・・・・・・」
 それを見ていた他のメンバーたちは、付き合い切れんと言わんばかりに苦笑していたが、ユキナにとってはそんなことどうでもよかった。
「エチオピアのカレーを食わせろ!」
 ユキナがメールを送った。するとすぐに返信が来た。
「俺は今、新宿にいる。一時間後に神保町の書泉でどうだ?」
 ユキナはミニスカートを履きながら、
「OK! 待ってる」
 メールを打った。
「じゃあ、お先に!」
 会場を飛び出すと、出待ちのファンに軽く手を振って、秋葉原の中央通りを走り、万世橋を渡った。外濠の水面に西陽が反射して思わず目を細め、手をかざした。靖国通りまで出てしまえば、出待ちのファンが付いて来ることも無いだろう。途中、信号待ちをしている間、ふとアキラの顔を思い出した。出待ちの中にはいなかったようだ。しかし、そんなことはもう、どうでもよかった。これからショウと会い、腹いっぱいエチオピアのカレーを食べるのだ。少しだけ暗くなりかけた空が、燃えているように紅い。明日は雨かもしれない。ショウに抱かれながらベッドで過ごす雨の日の朝を想像すると、胸が切なくなった。とにかく早くショウに会いたかった。
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