十八

文字数 6,644文字

 日曜日の秋葉原、アイドルシアター前で待っているとアキラが言った。昨日のライブの終わりに、アキラが初めて、ユキナをデートに誘ったのである。ユキナはその場で断ることができなかった。以前、一度プライベートで会うと約束したことも、頭の片隅に記憶していた。けれども、アキラが今以上の関係を望むのであれば、ショウへの気持ちを貫き通すためにも、はっきりと断らねばならない。ユキナの気持ちは重く沈んでいた。服装にも珍しく気を遣った。いつもなら、パンティーが見えるほど短いスカートを身につけて街を歩くユキナであるが、今日はアキラを勘違いさせないためにも、ブルージーンズと迷彩柄のTシャツ、サングラスをかけ、できるだけ男っぽい姿をわざと作ってみた。ユキナの言葉遣いを聞いたなら、どこかのヤンキーかと思われるだろう。秋葉原の地下アイドルのような萌え感は無く、アキラにそういう感情を抱かせないようにしてやるのも、年上の女としてのユキナの思いやりだった。しかし、そんなことまでしてアキラの気持ちを削ぐのなら、何故初めからきっぱりと断れなかったのだろう。ユキナの心の中で、ショウの姿を追っている自分と、追っているのに中々振り向いてくれないことへの、満たされない思いがある。それに比べて今のアキラは、まるでショウを追いかけるユキナに似ている。悲しくもあり、惨めでもあり、可愛くもある。はっきり拒絶できないのは、今の自分を見ているような気がするからであり、アキラの気持ちに、少しでも応えてやりたいという気持ちでもあった。
 正午、アイドルシアターの前は、アイドル48のファンで賑わっていた。アキラは、そんな連中など眼中にないといった風にそっぽを向き、通りのガードレールに背をもたれながらユキナを待っていた。
「よう、アキラ、待った?」
「ユキナさん、来てくれたんですね! 来てくれないのかと思いました」
 時計を見た。約束の時間を三十分過ぎていた。
「ゴメンな、遅れちゃって、昼時で腹減ってるから飯でも行くか?」
 アキラは目を輝かせて頷いた。
「ユキナさん、プライベートは雰囲気違うんですね! でも、凄くカッコいい」
 ユキナは髪をくしゃくしゃに掻いた。
「ん? そうか? アタシにとってアイドルは仮の姿だかんな」
「アイドルなんかより、ずっと可愛いと思いますよ」
 ユキナは年下のアキラに可愛いと言われて、胸が高鳴った。
「ありがとな、でも、お世辞は必要ないぜ」
「お世辞だなんて、そんな、思ったことを言ったまでです」
「でも嬉しいぜ、さあ、飯行こ、飯!」
 アキラがキョロキョロして、スマートフォンを取り出し、食事のできる店を検索しようとしている。
「アキラはいつも、どこで飯食ってんの、アキバによく来るんだろ?」
「そうなんですけど、いつもファーストフードみたいな店で簡単に済ませちゃうから、ユキナさんを案内できるような、お洒落なお店なんて知らないんです。昨日、一応、調べては来たんですけど、どっちだったかな?」
「ん? 別に気にすることなんてないぞ、アタシだって、そんな洒落た店なんて全く知らないし」
「ユキナさんは、いつもどこで御飯食べるんですか? 連れて行って下さいよ」
「あん? そうだな」
 と言いかけて、すぐにショウの顔を思い出した。そう言えば、いつもショウに任せっきりで、ユキナは何も考えず、安心してショウの後をついて行けばよかった。
「そうだな、神保町とか新宿が多いかな、秋葉原だとさ、ライブが終わった後のファンに見つかると面倒だし」
 アキラが微笑していた。
「今日は、アキラが決めていいぞ」
「何だか、緊張しちゃうな」
 アキラはこじんまりとしたレンガ調の喫茶店を選んだ。ランチメニューの看板が目立っていて、小奇麗なレストラン風だった。
「ここにしませんか? ハンバーグランチが美味しそうだし、ゆっくり時間をかけてお話できそうだし」
「いいよ、良さそうな店じゃん」
 二人は窓際の中央通りが見渡せる席に座った。
「ユキナさん、何にします?」
「そうだな、まずはビールと行きたいところだが」
