文字数 4,270文字

 ショウは毎日と言うわけではないが、時間があれば新宿の街に出かけていた。新宿ゴールデン街に顔を出し、大ガード付近の横丁に立ち寄り、西新宿を歩き、また少し足を伸ばして大久保のコリアン街にも行った。歌舞伎町だけに拘らず、二丁目、三丁目、東新宿、北新宿にも出かけたが、一向に弟の情報は得られなかった。情報を得なければならないと思いながら、店で飲むのはつまらなかった。たまに神経を休ませたくて、二丁目のイサオの店にも行った。やはり歌舞伎町で飲むのは疲れる。結果を期待することにくたびれ始めている。こんな生活を長く続けることはできない。だからと言うわけではないが、土曜の夜はユキナのために空けておく。あの粗雑で大飯食らいな女と一緒にいると、心が癒される。あの乱暴な言葉を聞くのも好きだった。ただ、ユキナには申し訳ないが、秋葉原のライブを観に行くのが苦手だ。ユキナのアイドル姿は嫌いではないが、周囲のあの熱心なファンの醸し出す雰囲気にはどうしても馴染めそうにない。音楽に合わせて、くるくると回転したり、呼吸を合わせて掛け声をかけたり、あの同一のスケベそうな緩み切った顔もいただけない。だから、ユキナには申し訳ないが、ライブ会場の外で待つ。歌舞伎町以外の街でなら、どこで待ち合わせてもよい。ただ、歌舞伎町では誰にも会いたくなかった。
 歌舞伎町一丁目のアーチをくぐって、雑居ビルが建ち並ぶ通りの一本裏通りに、昔ながらの小さなショットバーがある。建物は店舗専用の平屋建て、ビルとビルの境の空き地に無理やり建てたようでもあるし、建物の古さから推察するに、周りの雑居ビルの方が後から建ったのかもしれない。そのショットバーは有名と言えば有名だが、初めての客を寄せつけない重々しさがある。ショウも初めは何度も扉の前まで来て、引き返してしまった。扉に手を触れたとしても、押し開けるにはかなりの勇気が必要だった。こんな時はT社長の力でも借りたいものだが、こういう雰囲気の店はT社長も苦手であるらしい。女の子が大勢いるキャバクラやオカマの店、ヤンキーが集まるクラブなどは得意中の得意ときているが、バーテンダーと向かい合う、カウンターのみのショットバーは、どうしても馴染めないとT社長が言っていた。この店で情報を探ろうと決めてから三度目の正直で、ショウはゆっくりと扉を開けた。カウンターと席が僅か七席だけの店で、店内は薄暗く、バーテンダーが一人、アイスピックで氷を砕いていた。背後の棚にはシングルモルトを中心に高価な酒が並んでいた。
 客は一人もいなかった。まだ午後七時と時間が早かったせいもある。ショウにとっては好都合だった。ショウは実は、耳が少し悪い。子供の頃に川に潜って魚捕りをしていて、耳に水が入り、それが元で中耳炎を起こしたことがある。治った後も、耳の中に水が残っているような気がして、細い棒や綿棒などで頻繁に触っているうちに、いつの間にか聴覚が弱くなっていた。日常生活で困ることは無いが、雑踏の中、飲み屋、コンサート会場の音や声の中で、相手の声が聞こえないことがある。しかし、その代わりと言ってはなんだが、話す相手の唇の動きを見て、何を話しているのか理解できるようになった。自然に身についた読唇術だった。だから、飲み屋で周囲の声に包まれると、相手の声は聞こえず、全て読唇術で会話ができる。
 ショウはジャズピアノが流れる店内の、奥の一番端の席に座った。バーテンダーは六十代後半くらいの白髪の男で、ショウの前にコースターを置いたきり、一言も話さず、ただ氷を砕くチャッチャッという音がリズム良く響いている。表情は柔らかく、ショウのことを全く気にかけていないようだったが、放って置かれたような寂しさや恥ずかしさを感じさせることも無く、見透かされているようでもあった。頭の中がぼうっとして、麻酔をかけられたように意識が宙に浮いた。ショウは何故かしら、高校時代に読んだアーネスト・ヘミングウェイの「海流のなかの島々」を思い出し、急にダイキリが飲みたくなって、初めの一杯を頼んだ。
「フローズンでよろしいですか?」
 フローズンダイキリは作家のアーネスト・ヘミングウェイが愛飲したことで知られる。一時期、ヘミングウェイを読み漁ったショウにとっては、特別なカクテルだった。ヘミングウェイの小説だけではなく、作家自身について書かれた書物も幾つか読んでいた。父方の祖父はフライフィッシングが好きで、釣りと同時に釣具のコレクターでもあったのだが、英国のハーディー社製のフライロッドを主に集めていた。祖父から、ヘミングウェイが愛用したフライロッドがハーディー社のものだと聞かされたのを覚えている。バーテンダーがそっと、コースターの上にフローズンダイキリのグラスを置いた。
「以前は歌舞伎町って、どんな街だったんですか?」
 ショウの話の切り出し方は、いつも決まっている。いきなり中国マフィアについて聞くのは、相手を身構えさせてしまうし、怪しまれる。まして十五年前に起こった日本人画家殺害事件について、唐突に尋ねても当惑するだけである。弟に繋がる手がかりは、ショウ自身が顔を見せ、自分に似た男を知らないか? と聞いてまわる以外にない。しかしこれとて砂漠の砂の中から、一粒の宝石を探しあてるようなもので、途方も無い。バーテンダーがジッとショウの顔を見つめた。
