病み

文字数 2,051文字

子ども達は大きくなって、3人ともが親元を離れて学生生活を送った。3人分の学費と仕送りをするのに、家計は緊迫していた。でも、そんなことは問題ではなかった。子ども達が家を出て、一人暮らしを経験することを強く望んだのは私だった。私自身が進学で親元を離れた。親の目から解き放たれて、自由と責任を感じるいい経験になった。多様な価値観に触れて視野を広げてほしかった。家にいては親に頼ってしまってできない経験をしてほしかった。それが私にとって親としての集大成だったかもしれない。
子供を守るためだったというのは言い訳だろうか。私は夫の言動に不満があっても、問い詰めず気晴らしをして我慢をする方だったと思う。向き合う時間もなかったというのも言い訳だろうか。夫と二人の生活が始まって、向き合わざるをえない時が来た。
結婚して、仕事や子育てに追われて、夫婦の時間が取れないのは普通だと思っていた。子供が自立してやっと、本当の夫婦の生活が始まるなんてことも聞いたことがある。その時が来たのだと思った。少しずつ小出しに思っていることを伝えられたらいいと思っていた。夫婦二人になったのだから、これからの関係はこれから作っていくしかないと思っていた。
でも、子供の自立で変わったのは私だけだった。守るべき子ども達がいなくなって、自分でびっくりするくらい活力がなくなった。食事の支度にも洗濯にも、掃除にも買い物にも、すっかり目的がなくなってしまった。だからと言って夫に助けを求めるのは難しかった。子ども達がいなくなっても夫の生活は何も変わらない。夫は相変わらず自分を引き立てるアクセサリーのような取り巻きを良しとし媚を売った。自分に利益のない面倒なものには冷淡だった。夫は私に愚痴の聞き役を期待した。私が自分の考えを持って意見することを煙たがった。どんな話もハイハイと、夫の話を聞けばいいだろうと言われて、私は機械じゃなくて人間なんだよと、言葉を絞り出さなければならなかったあの日、私は夫が、私と子ども達に、自分が妻子を養う真っ当な社会人男性であることの証明のためだけに、家族として存在することを望んでいるのだと悟った。
私は病み始めた。自分のしてきたことや自分の価値や自分が存在しているかどうかまで分からなくなっていった。
夕方、夫が帰宅する前にお酒を飲むようになった。飲まないと肩や首が凝って苦しくて、夕食が作れなかった。更年期障害と重なる時期だったから仕方がないと思って、整形外科にかかって筋弛緩剤を飲んだこともあった。でも緊張はほぐれなかった。アルコールが一番効いた。どんどんエスカレートして強いお酒を空きっ腹に入れるようになった。酔うと呂律が回らなくなった。それで飲み過ぎだと頭では思った。こんなことをしていては駄目になるとも思った。でも台所に立つと飲みたくなった。飲み始めるといくらでも飲めた。飲みながら夕食の支度をした。どんなに酔っても、夫が帰ってきて車がガレージに入る音がすると、気が重く緊張した。
飲みすぎて翌日起きられない日もあった。でも私に声をかけることもなく、私が存在しないかのように夫は出勤した。
多分私が話しかければ、当たり障りのない会話は出来たのだと思う。夫は、校長の肩書を手に入れても満たされてはいなかった。どんなに部下を罵って貶めて自分を鼓舞しても、自信のない人間だった。会話をしなくなった私が、自分を責めているのだと思って逃げ続けているだけだった。でももう私にも、夫を救う気力はなかった。
「おはよう」「行ってらっしゃい」「お帰りなさい」「お粗末様でした」「お休みなさい」そのくらいの日本語で、2年が過ぎていった。
娘が就職で家に帰ってきて、両親の異常な状態に意見した。テーブルで向かい合いながら、沈黙の食事をやめるように私に言った。私は夫と娘の食事をテーブルに準備して、一人で台所で先に食べるようにした。娘が夫ではなく私に改善を要求したことが、夫ではなく私に非があるかのように聞こえた。私の何がいけなかったのか、私が何を反省すればいいのか分からないのが苦しかった。
子ども達に、両親が力を合わせて家庭を守るところを見せたかった。胸を張っていたかった。私の幸せを願って、幸せな家庭を築けるように育ててくれた私の両親に、その姿を見せて安心させたかった。そのことを考えると、夫との関係を絶ち楽になりたいと、離婚を望む自分が苦しかった。
自分がどうしたいのかわからないまま、離婚届の用紙を取りに行ってみた。怖くなって引き返すのではないかと思った。役場で知り合いに会って、もらうのを諦めるんじゃないかと思った。でも私を止めるものはなかった。用紙を手にして記入例までもらって、嬉しくてスキップしたくなった。迷わず書いて判をついた。自分の本気が見えたような気がした。
 他人になりたいと申し出た。勇気を出して考えて欲しいとお願いした。娘の前で夫に切り出した。自分に都合の悪いことはなかったことにする、夫のやり方への対策もできていた。
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