「ユキナさんって、お酒が強いんですか? 僕なんて、アルコールは一滴も飲めませんから、お酒飲める人、羨ましいです」
「なんだ、アキラは下戸なのか、じゃあ、アタシもオレンジジュースでいいよ、ハンバーグランチとオレンジジュースにする」
「じゃあ、僕も同じもので」
 そんなアキラを見て、ユキナが微笑んだ。確かにアキラは弟のようで、どこか母性をくすぐるようなところがある。しかし、ユキナはショウという男を、どうしても比較対象にして男を見てしまう。どちらが自分を幸せにしてくれるのか、優しくしてくれるのか、ではなく、どちらが好きか、心惹かれるかという点で、これまでにショウより魅力的な男はいなかった。ショウの魅力? 大企業に勤めているわけでもなければ、学歴が高いわけでもない、ショウの顔もユキナの好きなタイプではあるが、ユキナはモデルをやっている男から言い寄られたことだってある。だが、ショウはユキナが過去に出会った誰よりも生理的に好きで、誰よりも経済的に余裕があり、学歴は無いが、学歴を全く必要としない人生を持っている。そして、ショウには何と言っても、ユキナには想像もつかないようなミステリアスな一面がある。その理由の一端を、ユキナは最近になって、ショウの生い立ちから想像することができるようになった。
「僕とでは、つまらない・・・・・・ですか?」
 ぼうっとして窓の外を見るユキナを、アキラが不安そうに見つめた。
「そ、そんなことないぞ」
「でも、ユキナさん、さっきから何か他のことばかり考えているようだし」
 ユキナが顔を紅くした。
「このハンバーグ、美味えな」
「無理しなくていいですよ、僕だって子供じゃありません、ユキナさんが考えてることくらいわかります」
 ユキナが付け合せのコーンをフォークで突くのを止めた。
「前から、ユキナさんに聞きたいと思っていたことがあるんです」
 ユキナはフォークを再び動かし、
「ん? 何だ?」
「ユキナさんが夢中になっている男の人って、一体どんな男性なんですか?」
 アキラの瞳の奥を覗き込んだ。
「さっきからずっと、その人のこと考えてるんでしょう?」
 小さく溜息をついて、手に持っていたフォークを静かに置いた。
「悪いな、アキラ、今はアタシ、お前と付き合うことはできない」
 アキラの表情が一瞬曇ったが、すぐに笑顔を取り戻して、
「見事に振られちゃいましたね、わかってましたけど」
 ユキナが目を紅くした。
「それにしても、ユキナさんをそこまで夢中にさせる男の人って、一体どんな人なんだろう? 今の僕には敵わないのかもしれないけど、どんな人なのか一度会ってみたい」
 ユキナがアキラの目を見て、その後、視線を通りを歩く人々に向けた。
「その人はね、アタシの憧れの人なんだ、専門学校の時に出会って、一年間だけ付き合った。卒業と同時に、それぞれの道を選んだんだけど、アタシはどうしても彼のことが忘れられなくて、今、また、彼を追いかけてる。彼のことを言葉で表現するのは難しいな、こういうのって理屈じゃないから、好きなものは好きとしか言えない」
 アキラは顔を紅くして、頷いた。
「わかりました。悔しいけど、今は諦めます。でも、今は・・・・・・ですよ。僕はユキナさんが、その人と結婚されるまで、心の中では諦めません。いつか、その人に追いついて、追い越せるように、自分を磨いて、いつの日か、ユキナさんに振り向いてもらえるように頑張りますから」
 ニッコリと微笑んだ。
「こいつ、マセたこと言いやがって、ありがとな」
 その日、ユキナとアキラは、食事の後、秋葉原の電気街を二人で巡ったり、JRの高架下に連なるディープなパソコンパーツの店を覗いたりして夕方まで一緒に過ごし、手を振って岩本町の駅で別れた。アキラは素直で純粋な好青年だった。今日だけは、ショウのことを少しだけ忘れても、罰はあたらないだろう。帰りの電車の中で、無性にショウの声が聞きたくなったが、今日は電話するのはよそう。そして、ユキナの心の中に、これまでずっと目を瞑ってきた、ある思いへの決断を深めた。
「地下アイドルを辞める」