「以前も今も、変わりませんよ、歌舞伎町は」
「知り合いに、歌舞伎町は恐い街だと聞きました」
 バーテンダーが再びアイスピックで氷を砕いた。
「そんなことはありませんよ、噂が一人歩きしていますね、歌舞伎町はそういう街じゃありません。確かに以前は、色んな事件がありましたが、そんなの日本全国どこでだって起こっているでしょう? そんなに住み難い街だったら、私らだってそんな場所に店構えてられませんよ」
 二本突き刺さった短めのストローの一本でクラッシュアイスを崩し、もう一本を使ってダイキリを吸う。
「この街に興味があって、それで、少し話を聞いたりしています」
 バーテンダーが顔を上げた。
「作家さん?」
「いえ、そういうのではないです」
「こう言っちゃなんだけど、刑事には見えないしね。アイツらは権威丸出しだからわかりやすいが、歌舞伎町の何を調べてるの?」
 ショウは一瞬視線をグラスから外した。
「人を探しています」
 バーテンダーの目を見た。
「もう、十五年も前、パリで日本人画家が殺された事件がありました。犯人は中国人マフィアだったそうです。その事件のせいで生き別れになった弟を探しています」
 バーテンダーがふと顔を上げた。
「悪いけど、そんな事件は知らないな、十五年も前の話でしょう? 確かにその頃から、この場所で店をやってるけど」
「弟を探す手がかりは、名前だけ。他に何もありません。弟とは言え、私と顔が似ているという保証もありませんし、だから、事件を起こした中国系マフィアが集まりそうな場所を、弟も私のことを捜し歩いているのではないかと思って、それで歌舞伎町を聞いてまわっているのです」
「なるほどね」
 バーテンダーが呟いて首を傾げた。
「お力になれそうもない。ウチのような店には中国人は来ないよ。昔から、日本人の店には日本人が、中国人の店には中国人と、相場は決まっているんでね」
「そうですか・・・・・・」
「ただ、中国人の集まる店は幾つか知ってるよ。集まるってのは、単なる一般の中国人って意味じゃないよ、風林会館知ってるかい?」
「ええ、知ってます」
「あそこから区役所通りを挟んだ向かいの雑居ビルの地下に中国人クラブがある。そこと風林会館裏の辺りにある中華料理店は、その筋では有名な店だよ」
「有難うございます」
「だけど、お客さんが一人で行ったって、何も見つからないだろうけど」
「やはり、日本人では中に入れてもらえませんか?」
「そうじゃないけど、普通に炒飯でも食べて帰ることになるんじゃないかな」
 すると、店の扉が開き、中年のサラリーマンが二人入ってきた。バーテンダーは口を閉ざしてしまい、それ以上は何も話すことができなかった。もう一杯だけカクテルを飲んで店を出た。

 翌週、夕方から一人で歌舞伎町に出かけた。先日、ショットバーのバーテンダーに言われた通り、風林会館の周辺を歩いてみた。歌舞伎町花道通りは、風俗案内所の赤や黄の看板が出迎え、ホストクラブの写真付き看板が張り巡らさせている。目には飛び込んでくるが、直視できない、いかがわしさがある。乱立し、重なるようにしてある雑居ビルには、数え切れないほどの飲食店が入っている。地下からビルの最上階まで、隙間無く建てられたビルと壁面を覆うような看板、電飾、それらの塊りは、巨大な蜂の巣のようでもあった。一体どれくらいの人間が夜の街に出入りしているのだろう。そんな中から、一軒の中国人クラブを探しあてるのは、相当骨の折れることだった。日中は営業していないという中華料理店を探す方がまだマシだが、バーテンダーが言うように、中華料理を一品頼んで、ビールか紹興酒でも飲んで、何も聞きだせずに店を出るのは目に見えている。
 中華料理店「福粋楼」は案外簡単に見つかった。雑居ビルと雑居ビルの谷間のような一角があり、そこは低層の建物と住居のような部屋が密集していた。通りから見える看板は無いが、台湾の夜市を思わせる明かりが、路地裏から漏れている。その先に店のようなものがあるのがわかった。通常、知らなければ通行人がふらっと入れるような場所ではない。日中であれば、この営業していない店舗を見つけることはできなかっただろう。ショウは、その煌々と灯る明かりに誘われる夜虫のように、路地裏の店へ吸い込まれていった。
 店に入ると、声をかけられるわけでもなく、他に客は数人いたが、どの客も日本人ではないらしく、異国の言葉が飛び交っていた。ただ、それが北京語なのか上海語なのか、またはアジアの他の国の言葉なのかはわからなかった。目だけがショウに一瞬注がれる。ショウは店の奥の席に座り、薄緑色の瓶ビールとグラスを頼んだ。店内はいたってシンプルな造りで、十五坪ほどの店内に四角いテーブルと椅子が並べてある。蒸し鶏の前菜と、豆腐の千切り、そして炒飯を注文した。味はどれも美味かったが、主人と話すキッカケがつかめないまま、時間が過ぎた。やはり、今の自分には、この辺りまでが限界なのかと思い、唇を噛んだ。結局、バーテンダーの言った通り、炒飯を食べただけで店を出た。
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