ステイタス

文字数 1,303文字

私は専業主婦を経て、子ども達が小学生の時に新聞配達のアルバイトを始めた。末っ子の中学入学で昼間のパートに出るようになった。何の肩書もなく、職業欄に何と書くか迷う。「パート」「アルバイト」「主婦」という項目は、たくさんある職業選択肢の最後に出てくる。それでも私はそれに不満はない。自分にしか出来ない子育てという大業を担ってきたことが私の価値だ。それを社会が認めるかどうかを私は気にしない。少しの収入を得られるようになっても、私には家庭より優先しなければならないものはなかった。
でも夫にとってのステイタスは違う。社会人たるもの、男性たるもの、仕事や社会で認められるということが、大切なことであるのは理解しているつもりだった。夫が仕事で目指したいものがあって極めたいのであれば、それを応援したかった。
職場結婚をした私は、夫の属する世界を少しだけ知っていた。定年退職するまで学級担任で、生徒たちに寄り添い共に過ごす教師と、管理職について教頭、校長になる教師がいることを私も知っていた。私が夫と出会う前、職場の先輩が言ったことも覚えている。
「管理職に上り詰めた人たちは、つまるところ、未来を担う子供達の成長に貢献したいという、教師を志した美しい魂を売った人たち」
紹介された当時、義父は校長で義母は教務主任の肩書を持っていた。その両親と確執があり、実家との付き合いも私任せだった夫が、早々に昇進の話を受け入れ、担任を外れて管理職に就いたのには、それなりの覚悟があるのだと思った。それが夫にとって適職であるならば、夫の目指すところであるならば、私はそれで良かった。
初夏だったと思う。夫は私に言った。
「待っててね。もうすぐだから。」
何のことだか私には分からなかった。でもそれは夫が校長に昇進するということだったのだと、あとから知った。私は待ってなんかいなかった。
校長任用試験には、教頭職のときの上司である校長の推薦状が、必須なのだと夫は言っていた。両親への不満を語るように、夫は当時から上司への不満をあらわにしていた。夫は魂を売って、校長の肩書を手に入れたのだと私は思った。
それからだと思う。夫は人の不幸を集め始めた。人の失敗に素早く反応して食いついた。罠を仕掛けて獲物を待つように研ぎ澄ましていた。沈黙を保ってここぞという時を見計らったかのように、大げさに指摘して貶すようになった。その職場での様子を、自分の武勇伝のように私に語るようになった。部下が自分にあげてくる書類に誤字や脱字があることを、自分が馬鹿にされているかのように怒りをあらわにした。「こんなこともできない人間は仕事を辞めてしまえ」と、怒鳴ってやったと自慢した。そんなに怒ることじゃない。私がたしなめようとすると鼻で笑った。
「お前はおかしい。俺はみんなとうまくやっている。うまくやれないのはお前とだけだ。」
そんなの当たり前じゃないかと、私は思った。夫の周りにいるのは上司の顔色をうかがう部下と、先生の前でいい子でいたい生徒たちだけだ。言いにくい本音を夫に言えるのは私ぐらいだ。でももう夫には、人の上に立ち、誰にも左右されない尊大な自分が、本当の自分だった。
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