 それは芸能活動の一切を辞めることを意味していた。そもそも誰の関心を集めたくて、自分を表現しようとしていたのだろう? 少なくともユキナにとっては、自分が自分であるためのものではなくなっていた。何のため? そのことが今のユキナにははっきりしている。世の中の誰のためでもない、自分のためでもない、タザキショウにだけ、自分を表現できればそれで満足だった。一時的な感情ではない。六年前に初めてショウに出会った時から、ユキナの心は決まっていた。女優になることを諦めると言ったら、ショウは怒るだろうか? いや、そんなはずはない。ユキナはショウを信じている。会いたくて、会いたくて堪らない。だけど、今日だけは自分自身のために我慢する。なぜなら、明日からは全力で、ショウのためだけに生きて行けると思うから。
 翌日、ユキナはショウに電話をかけた。メールでは気持ちが伝わらないと思い、ショウの都合はわからなかったが、直接話すことに決めた。心のどこかで、ショウが電話に出ないことを願う自分がいたが、案の定、そういう時に限って、ショウはあっさりと電話に出るのだった。
「ショウ、アタシだけど、ちょっと話せる?」
「何だ、改まって」
 携帯電話を持ったまま、ユキナは表情を強張らせた。
「今日の夕方なら空いてるぞ、飯でも行くか?」
「今日は、飯はいらない、お前の部屋に行ってもいいか?」
「珍しいな、食いしん坊のお前が、飯はいらないとは。どうしたんだ、腹の調子でも悪いのか?」
「うっせぇな、とにかく今日、バイトが終わったら、そっち行くからな」
 とユキナは言い放って、一方的に通話を切った。ユキナは自分自身が歯がゆかった。どうしてショウの前では、あんな乱暴な口調になってしまうのだろう。もっと素直に気持ちを伝えたいのに、ショウの前では、何故かそれができない。
 夕方、ユキナはバイト先を出て、ショウの部屋に向かった。そろそろ夏の終わりが近いのだろうか、近くの公園の木で、ヒグラシが鳴いている。ショウのマンションの一階のエントランスでオートロックを解除してもらい、シンと静まり返った廊下を進む。学生の頃は物珍しくしていたユキナも、今では慣れたものである。チャイムを鳴らすと、すぐにショウがドアを開けてくれた。ユキナは無言で部屋に入った。
「トイレ、借りるぞ」
 ショウの返事を待たずにトイレに入る。洗面で手を洗い、バスルームの棚からハンドタオルを取り出して拭いた。ユキナはそのままキッチンに行き、冷蔵庫を開け、缶ビールを二本取り出して部屋に戻り、ソファに腰掛け、缶ビールを一本、ショウに放った。
「まるで、お前の部屋のようだな」
 ユキナは缶ビールを開けた。
「まあな、ここが一番落ち着く」
 一気に缶ビールを飲み干した。
「やっぱ、仕事の後のビールは最高だな!」
「そうか、随分と美味そうに飲むな、お前は」
 ショウも缶ビールを開け、一口だけ含んだ。
「で、何を言いに来たんだ?」
 ユキナは立ち上がり、再びキッチンから缶ビールを持ってきた。
「アタシ、女優になんの、やめにした!」
 ショウを見つめ、でも、耐えられなくなって下を向いた。ショウが落胆する顔を見たくなかった。
「別に、いいんじゃないか」
 ユキナが顔を上げ、拍子抜けしたような表情を浮かべた。
「何故だ? とか、聞かないのかよ」
 ショウが柔らかな笑みを浮かべている。
「じゃあ、何故だ?」
 ユキナは髪をグシャグシャに掻きながら、
「ショウ、お前、今更そんなこと聞くのかよ、四年前、卒業と同時に別れて、それぞれの道を進もうって言ったのは、あれ何だったんだよ。アタシはあれから、ずっとずっと、自分の道を追いかけてきたのは、お前、そんな簡単に肯定されると・・・・・・」
 ショウが缶ビールを置いて、ユキナに歩み寄り、そっとユキナの肩を抱いた。
「ショウ、アタシ、お前に嫌われたんじゃないかって、ずっと恐かった」
 肩を震わせた。
「俺が、お前を嫌う理由がどこにある」
 ユキナがクシャクシャの顔を上げた。目が真赤に染まっていた。
「じゃあ、何で、何も言ってくれなかったんだよ? 四年間、ずっと待ってたんだぞ」
「すまん、だがな、俺はこれから個人的な我がままで、やらねばならないことがある。それにお前を巻き込みたくない」
 ユキナが指で涙を拭いた。
「お前の両親と、弟のことか?」
 ショウは真顔で頷いた。
「アタシがいると邪魔なのか?」
「邪魔なものか」
「じゃあ、態度で示せよな!」
 ショウが苦笑して目を瞑った。
「ユキナ、ちょっと待ってろ」
 書斎に行き、手に何か持って戻って来た。ショウはそれを軽くユキナに放った。ユキナが目を大きく広げて受け取る。
「これで、どうだ」
 ユキナが慌てて手の中のものを確認する。それはショウの部屋の合鍵だった。
「ショウ、これって・・・・・・」
ユキナが言葉を失った。すると、不意に窓の外で鈍い羽音がして、スズメバチが窓ガラスにぶつかった。
「ショウ、ハチだよ、ハチ、結構でかいぞ」
「それはキイロスズメバチだ。たぶん、この近くに巣がある」
 スズメバチが窓の縁を伝っている。
「あのハチ、危なくねえのかよ?」
「いや、結構、危険だ。近くに寄るものを平気で刺す。俺が子供の頃に刺されたのも、このハチだ」
「マジかよ、ハチって刺されたことねえけど、恐えぇよな、あの羽音を聞くと、姿無き恐怖みたいなものを感じる」
「そうだな、耳元で鈍い羽音がして、気付いたら背筋に釘を打たれたような、重い痛みが走ったのを今でも思い出すよ」
「ハチって、こんな薄暗くなってからも活動するのかよ」
 ショウが首を横に振った。
「国外には夜行性のハチがいると聞いたことがあるが、国内にはいないはずだ。奴らがこの時間まで飛ぶのは珍しい。今年はやけに暑い日が続いたろ、アウトブレイクとまでは行かないが、数年に一度の大発生と何か関係しているかもしれない」
「アウトブレイクって何だ?」
「大発生。それも異常発生のことだ。昆虫やウサギなどの小動物にも使う、ヒッチコックの映画とか見たことあるだろ?」
 ユキナが頷いた。
「見た目は恐ろしいが、アウトブレイクは、一種の生物の種に由来する、個体数の調節機能のことだ」
 ユキナが首を傾げた。
「様々、説があるが、キイロスズメバチっていうのは、山や森に住むオオスズメバチという天敵を避けて、わざわざ人間の住む街に巣を作るようになったんだ。すると、人は危ないからと言って、巣をたくさん駆除するだろう? その結果、キイロスズメバチにとっては、適度な間引きが行われ、種の競争も減り、キイロスズメバチの大量発生を招くことになったのさ。開発で自然が失われ、天敵であるオオスズメバチが減り、快適な都市で生き抜く術を身につけた種であるキイロスズメバチが『勝ち組』というわけさ。多様性を身につけたものだけが勝ち残れる」
「何でオオスズメバチも街に出て来なかったんだ?」
「出てきたくても、出て来れなかったのさ。オオスズメバチは体が大きい分、動きが鈍く、餌として大型の昆虫や大量の樹液を必要とするが、街にはそれが無い。大きい体は俊敏な虫を捕らえるのを苦手とした。オオスズメバチは都市環境に順応できない進化を遂げてきてしまったんだ。それに比べて、キイロスズメバチは小型で動きが速く、しかも雑食で、餌を選ばない。樹液の代わりに人間が放置した、缶ジュースの残りで生きて行ける。多様性と環境への適応能力に優れているのさ」
「要するに、タフなんだな」
「そうだな、コイツらが街で増えているのには、それなりの理由があるってことだ。そして、今年は、奴らの当たり年だ、恐らく」
 二人は窓の外を見つめた。ハチの姿が見えなくなり、ユキナは自分の手の中に、鍵が握られていることに気がついた。
「ショウ、これ・・・・・・いいのかよ」
「いらなきゃ、返してくれてもいいんだぜ」
 ショウが笑っている。ユキナは鍵を素早くポケットにしまった。
「いや、絶対、返さねえよ」
 ショウが苦笑しながら、キッチンへと入って行った。ユキナは再び鍵を握り締めた。胸に熱いものが込み上げてくる。乳房の下の辺りが、まだ脈打っていた。
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